Chapter 8-1 : 放蛇の日

(投稿者:怨是)



 1944年7月12日。午後6時。
 本日、国防陸軍参謀本部が“軍事正常化委員会”として名乗りを挙げ、全国放送で黒々と塗り替えた国旗が掲げられた。
 エントリヒ国旗に込められた意味を否定し尽くすような色替えに、国中が震撼する。

 臙脂色が黒へ。
 あの臙脂色は、英霊達の流してきた鋼の血を意味していた。

 白が濃紺へ。
 あの白は、太陽の光に約束された、個人の確固たる正義を意味していた。

 黒の丸十字が真紅へ。
 あの黒い丸十字は、あらゆる色を取り込もうという寛大さを意味していた。


 皇室親衛隊の兵舎も数多の怒号で膨れ上がり、出撃どころの騒ぎではなかった。畳み込まれてきた怨嗟の叫びが一挙に爆発する。
 マクシムム・ジ・エントリヒ皇帝の演説に、グスタフ・グライヒヴィッツ元内務大臣の演説がぶつかり合った。
 国防三軍から離反が相次ぎ、少しずつだが確実に軍事正常化委員会は方々から戦力を吸収。
 その疾風怒濤の最中、元“皇帝派”の一部も含め、皇室親衛隊からも離反者が出始めていた。

《制服も一緒だというに、敵味方の判別などできるものか!》

《愚痴ってんじゃねぇよダボが! みんなフッ飛ばしちまえばそこでしまいよ!》

《こちらニルフレート大尉。無闇な乱射はおやめください……ン、貴方も離反されるのですか!》

《残念ですが、そういう事です。統制の取れていない軍隊に何の価値もありませんから。さようなら。さようなら!》

《俺も前から親衛隊はゴミだと思ってたよ! 死ね!》

 夕日を背に、アロイス・フュールケ大尉は通信機に耳を傾けながら舌打ちする。
 先ほどからこの調子である。双方の演説により、自らの価値を再設定した者らがあの軍事正常化委員会へとその身を移す。
 離反者を止める最中に、ミイラ取りが自らの意志でミイラになるような現状で、止めようとするだけ無駄であった。
 付近には部下の車が何台か、エンジンをつけたまま周囲に眼を光らせている。

「フュールケ隊長さんよォ。こりゃあ無理でしょや。次から次へと離反しやがるから、追いかけてる間にケツから弾丸貰っちまう」

「そいつぁ奇遇だ。俺もそう思ってた所なんだ。仕留めたと思ったら、味方でしたなんてのはザラだからな。
 ったく……離反ついでに制服を脱いでくれれば楽なのによ」

 思った以上に、ジークフリートを取り巻く問題は拡大していたのだ。
 皇室親衛隊の中で深々と根を下ろしていた問題が、軍事正常化委員会の勃発を起爆剤として次々と流れ行く。
 ある者は息巻いているだろう。「これでコソコソやる心配が無い」と。
 またある者は安堵に胸をなでおろすだろう。「やはり我々は正しかった」と。

《公安部隊からも離反者が出たぞ!》

《畜生……どこの隊だ》

ライオス・シュミット少佐の隊だ! 追え! 大蛇を仕留めちまえ!》

 一瞬、耳を疑う。
 今の名前に間違いが無ければ、親友は離反してしまったのだ。

「知り合いですか?」

「親友だよ。ちょっとブン殴ってくる! ベッセルハイム、舌噛むなよ!」

「乱暴な運転は勘弁だぜ。あちらさんは枯葉だって撃ち抜くトンデモ野郎だ」

 ――馬鹿野郎。何で離反しやがった。
 彼の顔はよく覚えている。車からその表情を垣間見る事は叶わないが、それでも特定さえできれば、後は一心に追いかけるだけだ。
 背後からの「あ、ちょっと! 命令違反ですよ!」という声を無視し、エンジンをフル回転させて親友の姿を追う。

「こちら、皇室親衛隊のアロイス・フュールケ大尉! シュミット少佐の車はどれだ!」

《該当車両は現在、クーベルオルフェン街道を走行中! 協力してくれるか! 弾幕が激しくて近寄れん! クソ、タイヤをやられ――》

 クーベルオルフェン街道なら、ここから五分と掛からない。
 数ブロック先の交差点を右に曲がり、鉄橋が見えるところまで進めばすぐに辿り着く。

「云われなくても協力してやんよ……」

 どの通りも大混乱に陥っていた。軍用車両が何台も、撃ち合いをしながらカーチェイスを繰り広げているのである。
 先日のグライヒヴィッツの演説をテレビで見ているのか、民間人は一目散に走って逃げる。
 どの車両が離反者で、どの車両がそれを止める側なのかは俄かに判別し難いだろうが、とどのつまり、銃口が後ろに向いているものが離反者側というのは理解できる筈だ。
 臆す事無く、そのまま直進する。少なくとも民間人がこちらに発砲する事は無い。
 助手席のベッセルハイムは、双眼鏡で該当車両を探していた。

「見えるか?」

「あれだな。団体さんで逃げてやがる……あッ!」

「どうした!」

 ハンドルを廻す手が、一瞬だけ強張った。
 流石に急カーブでスピンを起こすほどではないにせよ、道路に転がっていたゴミ箱を勢い良く跳ね飛ばし、内容物を散乱させる。
 軍用車両は決して安くはない、無闇に傷を増やせば後で整備班の顰蹙を買うのだ。
 フュールケは一瞬の思考を叩き込み、相棒の言葉を待つ。

「なんてこった。奴さん達、手榴弾を民家に投げ込みやがった……!」

「貸しな!」

 双眼鏡を引ったくり、様子を見る。場合によっては追跡を他の車両に任せ、民間人の保護を優先せねばならない。
 本来は国防陸軍の仕事であるが、この非常事態に於いて管轄云々と口上を垂れる輩は居なかった。

 少し進めば、見知った建物を視界に止める事が出来た。
 白竜工業である。東洋系の人間が何名か、身振りで無事を伝えている。
 車を止めている余裕は無い。事情聴取は歩行部隊に任せ、目配せで挨拶した後、間髪入れずにアクセルを踏み込む。

 かつての上司、アシュレイ・ゼクスフォルト少佐がここに赴く時、フュールケも同行した。
 彼らの口から出るのは、発音も曖昧でたどたどしいエントリヒ語だったが、審美眼の類は確かに優れているように思えた。
 何より、シュヴェルテの盾はあそこの製品だった筈だ。その生みの親たる白竜工業に手榴弾を投げ込むとは。
 形見の品さえ取り返すことが叶わなかったというに、生みの親までこのような憂き目に遭う。
 フュールケには、それが恋人を陵辱されたような気分にさせてならなかった。


 いよいよ、団体を眼前に見据える。夕日の逆光に吸い込まれ、車は黒々とその姿を照らしている。
 後方からの射線を潰さぬように、道路の端から回り込むように車を飛ばす。
 暴力の金属音の応酬が外から響いていた。

 銃撃の回避などに手間取る彼らと異なり、こちらはスムーズに追いかける事ができた。
 同じ全速力でも、カーブ取り次第で足の親指を掴むくらいの距離へと縮められるのだ。
 何とかして通信機のチャンネルを合わせ、周囲の酸素を吸い尽くすが如く肺胞を膨らませる。
 ざわつきの中に聞き覚えのある声が聞こえてくる頃には、口を大きく開いていた。

「ライオスてめぇ、ッざッけんな! 車止めてケツ出せ! 百発殴らせろ!
 ボコボコにして泣かす! てめぇだけは泣かす! あちこち迷惑かけやがって、いい加減にしやがれ!」

 有りっ丈の声で吼え、叱責とも付かない罵倒を浴びせる。
 隣のベッセルハイムは耳を塞いでいたが、それすらお構い無しに全力で怨嗟の限りを叩き付けた。
 自然とアクセルを踏む足も、力を強める。既に全速力ではあったが、ガードレールや電柱に擦っても知った事ではない。
 ややあってから、親友の狼狽する声が通信機越しにやってきた。

《フュールケか……! 我々は軍事正常化委員会に身を移さねばならぬ。
 止めないでくれ。帝国の歪みを是正するには、もはやこうするほかに道は無い》

「国民を守るのが騎士の務めとか抜かしてたろうが! 全部嘘だったのかよ!」

 旧友の暴挙を一片たりとも許す事など出来ようものか。
 彼は、かつての恋人を死に追いやった連中と同じ穴の狢へと向かおうとしているのだ。
 あまつさえ彼は、部下に手榴弾を投げさせた。かつての恋人の武器を作った、あの白竜工業へと手榴弾を投げ込ませた。
 彼が死ぬ前に、何としてでも、あの済ました顔面に拳を叩き込んでやりたい。
 その一心が、フュールケの逆鱗の火種により高く燃え上がる。

《考えても見ろ。エメリンスキー旅団は今ものうのうと生きている。同時に、方々で何に使われるかも解らぬ技術の研究が進められている。
 もはや皇帝陛下の一喝だけで片付く問題ではない。むざむざ放置すれば我々のみならず、国民の生活までもが脅かされるのだ》

「見えてもいねぇ敵を全力でブッ叩いて、挙句の果てにゃあ“これも国の為だ”ってか! 革命家気取りは夢ン中でやりやがれよ!」 

 顎が外れそうになり、眉間の皺すら潰れて血液が沸騰しそうになる。
 シュミットは何故ああも冷静で居られるのかが、フュールケには納得できない。
 国民の生活が脅かされるなどと、どの口が抜かすものか。

 銃声はやがて耳元からも響く。ベッセルハイムが軽機関銃を構え、彼らのタイヤを狙っている。
 案の定、銃弾はアスファルトに吸い込まれていたが、弾薬にはまだ余裕がある。
 ここで止めねばいつ止める。横合いから割り込むべく、ハンドルを切る。

 距離は徐々に詰められ、およそ50メートルを切る頃であった。
 突如として最前列の車両の運転席から、拳銃だけがこちらに向く。

「――ッ!」


 三発の銃弾が放たれたと気付く頃には、制御を失ってフェンスに激突していた。
 視界が緩やかな回転を起こし、不規則な角度変化に三半規管が悲鳴を上げる。

「野郎……!」

 クラッチを踏みつつレバーを後退に切り替え、体勢を立て直すべくアクセルを踏み込む。
 が、いくら踏み込んでものろのろと動くだけだった。タイヤを潰された車は、もはや足手まといでしかない。
 八方塞の有様を全身の擦り傷や打撲と共に体感し、役立たずと化した金属の棺桶を、車内から蹴飛ばす。

「どうすんだ、フュールケよぅ。徒歩で追いつく相手じゃねぇぜ」

「……くそったれ、くそったれ!」

 ドアすら複雑に変形しており、上手く開けられそうも無い。
 シートに掴まり、両足で何度か蹴る。その作業に悪戦苦闘しているうちに、通信機からシュミットの声が響く。

《私に出来る最後の情けだ。旧友のよしみで命は狙わん》






《見えてもいねぇ敵を全力でブッ叩いて、挙句の果てにゃあ“これも国の為だ”ってか! 革命家気取りは夢ン中でやりやがれよ!》


 大通りは、夕日が目にしみる。
 統計上ではもっとも命中率が下がる時間帯とされている夕刻にて、ライオス・シュミットは通信機から響き渡る怒声に耳を傷めていた。
 眩しさだけではなく、心に絡みつく様々な呵責が彼の眉間に鈍痛を奔らせる。


 様々な問題を一挙に解決するには、もはや公安部隊としての細々とした活動では力不足であるという事を痛感した。
 傍らの部下達もまた、先日の皇帝の演説以来、あの皇帝の激昂ぶりやその後の責任追及騒動に辟易していた。
 誰もが責任を回避し、誰もが他者を売りつけるような世界。
 そのような場所では膿を掻き出すような行動に出られる筈も無い。

 されども軍事正常化委員会であれば、表立って非難できる。有無を云わさず叩き潰せる。
 書類の制約や物的証拠という名の足枷は立ち消え、正義の名の下に断罪できる。
 更に、国家の産業を脅かす存在もついでに排除できるのだ。
 シュミットにとって、これだけ魅力的な組織が今まであっただろうか。

 事実、白竜工業に手榴弾を投げ入れれば、瞬く間に歓声と拍手が巻き起こった。
 ある者は感涙しつつ褒め称えた。「一矢報いたぞ」と。

 その歓声を止めたのが、唯一無二の親友――アロイス・フュールケだった。
 鬼神もかくやと云わんばかりの怒号を響き渡らせ、憤怒の炎を滾らせながらこちらを狙う。
 アスファルトに銃弾が吸い込まれようと、その弾痕よりゆらめく硝煙からは、決して彼の怒りは霞まなかった。

 先ほど通信を聞いた直後に、部下にも彼を殺さぬように命令していたが、これ以上引き伸ばせば被害が出る。
 重要な物資や人的資源を大量に運び込んでいるのだ。
 いくらフュールケの目的がシュミットだけとはいえ、逃げ足が鈍れば致命的な打撃を受けかねない。

「致し方あるまい……」

 彼とは対峙したくなかったが、今ここで立ち止まる訳には行かない。
 あちらから向かってくるのならば、身を守る為に懐の拳銃を取り出す事に躊躇してはならない。
 左腕の上に右手を置き、車窓から拳銃を出し、夕闇に染まりつつある後方車両をサイドミラー越しに睨む。

 頭に当てるな。絶対に殺すな。
 せめて彼にだけは、離反の意義を教えたいという心積もりがあった。
 三発。立て続けに銃口が吼える。

 弾丸は見事にタイヤを穿ち、友人の車はスピンを起こしてガードレールへと激突した。
 もはやあの有様ではまともに動く事もままならないだろう。後続の車両の妨げにもなる。
 通信機から、おそらくはこれで最後になるであろう会話を試みる。

「私に出来る最後の情けだ。旧友のよしみで命は狙わん」


 いつも、こちらが愚痴ばかりをこぼして迷惑をかけてきたか。
 彼はその愚痴の殆どを穏やかに聞き入れてくれていた。その彼を一発の手榴弾で、ここまで激昂させてしまうとは。
 戦争とは因果なものであるな、などと思案に耽っていると、冷静さを取り戻したフュールケからの憎まれ口が飛んできた。

《うるせぇやい。裏切り野郎のお目こぼしなんざ有難くも何ともないね》

 確かに、彼らからすれば“裏切り野郎”と評する他に何があろうか。
 シュミットにはまず、その裏切りの負い目よりもやらねばならない事が多々あった。
 後世をよりよいものとする為にはこの組織は必要であるという事を伝える前に、シュミット個人の意志を伝えねばならなかった。

「堪えろフュールケ。私とて騎士道精神を棄てたつもりは毛頭無い……」

  《そうかい。だが覚悟しやがれ。こうなっちまったからには……》



「私の遣り方で」
《俺の遣り方で》



《「――カタをつけてやる》」



最終更新:2009年02月18日 16:05
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