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 天子とは、爵位の(よびな)である。*1


目次



 その爵が「天子」と称す所以は何か。王者は天を父とし、地を母として、「天の子」となるからである。故に『援神契』に曰く、「天覆地載*2、これを天子と謂うは上の斗極*3に法るものである」と。『鉤命決』に曰く、「天子は爵称である」と。
 歴代の帝王の徳に優劣があるのに、ともに天子と称してきた所以は何か。ともに天に命ぜられて王として四方五千里内を治めるからである。『尚書』曰く、「民の父母となって天下の王となる、それが天子である」。
 何を以って五帝もまた天子を称したと知るのか。彼らが天下に法ったからである。『中候』曰く、「天子の臣放勳」とある。
 何を以って三皇もまた天子を称したとするのか。その天覆地載、ともに天下に王たりたことを以って言うのである。故に『易』曰く、「伏羲氏、これ天下に王たるなり」。

 以上は後漢代前期に編纂された『白虎通』冒頭の見解である。*4


西周時代

 考古学的には、代以前の帝王が「天子」を称した証拠はない。も当初は「王」号をその権威の拠り所としたが、実際の殷末周初には周王以外の複数の勢力もまた「王」を称した記録が見つかっており、建国当時、周()の権威は絶対的なものではなかった。
 やがてその勢力が安定し、周王朝特有の官職世襲儀礼冊命等の登場に伴って、「天子」の称の使用が増加していく。冊命は廟堂の前庭で執り行われる職事の世襲を安堵する儀式であり、先王の任命を現王がそのまま引き継ぐこと、臣下の祖が使用していた服飾を再び賜与することがあったなど、祖先の庇護によってその権威が保証されていた。「命を受けた天の子」であるところの天子は、祖先の居ます天界と現在の君臣が居る人界を接続する、地上に唯一の存在への称呼として用いられるようになった。天子の称はやがて諸侯への賜与の際にも使用が広がり、他勢力も使用した「王」号に優越する、周王の「排他的な専称」として確立する。


春秋・戦国時代

 周朝の勢力が衰えた春秋期には、新たに楚、呉、越らの夷荻が「王」号を名乗り、「天子」や「天命を膺受し」たと自称する例が現れ、「天子」もまた、周王の独占物ではなくなっていく。この時期に天王の号が登場し、周王の権威の再浮上が試みられた。特に周王朝を尊崇する立場を取る『春秋』は、この天王号を多用する。
 一方で、「天子」の持つ権威も変化する。諸侯封建を司り、諸侯や卿大夫ら、地上の身分秩序の最上位に位置する、「王」の権威に取って代わる存在となった*5
 戦国期に中原諸侯までもが王を名乗り、王国が乱立すると、諸王国を包括する中華世界全体を示す語として天下の概念が登場する。並行して天子の称は殷代以前の帝王にも適用され、三皇五帝三王の歴代帝王が継承してきた地位とされた。時間的にも空間的にも、天子は周王朝的秩序を越えて拡張される。天命の許に天地・名山大川の祭祀を司り、諸侯を[[封爵]して]統率する、理想的秩序の頂点に君臨するべき存在として理念化される。
 一方で、周王無き天下に並立する諸王国を、実力によって率いる存在として、の号が構想された。


秦代

 秦王嬴政が天下を統一すると、帝号を議して皇帝とした。一方で、秦帝国が天子の称をどのように位置づけたかは諸説があり判然としない。


漢代

 項羽を倒して天下を再統一した漢王劉邦は、皇帝と天子を同一人が兼ねる、しかも天下に無二の存在となった。しかし、その過程で功臣山東諸侯(侯王)に封じることを余儀なくされ、漢帝国は郡国制を敷くこととなる。
 大きな力を有する侯王達に対して、漢王朝と皇帝の優越を確保するために、改めて天子の権威が用いられた。即ち文帝期に、漢王朝特有の儀礼祭祀の確立が盛んに議論され、施行されることになる。これらは、戦国末までに天子の儀礼・祭祀の権として論じられていたものを漢王朝の様式に捉え直したもので、皇帝こそが天命を受けた天子である故に天地を祭り、天下の土地を分けて諸侯を封爵する権利を独占し、その上に立つ存在であるという権威付けを目的としたしたものだった。
 武帝期に至り、郡国制は実質的に解消されて郡県制へ移行する。侯王に対する優越を確認する必要は薄れるが、同じ頃盛行する儒学によって天子の地位は学術的理論化が進む。これは帝王・国君の称である「天子」の権威が経学によって保障され、同時にその自由が経学によって規制される歴史の始まりとなった。
 かくして、白虎通において、「上に接し」「爵を以って天に(つか)える」天子像と、「下に接し」「以って臣下に号令する」皇帝像が確立する。つまり、天子/皇帝とは、二者を一身が兼ねることで天界(天地・山川池澤とその祭祀)と人界(臣下・官吏戸口)を接続する唯一の界門として君臨するのである。


禅譲

 天子とは、天によって封じられた爵であると同時に、本来天の所有物である地を分け、爵に封じる天の代行者でもある。
 天子は天の命によって天下を任された至尊・神聖な地位ではあるが、この地位は天子自身の徳によってこそ保たれる爵位であり、故に「絶世の貴に非ず」*6ということになる。この世を超絶した地位ではなく、天子の行いによっては天の下で覆る可能性を原理的に内包する地位なのである。この底流する思想に拠って、経学は、王莽以降繰り返される禅譲を、複雑な儀礼手続きと共に支援することにもなったのであった。
 天子が交替されうるものであるという認識は、中華において血族王朝の頻繁な興廃を助けた。しかし同時に、天子という思想──個人でも血族でもなく──を頂点とし、経学を柱とする中華文明の数千年の連続性の基礎ともなったのである。


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関連項目・人物




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最終更新:2015年02月08日 01:11

*1 『白虎通』巻一爵「天子者、爵稱也。」

*2 天が覆い地が載せる、子たる天子に任せられた天下の全土を示す

*3 北斗星と極星。天帝の星

*4 『白虎通』は、当時朝廷によって学官に立てられていた近文学系学派の見解を主軸とする。この『孟易』『京易』らは天子を爵号であるとする立場を取っていた。この時期以降隆盛する古文学系の『周礼』、『春秋左氏伝』らは天と天子は同一であるなどと、爵号ではないとする立場を取った。しかし古今折衷を為した鄭玄は、「いにしえは、生きては爵無く、死しては諡無し。周より漢に及び、天子は諡を有す。これが爵を有すことは甚だ明である」。と、天子が爵であると主張した。

*5 周による諸侯の封建は、殷王を色濃く継承した制度であり、本来「王」の権威によって行われるものであった。

*6 顧炎武