死せる代弁者

(投稿者:神父)


「こりゃあ一体全体、何事だ」

その状況に気付いて彼が初めて発した言葉は、普通の状況ならば間抜けと罵られても仕方のないものだった。
しかし彼でなくとも、ふと気がついてみれば寿司( スシ )バーのカウンターに座っていた───などとなればなんだこれは、と思うだろう。
誰かと飲んでいたのだろうか。しかし彼は酒の肴としても、主食としても楼蘭の寿司というものがあまり好きではなかった。

「なるほど、寿司は嫌いなのか、中尉」

二席ばかり離れた位置に、見覚えのない男が座っていた。病的な長身痩躯、真っ黒なSS制服に染み一つない白衣を引っ掛けている。

「誰だね、お前さんは」
「そんな事はどうでもよろしい。私がどこの誰かなど、君がハインツ・ヘルメスベルガーSS中尉である事と同じくらい無意味だ。
 ついでに言うならば、君が離婚の際に奥さんに死んだ魚みたいな目をしているなどと言われたおかげで寿司が嫌いになった事と同程度にも、だ」
「……お前さん、一体全体何者だね」
「そんな事はどうでもいいと言ったばかりではないか、中尉」

この男───技術部の軍人だろうか?───は、彼と彼の元妻以外には知りようのない事を平然と喋って見せた。
そう、彼がルージア大陸戦争から復員した時、妻は腐乱死体でも見るかのような目で彼を拒絶したのだ。
それまでに手に入れた勲章───エントリヒ帝国は事実上敗戦していたが、戦勲は取り上げられなかった───を見せても、眉をひそめただけだった。
ともかく彼は妻の不可解な言動に困惑しつつも復員祝いにと楼蘭式寿司バーに連れ出し……そして前述の言葉を投げつけられて離縁に到る。

「ふん。今ならわかるとも、わしの目が冷たい、死んだ魚のようだったと言われた理由がな」
「三十年近く経ってもわからない方がどうかしていると思うが」
「しかしな、お前さんこそ死んだ魚のような目をしとらんかね」
「それはそうだ、何せ本当に死んでいるからな」
「……」

なるほどこれは夢だ。いや夢でなくともそれに近いものだろう。
何故か自分の秘密を知っている、それも死んだと称する男が普通に会話をしている。これが現実であるとすればそれこそ異常だ。

「それでだ、最初の疑問に戻るが……こりゃあ一体全体、何なんだね」
「特に意味はないんだが」
「なに?」
「意味はないんだ。私がこんな場所を設けたわけじゃあない。ただ単に、そうなっただけだ」
「それじゃあ一体……わしらはここで何をしとるんだね?」

間の抜けた質問に、男は肩をすくめた。

「別に何かをする事が必要ではないし、求められてもいないだろう。我々はここにいる、何をしようと、何をすまいと、それは自由だ。
 ……そうだな、この機会に寿司嫌いを克服してみるというのはいかがかね」
「結構だ、お断りする。わしはあれから三十年も生魚なんぞ食っておらん。……食おうにも、別れた時の妻の目が脳裏にちらついていかん」
「残念な事だ。が、私はお構いなく頂くとしよう。実は死んでみるまで寿司を食べた事がなくてね」
山葵( ワサビ )に───」

気をつけろ、と言い終える前に男は鉄火巻き( テッカロッレ )を口に放り込み、盛大に顔をしかめた。

「これはまた実に刺激的な食べ物だな、まったく。楼蘭人はこんなものを好き好んで食べるのか」
「慣れれば旨い。……いや、わしにとっては旨かった、だな」
「そういうものかね。では慣れるまで食べ続けてみるか」

男は喋りつつもどこからともなく出現する皿を次々に手に取り、一口食べては妙な表情を浮かべる、という事を繰り返し始めた。

「わしは熱燗( アツカン )でも頂くとしよう」

そう言ってカウンターの奥を覗こうとすると、徳利( トクリ )が目の前にある事に気がついた。
いつ現れたのか、今までまったく気がつかなかったが、突然出現したようにも思えない。
夢の論理とはまったく奇奇怪怪な代物だ、と口の中で呟き、ぐい飲みに注いですすると、あれやこれやと食べていた男が再び口を開いた。

「ところで中尉、君はMAIDについてどの程度の知識を持っているのかね?」
「うん? どの程度と言うと……そうだな、彼らが生きた人間ないし死体を使って作られているとか、そのくらいか。
 もっとも、それもなんとか言う技術大尉からの伝言がなければ知らなかったろうが」
「なんとか言う技術大尉か、ふむ」
「何がおかしい」
「いや別に、大した事ではないが。……さてそれでは、いい機会だから君にMAIDについて講義して差し上げようじゃないか」
「……お前さん、酔ってないかね?」
「アルコールはやっていないが、強いて言えばこの非現実状況に酔っているとは言える」
「冷水でもぶっかけてやりたい気分だ。なんだって、いきなり見ず知らずの男にMAIDについて講義されにゃならんのかね」
「中尉、君が知らないMAIDの真実というものを知りたくないのかね?」
「実を言えば、知りたい。だが押し付けがましくもったいぶった口調で聞かされるのは御免被る」
「もったいぶった口調は私の生来の癖でね、こればかりは我慢してもらうより他にない。……しかしなあ、こう、喋りたいんだよ、私は」

何かのジェスチャーをしながら喋る男を見て、彼はギムナジウムに通っていた頃の教師を思い出した。
あれは、眼前にすべき生徒をやっと見つけた教授の目だ……話し相手に飢えていたと言うよりは、そう、教えを伝えるべき相手を必要としている目だ。
彼は肩をすくめて答えた。

「だったら、喋ればいいんじゃないかね。わしは興味のある部分は聞くし、ない部分は聞き流す」
「実も蓋もない言い方をしてくれるな」
「夢の中でおべっかなんぞ使う奴があるか。いいからさっさと始めたらどうかね。聞き終えたらわしは起きるぞ」
「……起きられればいいのだが」
「なに?」
「いや何でもない……ともかく、始めようか。死んだ後にまで講義の機会を持つ事が出来て、とても嬉しく思うよ、私は───」



事の起こりは1920年代末、各国の負ったルージア大陸戦争の傷跡も癒え、軍拡競争が再燃していた頃に遡る。
当時エントリヒ帝国はクロッセル連合として糾合した旧西ルージア諸国の脅威を目の当たりにし、軍事的アドヴァンテージの獲得に必死になっていた。
それこそなりふり構わずに新技術の開拓を急がせていた帝国は、比較的自由な立場にあった皇室親衛隊技術部に対してある部署を立ち上げさせた。

皇室遺産管理部という無難で目立たない名前を与えられた彼らは、その名に反して潤沢な予算と裁量を認められていた。
そしてその研究内容はと言うと……いわゆるオカルト、似非科学の類であった。
今となっては信じがたい事ではあるが、彼らは大真面目に伝説や神話に取り組み、魔術や呪術を調べ上げ、怪物や妖精を探して回った。

成果など挙げられようはずもない研究は、しかしありうべからざる事に、一つの結論を導き出した。
球形の空間に一定の電荷とスピンを与え、その上である程度以上の電気的インパクトを加える事で、ある種の転移を起こす事ができる───
そしてその転移はこの世界( ・・・・ )の内部で完結するものではない。
この世界とはまるで異なる物理法則に支配された空間が、そこに出現するのだ。
傍目にはそれは一種の宝石、透き通ったガラスや石のように見える。事実、当初は単に未知の物質であると思われていた。
しかしそれは異なる物理と本来の物理との境界面がそのように観測されるだけで、その内部は……予測もつかない状態になっている。
そしてこの異常な物理的現象が、従来の科学では説明のつかなかった亜人や各地の原生種───後に言うG───などを成立せしめたのだ。
亜人や原生種はごく希薄にではあるが異常物理の影響を受けており、それがために一種の超越的能力を発揮するのだ、と彼らは結論した。
が、その時点では亜人や原生種に異常物理がいかにして作用したのかは不明であった。

では実際に再現してみようではないか、という展開に到るまで、さほど時間は必要ではなかった。
バストン大陸に小規模ながら足がかりを確保していた帝国が彼らのために秘密裏に実験施設を用意するにも、大した時間はかからなかった。
時に1932年、冬の事である。

そして彼らは営々と行動を開始した。
彼らの間で「石」あるいは「球体」と呼ばれたその異空間に関するあらゆる実験を行い、記録し、推測と討論を行い、さらに実験を重ねた。
球体は亜人や原生種の体内からまとまった形で発見された事はなかったが、微細な形で分散しているのではないかと彼らは考え、そして───
では球体を人体に埋め込んだならば、亜人などよりも強力な種が誕生するのではないか、という結論に達した。



「それが今で言うMAIDかね」
「その通り。当時は───いや、一部では今もそうだが───人体実験など日常茶飯だった」
「最初は死体から始めたのかね?」
「ああ……まあ、実際のところは生きた検体を確保できなくてね、物は試しとばかりに事故死した助手の死体に埋め込んだらこれがうまくいったらしい。
 ……今思えば、とんでもない幸運だな」
「わしらにとっては最悪の不運だ」
「かも知れないな。だがまあともかく、MAIDを開発した功績は彼らにあったわけだ」
「あった?」
「この話には続きがあるんだ、中尉」



研究は日に日に進んだ。
亜人や原生種は自然発生した微小球電がスピンを起こす事で転移させられた極微の球体を体内に包含した事で変異したのではないか。
それらに球体を付与した場合の影響は、あるいはそれらの繁殖がいかにして微小球体を保ったまま成されうるか。
また、進化論では説明の困難な爆発的進化期はこのような微小球体によってもたらされた可能性がある。
各地に存在する特異点的な異常海域・地域は球体の自然転移を起こしやすい地理的条件に合致する、云々。

そしてその間にも、彼らは実験のために次々に球体を転移させ続けた。
異なる物理( ・・・・・ )というものが、何を起こすのか、何を起こしうるのかを理解しないままに。
───実験施設が「正体不明の怪物」の襲撃を受けて崩壊したのは、ちょうど1933年が明けてすぐの事だった。



「Gかね、それは」
「それ以外に何が思いつくと言うんだ?」
「そうだな、例えば宇宙人の襲撃だとか」
「はっは、中尉、君も冗談を言うのか。宇宙からの来訪者とは、まるで出来の悪い俗流小説だな」
「わしも言っていてそう思ったよ」
「だが考えてもみたまえ。Gの出現からMAIDの登場までどれだけの期間があった?
 帝国の技術供与はあまりにも手際が良すぎたし、しかも他国にとっては信じがたい技術レベルだった」
「帝国の偉いさんは最初からすべて知っていたというのかね?」
「私もそこまでは知らないが、少なくともMAIDとGに何らかの相関関係があるのではないか、とは考えているだろうな。
 それまでルインベルクなどで少数が発見されていただけの球体───コアが突然大量に発掘されるようになったり、だとか……
 そのような正体不明の代物が兵器転用できる、しかもよりによって人体に、という事が最初から知れている、だとか」
「あまりにも出来すぎている、というのはわしも思っていた事だが、最初から人類側の一人芝居だったとはな」
「まさに一人芝居だ。Gは自然の警告とやらでもなければ異星の侵略者なんて馬鹿げた存在でもない。ただ天に吐いた唾が落ちてきたに過ぎん」
「そいつをこそげ落とすのがわしらの仕事か。軍拡にいそしんだ挙句にとんだ災害を引き起こしてくれたもんだ」

嘆息しつつ彼が呟くと、男は「だが」と断ち切るように言った。

「人類は、科学と技術を従えている。これは奴らにはない、我々だけの忠実な下僕だ。
 ……いずれ人類はこの失敗を乗り越えてGを駆逐し、幼年期に終わりを告げる。何せ、無限に汲み上げられる楽園の泉に片手をかけているのだからな」
「楽園の泉?」
「ああ、まさしく楽園の泉なのさ。異なる物理法則を並べて使えるとしたら、それは無制限のエネルギーを使えるという事だ」
「……もう少し、わしのような素人にもわかるように説明してくれんかね」

男は眉を上げ、出来の悪い生徒に向けるような侮蔑の表情をあらわにした。

「例えばだ、空戦MAIDというのは知っているかね?」
「知っとる。確か、この国にも配備されておったはずだが」
「ああ、もっとも一個中隊にも満たないがね。陛下の見栄に付き合っているといくら永核があっても足りなくなる。
 ……さておき、彼らがどのようにして飛んでいるかと言うとだ、傍目には輝く翼を展開して飛んでいるように見えるわけだが」

男がカウンターの裏に腕を突っ込むと、何故か小型の黒板が出てきた。
いくら夢でもあからさまな不条理を行われると呆気に取られるものだ……などと思っていると、男は白墨でMAIDと思しき模式図を描き出した。

「MAIDの体内には球体……永核が収まっている。永核の内部は外部の物理とは異なる法則に支配されており……」

模式図の中央に小さく円を描く。

「同時にMAIDの身体もこの物理の影響を少なからず受ける。いわゆるMAIDの強化能力はこれによるところが大きい。
 そして空戦MAIDを含む一部のMAIDにおいて観測されるエネルギー放射は、この物理法則そのもの( ・・・・・・・・ )が放出されている結果だ」
「なんだって?」
「任意に制御できる理由は未解明だが───少なくとも私の存命中には不明だった───何故飛行しているのかについては解釈が成立していた。
 周囲の空間の物理法則を一時的に書き換え、自らにとって都合のよい方向へエントロピーを作用させている。ダムを逆さにして使えるんだ」
「ああ、なんだ、もっとわかりやすく頼む」
「そうだな、平たく言うとだ、彼らは飛んでいるんじゃない。任意の方向へ向かって落ちている( ・・・・・ )のさ。それも好きな加速度で出来る。
 これが人体などという不安定な媒介物を抜きに使えるならば、有史以来最大のエネルギー革命が起きるぞ」
「……ますますわけがわからんな。大体、放出された物理法則とやらはどうなるんだ?」
「基本的には永核へ還元されているが、まあ、一部は周囲へ拡散する事になる」
「それでは無制限と言えんだろう」
「なに、心配する事はない。休眠期間を設ければ消耗した永核も元通りになる事は実証済みだ。
 恐らく向こう側と何らかの形で繋がっているのだろう。異なる物理法則間の勾配を解消するのにある程度の時間がかかるとも考えられるな。
 それに、永核は人為的に転移させる事も可能だ……と言うよりも、現在各地で発掘されている永核はほとんどが非意図的な人工物なのだが」
「意図的でない? なんだね、それは」
「例の実験施設の壊滅以降、各国の永核発掘数が激増した。それまではほとんどゼロに近かったにもかかわらずだ。
 これに何らかの関連性を認めないとしたらそいつの目は節穴だろう。我々は、あの施設の転移設備が何らかの役割を果たしているものと考えている。
 ……無論、Gの大量発生についても、だが」
「タンスターフルだな」

瑛語圏の慣用句を口にすると、男はにやりと笑い、完璧な瑛語で発音してみせた。

「There Ain't Such As A Free Lunch.……“無料の昼食なんてない”か。だがその諺が歴史になる日もそう遠くはない。フリー・ランチの時代さ」
「そう遠くないだと? それまでに死ぬ人間やMAIDはどうでもいいのかね?」
「歴史は常に生贄を必要としているものだ。少なくとも、今まではずっとそうだった」
「……ふん、気に入らんな。将来の夢を描く前に、目の前にいる誰かを一人でも救って見せたらどうなんだね」

男は目をしばたたき、喋っている間中動き続けていた白墨が空中で止まった。

「中尉、君は教育担当のMAIDと同じ事を言うのだな。……いや、彼女が君の影響を受けたのか」
「なに? お前さん、サバテを知っとるのか」
「知っているも何も───まあ知っているな、それなりに詳しく」
「……MAID技師か?」
「まあそのようなものだ」
「それじゃあ聞くが……さっきの話だ、能力によって放出された物理法則が云々と言う奴、あれはつまり、能力系MAIDの寿命が短いという事だろう?」
「ふむ、その通り。鈍いかと思えば、最低限把握すべきところは押さえているな、中尉」
「誉め言葉になっとらん。……では、サバテの場合はどうなるんだ。彼女の寿命は……どれだけ残されているんだね」

彼がぐっと睨みつけると、しかし、男は気にした風もなく片眉を持ち上げた。

「彼女の場合は少しばかり事情が異なる。そもそも瘴気という奴はある意味で永核からもたらされるエネルギーとは対極にあるものだ。
 GとMAIDとは根本的には起源を同じくしているのだが、物理法則の使い方、という点からするとGという種は相当に非効率と言える。
 微小球体……微小永核と言うべきか、これをそのまま外部へ放出してエネルギーに転換している」
「そりゃさっき言った空戦MAIDの放出がどうのこうのと同じじゃないのかね?」
「まあ似てはいるんだが……ううむ、これを一言で説明するのは難しいな。ともかく永核と瘴気は表裏一体と言っていいものだ」
「なんだか、適当にはぐらかされた気がするんだがね」
「半日ほどかけて説明しても構わないが、君にその一割でも意味が伝わったら神に感謝すべきだろうな」
「やむを得んな。わしは専門家の意見に納得しておくとするよ」
「そうしてもらえると非常に助かる。
 さて、サバテ───と言うか、瘴炉搭載型のMAIDの場合だが、あれが能力を発揮する際に使っているのは周囲から引き込んだ瘴気だ。
 それ以外は普通のMAIDとなんら変わらない。それどころか寿命は延びる可能性が高いほどだ。これで安心したかな、教育担当官殿?」
「まだだ。さっき言わなかったかね、永核と瘴気は対極に当たると。そんなものを引き込んだら本人に害があるんじゃないのかね?
 ……いや、周囲に害があるのは知っとるがね。わし自身も少し前から薬を処方されとる」
「瘴炉は周囲に害を与える事で本人の被害を回避している。最初からそういう設計でね、そこさえ我慢すれば転換効率も悪くない」
「……」
「なに、そのうち周辺被害がないよう改良されるかも知れんだろう。そうそう悲観するものでもないぞ、中尉」
「サバテは……人間をろくに知らん。わし以外との付き合いがあまりに短く、しかも希薄だ。あのまま生涯を終えると思うと心が痛む」
「酒が入って感傷的になったかな、中尉? MAIDなど、死体か自殺志願者に過ぎないだろう」
「だが彼女らには意識がある───少なくとも、わしらからすればそう見える。今、生きているものをして哀れむ事は感傷的に過ぎるのかね」
「では聞くが、中尉、君はスコープ越しに百人か、あるいはそれ以上を殺した事は忘れたのか」
「何を馬鹿な。忘れるものか……忘れていないからこそ今のわしがある」
「なるほど。現状に妥協し、逃げを打つのが大得意のヘルメスベルガーSS中尉というわけだ」

男の軽口に、彼は思わずぐい飲みをカウンターに叩きつけて立ち上がった───少なくとも、立ち上がろうとした。

「この、言わせておけば、死んだ奴に生きている人間の苦労がわかるとでも───」



金属質の音とガラスが砕けるような音が交じり合った、平たく言えばささやかな破壊音が響き渡り、ハインツは我に返った。
白い、というのが彼の心に浮かんだ最初の印象だった。なるほど確かに彼の正面にある壁は真っ白で、何の装飾もない。
が、彼が自分の腕を見下ろすと、その印象は即座に覆された。点滴と思しき注射針が抜け、肘の内側からの出血がシーツを染めている。

「……。ここはあれか、病院か」
「あ、えと、その、はい、び、病院です。ニーベルンゲ大学病院です、けど……」

思いがけず、耳慣れた声で返事があった。
寝かされていたベッドから窓側を向くと、ひどく驚いた様子のサバテと目が合った。普段のSS制服ではなく、何かの防護服のようなものを着ている。

「お前さん、こんなところで何をしとるんだ。鳩が散弾銃でも食らったような顔をしおって」
「何って……ハインツさんが目を覚ますのを待っていたんです。最初は病室に入るなって言われてしまったんですけど……」

いかにも着心地の悪そうな、またひどく動きづらそうなごわごわとした服を示す。

「偉そうな白衣の人がやってきて、これを着れば病室に入ってもいいと言われたので、着替えて待ってました」
「そうか」

シーツで出血部を押さえつつ額にもう片方の手を当て、ハインツはしばし考え込んだ。
夜中のニーベルンゲでカーチェイスをした挙句、事故を起こしたところまでは覚えている。正確に言えば、事故を起こす直前までだが。
が、プロトファスマなどという化物に追いかけられている状況で事故など起こしてしまえばただでは済むまい。
自分が意識を失っている間に何があったのか。何故、無事に───少なくとも、死なずに───帰ってこられたのか。

「……わしはどのくらいの間、くたばっとったんだね?」
「あの、ハインツさんは一度も死んでません」
「……」

状況がどうあれ、ずれた発言をするのは相変わらずのようだ。彼は呪詛の言葉を口中に呟くだけで済ませ、もう一度聞いた。

「今のは言葉のあやだ。ともかく言い直すが、わしはどれだけの間、寝ていたんだね?」
「ええと、丸四日くらいです。私も最初の二日はこっちに来られなかったので、正確にはわかりませんけど」
「では聞くが……事故をやらかしたのは覚えとるが、その後はどうなったんだ」
「……」

サバテは数瞬の間俯いていたが、ややあって、事のあらましを語り始めた。



最終更新:2009年09月23日 23:57
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