第6-26章.
(バガヴァッド・ギーター第二章)
サンジャヤは言った、「このように憐れみに取り付かれ、彼の目は涙で満たされ、圧迫され、落胆している彼に対して、マドゥの殺害者はこれらの言葉を言った」。
サンジャヤは言った、「このように憐れみに取り付かれ、彼の目は涙で満たされ、圧迫され、落胆している彼に対して、マドゥの殺害者はこれらの言葉を言った」。
アルジュナよ、このような危機に際して、高貴な生まれの者にふさわしくない、天から人を締め出し、悪名を生むようなこの落胆は、いつからあなたに生じたのか。クンティーの息子よ、女々しくなるな。これはあなたに似合わない。この卑劣な心の弱さを振り払い、立ち上がりなさい、敵の懲らしめ主よ--」。
アルジュナは言った、「マドゥの殺害者よ、いかにして私は矢でビーシュマとドローナを戦わせることができようか。敵の殺し屋、崇拝の殺し屋よ。 栄光の戒師たちを殺さなければ、この世では施しだけで生きていくのがよい。戒律者を殺せば、たとえ彼らが富に貪欲であったとしても、私は血に染まった快楽を享受するだけであろう! われわれには、われわれが彼らを征服するのか、彼らがわれわれを征服するのか、どちらが重要なのかわからない。生きていたくない者を殺すことで、彼ら、ドリタラーシュトラの息子でさえも、(私たちの)前に立ちはだかる。私の性質は慈悲の色に影響され、私の心は(私の)義務について不安定である、私はあなたに尋ねる。何が(私にとって)確実に良いことなのか、教えてください。私はあなたの弟子です。ああ、教えたまえ、私はあなたの助けを求める。 たとえ敵のいない地上の繁栄した王国や、神々の主権を手に入れたとしても、私の感覚を吹き飛ばすような私の悲しみを払拭するものが(私には)見えない。'"
サンジャヤは言った、「敵の懲らしめ手であるフリシケサにこう言った後、グダケサはもう一度ゴーヴィンダに言った、「私は戦わない」と。 落胆に打ちひしがれるゴーヴィンダに、フリシケーサは両軍の中で言った。
聖なる御方は言われた、『汝は悼むに値しない者を悼む。あなたはまた、(いわゆる)賢者の言葉を語る。しかし(本当に)賢い者は、死者のためにも生者のためにも悲しまない。それは、私やあなたや人間の支配者たちが、かつてそうでなかったということでも、私たちすべてが、今後そうならないということでもない。具現化された存在には、幼年期、青年期、老年期がこの肉体にあるように、別の肉体を得ることもある。賢明な人は、このことに決して惑わされない。 感覚と(それぞれの)対象との接触は、熱さと冷たさ、快感と苦痛を生み出す、
始まりと終わりがある。汝、耐えよ。バーラタよ、耐えなさい。人の中の強気な者よ、苦痛も喜びも同じであり、心が堅固である者は、解放に適している。 魂とは別個のものは(客観的に)存在せず、魂の美徳を持つものも存在しない。この両者に関する結論は、(物事の)真理を知る者たちによって到達されたものである。 魂は)不滅であり、それによってこの(宇宙の)すべてが浸透していることを知れ。不滅のものを滅ぼすことは出来ない。永遠にして不滅,無限である体(の魂)には,終わりがある。バラタよ、汝は戦え。魂を)殺すものだと思う者も、殺されるものだと思う者も、どちらも何も知らない。魂は生まれることもなく、死ぬこともない。生まれず、不変で、永遠であり、太古のものである。不滅であり、不変であり、朽ちることがないと知っている者が、いかにして、誰を殺し、殺させることができようか。人が着古した衣を脱ぎ捨てて新しい衣を着るように、体現者(魂)は着古した肉体を脱ぎ捨てて新しい肉体に入る。武器はそれを切り裂かず、火はそれを焼き尽くさず、水はそれを浸さず、風はそれを無駄にしない。切り裂かれることも、焼かれることも、浸されることも、干からびることもない。それは不変であり、すべてを貫き、安定し、堅固で、永遠である。それは不可知であり、不可解であり、不変であると言われる。それゆえ、それがそうであることを知りながら、(それを)嘆くことは、汝に相応しくない。仮令あなたがそれを,常に生まれ,また常に死んでいると考えたとしても,強靭な腕の持ち主よ,(それを)嘆き悲しむことはないであろう。生まれるものは,死が確実であり,死ぬものは,生が確実である。だからやむを得ないことで嘆くのは、汝に相応しくない。すべての存在は(誕生前は)顕現していない。バーラタよ、(誕生と死の間の)間だけ、彼らは顕現し、死が訪れると、彼らは(再び)顕現しなくなる。このことに何の悲しみがあろうか。ある者はこれを驚異として眺め、またある者はこれを驚異として語る。しかし、それを聞いた後でさえ、誰もそれを真に理解することはできない。バーラタよ、具現化された(魂)ものは、誰の身体においても不滅である。それゆえ、汝はすべての(それらの)被造物のために悲しんではならない。クシャトリヤにとって、正々堂々と戦う戦いほど素晴らしいものはないのだから。クシャトリヤにとって、正々堂々と戦う戦いに勝るものは他にないからである、
パルタよ、そのような戦いを得るクシャトリヤは幸福である。しかし、もし汝がそのような正々堂々とした戦いをしないならば、汝は汝の秩序と汝の名声の義務を放棄して罪を犯すであろう。その時、人々は汝の永遠の悪名を喧伝するであろう。尊敬される者にとって、悪名は死そのものよりも(悪として)大きい。偉大な戦士たちは皆、汝を恐れて戦いを避けたと見なし、汝を高く評価していた者たちは、汝を軽んじるだろう。汝の敵は、汝の武勇を非難し、言ってはならない多くの言葉を口にするだろう。これ以上の苦痛があろうか。殺されようとも、汝は天に至り、勝利しようとも、汝は地上を楽しむであろう。だから、クンティの子よ、戦いのために決起せよ。快楽と苦痛、利益と損失、勝利と敗北を等しいものと見なし、戦いのために戦いなさい。 汝に伝えられたこの知識は、サンキャ(体系)の中で説かれている。今、ヨーガ(の体系)で(教えられた)ことに耳を傾けなさい。その知識を得れば、パルタよ、汝は行為の束縛を捨てるであろう。これ(ヨーガの体系)においては、最初の試みさえも無駄にすることはない。何の障害もない。この敬虔さを少し持つだけで、大きな恐れから解放される。 クルーの子よ、この道にはただ一つの心の状態しかない。しかし、(このことに)しっかりと献身していない者の心は、多くの枝分かれした(定まらない)ものであり、終わりのない追求に執着している。無知な者、ヴェーダの言葉を喜ぶ者、他に何もないと言う者、世俗的な快楽に執着する者、(快楽と享楽の)天国を最高の取得の対象と見なす者、 --また、快楽と権力に執着する者たちの心は、(神的存在の)観想に向けられることはなく、それを解脱の唯一の手段と考える。 ヴェーダは三つの性質、すなわち宗教、利益、快楽に関係している。アルジュナよ、汝はこれらから自由であり、(快楽と苦痛、暑さと寒さなどの)相反するものの組に影響されず、新たな獲得やすでに獲得したものの保護に不安を抱くことなく、常に忍耐を堅持し、自己を確立せよ。
すべてのヴェーダによって提供されるかもしれないどのようなオブジェクトであっても、(自己または梵天の)知識を持つブラーフマナによってすべて持つことができるように。 汝の関心は仕事のみであり、(仕事の)果実にはない。果実を仕事の動機にしてはならない。ダーナンジャヤよ、汝は献身にとどまり、仕事に専念し、執着を捨て去り、成功しても失敗しても同じでありなさい。この平静をヨーガ(献身)という。ダーナンジャヤよ、(果実を求める)勤労は献身にはるかに劣る。汝は精進の守護を求めよ。果実のために働く者は惨めである。また、献身を持つ者は、この世においても、善行も悪行も捨て去る。それゆえ、汝は献身に専念せよ。献身とは、行為における賢さにすぎない。献身を持つ賢者は、行為によって生まれた果実を捨て去り、(繰り返される)生誕の義務から解放され、不幸のない領域に到達する。汝の心が迷妄の迷路を越えた時、汝は聞こえるものと聞こえるものに対する無関心に到達するであろう。 汝の心が、汝が聞いたこと(人生の多様な対象を得る手段)に(今は)気を取られているが、観想にしっかりと不動に固定されるとき、汝は献身に到達するであろう。
アルジュナは言った、「ケーサヴァよ、心が観想に固定されている人の徴候は何か。どのように話すべきか、どのように座るべきか、どのように動くべきか。
聖なる御方は言われた、「心の欲望をすべて捨て去り、自己の内に自己を満足させるとき、その人は心が安定していると言われる。災難の中で心が動揺せず、快楽への渇望がなくなり、(世俗的なものへの)執着、恐れ、怒りから解放された者を、心の安定したムニという。どこにいても愛情を持たず、快いもの、不快なもの、さまざまなものを得ても歓喜せず、嫌悪しない心の安定がある。亀が四肢を四方から引き離すように、(それらの)感覚の対象から感覚を引き離す時、その人も心が安定する。五感の対象は禁欲した人から退くが、(それらの対象への)情熱はそうではない。至高(の存在)を見た者からは、情熱さえも後退する。
至高の(存在)。 クンティの子よ、興奮する感覚は、それらから自分を遠ざけようと懸命に努力する賢者でさえも、心を無理やり引き離す。それらをすべて抑制し、私を唯一の拠り所として、観想に留まるべきである。なぜなら、感覚をコントロールできる心の安定があるからだ。感覚の対象を思い浮かべると、人はそれらに執着するようになる。執着から怒りが生じ、怒りから分別が失われ、分別が失われることから記憶が失われ、記憶が失われることから理解が失われ、理解が失われることから(人は)完全に破滅する。しかし、自制心のある人は、執着と嫌悪から解放された感覚を自らの支配下に置き、(感覚の)対象を楽しむことで、(心の)平安に到達する。心が平穏である者の心はすぐに安定するからである。 自制心のない者は、(自己の)観想を持たない。思索を持たない者は(心の)平安を持たない。 心の)平安を持たない者に、一体いつ幸福があろうか。なぜなら、(対象の間を)移動する感覚の後を追う心は、風が水の中で舟を破壊するように、その理解を破壊するからである。 それゆえ,慈悲深き御方よ,感覚を四方から束縛された者は,心が安定する。抑制された者は、全ての生き物が夜である時に目覚めており、他の生き物が目覚めている時も、分別のあるムニにとっては夜である。 すべての欲望の対象が入り込む者は、水が海に入り込むように、(絶えず補充されても)その水位は変わらない--(その者は)平安(の心)を得、欲望の対象を切望する者ではない。あらゆる欲望を捨てて動き回り、(享楽への)渇望から解放され、愛情もプライドもない者は、(心の)平安を得る。これである、
パルタよ、これが神の境地である。これに到達すれば、人は決して惑わされない。この境地に留まれば、人は死後、至高の自己に吸収される。