Chapter 10-1 : 力 ~Force~

(投稿者:怨是)



 ホルグマイヤーは既に駐車場で車を動かしていた。
 車のライトを包む夕闇がこの世界を象徴しているかのようで、シュヴェルテにはそれがひどく心細く感じられた。

「ゆっくり休んだほうがいい。辛かったろう」

「ありがとうございます……アシュレイは、元通りになれるのでしょうか」

「解らん。だが、君が彼を思い続ける限り、いつかきっと彼は答えてくれる」

 目の前の男の希望的観測が、本心から出ているものとは考えられない。
 おおかた、気休めの類ではないのか。秘密警察に所属する以上、思いのたけを馬鹿正直に話す者など、居る筈が無いのだ。

「“……そうなってくれるといいよな”という言葉が最後に付いているのでしょう? 貴方の言葉の最後には」

 シュヴェルテは憎悪に口元を歪めて叩き付ける。
 女と侮る事なかれ。貴様もまた、女に対する気休めのマニュアルでも脳内に構築しているのだろうが。
 心の器になみなみと注がれる“怒り”が表面張力の限界を超えて零れる頃には、両手の拳はわなわなと震えていた。

「客商売の時とは打って変わって、随分と辛辣だな」

「当たり前です。どうして秘密警察が……あの新聞記事だって、貴方が加担した事でしょう?」

「あぁ……だが、それが仕事だった。そうせざるを得なかったんだ。すまない……まさか、こういう事になるとは思わなかった。
 君がこうして生きていた事も、署長の自殺でそれが明らかになる事も。だが、その真実を知ったとき、これはチャンスだと思った」

 チャンス……?
 何がチャンスなのだろうか。

「君に償う機会が出来た……俺は償いがしたいんだよ。確かに、君と……アシュレイ君を、元通りにする事はできない。
 だが、真実を洗い浚い伝える事くらいはできる。既に真実は確証と共に、この懐の中にあるんだ」


 その後に、今更かと眉をひそめながらも聞いた話は、どれも食欲の失せるものばかりだった。

 新聞記事の中では死んだ事になっている事と、当時シュヴェルテを襲った兵士がエメリンスキー旅団である事。
 シュヴェルテ暗殺作戦自体は、一部の皇帝派官僚達によって画策された事。秘密警察の署長が実行に関わった事。
 輸送には飛行隊の一部の人間が加担していた事や、今現在は秘密警察の署長が自殺している事。
 エメリンスキー旅団も、秘密警察も帝都栄光新聞もその手駒に過ぎないという事。

 他にも幾人かのMAIDがシュヴェルテ失踪以降も狙われ続けていた事。
 実際にディートリヒダリウス大隊と共に消されてしまったという事。
 ただし、そこには秘密警察が関わっていないという事。

 エントリヒ皇帝がそれらの事情を知り、不特定多数の犯人達に演説を通して叱責した事。
 そして、それが原因となって、逆上した者達が軍事正常化委員会という組織を立ち上げた事。
 後は、帝都栄光新聞は掌を返したかのようにこの黒旗を叩いているという事。


 ――何もかもが、吐き気を催す事ばかりだった。
 何もかも、度を越していた。




「今まで闇に隠れていた所が、一部分だけでも露わになったって事だな。だから今後、おそらく君達のような悲劇はもう――」

「――繰り返されない、と。でも私達の犠牲に対する補償は何ら行われないまま、戦線に復帰せねばなりません。
 今まで関知しなかったのかは解りませんが……今更“戻って来い”などというのは、少し虫が良すぎませんかね」

「補償か……」

 一介の秘密警察の職員にそれを求めるのは確かに酷だった。
 が、多少の八つ当たりくらいはしてもバチは当たるまい。もとよりこの男とて、立派な共犯者なのだ。
 それを今度は何だ。抜け抜けと、さも自分は改心しましたという風に。

「アシュレイの心は粉々に砕け散ってしまった。彼は追い出さなくても良かったでしょう? 何故ですか……何故!」

「詳しくは知らないが、ヴォルフ・フォン・シュナイダー大佐に暴行を加えた事が原因となったらしい」

「……大、佐?」

 ヴォルフ・フォン・シュナイダーは、シュヴェルテの知る限りでは少佐であり、ジークフリートの担当官だ。
 そして、ジークに体罰を加えたという事で、周囲に疎まれてきた。そんな彼を殴った所で、どう解釈すれば国外追放になってしまうのか。

「そうか、君は知らないんだったかな。彼は国際対G連合統合司令部に移籍した」

「へぇ。元凶のジークフリートを置き去りにして……?」

 それからは、ホルグマイヤーは黙りこくってしまった。
 交差点を曲がり、すっかり暗くなった町並みを眺めながら助手席で指を動かす。
 ラジオもかける気分にはなれない。とてもそんな気分には、なれなかった。
 何かで気を紛らわそうとすれば、それは悩んでいる自分を欺く事になりはしないか。

 ゼクスフォルトは心を殺された。
 自分の居場所も消されてしまった。スパイなどという汚名を着せられてもなお、連れ戻されて戦う意義がどこにあるのだろうか。
 犯人探しはもうすぐ終わるが、ついてしまった傷は世代を重ねても癒える事は無い。
 後の歴史家はきっとこう云うに違いないのだ。「シュヴェルテというスパイのMAIDが……」と。
 無実を証明する為の余白はとうに失われた。既成事実が生まれてしまえば、それを覆す事など決して有り得ないのだ。
 ヴォルケンをして、アシュレイ・ゼクスフォルトを守りきる事ができなかった。

 今の帝国に必要なのは“痛み”だ。
 軍事正常化委員会の武装蜂起そのものは、さしたる痛みになどならない。
 きっと、勘違いした正義感の持ち主が、自己の正義を主張する為の体のいい“悪役”が生まれたに過ぎない。
 ならば教えてやろうか。

 ――私を消そうとした連中も、手前勝手な正義に突き動かされていたんだろうよ。
 そうと決まれば話が早い。殺そう。隣の男は殺してしまおう。
 帝国も殺す。皇帝も宰相もいつか殺す。全部殺して私も死のう。

「ホルグマイヤーさん。私はやはり皇室親衛隊には戻りません。帝国を守る意義など、もう微塵も感じられないのです」

「そうか。だが、俺は君を止めたりはしない」

「え……え? いいんですかそれで。貴方、それでも公僕ですか? 腐っても警察官でしょうに。自覚は無いのですか?」

 何を云われたのか、俄かには理解できなかった。
 脳の回転が悲鳴へと変化する。泥沼でタービンを廻した時の、あのもどかしい抵抗感によく似ている。
 その間にも車は次の角を曲がり、路地裏で停止した。

「俺が“仕事上の理由で君を止め”たら……また罪を重ねちまう。いい加減、仕事だ何だと抜かして嫌な流れに従うのはうんざりなんだ」

 その後にホルグマイヤーの付け足した言葉が、泥沼を清涼な池へと変えた。
 一人では何も出来ないから、代わりに私がやれと。そういう事ですね、よく解りました。
 こいつはとんだ臆病者だ。

「だから君には好きな事をさせる。コア抑制装置も一昨日に外したから、もう君は何でも出来る……もちろん、俺をこの場で殺す事も」

 シュヴェルテは彼が望む望まないに関わらず、殺意を振り下ろし、車を血まみれにしてやるつもりだった。
 自分は何度も殺されたのだ。己の抱えた絶望に何度も殺され、そしてまた、己が何度も死を望み、夢の中で何度も死んだ。
 Gに下半身から喰われる夢や、爆弾を抱えて突撃して死ぬ夢など。
 ありとあらゆる死を夢の中で体験したにも関わらず、目の前の男はリップサービスだけでそれを免れようとしているように見えたのだ。

 ――この臆病者!
 シュヴェルテはこの痛みを、心のありとあらゆる部位に打ち込まれた釘を、世界中にばら撒いてやりたかった。
 だから、帝国に痛みをくれてやりたい。滅びろ、帝国! こんな国など、滅びてしまえばいい!

「見てくれるか」

 ホルグマイヤーが車から降り、トランクを開く。
 見覚えのある装備が並んでいた。かつての記憶がまた、色を取り戻して行く。
 戦える。戦える。戦える。

「これは……」

「盾だ。当時、君が使っていたものの改良型だよ。細かいところが変更されているだろ? 剣も新型だ」

 その後の言葉は耳に入って来なかった。
 ただ、車体に照り返して映った自分の顔はひどく歪な笑みを浮かべており、それだけは、シュヴェルテの記憶に鮮烈に焼き付けられた。







 回想は幕を閉じ、そして残るは静寂のみ。
 ――否、取り巻く状況を正確に描写するのならば、静寂よりもむしろ沈黙に近かった。

 今は1944年8月4日。
 もう、あの頃には戻れないし、戻るつもりもシュヴェルテには無い。
 誰もが帰りを待ち侘びたのだろうが、その声すらも今の彼女には、きっと耳障りなものとなってしまうに違いなかった。
 フュールケもまた、帰りを待ち侘びたうちの一人だった。
 どうしてこんな事になってしまったのか、そういった表情を浮かべる彼らの狼狽は何と白々しい事か。


「シュヴェルテ――いや、エミア、お前が、どうして……やめてくれ、やめてくれ! こんな……」

「“やめてくれ”だなんて。貴方にも罪が無いと、この場の誰が云い切れましょうか?
 帝国が今まで蓋をしてきた咎の数々に、貴方も加担していないと云えますか? この臆病者」

「それがどうかしたのかよ。お前まで……こんな事しなくたっていいじゃねぇか!」

 無意識に行われる選択的不注意に対し、多くの人間は無自覚である。
 シュヴェルテはそれを指摘するつもりだったが、やはりフュールケには届く事は無かった。
 所詮は聡明な頭脳を持たぬ、大衆の魂に過ぎないなと、彼女は心中で断じた。

「焦りますか? 悲しいですか? 私を勝手に置き去りにしておきながら」

「そんなつもりは無かったんだ! 死んじまったと思ってたんだよ……!」

「貴方までそうやって決め付ける。まさしく、それが勝手だと云うのです!」

 今まで生きていた。絶望を胸に抱えながら、何度も死にたいと思いながら生きていた。
 死ねば苦しみを感じる事さえ無かったのだから。それを“死んだと思っていた”とは。
 つまり今まで安らかな眠りについていたと勘違いしていたという事であり、今までシュヴェルテが感じてきた苦痛に対する最大級の侮辱だった。

 いっそ、死んでいたほうがマシだった。
 自分もアシュレイ・ゼクスフォルトも、さっさとこの世に別れを告げていれば、恐らくは愛し合う絆を疑わないままでいられた。
 それが今はどうか。彼の心はぼろくずのように擦り切れ、大部分を先にあの世へ飛ばしてしまっている。
 もはや愛と云う言葉すらも理解できないであろう彼と、こうして心まで生き残ってしまった自分。
 置き去りにされてしまった。
 彼の“心”に先立たれた。
 見知らぬMAIDが町を警備していた。
 名簿には知らない名前が沢山あった。
 当時の自分のスコアなど、とうに追い越されてしまっていた。
 町並みも幾らか色を変えており、しかし、そのどれもが灰色に見えた。
 にも関わらず、人々は眼前眼下の日常茶飯事の全てを疑いもせず、温和な笑みに照らされていたのだ。
 あの時死んでいれば、または離別させられなければ、このような苦しみを味わう事も無かった。

 世の中の毒を吸いきった男達から、様々な話を聞かされた。
 そのどれもが、世界を嫌う理由としては充分すぎるものだった。
 乱暴にしてくる男が山ほど居た。
 珍しがったり、ありがたがる男も居た。
 涙を流し、同情や憐憫を滲ませる男さえ居た。
 捧げる愛などとうに底を尽いた筈なのに、彼らを憎んではいけない気がした。
 彼らは程度の差こそあれど、道具ではなく感情を持つものとして自分を見てくれていたのだ。

 花売りの仕事で一生を終えても良いだろうと思っていた矢先に、戦場へと再び舞い戻る事となるとは。
 しかも、釣った魚に重しを付けて河へと戻し、それを再び釣るような真似を。
 道具扱いされる事が何よりも苦痛だった。



「もう新聞の捏造とかの騒ぎじゃねぇのも解ってるよな。本物の反逆者になるって事なんだぜ。解ってンのかよ」

 シュヴェルテは足元に転がる盾を踏み躙る。
 反逆? そも、先に棄てたのは帝国である。一度棄てた犬が飼い主に噛み付いた所で、何ら問題はあるまい。

「あぁ、あの記事ね。いいではありませんか、その“ヴォストルージアのスパイ”とやらはジークフリートに“殺された”のでしょう?
 今ここにいる私が本物のシュヴェルテなのです。名前を変えるなどといった酔狂な真似もいたしません」

 まずはゆっくりと力を込めれば、盾はメリメリという音を立てて少し陥没する。
 アクセルを踏む要領で、にじりにじりと。そうして行くうちに、ウォーリア級の打撃さえ防げる盾は、凹んだ鉄板へと変化して行く。
 こんな盾で、今までこんな弱弱しい盾で守ってきたのか。
 そう思えば思うほど、盾が憎くなる。

 悪だ。
 盾は、悪だ。
 都合の悪い真実は覆い隠し、掴み取ろうとする者を阻む。
 そんな盾なら消えてしまえばいい。お前は無価値だ。
 守りたかったものは何一つ守れないまま、終わってしまった。忌まわしき、盾よ。
 フュールケはシュヴェルテの奇行に呆気に取られていたが、一寸の動きの後、新たな言葉が紡がれる。

「黒旗は、お前を“殺した”皇帝派の連中も居るんだぞ! こんな事してアシュレイが喜ぶとでも思ってるのかよ!」

「その皇帝派が全て黒旗に移ったとでも? アシュレイには会えましたよ。もう私が誰であるかも判らなくなってしまったけども。
 ……彼は壁に血文字を刻み込んでいました。“こんな国など滅びてしまえ”と、何度も、何度も、何度も! ええ、何度もッ!」

 慟哭にも似た大声を張り上げながら、言葉の通りに何度も盾を踏みつける。
 そうだ。この盾は帝国の象徴だ。
 都合の悪い事実を包み隠し、そこへ向かう者を阻む。
 そんな国なら消えてしまえばいい。お前は絶対悪だ。

 ヒステリックに盾を蹴飛ばす内に、盾の表面がひび割れを発生させる。
 コアエネルギーを送り込まなかった金属など、所詮はこの程度なのだ。
 周囲からは銃撃はやってこない。
 いっそ、撃ってくれればどれだけ動き易かった事か。
 盾など無くても、剣の一振りだけで銃撃などは防げてしまう。

「私は自らの意思で考えた結果、アシュレイの叫びに、あの慟哭に従おうと思いました。
 つまり私は私の意志で、私だけの為にここに立っている。云われてやめる程度の決意であったら、それこそただの道具ではありませんか」

 盾はとうとう拉げて使い物にならない程に損傷していた。
 シュヴェルテは、知略に長けてはいない。どちらかと云えば直情径行な節があった。
 現に盾をこうして、延々と踏みつけて壊してしまう行為でさえ、何の打算も無い。
 ただ、ただ、憎しみの発露が体中から巻き起こっているだけである。

「“道具としてではなく、一つの人格を持つ者として”……私の教官が教えてくれた事です」


 盾への止めの一撃は、右手に持つひとふりの剣によって突き立てられた。
 中心部に大打撃を与えられた盾が、真っ二つに割れる。
 開戦の用意をせねばならない。
 この盾と同じように、彼奴ら無知なる帝国に、痛みを以ってして教育してやらねばならない。
 帝国は敵であると同時に、忌むべき過去の自分自身の面影をどこかに置いてきてしまったのだ。
 だからこそ、一緒に叩き潰して過去を忘れ去ってしまわねばならなかった。
 そうでなければ痛みに堪えられない。


「魂が緩やかに腐って行くのを座して待つくらいなら……」

 大剣を――ライヒ・グリーズをスィルトネートらに向ける。
 ひとまずは、一人でどうにかできる。時間は充分に稼いだ。
 “黒の包囲網”はおそらく完成しつつあるのだ。


「――私は悪魔に魂を売ってでも、帝国と戦います。そのための“力”が、私には必要なのです」



最終更新:2009年04月05日 03:17
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