大夫の言為るや大なり。人を扶け進める者なり。(宋書五行志一)
賢を進め能を達す、これを大夫と謂うなり。(白虎通)


 大夫とは、天子及び諸侯の高位の臣のこと。一般に・大夫・の四位の一つとされるが、

1)卿を含めた高位の臣全体を指す場合
2)爵制の位階の一つ、また爵位の名称に使われる場合
3)官制の位階の一つ、また職官の名称に使われる場合

 と多岐の用法がある。



臣、及び身分としての大夫

孝経』は、それぞれの身分に合った生き方を説き、これを四つの章に分ける。即ち「天子章」「諸侯章」「卿大夫章」「章」である。
 ここではと大夫は一位の身分として扱われ、先王の法服、法言、徳行(礼に定められた服、言、行)を備えて宗廟を守ることがそのの道だとされる。
礼記』王制は、

諸侯の上大夫卿、下大夫、上士、中士、下士、およそ五等。

 と、諸侯の臣には五等の位階があるとし、大夫は上大夫と下大夫の二等に分かれ、上大夫を同義とする。「卿大夫」の総称としても、「大夫」が用いられたことになる。実例としては『春秋』が諸侯の高位の臣を「大夫」と総称する。諸侯はを置かないためである。
 また『周礼』は、冢宰司徒宗伯司馬司寇の官それぞれ一人の卿を置き、その下に卿を補佐する中大夫、属官として下大夫を置く。この場合でも卿は上大夫に当たるだろう。つまり周王は上、中、下の三等の大夫を置いたことになる。


爵制の中の大夫

二十等爵

 秦は列侯から庶民に至るまでの独特の二十等爵制を敷き、軍功に基づいて将兵に爵を賜い、その爵称を以って軍を率いさせた。その中には大夫官大夫公大夫五大夫の爵称が見られ、この大夫(第五級)から五大夫(第九級)までが、古来の大夫の身分に相当するものとされた。
 実際に軍を率いた記録としては、

五大夫の陵が趙の邯鄲を攻め……(秦本紀)
項梁は沛公の卒五千人、五大夫将十人を益し……(高祖本紀)

 などがある。
 漢代に至ると二十等爵は軍の統率とは切り離されるが、軍功や皇帝を補佐して特段の功績がある者に賜られた。また、皇帝即位や立太子などの慶事に定期的に賜爵された。この場合、第九等の五大夫以上は秩石比六百石以上の官吏にのみ賜わる資格がある官爵とされた。


天子の内爵

 後漢初期に成立する白虎通は、天子内爵として高位の官吏を周制の・大夫の三位階に対応させた。
 このうちは三公、秩石万石に相当し、秩石中二千石の諸官であり、上大夫と同義とされた。また下大夫は秩千石から比六百石の銅印墨綬の諸官がこれに当たり、諸州刺史が主に相当した。この「比六百石以上を大夫とする」の原則は、二十等爵制での「五大夫以上を官爵とし秩石比六百石以上の官吏にのみ賜る」という原則と完全にではないが連動する。秦から継いで現実に運用されている爵制(二十等爵)と、秩石に基づく官制と、古制を模した内爵思想の三者の融合が図られていた。


後漢における内爵と官吏秩序の対応

内爵 秩石 印綬 任命 
万石 金印紫綬 勅任官 上公三公
上大夫 中二千石 銀印青綬 九卿 等
中大夫 二千石 太守 等
比二千石 校尉都尉 等
下大夫 千石 銅印墨綬 尚書令県令 等
比千石
六百石 刺史・各種官 等
比六百石
元士 四百石・三百石 銅印墨綬 奏任官 県長・各
四百石以下
比二百石
銅印黄綬 県尉県丞掾属 等



官制の中の大夫

 戦国時代には、秦に四監大夫、御史大夫、楚には三閭大夫といった職官が現れる。これらはそれぞれ、四郡を監督する大夫、御史の大夫、三つの閭(閭里、楚の王族三姓)を掌る大夫、と言った程度の意味で、身分としての「大夫」から派生した職官名であろう。
 漢に至ると、秩石比六百石以上が大夫の身分とされ、並行して光禄大夫太中大夫諫大夫といった職官がやはり比六百石以上に設けられ、光禄勲に属した。丞相の副として位上卿に昇った御史大夫を例外として、これら光禄勲に属す諸大夫に常職はなく、その職掌は「論議を掌る」ことであった。


地位と職掌

 諸大夫の官は、皇帝の命に応じて集議に参画する、使者として地方に派遣される他、時事に対して皇帝に建議、諫言を行う事を勤めとした。
 また、光禄勲に属する郎官と同様に、「官僚機構に対する官僚の供給源」*1としても大夫は重要な役割を負った。つまり有望な人材を登用したり、高級官吏を職官から職官へ転任させる間に一時留める部署としても諸大夫は機能したのである。
 特に前漢前期に於いては、皇帝(天子)の私臣として宮殿内に在り、賓客とも待遇された。諸大夫は皇帝の枢機に携わり、内外で大きな影響力を維持する建国の功臣や公卿、諸侯王に皇帝が対抗し、中央集権を確立するに当たって、その建言が多く採用された。
 前漢中期以降、尚書機能の拡大と内朝の形成が進むと、諸大夫はただ大夫というだけでは枢機に参与することが難しくなった。しかし、特に光禄大夫が、給事中諸吏といった加官を受けて内朝に入る官として、依然有力な位置に地位を確保し続けた。
 後漢に至ると、侍中中常侍給事中らは加官ではなく独立の官吏となり、彼等に内朝が占められる。大夫の政事への影響力は低下し、逆に、老病で実務に耐えられなくなった功労者が最後に至るケースが目立つようになる。
 魏代では、名誉職の傾向はより強まる。特に光禄大夫は、実権に預からない外戚等の名誉職や、功労者への追贈として使用された。重要な人物は特進を加えてより高い席を占めた。また、尚書等の任に就く有能な官吏に、本官のままで礼秩を上げるために逆に光禄大夫が加官されたなどの例がある。



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関連項目・人物


参考

米田健志氏「漢代の光禄勲─特に大夫を中心として─」 東洋史研究(57-2)



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最終更新:2015年02月27日 22:17

*1 米田健志氏「漢代の光禄勲─特に大夫を中心として─」