とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

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杏仁豆腐に浮かぶクコの実




 行為が終わり、天井をぼんやりと眺める。
 天井にはオレンジ色に輝く常夜灯が灯っている。
 そのオレンジの光は、ぼうっとしたマイルドな輝きと、いかんともし難い倦怠感を伴って俺たちを包み、まどろみの世界へと引きずり込もうとしている。
 しかし、このまま眠る訳にはいかない。美琴も俺も裸だったから。
 それに汗やら涎やら何やらで、身体中がべとべとに汚れていた。
 このまま眠ってしまったら、きっと明日の朝は目も覆いたくなるような惨状が広がっているだろう。
 俺は上半身を起こし、下半身の処理に取りかかる。

「おい、美琴。このまま寝ちゃうと大変だから、風呂入ってこいよ」
 そう呼びかけるも、美琴もぼんやりと光る常夜灯をぼんやりと眺めていて、反応を示さない。
 俺はぼんやりと暗闇に浮かぶ美琴の横顔を眺める。
 行為の尾をまだ引いているのか、呼吸が少し上擦っている。額にはぷつぷつと珠のような汗が浮かんでいる。
 白いふたつの雪山の頂上には、小さく紅い花が屹立しており、ぴんと自己主張をしていた。

 まるで杏仁豆腐に浮かぶクコの実の様だな。と、思ったが、口に出せば手痛いしっぺ返しを食らうに違いない。俺は自重した。
 改めて美琴の顔を覗き込む。その表情は物憂げで果敢なげで。

 そして何より美しかった。

 誰にも見せなかった笑顔や泣き顔を俺にだけ見せてくれて、
 誰にも聞かせなかった心の奥の声を俺にだけ聞かせてくれて、
 そして、誰にも見せられないような恥ずかしい体勢や部位、行為を俺にだけ披露してくれる。
 これらを独り占め出来る俺は、世界一の幸せ者だ、と、改めて感じた。



 俺が下半身の処理を済ます約5分の間、部屋中たっぷりと沈黙が漂っていた。
 やっとこさで立ち上がり、部屋の電気を点ける。
 美琴はぐりぐりになった下着をベットの下から探しあてていた。
 そして、出し抜けにこうつぶやいた。
「ねぇ、当麻。私のこと嫌い?」

 俺は混乱した。
 意味が分からなかった。
 まるで、焼鳥屋に食べに行ったのに「あなたは鶏肉が嫌いですか?」と、尋ねられたような感覚だ。
 鶏肉が嫌いな人間が、わざわざ鶏肉の巣窟、焼鳥屋に近寄ろうとするわけがない。
「んなわけねぇだろ。嫌いだったらこんなことしねぇよ」
 俺は、役目を全う出来ぬまま次の火曜日には可燃ゴミとして無惨にも捨てられてしまう息子候補達が入った0.03ミリの袋を左右に振りながら、返答した。
「だよね」
「どうした?昨日のプリンの件か?代わりのプリンじゃ満足出来なかったか?」
「当たり前じゃん!アンタが買ってきたのは3つで158円のプッチン!
 勝手に食べたのはパスティッチェリア・マニカーニの1日限定50個で開店して10分で完売しちゃう1個700円もする幻のプリン!
 どう考えても割にあってないじゃない!どうしてくれんのよ!」
 美琴は憤慨していた。
 俺も内心憤慨していた。
 半分寝ぼけていたとはいえ、ちゃんと美琴に確認をとった上で食べたのに、この言われようはあんまりじゃないか。
 しかし、俺はその事実を告げなかった。
 言い争いになったり、喧嘩をするのがイヤだったのだ。
 俺は素直に頭を下げた。
「ごめんな。また今度買ってくるから」
「もう!私がどれだけ苦労して手に入れたと思ってんのよ……」
 そう言って拗ねる美琴は全裸のままだった。かくいう俺も全裸なのだが。
 全裸のままぷりぷりと怒る美琴の可愛さに、不覚にもときめいてしまった俺の下半身がスタンディングオベーションを始めそうだった。
 理性を馬車馬のように酷使し、事態の沈静化を図る。
 妄想の暴走という痴態を美琴に見られたら、一体何を言われるか分からない。
 冬の北ベーリング海顔負けの、凍てつくような視線を浴びせかけられるに違いない。

 俺はいそいそと下着を履き、キッチンにある冷蔵庫へ向かう。
 ドアを開けると、肌を舐めまわすような冷気が身体にまとわりついた。



「美琴ー麦茶かヤシの実サイダーか牛乳、どれがいいー?」
「ヤシの実サイダー」
 寝室兼居間兼リビング兼ダイニングから、美琴の気怠そうな声が返ってくる。
 俺は、麦茶をコップに注ぎ込み、一気に喉へと流し込んだ。食道が冷ややかな麦茶のベールに包まれていくのが分かる。
 そして、ヤシの実サイダーを冷蔵庫のドアポケットから取り出し、美琴の元へ持って行く。
「ほれ、ヤシの実サイダー。ってかその前に服を着ろ。風邪ひくぞ」
「このままでいい。後でお風呂入るから」
 ぶすっと不貞腐れながら、ちびちびとヤシの実サイダーを飲みながら、美琴は無愛想な返事を返す。
 見た目や身体や服装や持ち物や趣味は大人になっても、こういう所はまだまだ子供だな、と、思った。
「ねえ。ヤシの実サイダーじゃなくて、黒豆サイダーが飲みたい。今すぐ飲みたい」
 
 俺は再び混乱した。
 このヤシの実サイダーには、劇薬が含まれているから飲めないとでもいうのか。
 それとも『今すぐ黒豆サイダーを飲まなければ脛からかいわれ大根が生えてしまう症候群』にでもかかったというのか。
 いや、そんなわけはあるまい。きっと、美琴様恒例のワガママを言いたい症候群だろう。

「おいおい。もう日付変わっちまうような時間だぞ。今から買いに行くのか?」
「買いに行くのは私じゃなくて当麻」
「俺が買いに行くのかよ!なぁ。明日じゃだめか」
「いっぱい動いて、いっぱい声出して、いっぱい汗かいて、やっと一息ついた今がいいの」
 そう言われると、ぐうの音も出ない。
 いっぱい動かせたのも、いっぱい声を出させたのも、いっぱい汗をかかせたのも、原因は俺だからだ。
 原因が俺である以上、責任を俺がとるのが道理と言える。
「じゃあ買ってくるよ。下の自販機行ってくるわ」

 床に散らばったTシャツと短パンを、神経衰弱の1手目の如く、ランダムにつかみ取って着替える。
 着替えると言ったものの、着ているものがないので、正確には『着る』と表現すべきだが、些末な問題ということにしてもらいたい。
 ドン小西にファッションチェックを食らったら、小一時間は小言責めを食らうこと請け合いな格好で玄関を出た。
 非常階段をたんとんたんとんリズミカルに降りながら、俺は美琴のわがままについて考えていた。



 昔の美琴は、ツンケンした態度をとるヤンチャな女の子、というイメージだった。
 事ある毎に『勝負よ!』と、ボンバーマンみたく叫んではちょっかいをかけてきた。

 始めは煩わしく思うこともあった。他にも相手がいるだろうと、思う事も多々あった。
 しかし、それが俺への愛情の裏返しだと打ち明けられた時の衝撃は、相当なものであった。
 もじもじと下を向きながら、顔を真っ赤にして思いを打ち明ける美琴。
 その可愛さ、健気さ、愛おしさを書き記そうにも、俺の乏しい語彙力と表現力では、到底伝えきれそうにない。
 どちらにせよ、どんな言葉をもってしても、美琴の魅力を表現するには陳腐すぎるのだ。
 
 やがて月日を重ね、身体も重ね、身も心も大人になって、関係も大人になった。
 付き合いが深くなっていくと、あれだけツンケンしていた態度も徐々に軟化し、今では『勝負よ!』なんて言われる機会も無くなった。
 それに立ち代わるように、最近はわがままを言われることが増えてきた。
 先程のようなわがままは勿論、俺がどこまでついていけるか試しているのではないか、と、怪しみたくなるような無茶なお願いもあった。

 しかし、俺は苦にならなかった。美琴を愛していたからだ。
 付き合い始めは、俺も『イヤだ、駄目だ、無理だ』と、しきりに抗議していた。
 だから、付き合い始めは呼吸をするが如く喧嘩していた。
 それが、いつしか関係が深くなり、愛情が深くなるにつれて抗議したいなどという気持ちはどこかに霧消してしまった。

 美琴が喜ぶなら。
 美琴が望むなら。
 美琴が俺を嫌いにならないように。
 俺はその一心だった。




 程なくして戻った俺は、美琴に黒豆サイダーを投げ渡す。美琴はまだ全裸のままだった。

「ほれ、黒豆サイダー。つか、いい加減服着ろよな」
「ほんとに買ってきたんだ」
「おいおい。買って来いって言ったのは美琴だろ」
「だってほんとに買って来るとは思ってなかったんだもん」
「なんだそれ……まぁ、そんなら俺が飲むわ」
「……そう」

 そう言ったきり、美琴は黙り込んでしまった。
 手持ち無沙汰になった俺は、アルミ缶のプルタブを起こす。
 ぷしゅっ、という、小気味良い音が、静まり返った部屋に響く。
 泡立った暗褐色の液体を、口の中に注ぎ込む。
 黒豆独特の香ばしさと甘さ、炭酸の刺激、そしてほんの少しの苦みが口の中に広がった。
「うん。この味、何も言えねえ!美琴も飲むか?」
「要らない。ヤシの実サイダーも、黒豆サイダーも、別に要らなかったのよ」
 
 俺はまたしても混乱した。
 酷く、酷く、混乱した。
 さっぱり意味が分からなかった。
 何が言いたいのか、何を思っているのか、何を求めているのか、皆目見当がつかなかった。

 混乱した俺を置き去りにしたまま、美琴は尚も話し続ける。



「たとえば今私が当麻に向ってパルムの抹茶味が食べたいって言うわね、すると当麻は何とかしてそれを買って来ようとする。そしてひいひい言いながら帰って来て『はい美琴、パルムの抹茶味だよ』ってさしだすでしょ、すると私は『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。そうすると当麻はこう言うと思うの。『わかった、美琴。俺が悪かった。美琴がパルムの抹茶味を食べたくなくなることくらい推察すべきだった。俺は電池の切れた一方通行みたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてやるよ。何がいい?ハーゲンダッツのクレープグラッセ、キャラメル&クッキークランチ味?それともパスティッチェリア・マニカーニのチーズ・ケーキ?』」
「さすがにそんなこと言わないと思うけど。するとどうなるんだ?」
「私、そうしてもらったぶんきちんと当麻を愛すると思う。でも、私が求めているものはそういうものじゃないのよ。その時は当麻を愛おしく思うけど、それは一時的なもの。1時間後には私は慚愧の念に押しつぶさそうになる。そうしていく内に、いつかきっと私たちは駄目になる」
「ずいぶん理不尽な話みたいに思えるけどな」
「でも私にとっての愛はそうじゃないのよ。私は完璧なわがままを、完璧に叶えてくれることを望んでいないの」

 美琴は、俯いて下着のヨリを戻していた。
 ぐりぐりになった下着は、夜店で売られているふあふあの綿菓子のように淡く輝いていた。




「当麻は私のこと愛してる?」
 出し抜けに放たれた質問によって、4度目の混乱が襲いかかった。
 俺の思考力は、底なし沼にはまったように、ずぶずぶと深く、深く、沈んでいった。
 しかし、このまま黙っていては、先ほどの質問を否定として捉えられてしまう。
『沈黙は金、雄弁は銀』という格言は、時と場合をわきまえてこそ光り輝くのだ。

「ああ、愛してるよ」
「じゃあ私が『一緒に死んで』って言ったら、一緒に死んでくれる?」
「時と場合によるが、美琴がそう望むなら」
 俺は美琴を真っ直ぐに見据えながら、そう答えた。
 少しでも返答に戸惑ったら、少しでも視線を逸らせたら、少しでも断ろうとしたら、美琴が目の前から消えてしまうような気がしたからだ。
 この言葉には、一滴の嘘も偽りも虚栄心も含んでいなかった。
 月並みで手垢にまみれた台詞になるが、『美琴の為なら死ねる』本気でそう思っていた。

 しかし、美琴は胸にパパイヤでも閊えたかのような表情を浮かべ、もぞもぞと居心地が悪そうにベットに座り直す。相変わらず全裸のままだった。
「そう。当麻は私が望みを何でも叶えようとしてくれる。確かに私は当麻に望みを叶えて欲しいと思ってる。でも、私は望みが叶うことを望んでいないの。意味が分からないと思うけど、私だってよく分からないの。ただ『このままじゃ私は当麻を駄目にする』っていう思いだけが、私の心の中にずっしり居座ってるの。だからね……」
 
 俺と美琴の間にもやもやと暗雲が立ちこめてくるのが分かった。
 これはまずい、このままではきっとまずいことになるぞ。
 と、俺の心が警鐘を鳴らし、心臓もそれに呼応するように、どくん、どくんと、激しく肋骨に身を叩き付けている。
 早く軌道修正しなくては、話題を変えなければ。
『それより美琴のおっぱい見てると杏仁豆腐を思い出すんだけど』と、話しかけるんだ。さあ、早く。
 前頭葉にあるブローカ野が必死に呼びかけている。

 しかし、そんな意思とは裏腹に、俺の口を割って出た台詞は、
「それは……別れたいってことか?」
 だった。

「ん」
 美琴は、明後日の方向を向きながら、肯定とも否定とも取れない返事を喉の奥からひねり出した。
 部屋には沈黙と不穏な空気が充満していた。
「当麻はどうしたいの?私と別れたいの?」
「もちろん、別れたくない」
「でも、私が『別れたい』って言ったら、どうするの?」
「美琴がそう望むんなら、従うしかない」
「言うと思った」

 そう言って美琴はにっこり笑った。
 その笑顔はとても悲しそうに見えた。
 そして、こう付け加えた。

「私、当麻のそういうところ、大好きだけど大っ嫌い」







杏仁豆腐に浮かぶクコの実




次の日、目が覚めると、部屋には美琴の姿が無かった。
『お泊まりセット』と称して持って来た、パジャマや着替えやドライヤーやその他もろもろも、忽然と消えていた。
 元々御坂美琴という人物が存在していなかったかのようだった。

 俺は、美琴が家を出ていったことを理解した。
 ジャブを食らった程度の軽い衝撃を覚えたものの、不思議と悲しみは湧かなかった。
 漠然とではあるが『これが別れるってことか』と、理解した。
 その上『持ち物の整理をしなきゃな』などという、他人事のような考えにすらなっていた。

 美琴がそう望んだのだから、従うしかない。
 自分にそう言い聞かせ、部屋の整理にとりかかった。

 部屋を整理しようとして、美琴の所有物が殆どないことに気付いた。
 目に映る範囲内では、ベットの傍に山積みされた少女漫画と小説ぐらいしか見当たらない。
 この家はそもそも俺の下宿先であって、そこに美琴が同居していたのだから、当然と言えば当然なのだが。

 俺は、その少女漫画を手に取った。主人公の男が健気な奴なのか、ただの腰抜けなのかで美琴と熱い議論を交わした作品だ。
 ぱらぱらとページを捲っていると、その時の思い出が蘇ってきそうだった。

 小説の方は、国語の教科書にも載るような偉人が書いた名作だが、美琴はこの小説をあまり好んでいなかった。
 ただ、タイトルだけは気に入っていたようで『私と初春さんが結婚したみたいだね』なんて言って、笑っていたのを思い出した。
 一度美琴からあらすじを聞いたが、『愛する人の為に自らの目を潰す』という内容だったので、その時は恐ろしくて読むことが出来なかった。
 
 ただ、今なら『愛する人の為に自らの目を潰す』という行為が、何となく理解出来るような気がした。
 思い切って読んでみようとページを開いたものの、句読点のない独特な文体が目に突き刺さった。
『目を潰す話を読む前に自分の目が潰れそうだ』と思い、開始30秒でそっと本を閉じた。



 懐かしさに浸りながら、部屋の整理を続ける。
 美琴の荷物は大体『お泊まりセット』か、クローゼットに置いてあったので、次はクローゼットの整理にとりかかることにした。

 クローゼットを開けると、目の前に巨大なゲコ太のぬいぐるみが置いてあった。
 恐らく巨大過ぎて持って帰るのが億劫になったのだろう。
 あれほど心酔していたゲコ太も、今では没落した貴族同然だった。

 そう言えば、いつからだろうか。
 美琴がゲコ太のようなオコチャマな趣味から卒業したのは。

 始めて俺の下宿に泊まりに来た時は、ゲコ太のパジャマを着ていたはずだ。
 俺が笑わないようにぷるぷる震えていると、美琴が恥ずかしさで泣きそうになってぷるぷる震えていたんだっけか。
 それがいつしかパジャマがごく普通のスウェットになって、ゲコ太を見ても過敏な反応をしなくなって。
 今では『そんなこともあったねー』なんて笑って済ませるようになった。

 美琴はもう、大人になったのだ。そして俺も。
 俺は残されたゲコ太に憐憫のまなざしを向け、せめてもの慰めとして持ち上げて胴上げをしてやった。オコチャマ趣味卒業のお祝いだ。
 1回、2回、3回。宙を舞うゲコ太の表情は、相変わらず間抜けなアヘ顔だった。
 ふとクローゼットを見てみると、ゲコ太が鎮座していた場所の裏に、なにやらオレンジ色をした箱が置いてあるのを見つけた。
 思わずゲコ太をその場にほっぽり出して、箱を引きずり出してみる。
 
 箱は、約30センチ四方の立方体で、蓋には3桁の番号式の鍵がかかっていた。
 俺にはこんな箱を持っていた記憶がない。
 ということは、必然的に美琴の持ち物ということになる。
 そして、わざわざ鍵をかけるということは、何か大切なもの、見られたくないものが入っているということになる。
 俺には番号が分からないので、出鱈目に番号を変えて試してみることにした。
 開かなかったら開かなかったで、元々無かったことにすればいい。
 俺はとりあえず左端だけ番号を変え、1、0、0に番号を合わせた。
 ボタンを押そうとした指がかすかに震えており、自分が緊張しているのだという事実を認めた。

 カチリ、と手応えを感じ、蓋のロックが外れた。
 あまりにも手応えがなさ過ぎる。
 
 何と杜撰なセキュリティなのだ!
 ああ、美琴に持たせた合鍵が心配だ。
 しかし、その合鍵ももう使われる事がないという事実を思い出し、俺は少し悲しくなった。



 箱の中には手帳のようなものが何冊か入っていた。
 俺はそれが日記であることをすぐに察知した。
 読むべきか否か一瞬躊躇ったが、美琴がこの家を出た以上、今更何を躊躇う必要があるのだと思い、ページを開いてみた。

 中には美琴の歴史が詰まっていた。
 学校のこと、
 白井達のこと、
 俺との出会い、
 8月31日のこと、
 俺との勝負、
 俺との罰ゲーム、
 俺への複雑な感情、
 俺と遊びに行ったこと、
 俺への気持ち、
 俺へ告白してきた時のこと、
 俺と初めてデートした時のこと、
 俺と初めてキスした時のこと、
 そして、初めての。

 途中から、日記の内容が俺一色になっていることに気付いた。
 美琴がこれほど俺のことを愛してくれているとは、露ほども知らなかった。

 しかし、冊数が進むにつれて、つまり最近の日記になるにつれて、内容が淡白になっていることに気付いた。
 『今日は○○に行ってXXをした』という程度になっていたのだ。
 やはり、最近は俺への愛情が薄まってきたのだろうかと推察する。
 
 俺は引き続きページをめくっていき、最後の日記、つまり最新の日記にたどり着いた。
 日付はおとといのものだった。
 日記にはこう書かれていた。

「最近、当麻と喧嘩することが無くなった。もちろんそれは良いことなのだけど、何故かそれが悲しい。自分の感情を殺してまで手に入れる平穏など、私には必要ない」



 
 俺は、昨日の意味不明な言動の理由が分かった気がした。
 美琴はただ単に『おまえなに言うとんねん、あほちゃうか』と、突っ込んで欲しかった、怒って欲しかったのだ。

『怒る』ということは、『感情をぶつける』ということだ。
 美琴はその特殊な境遇故、感情を表に出して真っ正面からぶつかってくれる人が周囲にいなかった。
 そこに俺という阿呆が現れて、感情をぶつけ合って、一緒に喜び、怒り、哀しみ、楽しんだ。
 喧嘩も多かったが、それ以上に楽しいことも多かった。
 そうして酸いも甘いもを味わっていく内に、いつしか恋に落ちていった。

 ところが今の俺はどうだ。
 関係を壊さないことだけに必死になり、美琴と真正面から向き合うことを恐れ、感情のぶつけ合いを避けるようになった。
 本音をぶつけても正面から向き合ってくれない、間違ったことを言っても間違いを正してくれない、無謀な願いが叶えられる。
 そんな歪な環境に俺は追い込んでいたのだ。
 素直になれない美琴は『無茶なわがまま』という形で、俺に悲鳴をあげていた。
 馬鹿な俺は、それを『美琴のお願い』と解釈し、馬鹿正直に叶えようとしていた。

 俺は自分の愚かさに気付いた。
 そして、猛烈な後悔に襲われた。
 タイムマシンがあるならば、昨日の俺をバールのような何か堅いもので、ごちんとぶん殴ってやりたかった。
 お前は美琴を守るんじゃないのか、大切に思ってるんじゃないのか、幸せにしてやるんじゃないのか、となじってやりたかった。

 俺は『美琴を幸せにする』という大義名分を掲げながら、その実、面倒事になるのを避けていたのだ。
 見せかけだけの平穏の上に胡座をかいて居座り、ぬくぬくと自己満足の世界に浸っていたのだ。
 それによって美琴が苦しんでいるとも知らずに。



 昔の俺には若さがあった。
 後先考えずにありのままの自分を美琴にぶつけ、美琴もありのままの感情をぶつけてきた。
 時には喧嘩に発展したが、美琴はそんな俺の実直さに惚れたのだ。

 そして、昔の俺には自信と勇気があった。
 たとえ美琴と喧嘩しても仲直り出来る、してみせる、という自信と勇気。
 それこそが俺のアイデンティティであり、最大の長所だったはずだ。

 いつから俺はこんな腑抜けたヘニャチン野郎に成り下がったのか。
 俺は悔しくて悔しくて堪らなかった。
 日記の上にぽたぽたと涙のしずくが落ちていた。
 今更になって美琴を失った哀しみが襲いかかってきた。

 もうやり直しが出来なくてもいいから、
『アンタなんか嫌いよ死んじゃえ』と言われてもいいから、
 もう二度と逢えなくてもいいから、『本音と本音』でぶつかり合いたかった。

 自分以外誰もいない静まり返った部屋の中で、俺は俯いたままさめざめと涙を流していた。
 1時間は泣き続けただろうか、開け放した箱の中に涙の水たまりが出来始めていた。
 このままではいけないと思い、日記を直して箱を元に戻そうとする。
 すると、箱の底に何か封筒があるのを見つけた。
 急いで封筒を引っ張り出し、中身を確認する。

 中には薄汚れた携帯のストラップが入っていた。
 確か美琴に罰ゲームと称して無理矢理携帯のペア契約を結ばされた時のものだ。
 ロシアでの戦いで無くしてしまったと思っていたのに、こんな場所で、こんな形で再会するとは思ってもみなかった。

 ストラップをじっくり眺めてみる。
 ストラップはずたずたのぼろぼろになっていて、あの戦争の激しさを物語っていた。
 よくもまぁ生きて帰れたもんだ、と内心自分を褒めてやる。
 もっとも、今の自分には褒めるべき要素など、ミドリムシの鞭毛程もありはしないが。

 俺は、ストラップに尋ねてみた。
「どうすればあの時のような勇気が湧いてくるのか?」
 と。

 当然ストラップからは回答が無く、部屋は静まり返ったままだった。
 むしろ、静けさと虚しさだけが増した気がした。
 「なにひとりで気色悪いことやっとんねん、あほちゃうか」
 と、言ってもらった方がましだった。

 しかし、ストラップを眺めていると、ある解答が浮かび上がってきた。
 何故浮かび上がったのかは分からないが、突然の閃きだった。
 それは、とても、とてもシンプルなものだった。



『俺はただ単に、自分のしたいことをしていただけ』
 だった。
 
 別に勇気があるとか無いとか、
 人を助けたからどうだとか、
 誰かから喜ばれたいだとか、
 誰かを守りたいだとか、
 
 そんなもん、クソ食らえだ。

 自分がやりたいようにやった結果が、
 たまたま人助けになったり、
 たまたま気に入られたり、
 たまたま感謝されたり、
 たまたま情愛の念を持たれただけなのだ。

 それなのに美琴という大切なものを手にした俺は、
 美琴を守ってやりたいだとか、
 美琴に感謝されたいだとか、
 美琴に気に入られたいだとか、
 美琴が望むなら死んでもいい。
 なんてていう、押し付けがましく愚かで独りよがりな考えを持つようになったのだ。
 美琴は決してそれらを望んでいないというのに。

 分かってしまえばなんとも間抜けな悩みだった。
 だまし絵に向かってうんうん唸って悩み抜いた挙句、絵を横に傾けてみたら答えが浮かび上がってきたような感覚だった。
 
 俺は考え過ぎだったんだ。
 もっと気楽に、自分のしたいようにすればいいだけなんだ。
 美琴が本当に望んでいるのは、そんな自然体な俺なのだ。
 美琴が本当に愛しているのは、そんな自然体な俺なのだ。
 
 そう分かった瞬間、身体の錘が外れた気がした。
 まるで宙に浮かび上がりそうな感覚になった。
 今なら美琴に本音でぶつかれる気がする。いや、是非とも本音でぶつかり合いたい。
 俺は決意した。

 さあ、かかってこい、美琴。



「あんた、なーに人の日記勝手に見てくれちゃってんのよ?」
 背後から美琴の声がした。
 八寒地獄の底の底から響いてくるような、冷ややかで恐ろしい美琴の声質に、俺の決意は早くも揺らいでしまった。
 
 俺は恐る恐る振り向いた。
 ギギギギという擬音でもつければ、臨場感も増すだろう。
「みみみみみみみみみことさん?どどどどどどどどどうしてここに?」
「何よ。いちゃ悪いの?」
「でもでもでもでもでも出て行ったんじゃないんですか?」
「気が変わったのよ。でも、その気も変わっちゃった」
 
 そういって、美琴はふっと笑みを浮かべた。
 その笑顔は、中宮寺に祀られている弥勒菩薩半跏思惟像のようなアルカイックスマイルだった。
 しかし、その表情は徐々に歪んでいき、いつしか法隆寺の中門を守る金剛力士、阿形像の如き憤怒の表情に変化していた。
 バチバチと電撃を身に纏う姿は、背後に炎を纏った東寺の不動明王像の如く。
 そして、怒りのボルテージが最高潮に達した時の表情は、新薬師寺に祀られている十二神将、伐折羅大将像そのものであった。

「最後にアンタをぶちのめして、日記を見た記憶を抹消してから出て行くことにするわ!」
 そう言うやいなや、美琴は電撃の槍を放って来た。
 俺はすかさず右手をかざし、電撃の槍を打ち消す。
「すすすすストップ!美琴様!こんな所で電撃を出すとテレビが!パソコンが!冷蔵庫が!」
「やかましい!つべこべ言わずに記憶を抹消しなさい!」
「お助け下さい!この子達だけは!どうか、この子達だけは見逃してください!」
「ヒャッハー!汚物は消毒だー!」

 若干キャラが崩壊しつつある美琴は、気がふれた全知全能の神ゼウスの如く、なりふり構わず雷撃をあたりにまき散らしていた。
 その雷撃のうちのひとつが、俺の頬をかすめて通り過ぎて行った。
『ボンっ』という不穏な音が轟き、辺りに焦げ臭いにおいと黒い煙が立ちこめた。

 まさか。
 
 まさか。
 
 まさか。



「俺の……俺の……レ○ザちゃんがああああああああああああああ!」

 俺が半年間かけてせこせことバイト代と仕送りとへそくりを貯めて、
 ヤ○ダ電機の店員に恥も外聞も無く泣きついて値切った末に購入した『○芝製32型録画機能付きRE○ZA』は、
 一瞬にしてどす黒いただの板きれに成り果てた。
 追い打ちをかけるように美琴の雷撃が襲いかかる。
「無機物にちゃん付けすんなや!キモイのよ!」
「あああああああああ!冷子ちゃんまで!」
「レイコって誰よ!何女作ってんのよ!」
「違う!誤解だ!」
「言い訳すんじゃないわよ!」
 ますます怒り狂った美琴の放つ雷撃が、俺のデスクトップパソコンを貫いた。
 
 パソコンの内部は、静電気程度でも駄目になると言われる精密機械である。
 十億ボルトに達する美琴の雷撃に耐えうるはずもないだろう。
 無論、ハードディスクの記録情報の安否など、論ずるまでもない。

 俺の性春が。

 俺の嫁達が。

 俺の性域が。

 全てが水泡に帰した瞬間であった。




 その瞬間、脳内で『ぷちん』と張りつめた糸が切れたような音がした。




「久しぶりに……キレちまったよ……俺の性春の弔い合戦じゃあ!」
「上等よ!やってやろうじゃないの!」
「歯を食いしばれよ『超能力者』!俺の『男女平等』はちっとばっか響くぞ!」
「かかって来なさい!完膚なきまでに叩きのめしてやるわ!」

 こうして喧嘩(戦争)の火蓋は、切って落とされた。



「アンタのナメクジの糞みたいにジメジメ腐りきった根性見てるとイライラすんのよ!」
「だったらそれを言えばいいじゃねえか!そっちこそ腹ん中に文句溜め込んでシュールストレミングみたいにぶつぶつ発酵させてたんだろ!」
「ちょろっと文句言えばオジギソウみたいにすぐにヘコヘコする相手にそんなの言える訳ないじゃん!アンタそれでもキン○マついてんの?」
「昨日確認したはずだぜ?学園都市が誇る『超能力者』の記憶容量はフロッピーディスク並みなのか?それともその目は魚の目か何かじゃねえのか?」
「ごっめーん!あまりにも小さ過ぎて見えなかったぁ!悪いんだけどぉ、電子顕微鏡持ってきてくんなぁい?そしたら確認できるかもぉ!」
「言ってくれるじゃねぇか!」

 戦いはまだまだ終わらない。



……………
…………
………
……


 戦いは終わった。
 平和的な和睦交渉が行われた訳ではなく、体力消耗による休戦と言うべき結末だが。

 俺と美琴は床にへたりこみ、ぜいぜいと肩で息をしていた。
「……この素直さを…普段から見せてくれよ……」
「当麻こそ……この根性を……普段から発揮すればいいのよ…」
 部屋の片隅で肩を寄せ合いながら、ぼんやりと二人並んで三角座りをしていた。
 俺は、美琴の肩を抱き寄せた。それに呼応するように、美琴もぎゅっと身を寄せる。
 まるで、ボクシングの試合の後に、お互いの健闘をたたえ合っているようだった。
 あれだけ口汚く罵り合ったのに、俺の心には春のそよ風が流れているような清々しさがあった。
 今まで積もり積もった、全ての毒素、膿、不満、愚痴、怒り、鬱憤を出し切った結果だった。

「で」

「これ……どうするの?」
 粉砕されたガラス戸。
 焼け焦げたちゃぶ台。
 リモコンが突き刺さった壁。

 俺と美琴は、目の前に広がる惨状をただ呆然と眺めていた。
 今朝まではごくごく普通の1Kのマンションだったのに、今や長崎半島沖に浮かぶ軍艦島のような有様だった。
 荒廃しきった部屋の片隅に、呆然とたたずむ二人。

「………………………………………………………………ふっ」
「…………………………………………………ふふっ」
「………………………ぷぷっ!」
「……………あはは!」
「「あはははははははははははははははははははははは!」」

 その光景があまりにもシュールで、間抜けで、滑稽で。
 俺と美琴は抱腹絶倒していた。
 状況的には決して腹を抱えて笑うものではなく、むしろ頭を抱えて悩むべきなのだろう。

 しかし、俺は笑いたかった。
 とにかく感情を爆発させたかったのだ。
 今まで散々感情を抑えつけていた影響で、感情をコントロールする機能に致命的な欠陥が生じたのだろうか。

 でも、そんな細かいことなんてどうでも良かった。
 後始末だってどうでも良かった。
 とにかく笑っていれば何とかなるような気がしたのだ。
 きっと美琴だってそんな気分だろう。
 
 俺と美琴は、ボロボロになった部屋で、ひたすら、ただひたすら笑い狂っていた。



 笑いの波が一段落した後、俺と美琴はどちらからともなく見つめ合う。
 そして、

「ごめんな」
「ごめんね」

 まるで示し合わせたかように、全く同時に謝罪の言葉を交わした。
 たった4文字だったが、俺と美琴には充分だった。
 いや、そもそも言葉は必要なかったのかもしれない。
 理由をいちいち語る必要もないだろう。

 やがて電磁力に引かれるように、ふたりの唇が近づいていく。
 そして距離がゼロになった。

 長い長いキスが終わり、癒着してしまいそうな程密着した唇を引きはがす。

 目を開ける。
 美琴はまだ目を閉じたままで、まるで余韻を味わっているようだった。
 そして、ゆっくりと、おもむろに、目を開けてこうつぶやいた。

「やっぱりこの光景って、めっちゃシュールよね!」
 美琴は莞爾笑った。
「それは言わんでもええ」
 俺はそう返した。
「ごもっともで」
 美琴は頷いた。



 行為が終わり、天井をぼんやりと眺める。
 天井にはオレンジ色に輝く常夜灯が灯っている。
 そのオレンジの光は、ぼうっとしたマイルドな輝きと、いかんともし難い倦怠感を伴って俺たちを包み、まどろみの世界へと引きずり込もうとしている。
 しかし、このまま眠る訳にはいかない。美琴も俺も裸だったから。
 それに汗やら涎やら何やらで、身体中がべとべとに汚れていた。
 このまま眠ってしまったら、きっと明日の朝は目も覆いたくなるような惨状が広がっているだろう。
 俺は寝転んだまま、美琴を抱き寄せた。

「おい、美琴。このまま寝ちゃうと大変だから、風呂入ってこいよ」
 そう呼びかけるも、美琴もぼんやりと光る常夜灯をぼんやりと眺めていて、反応を示さない。
 俺はぼんやりと暗闇に浮かぶ美琴の横顔を眺める。
 行為の尾をまだ引いているのか、呼吸が少し上擦っている。額にはぷつぷつと珠のような汗が浮かんでいる。
 白いふたつの雪山の頂上には、小さく紅い花が屹立しており、ぴんと自己主張をしていた。



 美琴はむくりと上半身を起こし、俺の腹部にあごを乗せてこうこぼした。
「ねえ、あの時どうして私が帰ってきたと思う?」
「そういえば、何でなんだ?」
「……何故か、当麻が泣いているって分かったの。当麻が泣くことなんて滅多に無いじゃん?で、いてもたってもいられなくなって……」
「何で俺が泣いてるって分かったんだ?」
「……それは……多分…心が繋がって……」

 そう言って俯き、俺の胸に顔を埋めて足をばたつかせた。
 その姿がとても可愛らしく、幼く、そして何より愛おしく見えた。

 美琴は恥ずかしさ紛れなのか、俺の乳首をぐりぐりと弄っていた。
 美琴のおっぱいがクコの実の浮かんだ杏仁豆腐ならば、俺の胸はさしずめレーズンがめり込んだチーズケーキがいいところだろう。
 
 そこで俺は、美琴に伝えたかったことを思い出した。

「ずっと言いたかったんだけどさ……」
「なぁに?当麻?」

 これを言うべきか否か。
 果たして言ってしまってもいいのか。
 俺は躊躇った。
 しかし、心が通じ合っている美琴なら、きっと同意してくれるだろう。




「美琴のおっぱい見てるとさぁ、無性に杏仁豆腐が食べたくなるんだよねー」
「空気読めよ馬鹿ぁ!」
 美琴の右ストレートが炸裂した。
「……ごもっともで」
 俺は鼻を抑えながら頷いた。

『沈黙は金、雄弁は銀』という格言は、時と場合をわきまえてこそ光り輝く。
 しかし、虚言、妄言、失言の類いは、いついかなる時も災いを招くのみである。







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