(投稿者:怨是/挿絵:suzukiさん thx!!)
「ハイ動かない!」
「むぐ――!」
間借りした更衣室の化粧台に座る。
まさか口紅を
メディシスが代わりに塗るとは思わなかった
スィルトネートは、唇のくすぐったさに堪えかねて、先ほどから身震いを何度か続けていた。
自分で唇を触るのとは事情が異なる。まるで口紅と軽いキスでも交わしているかのような心地になってしまうのだ。
メディシスは手馴れた手つきで何度かの地震をやりすごし、ひと仕事を終えた口紅に蓋をする。
「……まったく。騎士姫たる者が何たる体たらくですか。いつぞやの柱ゴッツンコといい、もう少し姫らしい振る舞いをなさいな」
「周囲がそう呼んでいるだけで、私自身は別にそういう……」
彼女は騎士道精神を標榜してはいる。故に“騎士姫”と呼ばれもする。しかし“姫”の部分は実のところ専門外であったのだ。
対するメディシスは担当官でもある
ユリアン・ジ・エントリヒ外相の手ほどきを受けている。
どうせなら“姫”の部分はメディシスにでもくれてやれば良いのだと、彼女は思うのであった。
「でしたらせめて騎士らしく、与えられた役目をクールにこなして見せてはいかが?」
しかし、それをメディシスが許す筈も無い。
相変わらず辛辣な、しかし、まるで扉の隙間に蛇を滑り込ませるかのように的確な指摘がスィルトネートの喉を押す。
せっかく引いてきた熱が再び彼女の耳を煩わせた。
「こなしてるよ! ――えっと……こ、こなしてます」
「よろしい。では、どのようにこなしているのかを簡潔に述べていただけませんこと? はい、どうぞ」
「えっと……国と我が王を守る為に戦っていたり、お勉強を毎日欠かさず三時間以上、それでいて政治にもきちんと参加して、それと……」
「他には」
他にはと訊かれても、返答に窮するほか無い。これだけでは充分ではないとしたら、一体何があるのか。
上下の口紅を堅くつぐみ、しばらく考え込む。それでも答えは見当たらず、ただ、ただ、脳裏で疑問符が珍妙な舞踊が繰り広げられるだけだった。
滅多な答え方をしてもきっとこの目の前の友人は満足してはくれないだろう。それを考えれば、余計に疑問符が活発に動き回るのである。
「それだけでは駄目ですか」
「34点」
「うわ、点数低ッ……」
「当たり前でしょう。これでは淑女失格ぎりぎりの境界線と云わざるを得ません。
今日び男子でも読書にはげみ、娯楽に興じ、他の仲間と情報交換を行いますわ。まさか生まれた性別を間違えたとか仰いませんよね?」
性別という単語が脳裏の記憶と言語野などを刺激し、スィルトネートの頭上に電球が浮かぶ。
姫がどうのというお説教よりも、よほどこちらのほうが面白いに違いない。
散々
プライドを傷つけられた仕返しに、ひとつ驚かしてやろうか。などと考えていると、自然と口の端に笑みが浮かんでいた。
「そういえば性別で思い出しましたけど」
「?」
数日前に亜人監視計画の一環でレクリエーションをこなしていた所、片割れのMAIDの性別が男であると判明した。
スルーズは相変わらず何も云わなかったが、落ち着き払った様子から察するに、おそらくは既にその事実を知っていたに違いない。
こちらのうろたえる様子を、あのシュバルツに報告して二人でほくそ笑んでいたに違いないのだ。
「亜人MAIDの片割れのカッツェルトっていう子。実は男の子でした」
「――ッ?!」
思いがけない事実に虚を突かれたメディシスは、蓋をしたばかりの口紅を床に転がり落とす。
慌てて拾おうとして髪が床に付きそうになっている事に気づき、そっと手を伸ばしていた。
しかし実にいい慌てぶりである。こういうやり取りのできる友人はそういない。
仕返しの成功にほくそ笑むスィルトネートは、鏡を見てあわてて表情を直す。
あの表情を見せてしまうと、またメディシスに手痛い反撃をされてしまう。
「そういう子もアリかなと思いますけどね。いいなぁ……お耳とか」
「とりあえず、そろそろスピーチのお時間ですけど。
ドルヒにまた嫌味を云われても知りませんわよ」
「……それは御免こうむりたいお話ですね。急ぎましょう」
同時刻。
ジークフリートは飾り付けを済ませ、未だに残る羞恥心の欠片と、喉の詰まりそうな複雑な感情とを胸中に忍ばせながら屋上で夜空を眺めていた。
思えばここまでの四年間に様々な出来事があった。その全てがセピア色に色褪せこそすれども、決して忘却へと押しやられる事は無い。
これは大事な記憶だから忘れるまいと、かつての教官である
ヴォルフ・フォン・シュナイダーに手渡された手記へと書き連ねてきた。
この時の彼女は彼の心中を察する事などできなかったが、それでも時おりこうして星を眺めながら思いを馳せる事はあった。
……
はじめに目覚めた時には、まだ傍らに彼が居なかった。
ブリュンヒルデによる戦闘技術教習を受け、彼女が機能を停止する数週間前のその時に、彼はようやく肩書きの上での教官として現れた。
MAIDとして目覚めて数ヶ月の月日を重ねてから出合った彼を、はじめのうちは恐怖していた。
「……教官」
それでも何度も命を救われ、あらゆる事を教わって行くうちに、いつしか周りと彼を見比べるようになっていた。
彼への恩返しをしたいという心が、いつしか恋心へと変わっていたという事実に気付かされるのに、さほど時間はかからなかった。
溜め込んだ感情はしかし、一発の拳によって拒絶される。昨年の10月半ばに受けた、片方だけの拳によって。
差し込み始めた光明は瞬く間に暗雲に遮られ、それが今も続いている。
間髪入れずに
シュヴェルテの死が報じられ、表向きの非難こそ気配を現さなかったものの、帝都栄光新聞の歪曲報道の影響は少なくない。
かの新聞の紙面には、ジークフリートが日ごろから愛用していた大剣バルムンクが深々と突き刺されたシュヴェルテの姿が、まじまじと写されていたのだ。
エントリヒ皇帝は“やはりジークは我が娘である”と歓喜した。
多くの国民は“裏切り者のシュヴェルテを打ち滅ぼした英雄”と称えた。
多くの軍人達は“素晴らしい偉業をいくつも成し遂げた、まさにMAIDの中のMAID”と持て囃した。
しかし、それがどうしたのか。ブリュンヒルデは遠い歳月の昔に生涯に幕を閉じ、ヴォルフ・フォン・シュナイダーも異国へ赴いて再び顔を合わせる事はない。
幾千匹ものGを倒し、それを表彰されたとしても、あまりに寡黙な彼がこちらに道を指し示す事など無いのだろう。
手を伸ばしたところであの星は決して掴む事めない。屋上のフェンスの上から飛び立つ事もままならない。
視線を下へと降ろせば、明かりの消えた路地がポッカリと口を開いていた。
黒々と塗り潰された路地を凝視し、星空へと再び視線を戻す。そしてまた視線を路地へと降ろす。
星空も、この路地も、夜にのみ現れる暗闇である事には違いは無い。それでも何故ここまで色が違うのか。
分厚い雲に覆われ、冷たい雨が降り注いでいるのなら、等しく黒いオーケストラへと世界を包むことができるのだろうか。
静かなる鉄拳に五臓六腑を潰される心地で、最後にもう一度視線を星空に戻す。
今日は膝を折って大地に両手を着いてしまおう。決意の炎に酒を注ぎ、明日の職務の為に心の刃を研いでおこう。
我武者羅に、ただGを倒していれば道が見えてくる。
誰も寄せ付けなければ、きっと誰も誰も不幸には巻き込まれない。
ジークフリートは、あの日からそれを信じて戦い続けてきた。
そうしている間に犠牲は積み重なり、その犠牲者達の屍の橋を渡ってきた事に気付いた時には、足元に広がる黒々とした光景に愕然とした。
多くの戦友が命を落としてさえ、その死を悲しむ者はごく僅かであったのだ。
そして、またしても犠牲は増えてしまう。
ディートリヒも、
ダリウス大隊と共に姿を消した。一方は逃亡し、一方は壊滅という形で。
何故、このような事が繰り返されねばならないのか。
「私が何をしたのですか……これも、罰だと仰るのですか。シュナイダー教官」
Gの登場はこの世界に人間同士の結束を促したのではなかったのか。
この戦いに敗北すれば人類の滅亡は免れられない。ジークフリートは戦友を――そして、できれば親友を求めていたのだ。
されどもMAID達の視線はいつしか冷ややかなものへと変わり、他の軍人達の熱を帯びた視線とが渦巻いて、台風を起こさんとしていた。
台風の目となるジークフリートの周囲には、分厚い壁が聳え立っている。
本来なら台風の目というものは晴れ渡っているものだが、決して晴れやかではなかった。
陽光は分厚い壁に遮られ、壁に耳を当てれば冷たい雨の降り注ぐ音が聞こえる。そんな胸中で毎日過ごしてきた。
夜明けの青い霧も彼女まで届くことは無い。
何が足りなかったのか。自分には一体、何が足りなかったのだろうか。
今夜開かれるパーティにも参加する気分にはなれない。
突き刺すような白さの視線が、きっと暴風雨がごとく降り注ぐに違いない。
どこで道を間違えてしまったのだろうか。
道を間違えねば、心の内側からあらゆるものが膨れ上がって破裂しそうになる事も無かったのではないか。
路地裏の沈黙を四分三十三秒ほど聴き入っている所に、少女の鼻歌がそれを後ろから切り裂く。
「――ッ!」
ぎょっとして振り向けば、そこには白と赤のワンピース姿のベルゼリアが散歩をしているようだった。
窮屈なパーティを抜け出して、涼むつもりでこの屋上まで来たのだろうか。
ぬいぐるみとバスケットを抱えながら夜風にその赤い長髪をたなびかせ、明日の行く末など何処吹く風と軽いステップを踏んでいる。
「Shining get for……ん。こんばんわ」
異国の歌なのか、単語に馴染みが無い。おそらく、ヴォルケン中将のお気に入りの曲ではないだろうか。
とにかくベルゼリアとはあまり会話も交わしていなかったが、きっと彼女もその幼心の奥底に義憤を抱え込んでいるに違いない。
ジークは恐る恐る、ベルゼリアに挨拶を試みる。口の端が痙攣し、喉の奥で言葉が大渋滞を起こす。
「ベルゼ、リア……」
「泣きそうになってる?」
頬骨に鈍痛を受けたあの日から、何度涙腺を枯らしてきたのだろう。
あまり泣き虫である事を周囲に広めたくないジークは、大渋滞を起こした喉から、何とかして言葉を一つ呟く。
「……そんな事、無い。夜風が目にしみただけ」
夜風が少しずつ冷え込むのを肌で感じ取りつつ、嘘とも真実ともつかない言葉をもうひとつひねり出した。
ベルゼリアはその夜風に乗ってこちらへ歩みを進めて来ている。邪気の無い視線が染み入るようで、ジークフリートは顔を逸らして拒絶の姿勢をとる。
何と咎められるのだろう。幼心より発せられる叱責というものは、何より純粋である。
物心を得て久しい者より発せられる叱責は、多くの場合は打算や自己愛で濁されるものだ。
得てして「私も人のことは云えないが」や「あなたも解っているとは思うけど」などと、多少のクッションが入る。
しかし、幼心は違う。真っ直ぐに尖らせて一撃の下に突き刺さんとしてくるのだ。
ジークフリートは右手で左肩を抱きながら確信する。この震えは、夜風の寒さだけではない。
「んー、じゃあこれ。ひとつだけあげる」
「林檎――?」
差し出されたバスケットの中身を覗き込めば、熟すか否かといった果実が月明かりに照らされ、赤のオーケストラを奏でていた。
思わずかぶりを振る。今の自分がこれを喉に通す資格など無い筈なのだ。今夜は余り物の質素な食事だけで充分だと、胸中で断じる。
俄かにベルゼリアの表情が曇る。後輩を傷つけるのは忍びないが、そう長くないうちに目の前の少女から叱責を受けると考えれば、安い犠牲ではないだろうか。
「んー……」
ベルゼリアのか細いうなり声が風に消え、長い沈黙が訪れる。
バスケットをあまり清潔ではないであろう屋上の床に置き、彼女は座り込んでぬいぐるみと睨めっこを始めていた。
その睨めっこがいつしか歩きながらのものへと変わり、そのうち、止まっては歩くという行為へと変わる。
どう続けるべきか思案しているようにも見えたが、ジークフリートにとってその時間の隙間は気休めにもならない。
言葉を何とかして紡ぐことを考えようといくら思い悩んでも、何も浮かんでこない。
耳を澄ませば、遠くからスピーチを読み上げるスィルトネートの声が聞こえてきていた。
最終更新:2009年02月14日 13:58