かげ

公式

テレビの世界に入り込んだ人間の抑圧された思いや負の感情が、中の世界の影響によって顕れてくる「もう一人の自分」。
言わば、ユング心理学における心理学用語「影(シャドウ)」のことで、P3およびP4において敵として立ち塞がるシャドウとは明確には区別すべきものである。

その特徴は、一様に「姿形はその人そっくりだが、瞳が鈍い金色をしている」「濁り、ノイズがかった声をしている」という部分で共通している。

影の本体である人間が「目を背けている事実、弱み、悩み」を暴露し、本体に「自分とは違う」という否定をされることで自由に行動できるようになり、本体に成り代わろう襲い掛かってくる。影を自分の一部として肯定し受け入れることによって、その人物のペルソナとなる。
なお作中で指摘されているとおり、本体の一面ではあるがそれが全てというわけではない
そして同時に今なお消えた訳ではない、まぎれもない本体の一面である

非公式

影と言われると一般に「邪悪なもの」をイメージしがちだが、実際には「ある自我にとって許容しがたい精神的要素」であり、そこに一般的な倫理に基づく善悪観は関係ない。
認めたくない感情、目を逸らしたい認識、対立するイデオロギー、異なる価値観、etc……、これら全て「影」となり得る要素と言える。
極端な例を挙げると、仮に極悪人を自認して非道な行為を平然と行う自分に自負を抱く様な人物がいたとすれば、その心の片隅に残った一片の良心はその人物にとっての「影」となる、といった具合。
本編での例で言うと、久保美津雄の影が自らの犯した殺人という罪深さについて特に触れていなかったのは、それが世間的には罪であり悪であっても、美津雄本人の主観においては、問題にすべき事柄はあくまで「己の無力感」だったからである。
「影」を語る時にしばしば述べられる「善悪」とは、各個人の主観に基づくものであり、ある人間にとっての自己肯定できる要素である「善」に対して、その人が許容できず否定している要素として「悪」と呼ばれるものである。

ユング心理学の解釈に沿うと、人はこの自己にとって許容せざる考え方や耐え難い感情を心の底に押し込め、切り離して「なかったこと」にする。
「切り離された考え方や感情」である「影(シャドウ)」は、普段生活している上では気付くことは無く、大抵は自覚が無いまま忘れ去られる。
しかし、他人を鏡とした場合に「影(シャドウ)」の存在は「嫌悪すべき他人」といった側面を伴い表れてくるという。
※前作「ペルソナ3」を例に取るなら、主要登場人物の一人・岳羽ゆかりと彼女の母の関係が適切な事例として挙げられる。

「影」の恐ろしさの本質は、「こうありたくない人物像」が自分自身の姿・考えを鏡像としているため、「彼・我の線引き」という言い訳が一切許されない状況で「己の抑圧された感情」を丸裸にされて突きつけられてしまうところにある。

影は、その対象となる人物に否定されることで独立した「個」となり、自らを核として周囲のシャドウを飲み込み、異形を成して暴走状態となる。
その戦闘能力は程度の差こそあれど強大で、ペルソナ能力に覚醒していない人間では、まず太刀打ち出来ない。
「自己をも死に至らしめてしまう力を秘めた、凶暴で邪悪な自我」という観点に添って考察すると、暴走状態に突入することで「影(シャドウ)」はドッペルゲンガー化する、とも解釈出来る。
あるいは、その定義において必ずしも「凶暴で邪悪なもの」という訳ではないはずの影たち全てが殊更に邪悪な表情と言動をしているのは、「自分が認めたくないものは間違った悪いものであってほしい」という、本体の無意識の願望を反映しているのかもしれない。

存在を否定され暴走状態に突入する際に「影」が呟く、『我は影、真なる我……』という一言は、本作の中でも非常に印象深い言葉と言える。

ペルソナシリーズ他作品における「影」

「「影」との対決・対話を経た登場人物の成長」という一連のルーチンは、今作「ペルソナ4」に限らず、シリーズ初作の「女神異聞録ペルソナ」の頃から脈々と受け継がれてきた「ペルソナシリーズの根幹」を成す要素と言ってもいい。

女神異聞録ペルソナ

シリーズ第1作ということもあり、己の影との対決に関する一連のルーチンはまだ確立されていないが、それ故にゲーム本編とコミカライズ版の両方で、ルーチンによって定型化した後作とは一味違う様々な形での影との関わりが描かれている。

まず、本作ヒロインである園村麻希の影たち。プレイヤーは、話が進むと共に彼女の様々な影と遭遇する事になる。
その中でも特に捻じれた存在なのが、実質的なヒロインで、パーティメンバーでもある「理想の園村麻希」。
明るく元気で優しく社交的でみんなの人気者という、一見すれば影のイメージから最もかけ離れた存在であるが、彼女が生み出された理由は、本体の現実逃避願望と強烈な自己否定の裏返しである。
永く孤独な入院生活で心身を蝕まれた彼女にとって、今の自分こそが「こうありたくない人物像」そのものであり、願望が盛り込まれた偶像の自分と箱庭の世界を妄想する事で、アイデンティティをかろうじて守っていた。
妄想の御影町は麻希が人気者である反面、彼女にとっての憧れである学園生活の象徴である御影町西部が「楽園サイド」、自分が現実に過ごしている病院が陰鬱な「マナの城」に変わり雰囲気も重苦しい「廃墟サイド」に変化している「歪んだ箱庭」であり、親友の香西千里と憧れていた内藤陽介だけは妄想の産物ではなく本物を強制的に引き込むなど、現実への干渉力が強まるにつれて無意識の自己中心性も加速していく。
そんな色んな意味で痛々しい箱庭世界の管理者、自分の妄想を客観視して憐れむ「影の影」が「白い子供」こと「まい」であり、客観的で悲観的な「まい」と対になる幼児性の衝動が己に与えられた職分を超えて具現した「影の影の影」が「黒い少女」こと「あき」である。
こう書くと殆どコントの様にも見えるが、「心の影は一つとは限らず、また心の変遷とともに次々生まれ来るものである」という暗示は、次作で語られる「影との戦いに終わりはない」という真実の一面を示唆している。
まいが立て籠もる場所がお菓子の家で、否定されると行使してくるのがテディベアという所は「ファンシーな物」で女の子らしさを表現し、あきが行使してくるテッソは「メカっぽい物」で男の子っぽさを表現しているなど、心の影達が行使するもの一つとっても男女の性差を表現するなど興味深い部分もある。
セベク編の中盤で主人公たちは「まい」と対面する事になるが、この時の「まい」の問いかけにどう答えるかが物語の鍵となり、その結果迎えるバッドエンドでは「まい」は残酷な一面も垣間見せる。
それら全ての底に潜んでいたのが、人と世界そのものへの憎悪と怨嗟を凝縮した最悪の「影」である「パンドラ」であり、彼女が本作の表ルートとも言うべきセベク編のラスボスとなる。ただ、パンドラを打倒し受け入れる際に「理想の麻希」が彼女へ示した感情はゲーム・コミカライズ共に己の闇を認める「寛容」ではなく、「貴女がいてくれたからこそ私は『私』として在れた」という、影への「感謝」であった。

そして、セベク編ではアラヤの岩戸で一人でゲーム「グルーヴ・オン・ファイト」に興じる主人公の影と邂逅し、これまでに選んだ選択肢により各キャラクターの専用ペルソナを召喚する為の媒体「封神具」を手に入れる事ができる。
彼には敵意も悪意もなく、「ここでゲームしている方がいい」と主人公の存在を認め助力してくれるため、「影」というイメージは比較的薄い。
意外と選択肢を選び間違え手にできない事が多かったので、最初からやり直すプレイヤーも意外に多かったとか。

また、上田信舟による漫画版のオリジナルキャラ・藤堂和也(主人公・藤堂尚也の幼い頃に事故死した双子の兄)も、ある意味尚也の影と見て取れる。
尚也に良く似た姿を取り、尚也同様ペルソナを使い、また尚也への殺意を隠そうともしないが、彼は和也そのものではなく、「幼い頃に和也が事故死したのは自分のせいだ」「僕ではなく和也が生きていた方が良かった」と無意識に考える心により生み出された、尚也への「敵意」のペルソナであり、麻希の影の一面・あきにより忘却界から現れた。
最終的には「和也」はあきに忘却界に沈められかけるも、尚也自身の自分自身と向き合う決意により、尚也に受け入れられた。

ペルソナ2

罪罰で1つの作品となる両作は、「「影」との対決・対話を経た登場人物の成長」というルーチンが確立され、強調されることとなる。

たとえば―
「ペルソナ2罪」における「影」は、「事件の陰に暗躍しているのは5人組のテロリスト」という街の人々の噂と、その相殺のために流した噂とが衝突した結果生み出された「偽者」であり、それぞれが「仮面党の新たな幹部」という設定に基づいた自立的な意思を持って様々な行動を取るが、その性格・人物像は「こう在りたくない自分」、というところで共通している。
「影」であると同時に「偽者」でもあるという少々複雑な事情からか、本体が相対した場合は、受け入れず否定したまま倒す事も可能である。(もっともそれが後の悲劇の遠因であったことを考えると、この抜け道自体が黒幕の罠の一環であった可能性も高い)
一方で、本体がいないところで他者が彼らを否定し打ち倒した場合は、本体が廃人化するという特性も持っている。
また、登場人物のうち、「ジョーカー」を名乗り登場人物達と敵対する立場を取っていた黒須淳にだけは「影」が存在しなかったが、彼の場合、ニャルラトホテプに操られて成っていた「ジョーカー」こそが彼の「影」と見る説もある(彼の場合はニャルラトホテプの囁きに耳を貸し、「ジョーカーは天使のような人物」という街の人々の噂と合わさり「エンジェルジョーカー」と呼ばれる異形の姿に変化するが、それも淳の「影」としての反動の側面と見て取れ、ある意味「4」の影の原型と言える)。
「ペルソナ2罰」における「影」は、普遍的無意識の暗部たるニャルラトホテプが戯れに生み出したものであり、物語終盤、それぞれの人物のトラウマや内に眠らせていた感情を暴露し、揺さぶってくる。

両作どちらにおいても、「リバースペルソナ」と俗称される「パーティーメンバーの固有ペルソナとほぼ同性能・同形状のペルソナ」を降魔させているのが特徴。
また、あくまで己の抑圧された願望を叫ぶだけであったP4の影との大きな違いとして、こちらは客観的な視点から本体の非をも指摘・糾弾してくるという点が挙げられる。
これはP2における影の登場が、ゲーム中盤~終盤である事と無関係ではない。
つまり、絆を手に入れて精神的に成長し、周囲の想いや己の行動を客観的に顧みれるようになったからこそ生まれる負い目が、影の形を取って本体を苛むのである。
P4の影が「抑圧された願望や劣等感」だとするならば、自らの本体に犯した過ちの認知と清算を迫るP2の影は、タイトルが示す通りに、彼らの「罪の意識」或いは「自罰感情」の具現とも言える。
また、P2の影は本体の関係者を積極的に巻き込んでくる。関係を築き上げた後に影が登場する事も相まり、巻き込まれた者たちもまた、親しい者の影を受け入れられるか否かを試されることになる。P2における影の試練は本体だけの問題ではなく、その場にいる者全てが試される試練なのである。

その他、両作においては、人々の狂騒が具現化して生まれたダンジョンにおいて、登場人物の恐怖心・罪悪感がその対象である他人の姿を形どって現れる「メタル化した人物」や、「穢れ」であるJOKERに取り憑かれ襲い掛かってくる「JOKER化した人物」等々、「影」の拡大解釈から生まれた変異種も多い。
その中で特に象徴的なのが、罰で「穢れ≒罪≒影」を抜き取られ、己の全てを認め肯定するようになった通称「レッポジ人間」たちである。
「人の心から影を取り去れば、純真無垢で前向きな理想の人類が生まれる」という「無原罪」の思想に基づいて生み出されたこの人々は、己に一切の疑問や後悔を持たなくなり、虐殺すらも全き善意で行える存在と化していた。
心から影をなくすとは、全面的な自己肯定により「アンチテーゼが失われる」こと、即ちタブーや内省という概念がなくなることを示す。
「影には影としての、人の心を人たらしめるうえでの役割がある」というメッセージを逆説の形で表した彼らの口癖は「レッツ・ポジティブ・シンキング」。主人公のそれと同じなのは、悪意と嘲笑に満ちた黒幕が込めた最大級の皮肉だろう。

ペルソナ3

1・2から雰囲気・システムを大きく一新しシリーズの大きな転換点となったこの一作においては、影という存在は表面的に大きく取り扱われている訳ではない。
今作より主人公達の敵として設定されたシャドウは元々人間の心に巣食う存在ではあるが、その事実が判明するのは物語が後半に差し掛かってからであり、
作中の大半の期間では「人々を影時間へと引きずりこむ人類の敵」としか認識されず、1・2にて明示された「影との戦い」という命題からは遠ざかったようにも思える。
しかし、これは3においては登場人物が葛藤する局面が戦いの非日常ではなく普段の学校生活を送る日常の中で強く描かれている為であり、形は変われど影との戦いは健在と言える。

たとえば―
3に登場するペルソナ使いであり、主人公の仲間の一人である伊織順平は、主人公への強い嫉妬から一時期かなり突っかかった言動を繰り返すようになるが、これは順平が抱える特別なものを持たないこと、家庭環境の不和からくる「自己肯定力の低さ、無力感」に由来している。
彼は特別課外活動部に入った折、ペルソナ使いという「自分だけの特別な力」を手にしたことで張り切っていたものの、彼より一足先にペルソナ能力に開花し、更には複数のペルソナを使いこなし入部間もなく課外活動部の中心となった主人公に大きな差を見せ付けられることとなる。
それは順平にとって「特別な力を手に入れても、特別な力を持つもの同士の中では自分は平凡な存在に過ぎない」という残酷な事実を突きつけられたことに他ならず、「特別でも何でもない自分」という認め難い影を認識させた主人公に対し激しい敵意と嫉妬を抱かせるには十分な出来事だったのだ。
3の作中では、このように他者と他者の関わりの中で登場人物が自己の弱さ、醜さを突きつけられ葛藤、衝突する場面が多く、それらはシリーズを振り返った際に「特別課外活動部は他シリーズのPTグループと比べてギスギスしている事が多い」と評価される一因にもなっていると言える。

3における「影との戦い」とはこうした「他者との関わりの中」で垣間見る自己の未熟さ、醜さに他ならず、
同時にシリーズの中で最も「ありふれた現実」の中で影と向き合う物語であるとも言い換えられる。
そもそも課外活動部が結成され、主人公達が集められた理由は究極的には桐条家が引き起こした
大規模な実験事故の尻ぬぐいの為であり、4の自称特別捜査隊、5の心の怪盗団のような強い志、正義感で戦いに身を投じている訳ではない。
それが何を意味するかと言えば、特別課外活動部で主人公達が過ごす活動期間の大半は強いモチベーションがあるわけでもない
ただのルーティンワークに過ぎず、ペルソナ使い達が内に秘めた抑圧や葛藤を解消・代替する手段にはなり得ないのだ。
それを裏付けるように、3における仲間達の多くは主人公の与り知らぬそれぞれの日常の中で
自分達だけの関わり、絆を手に己を乗り越える中でペルソナを覚醒させている。
主人公=プレイヤーが関与せずとも、登場人物達の人生は進んでいくし、その日々の中で人と関わっては己を見つめ直し、成長していく。
それはゲーム外に生きる我々と同じ、他愛のない日常の営みの中で行われるものだ。
影の試練とは常に劇的で特別なものではなく、寧ろ日常のありふれた場面で度々向き合うものであるが、3はそれを如実に示していると言える。

関連項目

最終更新:2021年12月23日 07:33