駙は、副馬なり。正駕車に非ざれば、みな副馬と為す。一曰く駙は、近なり、疾なり。

 駙馬都尉は、前漢代中期以降に置かれた職官。天子の駙馬(副馬、副車の馬)を司った。
 天子の外出に随行する儀仗職であるが、武帝期の金日磾がこの官を以って寵愛を受けたことから、漢代では外戚等の要人が占めること奉車都尉に継ぐ顕官となった。後漢では明帝期に耿秉が拜し、奉車都尉竇固と共に匈奴を伐っている。
 では尚書加官された他、公主を娶った者や高官の子弟が任じられた例が多い。


目次



歴史

 武帝が置く。
 武帝後元元年、侍中僕射の莽何羅(馬何羅)とその弟重合侯馬通が謀反し、駙馬都尉金日磾奉車都尉霍光騎都尉上官桀がこれを討つ。
 中興後は、光禄勲に文属(書類上の所属)する。
 明帝永平十五年、奉車都尉竇固、駙馬都尉耿秉が涼州に屯す。以後三年に渡り北匈奴を伐つ。



(前漢)
 秩比二千石。


(後漢)
 無員(或いは五人)、秩比二千石。
 光禄勲に文属する。



職掌

 駙馬を掌る。
 前漢では、黄門駙馬という官があり、天子の駙馬は黄門に在ったという*1



属吏・属官

 不詳。



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関連項目・人物



詳説





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最終更新:2015年01月30日 23:06

*1 『漢書』蘇武伝