諸外国では年間売上の4割を占めるというクリスマス商戦も、某低信用者向融資問題の破綻をきっかけとした世界的金融危機のおかげで恐ろしいほど失速し、それはこの国においても例外ではなく、暖冬と言われる昨今において厳しい冬を迎えようとしている。
労働者においてはもちろんだが、しかし高校生の俺にとってもそれは他人事ではなく、差し当たってもういくつか寝た後に貰えると予測している年始恒例行事、つまりはお年玉にまで響いてくるとなると正直他人事では済まされない。
景気がいい事に越したことはない、持ち直して欲しいものだ。少なくとも、俺が就職するくらいまでには。
とまあ、偉そうに世界情勢に憂いをかけてはみたものの、我らがSOS団の面子にそんなことに気をかける奴が一人としているはずも無く、俺以上にのほほんとその日暮らしの生活を送っていやがる。そう言う意味では俺が一番現実主義かもな。
ま、他の団員も俺と同じく高校生なんだし、そんな事いちいち気にかけられないっちゃそのとおりなんだが……でもな、宇宙人未来人超能力者と揃い踏みなんだし、少しくらいこの不景気を吹き飛ばす努力をしてみてみ良いんじゃないだろうか。
ああ、分かってる、単なる愚痴だ。ここにいる面子は、例え世界恐慌よりも涼宮恐慌の方がよっぱど重要視しているだろうからな。
どうせ長門は『観察対象外』とか称して何もしないだろうし、古泉は『涼宮さんの望んでたことですから』とでも言って自ずからアクションを起こそうとはしないだろう。
朝比奈さんに至っては元々期待していないが、せめて商店街の客引きくらいして売上に貢献してみたりするといいんじゃなと妄想したりもするが……いや、やっぱり可愛そうだ。止めておこう。
そしてそして。更に厄介な存在がもう一人。言うまでもなく団内絶対権力者、涼宮ハルヒだ。
ハルヒは不景気など石ころ帽子を被ったの○太くん並の存在であるらしく、我が団の経済情勢も芳しくないというのにクリスマスパーティに向けてやたらと散財しやがった。
『不景気な時にこそお金を使わないでどうするのよ。使わず貯めるから流通が減って、結局悪循環になるんじゃない。金は天下の回りモノって言葉、あれは的を得ているわ』
とはハルヒの談であるが、だからと言ってモノホンのトナカイの角やモノホンのもみの木を買ってくることは無いぞ。お金をかけるならもっと実用的なところにかけて欲しいものだ。個人的には朝比奈さんのサンタ衣装を新調することを強くお奨めしたい。
口に出しては言えないが。
さて、そんなこんなで2回目のSOS団主催のクリスマスパーティーは滞りなく終了し、その数日後に行われた大掃除も何とか片付け、年内の活動はこれで終了を迎えた。
今年は朝比奈さんが受験生ということもあり、冬休みの行事は元旦に行われる初詣を除いて自重することになった。『万が一にでも受験に失敗しちゃったら責任取れないもんね』と至って正常な意見がハルヒの口から出たのには驚いた。
しかし、久しぶりに長期的休暇を取れそうだ。おこたでぬくぬくと過ごせるぜ。
え? 何故かだと?
考えてもみるがいい。ハルヒ絡みのイベントが減ると言うことは、即ち俺の安息が約束されたも同然だ。
去年のように鮮烈強烈なアメフト熱狂男にラブコールを受けることもなければ長門がぶったおれたりシャミセンのクローンが現れるような冬山合宿に参加することもない。
このときばかりはハルヒの英断に敬意を送りたいと思ったね。
平凡な日常、バンザイ。
――の、はずだったのだが。
「ほら、また間違えてる! 仮定法過去だからそこはisじゃなくてwereになるの! 何度も何度も言わせないで下さい!」
――俺は今、何をしているのだろう? 分かる人がいたら教えて欲しい。
「分かるも何も文法の基本でしょ、基本。ったく、何でこんな簡単な問題が分からないのかしら?」
――どうしてまた、こんなことになってしまったのだろうか?
「どうしてって、あなたが悪いんですよ。あなたが。普段からちゃんと勉強しないからこんな目にあうんですから。自業自得ですね。さあ、あと20ページ、頑張って訳してください」
――不勤勉なことは認めるが、しかしだからと言って何故こいつと一緒に勉強しなければいけないんだ?
「あたしだってイヤですよ。本来なら家に帰っておこたに入って、紅白でも見ながら年越しお蕎麦を食べる年越しを予想していたのに……」
――イヤなら帰ってくれ。その方が俺も助かる。
「ダメです! このままじゃ佐々木さんに合わせる顔がないのです! 少しでも佐々木さんのためになるように、あなたの学力を上げる必要があるのです! それが叶うまで、あたしはここに居座りつづけますから!」
はあ、と溜息一つついて、俺は正面に居座る栗色のツインテール……橘京子から視線を落とし、がくっと項垂れたのであった。
何でこんなことになったのか、少し時間を戻して考えてみようじゃないか。
………
……
…
ことの始まりは、ハッピーニューイヤーまであと20時間を切った師走の早朝まで遡る。
今年の団活納めは既に終了したことは先にも言ったとおりであり、残すは今年最後の課題――自分の部屋でゴロゴロとして本を読んだりゲームをしたりするという、とても重要な任務が待ち構えていた。
幸いなことに、両親と妹は実家の田舎へと里帰り中である。何でも両親の知り合いの具合が宜しくないとの事で、そのお見舞いだとか看病をするためこの時期の帰省となったらしい。妹は何にも考えずついていっているだけだろうが。
つまりこの家に残っているのは俺一人。俺もついて行こうと思えば可能だったのだろうが、しかし両親は俺に留守番を命じた。と同時に両親は俺に仕事をするよう命じたのだ。
仕事内容は特別なものでもない。年末年始、どこの家庭でも行うような内容ばっかりだ。例えば各部屋の掃除とか洗濯とか、鏡餅やら注連縄やらを既定の場所にセットすることやら、年越し蕎麦を茹でて食べる事やら……
なるほどね。忙しないこの時期、数多ある仕事をこなせってわけだ。俺一人で。
しかし考えようによっちゃ好都合。俺は元旦には初詣にいかないといけないし、何よりごろごろしたい。仕事は少々めんどくさいが、一気に片付ければ何てことはないだろう。この条件は決して悪くない。
団活も口うるさい母親も妹もいないとなれば、これ以上自由気ままな時など今後見られないかもしれない。
「やれやれ。今年の年末は本当にのんびりできそうだ」
つい口元が緩んでしまう俺を、誰が責められようか。さて、先ずは二度寝だ……
『ピンポーン』
玄関のチャイムが鳴り響いた。
ちっ、せっかくゴロゴロしようと思ったのに……
妹がいればわれ先にと玄関まで駆けつけるのだが、いないものは仕方あるまい。俺は不承不承ながらもスウェット姿のまま玄関へと赴いた。
しかし、誰だろう? 年賀状の配達には一日ほど早いし、お歳暮にしては遅すぎる。まさかあわてんぼうならぬ時間にルーズなサンタクロースが今ごろやってきたとでも言うのだろうか?
そんなどうでもいいことを考えながらもドアを開け――
「こんにちわ。あたし……」
――お引き取りください。
ガチャン、とドアを閉めた。めでたしめでたし。
『ちょ……ちょっと、開けてください!』
ガンガンと扉を叩く。近所迷惑だ、止めろ。
『開けてください! まずはお話だけでも!』
怪しい訪問販売員みたいなセリフを吐く。しょうがないな、一言聞くだけだぞ。終わったらさっさと帰りやがれ。
「ふう……ご協力感謝致します。それでは要件を仰いますね」コホンとそれらしく咳を一つ。「こちらの家のハウスキーパーとして雇われました、橘京子と申します。どうぞよろしくお願いします」
「……は?」
耳を疑ったね。
はうすきーぱー? なんだそれは? 直訳すると家の番人だ。なんだかカッコイイ名前だなおい。
察するに、家の前に立って災厄疫病火事親父ストーカー痴女その他諸々の危険因子を死闘を繰り広げる女闘士か。うんうん、気に入った。よし採用。家の前を見張っとけ、犯罪にならない程度に頑張れ。まかり間違っても誰かを誘拐するんじゃないぞ。
「そんなことするわけ無いじゃない。それにハウスキーパーってのは家の中の家事全般を担う女性使用人のことです。お手伝いさんですね」
…………
「はあっ?」
「だから、お手伝いさん。メイドといったほうがしっくりくるかしら? あなたの親御さんに頼まれて派遣されてきたんです」
ホワイ。何故?
「何故って言われても、そう言う契約だから。それじゃよろしくお願いします」
可愛げ成分がたっぷり詰った笑顔をこちらに見せた後、ぺコリと頭を下げた。
ツインテールがふわっと巻き上がったのが印象的だった。
さて。
このあまりに意味不明で支離滅裂な展開。再三説明を促した橘の弁によれば、どうやらうちの母親が原因らしい。
年の瀬の忙しい折、自分の家でもやることは両手で抱えきれないほどあるというのに、こんな時に実家に帰らなければいけないと嘆いたその時、あるハウスキーパーの広告が目に入ったのだという。
親切丁寧でネットでの口コミも上々。おまけに冬季のみの特別キャンペーンとやらで非常に価格が安かったのが決めてとなり、この話に飛びついたのだという。
両親も急いでいたらしく、俺に報告するのを忘れたからそちらから事情を話してちょうだい、と橘は伝言を頼まれたらしい。
「更に今回は、子供の冬休みの宿題をきちんとこなすよう冬の家庭教師もサービスで提供中なのです。そうそう、親御さんが嘆いていましたよ。成績がまた落ちているから指導よろしくお願いしますって」
……なるほど、俺がこの家に残ると言ったのをあっさり承認したのはそう言う理由もあったのか。くそ、まんまと1杯喰わされた。
「言っておきますが、正規の派遣会社ですからね。『組織』の力を使って、あたしがこの家に派遣されるように工作したのは事実ですが」
「何が目的だ、橘」
俺の言葉に一瞬訝しげな顔をした橘は、
「別に、ただ単にそう言う仕事を受け持っただけですよ」
あざとい目つきで俺を見つめる。こいつのことだからまたよからぬ企みをしているに違いない。少しでも妙な素振りを見せたら大声を張り上げるからな。
「それは勘弁願いたいですね。ですが先ほど言ったとおり、ハウスキーパーと家庭教師の仕事をしにきただけなのです。それ以上でも、それ以下でもありませんが……でも成績が下がったことに関してはあたしも心配してます」
お前に心配される筋合いは無いぜ。
虚勢を張った俺の返答に対し、栗色の少女はクスッと笑い出した。
「本気でそう思っているの? 今の成績のままじゃ、あなたは間違いなく塾に放り込まれるわ。来年早々にでも。そうしたら涼宮さんの活動を支えることができなくなるでしょう。終いには涼宮さんの機嫌だって悪化するかもよ」
お前がハルヒの機嫌を心配しているとは驚きだ。もしかして『機関』に鞍替えしたのか? 古泉はそんなことを言ってなかったが。
「彼女の力を暴走させ、世界を塗り替えることを良しとしないのはあたし達だって同じです。ただその能力の在り方で敵対視しているだけですから。前にも申し上げた通り、自覚なしに暴走する力と、自覚はあれど暴走しない力、どちらがいいかお分かりでしょ?」
その話は前回で終わったはずだ。お前達は信用できないから強力できないと言ったはずだぜ。もしかしてお前が派遣された理由は宗教じみたその説法を説きに来たとでも言うのか?
「宗教じみた、というところが若干引っかかりますが、あなたを説得するために遣わされたというのは確かです。しかし、他にも重要な目的があります。その一つは、何度も言いますけどあなたの成績を上げることです」
何度も言うがお前の知ったことじゃねえ。
「いいえ。大いに知ったことです。涼宮さんの機嫌を損ねないことも重要ですが、重要なのはあなたが佐々木さんと同じ大学にいけるように仕向けること。それが最大の目的であり、あたし達の望みでもあるのです」
何故俺があいつと同じ大学に行かなければいけない?
「あなたと涼宮さんが同じ高校に行ったせいで、『機関』の勢力がより活発になり、あたし達は遅れをとってしまいました。これに対抗するにはあなたが佐々木さんと同じ大学に行くこと。そのためにはあなたの学力を上げないことには……」
「こらこら、待て」俺は橘の話を遮った。「結局お前らの都合じゃないか。そのために俺は自分の進路を変えろというのか!?」
「そこまで言いませんよ。自分の専攻されたい学科や学部に入っていただければ。でも同じ大学の方が色々と助かるんですよ。あたし達も……そして佐々木さんも」
含みのある笑いを浮かべた橘は、
「きっと佐々木さんだってあなたと同じ大学に行きたいと願っているはずです」
俺は認めん。
「ふふふ、まあそう言うことにしておきましょう」だからその嫌みな笑い方は止めろ。「それはともかく、今から勉強をしますよ。どうせ冬休みの課題、まだ片付けてないんでしょ?」
俺の忠告をいとも簡単に受け流し、やたらと可愛いげな笑みを見せた橘はそう言って俺の家に上がりこんでいった。前面に押し出した拒否の姿勢などまるで無視して。
――やれやれ。
…
……
………
そんなこんなで勝手にずかずかと俺の部屋まで上がっていった挙句、部屋の中に入り込んで、なぜだか知らないがこいつ指導の下冬休みの課題を始めることとなり、苦手とする英語の文法間違いを指摘されるところでようやくもとの時間軸に戻る。
「本当に居座る気かお前は」
「そうですね……うん、そうしようかしら」
おい。
「泊り込みでも構いませんよ、って仰っていましたし。むしろちゃんと勉強をみてやってくださいとも言われてますし」
だから待て。
「ああ、金銭的な事に関しては大丈夫です。あたしの生活費用は、報酬から差し引いておきますので。気にしないで下さい」
「そんなことは誰も聞いていない。俺が気にしているのはそんなことじゃなくてだな……いいか、良く考えろ。この家には俺しかいないんだぞ。そんな中、お前は住み込みで働こうと考えているのか?」
「あら?」頬杖をついたまま、目を細めた。「あたしと二人っきりになるのがそんなに嫌なの?」
お前を迎え入れるくらいなら古泉のとびっきりの笑顔を目先5cmで振りまかれた方がまだマシだ。それにいい年した男女が二人っきりで過ごすって言う意味の危険性を知らんのかお前は。
「ああ」ポンと手を叩いて「そんなに欲求不満なの? そっか。色々と過敏なお年頃だし、むやみやたらとそう言うシチュエーションに憧れるってのもよーっくわかるわ。」
な……何言ってんだこいつは?
「こんな美少女がお泊りするんだもん。ムラムラくるのは仕方ないわよね」
自分で言うな、自分で。「自称『美少女』の9割はブスなんだわかったか」と叫びたいのだが、悲しいかなこいつは残り1割に当てはまってると言わざるを得ない部分もあるわけで……もの凄く悔しい。
「それにあなた、まだあの時のことを根に持っているみたいだし、下手なことしたらあたし廻されちゃうかも」
なんと言うことをしれっと言い出すんだこの女は!? 俺がそこまで節操のない人間だとでも言いたいのか?
「止めてって叫んでも、いきり立ったソレが何回も何回もあたしの身に襲い掛かって……ああっ! 橘京子、貞操の危機だわ!!」
「ふざけるな!」
流石に叫んだ。
「俺はそんな事しねえよ! いくら憎き誘拐犯だとしても、人道外れた仕打ちなぞするもんか!」
その時、橘の目がさらに細くなった。
「ふふふ、なら問題ないわね」
「あ……」
――俺はここに着てようやく、とんでもない間違いを犯したことに気付いた。何かしら言い返そうと必死で頭を巡らせるのだが、せいぜい前述のような呻きとも悲鳴ともつかぬ声をあげるだけで精一杯だった。
「それでは、不束者ですがよろしくお願い致します」
姿勢を正して綺麗にお辞儀をして。橘京子は舅と姑に挨拶をする婚約者のように振舞ったのだ。
こうして、俺の家にハウスキーパー兼家庭教師として雇われた橘京子は俺の家に居候することとなり、そしてこの居候が新たな火種を引き起こす鍵になることを、俺はこのとき予想だにしなかった。
「そう言えば今更だけど、この部屋汚いわね」
慣れない英作文に四苦八苦している最中、キョロキョロと辺りを見回していた橘がやおらそう言いはなった。
「悪かったな。これでも大掃除したんだ。埃や汚れの類は綺麗に落としている」
「汚いってのは、汚れているって意味じゃないわ。整理整頓ができてないって言いたいのよ。例えば本棚に雑多に置かれている本。種類とか大きさごとに分類して並べないから綺麗に見えないのよ。もう、しょうがないわね」
橘は俺の許可を得る事も無く、俺の本棚を勝手に整理し始めた。
「こら、やめろ!」
「まあまあ、コレくらいサービスでやってあげますよ。きちんと整理された場所で行うからこそ勉強ははかどるものなのよ。図書館で勉強するとはかどるのって、そう言う意味があるの」
いや、そんなことは聞いてない。そんな話はどうでもいい。
「分かったから、後は俺がやる。いいからお前はおとなしく座ってろって」
若干焦り気味の俺の言い回しをどう捉えたか、
「ふふふ、大丈夫よ。男の子だからこれくらい汚いのは普通かもしれないわ。別に恥ずかしいことじゃないわ。気にしないで」
だから、そういった意味じゃなくて!
「あなたも結構照れ屋さんなのね。そんなにきにしなくて良いのに……あら、本が挟まってる。大きさの違う本は一緒にしちゃダメだって。よいしょ」
ああっ! 見るな!!
俺の願いも空しく、橘は国語辞典に挟まっていたその本を取り出して
「……うわぁ」
俺が必死に隠していた……その、まあ。つまり男子高校生が興味津々な、そう言った系統の本を見て橘は顔を真っ赤にさせていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
暫くお互いに沈黙していた俺たちだったが、橘が突然、
「……男の子だもん、仕方ないよね……」
と自分自身をフォローするかのように俯いたままボソッと言い放ってその場を離れた。その本棚を整理整頓する気分を一気に削がれたらしい。
俺といえば、恥ずかしい気持ちもあるといえばあるのだが、それよりも正直ほっとした気持ちでいっぱいだ。実を言うと、この本棚には他にいくつか隠しているんだ。しかももっとマニアックなのをな。そっちがみつかったら本気で批難されかねん。
そう言った意味では助かったといってもいい。
「ご、ごめんなさい。こ、こっち、やりますね!」
と思ったのもつかの間。今度はオーディオコンポの横にあるCDを整理し始めた。
こらっ! そっちはそっちで!
「……きゃあ!!」
橘が何気なく取った白紙のCDケースの中身は、谷口から借りた如何わしい系統のDVDが隠されていて、そしてそれをみてまたこいつが悲鳴をあげて……
もう、本当に勘弁してくれ。
今度こそお地蔵様のように身動きせず、しかし努めて冷静に振舞っている。
「……おおお、おおお、男の子って、たた、大変ですよね……こここ、こここいう、ものののも、ひ、ひつ、必要、ででですから……」
訂正。
声がどもってるぞ。明らかに動揺している。それに全くフォローになってない。
「なあ、もうわかっただろ? 清掃業務はいいから」
「はい……」
未だ俯いたままの橘は、今度ばかりはおとなしく答えた。
「あの……他にやることはありませんか?」
げんなりとした表情もそこそこに、平静を取り戻した橘はキッとした目を俺に向けてきた。まるで今の失敗を挽回させてほしい、そう語るかのように。
「ないない、何もやらんでいい」
両親には適当にごまかしておくから、もう帰っていいぞ。のんびりと正月を暮らしたいんだよ俺は。
「ダメです。それではあたしのプライドが許しません。せめて一つでもこの家にとって役立つことをしなければ帰宅できないわ。お掃除、お洗濯、お買い物。何でも命じてください」
強引我儘な性格の割に、変なところで義理堅い奴。……ったく、しょうがないな……
「……あ、そうか。洗濯があったんだ」
思い出した。年末の大掃除と言うことで、衣類の他にカーテンやら毛布やらも洗っといてくれと頼まれていたんだ。それがまた大量にあるんだな、これが。
橘が来る前に第一陣は終わったが、それでもまだ残っている。あと最低2回は洗濯機にかけなければいけないだろう。
「そう言うわけだから、頼んだぜ」
「はーい、わかりましたぁ!」
拒否するかと思いきや、こいつは喜んで俺の提案を受け入れる橘。しめしめ。上手い事いった。
いくら洗濯機が使えるとはいえ、水場の仕事はこの時期キツいものがある。それを代行してくれるならこっちだって助かるってモンだ。珍しく人様の役に立ったと褒めてやる。
「それじゃ洗濯物の場所まで案内してください」
ああ、それなら下の風呂場の隣だ。今から下の階を掃除をするから、案内してやろう。
橘を洗濯置き場まで案内した後、彼女は『任せてください』と言って、懐から自分が持ってきた洗濯用具にて洗濯をし始めていた。曰く、『やっぱり洗濯板と石鹸を用いて手洗いが一番ですよね』とのことだ。
ワザワザ時間がかかることをする必要は無いのだが、本人がやりたいというのならば止めはしない。好きなだけやってくれ。
しかし……何故こいつは洗濯板など持参してきたのだ? 実は洗濯機が使えないとか。
わしゃわしゃと洗いものをしている橘を横目に、俺はダイニングへと戻って掃除機をかけ始めた。
「……ま、こんな大掃除もいいかもな」
一人で大掃除するよりは何人かで分担して掃除した方が楽だし、それに何となく楽しい。橘の真意は未だ見えてこないが、迷惑をかける気がないなら別段ほうっておいても……
「きゃあぁぁぁ!!!」
突然の悲鳴でクローゼットに閉まってあった皿がビリビリと揺れる。言うまでも無く橘の悲鳴だ。
おいおい、今度は何事だ?
慌てて洗濯置き場まで駆けつける。
「どうした!」
上着の袖とズボンの裾を捲り上げた橘は、桶と洗濯板を前にしてへたり込んでいる。手足は冷たそうに見えるが、対照的に顔は思いっきり紅潮していた。
「顔が赤いぞ。熱湯でも浴びたのか?」
「こここ、ここ、ここ……」
……?
「こ、こんなの、洗えません!」
指差す橘。顔は思いっきり背けられている。俺は思わず橘の指差す方向を見て。
「はあ……何かと思えば……」
くだらんことで声を上げるな。
俺はひょいとソレを拾い上げた。
「だ、だって……きゃっ!」
やたらと弱気な声を上げながら、俺が拾ったソレ――俺の下着――直視して、更に顔を紅くした。
世間では自分の親父の服と一緒に洗いたくないとか、箸でつまんで洗濯機に入れるという、親子愛に恵まれなかった娘達が横行していると聞いたことがあるが、お前もその一味だったとはな。かなり失望した。
「いえ、そ、そう言う意味じゃなくて! ……だって、こ、これ……」
未だ俺の下着と目を合わせようとしない橘。
お前はハウスキーパーなんだろ。それくらいちゃんとやったらどうなんだ?
「でも、男ものの下着には耐性が無くて……というか、この年で異性の下着を見て平静を保つ方が難しいですよ」
そうか? 朝比奈さんの着替え姿をたまに目撃するが、眼福ではあるがそれ以上のことは何も感じないが……
「それははっきり言って異常です! 考えても見てください。例えば、あなたが今あたしの穿いている下着を洗えって言われたら、平然と任務をこなせるのですか?」
そう言われれば、確かに色々やばいな。だが橘。俺に下着を洗って欲しいとは……かなりマニアックな趣味を持っているな。
「な……! ば、馬鹿ぁ!!」
べちゃっ!
「あれはたとえ話です! 変なこと想像しないで下さい!!」
……変な想像をさせる方が悪いんだろうが。
俺はそう思いながら、橘が投げつけた洗いかけのタオルを顔から剥がしていった。
「……もう、からかわないでください。いいですか。これはあなたが自分でやってください。あたしは女物の方を担当しますから」
はいはい、わかったよわかりましたよ。自分でやればいいんでしょうが。洗濯機を使わないから洗濯機に放り込むだけでいいしな。
しかし……ここまで好き嫌いのあるハウスキーパーってのも問題だぜ。頼むから次は仕事をちゃんとこなしてくれ。
「大丈夫です。今の件はちょっとしたトラブルです。いっつもいっつも選り好みしているわけじゃないのです」
本当か? なんか怪しい匂いがするぞ。
「……信用してませんね」
当然。
「――ふっ、わかりました。ならばあたしの腕を見せてあげましょう。実は橘京子、家事の中で一番得意なのがお料理なのです。江戸時代の大名に負けないくらいの絢爛豪華なおせち料理、作って差し上げましょう!」
言っておくが橘。お前がどんな料理を作っても構わないが、それらに懸かる経費は一切出さないからな。
「ええーっ!」
っ足り前だろうが。少しは常識ってもんを考えろ。
「考えてますよ! それくらい!」
だが常識を考える奴なら誘拐なんてしないはずだ。
「な!」
だってそうだろ? 一般人が人様を誘拐するわけがない。逆にいえば誘拐するような奴は変な女って事だよな。変といっても途方も無いことを言い出すハルヒやくどくど説明するのが好きな佐々木と違って一般常識がない。
「そ、そんなこと……」
一般常識が無いから相手の都合を考えずに自分の都合だけで事を進めやがる。お陰でいろんな人が迷惑を被っているんだよ。少しは長門や朝比奈さんみたいに……
「だから! あれは違います!」
突然の怒号が、棚の中にあった皿を響かせる。
橘は怒気の籠もった声を上げた……と言うより、荒げていた。
「あれはそんな意味でやったことじゃないんです! あたしは元よりあの計画に賛成していませんでした! 単に未来人に対する警告と警戒、そしてTEFIに対する牽制と牽引が……あ……その……ごめんなさい」
「ああ……」と俺。少し興奮気味だった彼女は何かを思い出したように突然しおらしくなり、突然のことでどう対応していいか分からない俺も否応なしに頷いてしまう。
「そんな過去の話はもうやめましょ。あなたはあの事件にいい思い出が無いでしょうけど、それはあたしだって同じ。反省はしているんです。おそらくもうあんな事しないから。安心して」
さーて、どうするかな。
「んん……! もうっ! わかりましたよ! 今から年末年始のお料理のお買い物に出かけます。あなたが好きなもの買っていいわ。それで許してくださいね。あ、もちろん経費等負担はかけさせませんから」
お……おい!
橘はぷくっとふくれた顔を一瞬にして萎め、愛らしい表情を振りまき、俺の腕を強引に掴んで玄関へと歩き出した。
「たっだいまー!」
やたらとハイテンションな声を上げながら自宅のドアを蹴破るかのように侵入した橘は、いそいそとパンプスを脱ぎ捨ててダイニングへと向かっていた。
「早く! 早く!」
急かせるな馬鹿野郎。大体俺に荷物全て持たせておいて何が早く早くだ。
「だって、レディーファーストでしょ?」
その前に、お前はこの家の使用人なんだからな。
「ぐむー。変なところにこだわっていると大きくなりませんよ」
やれやれ……
良くは分からないが、ハイテンション気分の橘はシンクの前に置いた数々の品を手に取り、そしてにこやかに『それじゃ今からお料理作りますから。待っててください』といってダイニングから俺を締め出した。
俺にしては珍しく『手伝ってやろうか』と声をかけたのだが、以外にも橘はその申し出を断った。曰く、『男子厨房に入らず、なのです』だそうだ。
洗濯板といい男ものの下着に耐性がないことといい、こいつはかなり古風な人間なのかもしれない。
とはいえ、橘の料理裁きは見事なものだった。さっきチラっとみただけだったが、包丁捌きはもちろん、食材ごとの下ごしらえも手際よくこなしている。この分では今日の夕食は期待できるかもしれない。
よしよし、そのままかんばってくれたまえ。お前が料理に精を出している間、俺はやることがない。
ならばしばらく部屋でゴロゴロすることにしよう。
「あー! いい忘れましたけど、数学の問題集10ページ分やってくださいね。できるまでご飯抜きですから!」
……ちっ、気付いていやがったか。
「……さん。……さん」
……ん? 何だ?
「いい加減起きてください」
ふぁ、とあくびを一発。そうか、そういえば寝ていたんだったな。よっこらしょと掛け声をかけて起き上がる。
「夕食、出来上がりましたよ。それにおせち料理も」
おお、もうそんな時間なのか。それじゃ早速頂くことにしようか。
「待って。まだです」
何でだよ。
「ちゃんと宿題終わらせましたか? 終わってなきゃご飯抜きですからね」
あれ、本気だったのかよ……
「当たり前です。あたしは家庭教師もかねているんですからね」
悪戯っぽく笑う彼女。ヒヨコさんのエプロン姿が妙に似合っている。
「ふ、あったり前だ」と俺。「ほら、見てみな」
バサッとノートを広げ、俺が寝る直前まで必死こいて解いた解答の数々を見せ付けてやる。
「わあ……すごいじゃない。まさか本当にやっちゃうとは思いませんでした。あなたのことだから途中でさじを投げだす方にかけていたんですが」
俺を馬鹿にするなよ。やる時にはやってやるさ。
「怠け者の節句働きってやつですね」
うるさい。
「ふふふ、それじゃ下りてきてくださいね。待ってますから」
2つに束ねた髪をピョコピョコ揺らしながら俺の部屋を出る橘。パタパタとスリッパの音を響かせながら階段を下る音が聞こえる。
……寝起きだったからだろうか、俺はなんとなく気が緩んでいた俺は変な想像をしていた。
ハルヒより無計画なところがあるが、でも悪意があるわけじゃない。
長門と違って万全ではないが、しかし愛嬌があるためどこか憎めない。
朝比奈さんほどグラマーではないが、決して不細工と言うわけではない。
少しドジで融通の効かないところもあるが、根は素直で優しい少女。その少女がエプロン姿で俺を起こしてくれて、しかもご飯まで用意してくれる。
――こういうのも悪くないな、ってね。
階段を下りてダイニングのドアを開く。そこには絢爛豪華とは言い難いが、しかし数々のおせち料理が慎ましやかにならんでいる。
黒豆、数の子、紅白かまぼこ、伊達巻、田作り、金団エトセトラエトセトラ……
「へへへー。全部手作りですからね。出来合いのものなんて買ってないのです。どうですか? うまそうでしょ」
ああ、お前が料理得意なんて、正直に驚くばかりだ。
「だから言ったでしょ。料理は得意なんですよ。これで年始の三が日は楽しめますね」
確かに、俺が一人で食べるには十分すぎるくらいの量だ。というか食べきれないぞこれは。
「大丈夫です。あたしも食べますから」
おい、お前年始も居座る気か?
「ええ。当然。ご両親が帰ってくるまでのお約束ですからね」
「おいおい……本気かよ。勘弁してくれ」
頭をがくっと項垂れ、ふうと溜息を一つ。
「ダメ……ですか?」
そこへ橘が顔を覗かせていた。うあ、いや……ダメってことはないが……
「本当ですか? すごく嫌そうな表情でしたから、帰ったほうがいいのかな、って思って」
「べ、別に迷惑さえかけなければ、いてもいいぞ」
「……うん、ありがとう」
決まり悪く言う俺に、満面の笑みを浮かべる橘。
何がうれしくて俺の家になんか住み着こうと思ったのかね、こいつは。
「さ、それじゃあお夕食を食べましょう。おせちは明日からですから、今日は別のものを食べますよ」
再びパタパタと厨房まで向かい、鍋にかけていた火をとめて、器に盛り付ける。
その様を後ろから見て、
「ああ、年越し蕎麦か」
「ええ、そうです。大晦日といえばやっぱりこれですよね。あたし蕎麦を打つの得意なんです。田舎のおばあちゃんに習ったことがあって、今じゃ一人で蕎麦粉から麺を打てるんですよ」
買い物袋の中に、灰のような色をした粉があることを思い出した。あれは蕎麦を打つためだったとはな。
「もしかして、帰ってきてからずっと麺うちをしていたのか?」
「えへへ、実はそうなんです。最初からやったから結構時間がかかっちゃって。もうすぐ12時ね」
ふと時計を見る。時間は11時45分。紅白などとっくに終わり、ゆく年くる年が始まる時間だ。ってか俺はそんな時間まで寝ていたのか?
「起きてくれてよかったです。蕎麦を食べずに年越しをしたくありませんものね」
だがお前、俺が勉強をしてなかったら食わさない気だったんだろうが。
俺の言葉に、橘はくすりと笑った。
「ふふふ、あれは冗談よ。勉強よりもあたしのお手製の蕎麦を食べて欲しいに決まってます」
屈託の無い笑顔に言葉が詰まった。
「おまちどうさまー。さ、どうぞ」
大き目の丼にこんもり入った蕎麦を、橘が静々と持ってくる。その表情は、元誘拐犯のレッテルをイレイズしてもいいくらい穏やかなものだった。
しかし。
「――あっ」
ツルリ。
何が原因かよく分からなかった。力が抜けたのか、躓いてバランスを崩したのか。あるいは指が熱くなって無意識的に動いたのかもしれない。
ともかく、橘の両手からするりと抜けたその丼は、重力と言う力によって自由落下を開始した。
自由落下する先に待つのはフローリング形式の床。これがゴムのような床だったら結果はもっと面白い方向へと向かっていったのだろうが、しかし現実はそんなに甘くは無い。
――ガッシャーン――
橘が持ってきた丼は、そのまま床で割れてしまった。
『あ……』
同時に声を上げた俺たち。しかし立ち直ったのは橘のほうが先だった。
「ご、ごめんなさい! すぐに片付けますね!」
しかし、一旦動揺すれば早々簡単に落ち着きを取り戻すことはできない。
「――っぅ!」
慌てて走ったためか、橘はダイニングにあるテーブルの四隅の一角に腰をぶつけてしまったようだ。
「あいたたたた……」
幸い怪我はなさそうだが、しかし第二の悲劇が更に追い討ちをかける。
――カラン――
――パリ―ン――
――ゴトン――
――カラカラカラ――
人間は痛い思いをするだけですむが、テーブルの上に置いてあったおせち料理はそうはいかない。
飛び散った汁と蕎麦の上に、おせち料理が飛び散るという、無残な光景が広まった。
「あ、はは……はは……」
先程まで整然とならんでいた伊達巻を手に取り、割れなかった皿に載せていく。
「あーあ、せっかくのおせちとお蕎麦が台無しね」
続いて金時。白魚のように透き通った手は、今や金時にまみれてぐちゃぐちゃである。
「ふふふ、ごめんなさい。本当のことを言うとね。あたしはあなたが思うような思慮の浅いい人間じゃないって事、みせつけるためにやってきたの。前回の一件のお詫びも兼ねてね。でも結局邪魔しに来ただけみたい。あははっ」
言葉こそおちゃらけているが、先程から一向に顔を上げる気配もなく、こぼれた料理と皿をひたすら片付けていく。
「こんなつもりじゃなかったのにね……なかなか上手くいかないようにできてるわね、ホント。あの時と一緒……あたしの意志とは別のところで誘拐が行われて、なのに責任者のあたしが悪者扱いで……ははは」
おい、橘……
「ああ、片付けならいいわよ。あたしが悪いんだから一人でやります。……ふう、でもせっかく汚名を返上しようと頑張ってきたのに、結局いいところ見せられなくて……っ」
橘……泣いているのか?
「そ、そんなわけ……うっ……ないでしょ? あたし……ぐっ……は、『組織』の幹部よ。……簡単に涙なんか見せるわけ……」
…………。
「そ、それより……今日の食べ物、なくなっちゃったわね……どうしようかしら。ああ、そうだ。出前頼みましょう。『組織』の経費に回しておくから。お詫びも兼ねて、好きなものをじゃんじゃん頼んで下さい」
……たく、どうして俺の周りにはこう言った面倒なやつしかいないんだ?
「橘、それをよこせ」
「……あっ」
深めの皿に入れていた、年越し蕎麦を引ったくった。前髪からちらりと覗く橘の顔は目を腫らせているようにも見えたが、そんなことはどうでもいい。
俺は黙ったまま、手にとった皿にある蕎麦を豪快に手づかみして口の中へ運んだ。
「ええっ! ちょ、ちょっと!!」
なおも無言で食べ続ける。
「そ、そんなもの食べないで!」
「うるへえ」
口に含んだまま喋る無礼をお許しいただきたい。が、このままでは仕方ないので口の中のものをゴクンと飲み込んで、
「俺の家では3分ルールってのがあってだな。落としたものでも3分以内なら食べていいんだ。もったいないだろうが」
「で、でも……」
「ここは今日俺が掃除したから綺麗なんだ。そっちの皿のも頂くぜ」
「あー! ちょっと!」
橘の皿にあったかまぼこを一切れ口の中に入れる。煮しめ、昆布巻きもそれに続く。
「よーし、次は……」
「ストォーップ!!」
4回目にして皿を大きく横へやって俺の攻撃を防ぐ。
「こんなものばっかり食べたらおなか壊すでしょうが!」
「いいんだよ」
「よくありません!」
「……お前が俺のために作ってくれた料理だろ? なら問題ないさ」
「……え?」
「お前が一生懸命作ってくれたんだ。なら俺にはそれを食べる義務がある。それが床にこぼれようと、泥まみれになろうともな。お前なりに礼儀を尽くしたんだから、それに答えるのが俺の礼儀ってもんだ」
「…………」
「それにこの蕎麦。床に落ちて少し冷えてしまったが、でも延びた麺のようにだらしなくなることもなく、しゃっきりと強いコシがある。これだけの麺はプロでもなかなかできないんじゃないかな」
依然として沈黙を続ける橘に、労いの言葉をかける。
「美味しかったぜ、ご馳走さん」
暫く沈黙していた彼女だが、しかし徐々に肩の震えが大きくなっていった。
「……ば、馬鹿」
なにぃ!? 人がせっかく褒めているのに馬鹿とはなんだ!
「馬鹿も馬鹿、大馬鹿よぉ!!」
始終俯き加減だった橘は突然顔を上げた。キッとした目から、大粒の涙を携えながら。
「本物の超大馬鹿よ、あなたなんかぁぁ!!!」
そう言って橘は突然俺に抱きついてきた。
「おい……ちょっと待て!」
「ううう……ばかぁ……ばかぁ……うわぁぁぁぁぁ!!!」
俺の胸元で豪快な泣き声を上げる橘。先程までは泣いているのを隠していたのだが、それも最早どこへやら。
俺はといえば突然のことに戸惑いつつも、高ぶった感情を鎮めるために、優しく抱きながら彼女が落ち着くのを待っていた。
ゴーン……ゴーン……ゴーン……
彼女の鳴き声がしなくなった、もしかして寝てしまったのかななどと考えていると、あたりから除夜の鐘が鳴り出していることに気がついた。
「橘、橘」
「……ん。なんですか?」
どうやら寝ては無かったらしい。
「ほら、除夜の鐘だ。聞こえるか」
ゴーン……
「あ、はい」
「橘。除夜の鐘って言うのは108回突くってのは知ってるだろ。あれは煩悩の数だとか節句の数だとか色々言われているが、以前の悪い行いを浄化するためにつくものなんだ」
お前も悔いのある行いもたくさんあったんだろう。俺も人のことは言えないが。だから、今から除夜の鐘を聞きに行くぞ。今から走ればまだ間に合う。
人間だから間違いだってある。取り返しがつくのなら、除夜の鐘を聞いて悔い改めればいい。お前も誘拐少女のレッテルを解消だって解消される。だから聞きにいこうぜ。
きょとんとした顔で俺の言葉を聞いていた橘だったが、素直に「わかりました」と言って立ち上がった。
「……あの」
どうした、橘。
「ありがとう」
今まで見たことの無いような笑顔を見せた。演技でもなんでもない、年頃の少女が見せる、純粋な笑みだった。
なんだ、そんないい笑顔もできるんだな。
「ふふふ、あなたがいるからよ」
意味不明の一言に一瞬ドキリとした。どうせ得意の表情の一つなんだろう。
「佐々木さんがあなたを頼りにしているわけ、ようやくわかりました。やっぱりあなたは必要な存在です」
……結局、その話の戻るのか。勘弁してくれ。
「うーん、でも困ったわね。このままじゃ佐々木さんと一悶着起きるわ。どうしようかしら。責任取ってくれる?」
何で俺が。
「ふふふふ……バーカ」
先程赤い目をして叫んでいた『馬鹿』とは大きく違い、柔和な物腰で彼女はそう言った。
「その時はその時よね。でも期待していますから」
やたらとうれしそうな橘は、
「さ、急ぎましょ。除夜の鐘が終わっちゃうわ。早く、案内してください!」
俺の腕にしがみついて走り出し、そして教壇の上で宣言するかのように声を上げた。
『あたし、キョンさんについて行きますから!』
――Fin.――