とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

Part15

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恋、はじまる


 日曜日の朝。
 美琴は誰もいない公園の自販機前に一人でたたずんでいた。
 とはいえ、彼女は何もしていないわけではない。
 コンパクトを開いて髪型や着用している常盤台の制服のチェックをしたり、辺りをうろうろと歩き回ってみたり。はたまた物音がするたびにそちらに笑顔を向けて、すぐに落胆した表情を見せたり。そうかと思えば目を閉じてブツブツと何かを呟きながら顔を真っ赤にさせたり。
 もちろんその合間に腕時計で時間をチェックすることだって忘れない。

 そのような行動を取ることおよそ三十分。
 携帯電話のアラームが十一時を知らせる音を鳴らした。
 その音は美琴の体をビクリと縮こまらせる。
 胸に手を当てゆっくりと深呼吸をした美琴は、きょろきょろと辺りを見回した。
 しかし美琴の周りには誰もいない。
 美琴はほんの少し表情を曇らせると、携帯電話を開いた。
「メールも着信もなし、か……」
 ため息をついた美琴は、小さく頭を振って自分に言い聞かせる。
「何言ってるのよ、あの馬鹿が時間通りに来ない事なんて日常茶飯事じゃない。気にしたら私の負けよ、うん」
 何度もうなずいた美琴は下を向くと、ぐっと拳を握りしめた。
「そう、あの馬鹿のことだからどうせ妙なやっかいごとに巻き込まれたり、寝坊したりで普通に来ない。だから私だってそれなりの覚悟は――」
 拳を握りしめたまますっと顔を上げた美琴は声を失った。
「アンタ、何やって……」
「わ、悪い。少し、遅刻した」
 美琴の目の前にいたのは、全身汗だくの上条当麻だった。



 とりあえず上条をベンチに座らせた美琴は、持参していた水筒のお茶をコップに注ぎ、上条に渡した。
「サンキュ。助かる」
 コップを受け取った上条は美味しそうにお茶を飲み干した。

 空になったコップを美琴に返した上条は、大きく息を吐いてベンチにもたれかかった。
「いやー、疲れた疲れた。けど御坂、今日はほんのちょっとの遅刻だったろ?」
「うん、まあね。誤差の範囲ってとこかしら」
「そうか」
 上条は安心したように空を見上げた。

 美琴はそんな上条を見ながらぽそりと口を開いた。
「けどさ」
「ん?」
「時間も場所もアンタが指定したんでしょ。どうして遅刻しそうになるのよ」
「……寝坊した」
 上条はぽりぽりと頭をかきながら、言いにくそうに答えた。
「は?」
「だから、寝坊したんだっての」
「……アンタが誘った、で……でで、でデートで、どうして寝坊なんてするのよ」
 美琴は頬をふくらませて上条をにらみつけた。
 上条はやはり言いにくそうに答えた。
「……仕方ねーだろ、課題終わらせるの大変だったんだから」
「課題って? もしかしてアンタ……」
 上条は声を詰まらせた美琴の方を向いて、こくりとうなずいた。
「上条さんは現役バリバリの劣等生だ。お前と会ってなかったこの一週間だって課題は山のように出てたんだよ。で、それを終わらせるために夜中まで起きる羽目になってたんだ」
 そう答えながらあくびをかみ殺す上条を見ながら、美琴は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。その、私のせい、よね」
「なんで?」
「だって、私がちゃんとアンタの勉強見てあげてなかったから、アンタは課題終わらせるの大変だったんでしょ? だったら私のせいじゃない」
 上条は手をぱたぱたと振って美琴の言葉を否定する。
「いやいや、そもそも上条さんの課題を上条さんが自分でやるのは当然ですから」
「でも、アンタがやってる課題ってどう考えてもアンタの頭じゃ手に負えないじゃない。普通にやったらそんな風に夜中までかかるに決まってるんだから。やっぱり私が……」
 なおも謝罪を続けようとする美琴の頭に、上条は仕方ないと言った表情で手を置いた。
「終わったんだから気にするなって。だいたい、そんな申し訳なさそうな顔されたら今日一日楽しくねーじゃねえか」
「…………」
「だからこの話はこれで終わり、な」
 上条はぽんぽんと美琴の頭を軽く叩いた。
「せっかくのデートなんだから、楽しまなきゃ損だろ」
「……うん!」
 上条の手のぬくもりを感じながら、美琴はようやく笑みを浮かべてうなずいた。



 美琴の笑顔を見た上条は急に真面目な表情になった。
「それでだ御坂、実はここからが問題なんだ」
「問題?」
「そう。実はな……」
「…………」
 上条の醸し出す深刻な雰囲気に呑まれた美琴は、ごくりとつばを呑み込んだ。
「……今日一日何をするのかまったく考えてない」
「……は、はい?」
「すまん、課題と今日遅刻しないことで手一杯で、上条さんはまったくもって今日のプランを何も考えてませんでした!」
 ばっと頭を下げた上条に、美琴は目を丸くした。
「アンタね……」
「誘っておいて悪いんだが、上条さんは元々こういうことの経験値が非常に低いのですよ。ですから今すぐにパッと思いついて行動することもできません!」
「…………」
 上条に聞こえないくらいの小さなため息をつき、ほんのわずかだが笑みを浮かべた美琴は上条の右手を握ると、すっと立ち上がった。
「?」
「ちょっと呆れたけど、アンタならさもありなんとも思えるし、まあいいわ。ほら、行きましょ」
 そう言うと、美琴は上条の手をぐっと引っ張り歩き出した。
「え? ど、どこへ?」
 今度は上条の方が目を丸くする番だった。上条は呆気にとられたまま、美琴に引きずられだした。
「どこだっていいでしょ。どうせノープランのアンタに拒否権なんてないんだから」
「……それは確かにそうなんだが、どこへ行くかくらい」
「いいからいいから、悪いようにはしないわよ」
「……まあ、いいか」
 美琴と繋がれている自分の右手、そして後ろから見た限りでは決して怒ってるようには思えない美琴の様子。
 それらを交互に見比べた上条はそれ以上何も言わず、黙って美琴の後に続いた。



「さ、入りましょ」
「ここ、映画館、だよな?」
「そうよ」
 しばらくして二人はシネコンの前に来ていた。
「私、ちょうど見たかった映画があったのよね。本当は黒子達と来るつもりだったんだけど」
 ニコニコと楽しそうに笑みを浮かべながら美琴は受け付けへと向かった。
 反対に上条はややつまらなそうな表情で呟いた。
「なら白井達と来ればよかったじゃねーか」
「いいじゃない、別に。私は今、アンタといっしょに観たくなったのよ。何か文句でも?」
「だってこれ……」
 上条は美琴が鑑賞券を買おうとしている映画のパネルを、表情を変えずに指差した。
「ガチガチの恋愛映画だろ? それも超が何個も付くほどの純愛物って触れ込みじゃなかったっけ? 俺そういうのダメなんだよ」

 そう。美琴が観ようとしているのは、今時の洋画では珍しいほどの純愛を前面に押し出し、学園都市の女子中高生に絶大な人気を誇る映画だったのだ。
 けれど上条の方は男性らしく、アクション物やコメディー物ならなんとか観ることができるのだが、登場人物の心の機微を描く恋愛物は非常に苦手。
 そんな彼にこの映画を観ろというのはまさに苦行以外の何物でもない。

「なあ御坂、今日は他のにしないか?」
 そう考えた上条はなんとか美琴の興味を他の作品に移せないか試みる。
「イヤ。今日はこれが観たいの。アンタの分のチケット代奢ってあげるから黙って付き合いなさい」
「…………」
 けれど美琴の意思は予想外に強く、上条は渋々映画に付き合うのであった。



 二時間後、映画を見終わった二人はやや惚けたような表情でシネコンを後にした。
 美琴は惚けた表情のまま、上条に話しかけた。
「ねえ、悪くなかったでしょ?」
「…………」
 上条は黙ってうなずいた。

 結論から言うと、映画は美琴はもちろんのこと、上条にとっても非常に面白い内容だった。
 人外とも呼べる力を持ちその影響からか多くの女性から好意を寄せられているものの、本人はいたってその好意に鈍感で、自らの力を世界平和のために使うことばかりを考えている。そんな主人公の青年。
 自らも特殊な力を持ち他の女性以上に主人公に強い想いを抱いているものの素直になれず、いつも主人公に暴力を振るう。けれどいつでも主人公の側にいて彼の行動を支え続けるヒロイン。
 決して目新しくはないが丁寧に人物像が作り込まれたそんな主人公二人が、世界の危機に対して様々な活躍をするという、アクション映画のようなストーリー。
 しかしそんなストーリー展開の中でも、主人公二人の気持ちが徐々に通じ合っていく過程はさながら少女漫画のように非常にきめ細やかに描写されており、そんな彼らの思いが重なる時、物語もクライマックスに達する。
 世界を救うために、主人公は命を捨てなければいけなくなるのだ。
 彼の決断をヒロインは必死で止めようとする。
 けれど主人公の決意は揺るがない。
 世界を、何より愛するヒロインを守るために彼にできる精一杯がそれなのだから。
 結局ヒロインの願いも虚しく、主人公の命は消える。
 しかしそれで物語は終わらない。
 世界の危機が去った時、主人公とヒロイン、二人の持つ特殊な力が奇跡を呼び、時が巻き戻されたのだ。
 戻った時間ではもちろん主人公は生きているし、ヒロインも生きている。しかし彼らに特殊な力は存在せず、世界の危機もない。
 主人公とヒロインの持つ力と互いを思う強い気持ちが救ったのはなんであろう、彼らの未来だった。
 純愛物のジャンル通りメインの登場人物は一組の男女であり、彼らの気持ちは純愛と呼ぶに相応しいほど丁寧に描かれてはいたものの、ストーリーそのものは純愛物と呼ぶにはいささか語弊があるような、そんな内容。
 普通このような作品はどっちつかずと批判されるのだが、この作品に限ってはアクションと恋愛のバランスが絶妙である、そう絶賛される出来映えであった。
 それは恋愛映画が苦手なはずの上条が見入ったという点からも明らかであろう。

 上条は自分と同じように映画の余韻に浸っている美琴の方を見ずに、ぽつりと呟いた。
「なあ、御坂」
「なーに?」
「人を好きになる気持ちって、なんなんだろうな? お前、わかるか?」
「人を、すき、に……好きににゅのな!? な、なななな!」
 惚けていた美琴だったが、上条の質問の意味がようやく脳内を駆けめぐると、急に顔を真っ赤にして上条から離れた。
「あ、アあアン、アンタ、急に何を……!」
 しかし美琴の動揺やその意味に気づかない上条は、ゆっくりとした調子で言葉を続ける。
「だってさ、あのラストの奇跡って、人を好きになる気持ちから生まれたんだろ? なんか思いの力ってよく色んな物語や映画で出てくるけど、実際そんなにすごい力を持つものなのかな、なんて思ってな」
「あ……」
 上条の様子を見て、美琴は急に自分の動揺が馬鹿らしく感じてきた。
 上条は別に特定の誰かとの恋愛を指していないということを理解したからだ。
 彼の質問はあくまで一般論。質問自体に特別な意味はないのだ。
 自分の中の熱が一瞬で冷めた美琴は小さくため息をつくと、再び上条の隣に立った。

「……わ、わかんないわ。私、あんな二人みたいに強い気持ちで人を好きになったこと、ないもん」
「そうか。実は俺もわかんねえ。知識として親子の愛情なんかはすごいんだろうなってのはわかるけど、それが恋人同士にも適用されるのかとかはな。俺自身が人を好きになったことがないから、なんだろうけど」
「……そう」
「……けど、なんか羨ましいな、ああいうの。気持ちが通じ合ったり、とか」
「……うん」
「好きな人、か……」
「好きな人、ね……」
 視線を落としながら上条の言葉に相づちを打っていた美琴は、ふいに上条の方を向いた。
「…………!」
 すると、なぜか上条も美琴の方を向いており、二人の視線は一瞬で交差した。
 美琴の目に入った、上条の瞳に映る自分の顔。
 はっと息を呑んだ美琴は、上条の瞳から目を離せなくなってしまう。
 またそれは上条の方も同様なようで、上条も自分の顔を映す美琴の瞳から目を離せなくなっていた。
「…………」
「…………」
 人混みの中、彼らの周りだけ時が止まったかのように見つめ合う上条と美琴。



 そんな二人の間の空気を変えたのは、大きく鳴った上条の腹の虫だった。
「…………」
「……ぷふっ」
「……笑うな」
「だ、だって……」
 先程のシリアスな雰囲気の反動もあるのだろうか、美琴は上条に背を向け肩を震わせた。
 上条は頭をボリボリとかくと、急に美琴の手を掴みずんずんと歩き出した。

「へ? ち、ちょっと、どこ行くのよ!」
「ファミレス。腹ごしらえ」
「ああ、なるほどって、ち、ちょっと待ちなさいっての!」
 美琴は上条の手を強引に振りほどいた。
「ファミレスなんか行く必要ないわよ。その、お弁当、作ってきたんだから」
 美琴は手に持ったバックを上条の顔に突きつけた。
「え? これ、お前の手作りの、弁当、なのか……?」
「そ、そうよ。文句、あるの?」
 口を若干尖らせ上目遣いで上条をにらみつけた美琴だったが、上条はそんな美琴の視線に気づくことなく、目をキラキラと子供のように輝かせて美琴のバックを見つめていた。
 その様子に美琴は若干引き気味になりながら口を開いた。
「えっと、その、嬉しい、の……?」
「ああ!」
 上条は満面の笑みを浮かべてうなずくと、美琴の手ごとバックを掴んだ。
「あ、あの?」
「というわけで御坂、今から弁当を食べるぞ。どっか適当な場所にレッツゴーだ!」
 やたらとハイテンションになった上条は、笑みを浮かべたまま美琴を引っ張って歩き出した。
「ち、ちょっと何するのよ!」
「だって早く食わねーと弁当が逃げちまうだろ!」
「逃げるわけないでしょ! 落ち着きなさいこの馬鹿!」
「ハッハッハ! なんとでも言えばいい! 上機嫌な今の上条さんにはどんな言葉も効果はないのでございますのことよ!」
「馬鹿馬鹿馬鹿! もう、はしゃぎすぎ! 恥ずかしいじゃないの大馬鹿!」
「おっべんっとう♪ おっべんっとう♪」
「いい加減にして――!!」
 上条の限界を超えるほどに上がったテンションは、とうとう彼に自作の歌まで歌わせ始めていた。
 一方、そんな上条を必死で抑えようとした美琴だったが、今のある意味無敵状態の上条にはまるで効果がなかった。
 大きく頭を振りため息をついた美琴は、上条をキッとにらみつけた。
 上条は何事か、という周りの視線などまるで気にせず上機嫌で歌い続けている。

「…………」
 今の上条を放置しているとそのうち知り合いに見つかるかもしれない。
 特にそれが佐天や初春といった友人達ともなると、ある意味取り返しの付かないことになってしまう。

「……仕方ないわね。次善の策、行くわよ、私!」
 美琴は上条の手を握り返すと、今度は彼女の方が上条を引っ張って歩き出した。
 どこでもいい、あまり人目に付かない場所で上条を落ち着かせないといけない、その一心からの行動だった。



 しばらく歩き続けた二人は、たくさんの人でにぎわう公園にやってきた。

「まあ、これだけ人がいれば私達が目立つこともないわね。あの辺に行きましょうか」
 辺りをぐるっと見渡した美琴は、まだ人が側にいない一本の木を指差した。しかもそこにはちょうどベンチもある。
「了解」
 美琴の言葉にうなずいた上条は美琴のバッグを持つと、嬉々としてその木の方へ歩いていった。



「えっと、こういう時ってこうすればよかったの、かな……?」
 上条はハンカチを広げると、それを美琴が座るであろう場所に敷いた。
 遅れてやって来た美琴は上条の行動を不思議そうに眺めていた。
「何やってるのアンタ?」
「え? いや、なんか俺の友達が、女の子といっしょに出かけた時はこういうことをさりげなくするもんやでー、なんてことを言ってたからな」
「……ネタばらししたら、さりげなくないでしょうが。だいたい、汚れてもいないベンチにそんな気遣ってどうするのよ」
「あ、そうか」
「……けど、ありがとうね」
 美琴は上条の敷いたハンカチを取ると、自分のポケットにしまい込んだ。
「これ、洗って返すわ。代わりに今日は私の予備のこれ、使って」
 そう言って美琴は上条が持っていた自分のバッグからハンカチを取りだし、上条に差し出した。
「いや、別にいいだろ、そんなの」
「私が気にするの。いいから受け取りなさい」
「けど」
「いいの」
「わ、わかった……」
 上条は渋々といった表情で美琴の差し出したハンカチを受け取った。



「これでよし」
 上条にハンカチを渡した美琴は彼から自分のバッグを受け取ると、中に入れてあった弁当をベンチの中央に広げた。
「さ、座りましょ」
 そう言うと美琴は弁当の側にちょこんと座った。
 上条も美琴に倣って弁当を挟んで美琴の反対側に座った。

「今日はいつもみたいに凝った物なんかは作ってないから、物足りないかもしれないけど」
 弁当箱の蓋を開けた美琴は、ほんの少し申し訳なさそうな表情をした。
 今日のメニューはおにぎりやサンドイッチ等、基本的に手で掴んで食べられる物ばかりで構成されていた。またおかずである唐揚げや一口ハンバーグ、プチトマト等にもプラスチック製の小さな楊枝が刺してあり、それらを食べるためにも箸が必要でないよう配慮がなされてあった。
「でも」
 美琴の表情は恥ずかしそうなそれに変わった。
「味は、その、大丈夫だと思うから喜んでもらえると……って、アンタ聞いてるの?」
 恥ずかしそうな表情のまま弁当の解説を続けていた美琴だったが、肝心の上条の視線は弁当に固定されており、彼が美琴の話を聞いている様子は微塵も感じられなかった。
「聞いてないわね、全然……」
 今にもよだれを垂らさんばかりの上条を見ながら、美琴は盛大なため息をついた。

「…………」
 美琴は黙ってウェットティッシュを取り出して上条の手に握らせた。
 上条はそれを使って黙々と自分の手を拭いた。もちろん視線は弁当に固定されている。
「…………」
 上条が手を拭き終えると、美琴は彼の手からウェットティッシュを取り上げた。
「…………」
 美琴はほんの少し弁当を横に動かしてみた。
 上条の視線はそれに釣られて横に動く。
「…………」
 今度は弁当を元の場所に戻すと、上条の視線も当然のようにそれを追っていた。
 その様子を見て美琴はもう一度ため息をついた。
「……アンタはお預け食らってる犬かっつーの。……うん? 犬?」
 小さく呟いた美琴の唇の端がわずかに吊り上がる。
 美琴はすっと右手を上条の目の前に差し出し、掌を上に向けた。
「お手」
「…………」
 上条はズバッと右手を美琴の掌の上に乗せた。
 右手を下ろした美琴は、今度は左手を同じように上条に差し出した。
「おかわり」
「…………」
 上条は再びズバッと左手を美琴の掌に乗せた。
「ようし……まて」
「…………!」
 美琴の言葉を聞いた上条は、目を見開いて目の前の弁当と美琴の顔を交互に見やった。その目は心なしか潤んでいるようである。
「あ、アンタね、捨てられた子犬のような目しないでよ……。も、もういいわ。食べてよし!」
 上条の従順で哀れを誘う様子に良心が痛んだ美琴は、とうとう上条に弁当を食べる許可を出した。

「いただきます!」
 その途端、ぱあっと表情を輝かせた上条はパンと手を合わせた。
「はい、どうぞ……って、早!」
 優しい目で上条を見つめた美琴の視線を受けながら、上条はものすごい勢いで弁当を食べ始めた。
 みるみる間に無くなっていく弁当。
 その勢いはまるで数日ぶりに食料にありつけた遭難者のようだった。
「……アンタは欠食児童か」
 上条のあまりの食べっぷりにあきれかえった美琴は水筒からお茶をコップに注ぐと、上条に差し出した。
 それを美琴から受け取った上条は、食べるのを中断しお茶を一気に飲み干した。
「あー、苦しかった」
 しかしそれだけ言うと、上条は再び美琴の弁当との格闘を開始する。
 結局、美琴の作ってきた優に三人分はあろうかという弁当は、五分もかからずに無くなってしまった。



「ぷはー、ごちそうさま」
「はい、お粗末様」
 美琴は再びお茶をコップに注ぎ上条に差し出した。
 コップを受け取った上条はその中のお茶を今度はゆっくりと飲み干すと、満足げに腹をさすった。
「いやー、食べました食べました。上条さんは大変満足いたしましたでございまするのことよ」
「アンタ、本当によく食べたわね」
「だってめちゃくちゃ美味かったし、腹も減ってたし。そもそも俺、課題やるために昨日からなんにも食ってなかったから」
「まったく……」
 照れくさそうに笑う上条に、美琴は呆れたような視線をぶつけた。
「それだけ喜んでもらえたことは、まあ、素直に嬉しいけど、それにしてもアンタのさっきの反応、ちょっと極端すぎたんじゃない?」
「んなこと言ったって御坂の弁当食うの久しぶりだったから、つい嬉しくてさ。けどさっきのはしゃぎっぷりは確かにみっともなかった。うん、悪かったな御坂」
「そ、そう……」
 上条の言葉にわずかに頬を朱く染めた美琴はうつむいた。
 そんな美琴の変化に気づかず上条は言葉を続ける。
「でも御坂の弁当に一週間ぶりにありつけただけで、あんなに嬉しいなんてな。なあ御坂、俺ってもしかして、お前の弁当に調教されてるのかな?」
「……ば、馬鹿」
 さらっと爆弾発言をする上条に、美琴は顔を真っ赤にした。
「あ」
 突然、上条は呻くような声を漏らした。
「どうしたの?」
 その声に不思議そうな表情をした美琴に対して、上条は申し訳なさそうに頭を下げた。
「弁当があんまり美味かったからつい全部食べたけど、俺が食った分って、お前の分も入ってたんだよなもちろん。その、悪かったな」
「なんだそんなこと。気にしてないわよ」
「でも」
「だって」
 美琴は再びバッグをあせった。
「ほら。私の分はちゃんと確保してあるから」
 バッグから小さな弁当箱を取りだした美琴は、にっこりと笑みを浮かべた。



「…………」
「何よ、いくらなんでも私の分まではあげないわよ」
 弁当を食べ始めた自分を黙って見つめている上条に向かって、美琴はジト目を向けた。
「いや、いくらなんでもそんなことしないけど。でも……」
「でも?」
「お前、そんな弁当で足りるのか?」
 上条が気にしていたのは美琴の食べる弁当の量。上条が食べた分の三分の一ほどしかないその量が気になったのだ。
「別に足りるわよ、これで」
「へー」
「何よ、疑ってるの?」
「別にそういうわけじゃないけど、成長期なのにそんだけしか食べなくて本当に大丈夫かと思ってな。あんまり食べないと、大きくなれないぞ」
「…………?」

 美琴は小首を傾げて上条の視線を受け止める。やがて顔を引きつらせた美琴は、がばっと胸を隠すような体勢で上条に背を向けた。
「危ね」
 その際美琴の手から落ちた弁当箱は、上条が間一髪受け止めた。
「ば、ばば馬鹿! スケベ! どこ見てんのよ!」
「なんにも見てねーよ」
「嘘! 私の胸見て大きくないって言ったじゃない!」
「言ってねーって」
「……まったく、昼間っから堂々とセクハラするなんて、何考えてるのアンタは?」
「だから俺は……もういい」
 嘆息した上条は、美琴に弁当を渡すとベンチにもたれかかった。
「ちょっと、話はまだ――」
「はいはい、よく噛んでゆっくり食べて下さい。上条さんはちょっとくつろがせていただきますよ」
「……もう!」
 美琴は頬をぷくっとふくらませて上条をにらみつけたが、上条は美琴の視線などどこ吹く風、ベンチにもたれかかったまま目を閉じてしまった。
「もうちょっと相手してくれたっていいじゃない、まったく……」
 つまらなそうに口を尖らせた美琴は黙々と一人、弁当を食べ始めた。



 弁当を食べ終わった美琴は、そのまま黙って弁当箱を片付けた。
 美琴は上条の肩に手を置こうとする。
「ねえ、そろそろ起き――」
 しかし上条の意識は既に深い眠りの底に落ち込んでいた。
「……そう言えば、あんまり寝てないんだったわね、アンタ」
 美琴は上条が今日のために夜更かしして課題を終わらせたことを思いだした。更にそのために汗だくになって待ち合わせの場所にやってきたことも。
「疲れてる、のよね」
 返事をしない上条に向かって美琴の呟きは続く。
「し、しょうがないわね、とく、特別サービスよ」
 若干つまりながらも早口で呟いた美琴は上条の側に体を近づけると、彼の頭を手にとって、自分の膝の上に乗せた。世に言う、膝枕の体勢である。

「そこらの男じゃ一生かかっても体験できないことなんだから、感謝しなさい」
 そう言いながら美琴は上条の頭を撫でた。尖っているはずの彼の髪が意外と柔らかいことに驚きながら、美琴は無言で上条の頭を撫で続けた。
「はしゃぎまくってご飯を食べて、自分のお腹がいっぱいになったらお昼寝。犬というか、子供というか……」
 慈愛に満ちた光をその目に湛えながらの美琴の独白は続く。
「本当はまだいっしょに行きたいところいっぱいあったんだけど、今日は勘弁してあげるわ。また今度、連れて行ってもらうわよ。また今度、ね」

 温暖化の影響だろうか、最近の日本は残暑が終わるとすぐに厳しい冬が来る。
 だがまだかろうじて残暑と冬の間に穏やかな秋はやって来てくれるらしく、今日は偶然、そんな一日であった。
 美琴は上条の頭を撫で続けながら、今の日本では貴重な秋の空を見上げた。
 芽吹く草木に命の炎を分け与える春のような力強さはないものの、辛い冬を越す準備を始める木々を優しく包み込むような、そんな暖かな光に満たされた秋の空。
 秋の太陽の光を感じながら、やがて美琴の意識も混濁の渦の底に沈んでいった。


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