(投稿者:神父)
フォルクスヴァーゲンがタイヤを軋らせて走り去るのとほぼ同時に、スコップを担いだMAID───正確にはMALEが街道へ飛び出した。
「ち……ちきしょーッ、こんなんなるんやったらマント取ってくりゃよかったあ……!」
スコップに寄りかかって黒い飛行服の襟元に指を突っ込み、ぜいぜいと息を喘がせつつ西楼蘭訛りで毒づく。
プロトファスマ捜索のために本部勤務のMAIDに非常呼集がかけられ、中庭で惰眠を貪っていた彼、ハルキヨも叩き起こされたのだ。
数秒後、低空を舐めるようにしてもう一人のMAIDが現れた。
「だめですよー、
ハルキヨくーん。犬なんだからもっと元気よく走り回らなくっちゃ」
「無茶言うなや! MAIDかて一時間も全力疾走してたら脚がどうにかなってまうわ! ちきしょー、俺も乗せれー!」
「過積載は道交法違反ですよー」
「じゃあかしい! 空に
道路も
積載もあるかい!」
「瑛語のボケはちょっと拾いづらいかなあ。ここエントリヒだし」
「大きなお世話や! ……うええ、あかん、マジで頭くらくらしてきよった。なあパチェ、ホンマ休んでええ? てか休ませてえな」
「ええー?」
パチェと呼ばれたMAID───
ピアチェーレが黒と紫に彩られた翼を消散させ、地上に降り立つ。
熟練したラリーのような素早い応酬が途絶え、シュタルカート街道の上にわずかな静寂が降りた。
彼ら自身の息遣いを除けば、はるか遠く、非常線から銃声と思しき破裂音が散発的に届くのみだ。
「ね、ハルキヨ君、上から見えたんだけど」
「何や」
「さっき街道を市外の方へ走ってった車があってね、あれが例のプロトファスマじゃないかなあって」
懐から携帯瓶を取り出し、ミネラルウォーターをあおっていたハルキヨが盛大に吹き出した。
「わ、汚い」
「あ、あッ、あー……」
「アッー? 六尺兄貴がどうしたの?」
「……アホかあッ! 敵さんが目の前におるんに無視したんかい!」
「Gだけに」
「楼蘭語でボケとる場合か! とっとと追っかけ───」
「いやー間に合わないんじゃないかなあ。私もそんな速度出ないし、素直に非常線に任せた方がいいと思いまーす」
「……さよか。はあー、萎えるわー。俺ら今日何やってたんやろなー。延々走ってそれで終わりとかもうなー……」
「あー、でも」
何か面白いものがないかと街道上を素早く行き来していたピアチェーレの目が、何かを捉えた。
「……半分だけ、愉快でたまらないものならそこに見えるけど」
「何やそれ。残り半分は何やねん」
「うーん、不愉快極まる感じ?」
それは、冷たい路傍に横たわった一組の男女であった。
「……、死にかけとるやないけ!」
「……は病院まで飛ぶから後よろしく!」
「……しく、て、応急処置なんかできひんがな! 大体胸のど真ん中に───」
(……)
割鐘を打ち鳴らすように、誰かの声が意識を叩いている。
それでも彼女は自我を閉ざし、瞼の裏に焼きついた視線をフラッシュバックさせ続けていた。
(目……あの目は……)
彼女に向けた銃口と同じくらい深く黒く、しかし銃弾はおろか内心一つ吐き出そうとはしないあの男の目。
(怒り……違う。悲しみ……違う。嘲り……違う。……空しさ?)
そうだ、あの男の目は虚ろそのものだった。ただ来るものを静かに受け入れるだけの空隙。
顔の上に作られるわずかな、そしてぎこちない表情は、その隙間を覆い隠すためのものだったのだろうか。
(怖い)
(怖い)
(彼のように、何もかもなくしてしまうのが怖い)
(助けて)
(誰か───)
彼女が目を開くと、至近距離で別の双眸と視線が交差した。
「生きてたら返事のひとつもせ───おおう、なんや生きて───」
「はっ───きゃああ!」
本能的に、彼女……すなわち
サバテは胎児のように四肢を縮めた。そして運の悪い事に、その膝の通過点に眼前にいた人物の股間があった。
言うまでないが───断末魔もかくやと言うべき絶叫が夜のシュタルカート街道に轟き渡った。
「お……おおッ……ふんッう……うおお……」
わずか数秒の絶叫で呼気を絞り出してしまったその男がごろごろと石畳の上を転がって悶絶する間に、サバテはようやっと夢うつつから醒めた。
「あ……あれ? 私、撃たれたんじゃ……」
途切れた意識を辿ろうとし、その拍子にあの男───グ・ローズ・ヌイの視線を思い出して身を震わせる。
とにかく、胸を撃たれた事は間違いない。しかし彼女は間違いなく生きていた。誰だか知る由もないが、誰かの股間を蹴り上げられる程度には。
目線を下げると、いつの間にか彼女のネクタイは解かれ、胸元が大きくはだけられていた。
そして胸の間に引っかかるようにして、壊れた懐中時計がそこに横たわっていた。煤けた銀鍍金の裏金は無残に裂け、変形した弾頭と絡み合っている。
だが、彼女の肉体には、あざのひとつすらありはしなかった。
「ブルクハルトさんの……時計……」
懐中時計を首にかけていなければ、サバテは即死していただろう。彼女はその生みの親の遺品に救われたのだ。
そしてその事実が、彼女の無力さを強調していた───懐中時計は、彼女は誰かに助けられなければ己の身すら守れないと語っているかのようだった。
「おいこら」
一人で黄昏れ始めたサバテに、先ほどまで股間を押さえてうずくまっていた男がぶっきらぼうに声をかけた。
「はい───?」
彼女が顔を上げると、そこには東洋人と思しき顔立ちの若い男がいた。SS制服とよく似た黒服を着ている。
が、今の彼女にとっては服装も人種もさして重要ではなかった。
その男は目つきが悪く───いわゆる三白眼である───髪は怒れる獣のごとく突き立ち、凶行を暗示するようにスコップが傍らに転がっている。
さらに言えば、そもそも彼は股間を蹴り上げられた事で少なからず不機嫌になっており、それがそのまま顔に表れていた。
「……」
心中のどこかで堤防が決壊し、サバテはその場にへたり込んで子供のようにめそめそと泣き始めた。
無論その男───ハルキヨはそんな事態など予想しているはずもない。不機嫌もどこへやら、彼は大いに狼狽した。
「え、ちょ、なに、何や!? 俺、なんもしとらんで! えーと……ははーん、どっか痛いんやな! 撃たれとるしな!」
「……」
どうにか空気を和ませようとする彼の努力は、完全に無視された。
ここは反応があるまで努力を続けるかキレ芸に走るべきか───彼は地道に努力する事にした。
すでに応急処置云々という考えは頭から消えている……と言うよりも、そもそも傷が見当たらないのだ。
「それにしてもあれやね、ばっちり撃たれてんのに無傷ってのはなんや、防弾おっぱいっちゅう事か。えーなー」
「……」
「そんだけでかいと股間のマグナムもたじたじやでホンマに。ハヴとどっこいやなー、いやーたまらんなー」
「……」
あからさまなセクハラ発言にも反応がない。ここはそろそろ自暴自棄の芸に走っても仕方あるまい。
「それでやね、名も知らんお姉さま、……結婚してくだちい」
「ハルキヨ君、その表現は楼蘭語でしかも紙媒体じゃないと通用しないよ?」
無言の彼女からいきなり反応があった───わけはない。
ぎょっとしたハルキヨが振り返ると、そこにはさも当然と言わんばかりに彼の相棒、ピアチェーレが笑顔で立っていた。ただし、右手にMP40を構えて。
「お、おおう、戻ったんかいな」
「戻りましたよー? だってハルキヨ君がけだものになってるんじゃないかって思ったから。大当たりなのでエイギア温泉旅行が進呈されまーす。私に」
けだもの、と聞いてハルキヨは自らが現在置かれている状況を考え直した。
一つ、自分。
二つ、あられもない格好で泣き崩れている女性。
三つ、深夜、無人の路上。
「ぼぼぼぼ暴漢ちゃうわ!」
「あわてて否定するって事はそうだって言ってるのと同じだよ?」
「い、い、いや待てパチェ、俺はまだ死にとうない、てか銃を下ろしてくださいお願いします」
「銃を下ろしたらどうするの?」
「そりゃもちろん、この麗しの女神ちゃんを泣き止ませてやな、心臓を撃ち抜く勢いで俺の愛を受け取っ、」
「ほほう」
ピアチェーレの顔に大きく笑みが広がった。ただし瞳孔が開き気味である。
「あっ、いや、その、今のは言葉のあやっちゅう奴で」
「この状況でそのボケはどうかと思いまーす。空気の読めないワンちゃんにはお仕置きが必要ですよねー」
「犬は犬でも空飛ぶ犬やで、空気くらい読めるで……なんつって」
「……少し、頭冷やそうか」
再び断末魔の絶叫が街道にこだまするまで、それほど時間はかからなかった。
左側のフロントフェンダーが潰れているために、グ・ローズ・ヌイはハンドルをしっかりと保持し続けなければならなかった。
アライメントが狂ったらしく、始終右へ右へと進路をそれていこうとするのだ。
しかもタイヤがフェンダー内部と干渉しており、そのためにゴムの焦げるにおいが撒き散らされていた。
「……」
あれで良かったのだろうか、と彼はいまや吹きさらしとなった車内で自問した。
胸を狙っておいて一発しか撃たず、しかも死亡の確認すらしてはいない。
故人曰く、祈りながら頭に二発、心臓に二発───ダブルタップは確実に相手を殺すための基本だ。だが彼はただの一発で済ませた。
銃弾を惜しんだわけはない。なんとなれば、殺したその場で死体から銃を盗めばいいだけなのだから。
何が己をして完全な射殺を躊躇わせたのか、あるいは己を躊躇わせる何かが存在していたのか……彼は自分自身を理解し得なかった。
自分が何者であるのか確信を持たず、持ちえず、MAIDでもなければGでもなく、ましてや人間などとは程遠い、定義不能な何か。
それが彼であり、
レギオンであり、ひいてはプロトファスマと呼ばれる存在の実態であった。
そしてそのために彼はただひたすらに外界を観測し続け、そこに映ずる己の鏡像を追い求めていた。その自覚があるにせよ、ないにせよ。
ふと暗い路面からはるか前方へと目を転じると、非常線の兵士たちが盛んに発砲を繰り返している様子が見えた。ただし彼に向けてではない。
この混乱に乗じて何者かが軍を襲う気になったのだろうか。やがて非常線までの距離は1km足らずとなり、彼にも戦闘の具体的な様相が見え始めた。
(MAIDか……?)
兵士たちは奮戦していた。相手は一人か、多くとも二、三人といったところだろう……MGの射線の集束具合から見て彼はそう判断した。
そして兵士たちはわずかな敵を相手に苦闘し、時になぎ倒され、あるいはずたずたにされていた。
どこから持ち出したのか巨大な
砲甲冑まで戦闘に参加していたが……それがたった今、彼の見守る前で破壊されて炎上した。
鮮やかな火焔が街道を照らし出し、戦闘の中心に立つ人物を浮かび上がらせた。
それは、
カ・ガノ・ヴィヂであった。いまや彼我の距離は100mもなく、彼にもその姿は容易に識別できた。
黒い刀を振り回す男の周囲には兵士たちの死体やその武器、バリケードの成れの果て、そして先ほど破壊された砲甲冑などが散らばっている。
そして砲甲冑の撃破が契機となり、兵士たちは連携を失って次々と殺害されていった。
「……カ・ガノ。何故ここにいる」
グ・ローズ・ヌイが辿り着くより前に、戦闘は終わっていた。
彼は車を静かに止めると、
R120の残骸に腰掛けたカ・ガノ・ヴィヂに声をかけた。
「お前にそれを知る必要があんのか?」
「必要はない。しかし興味はある」
「はっ、いつもいつも屁理屈こきやがって。まあいいさ、別に隠すようなもんじゃなし……お前がへまやったって聞いたから助けに来たのさ。助かったろ?」
「そうだな。非常線を突破する手間が省けた」
「ったく、ありがとうくらい言えねえのか、お前は。おかげでこっちはいらねえ消耗を強いられたってのに」
「そうか、それはありがとう」
「もちっとありがたそうに言ったらどうだ」
「そうか、それはありが」
「もういいもういい」
死体の一つから剥ぎ取った煙草───銘柄はV2だ───に火をつけ、カ・ガノ・ヴィヂは大きく息をついた。
「それで、消耗したと言うのは?」
「……見りゃわかるだろ。お前の目は飾りか?」
彼の言葉に、グ・ローズ・ヌイは改めてぐるりと周囲を見回した。
死体と残骸が山積する中で、黒く細いものがあちこちに突き立ち、散らばっていた。
「単分子刀か。何故これほど大量に使った」
「好き好んで使ったんじゃねえ、使わされたんだ。奴らは手強い」
「なるほど」
単分子刀───より正確には超硬質単分子構造刀と言う───は、その尋常ならざる切れ味を最大の特徴とする。
しかし無論の事、理法によって規定されたこの世界で何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない。
この場合、犠牲となったのは靭性であった───共有結合で繋がり合った分子は構造を堅固に保つ事ができるが、衝撃に対して極端な脆性を示す。
まして単分子レベルの厚さしか持たない不安定な構造体である。少しでも横方向の力を加えれば、何の抵抗もなく折れてしまうだろう。
下手な扱いをすれば、振りかぶった際の軌道のブレと風圧だけで真っ二つになる。そして彼は、刀剣の扱いを習った事などまるでなかった。
もっともこの事実は、「振れば切れる」という単純な扱い方しか知らない状態ですら充分な戦力になりえたとも言えるのだが。
「なるほど、って……こっちが襲うならともかくだ、何の前触れもなく奴らに撃たれたんだぞ。今までこんな事はなかった」
人類は、プロトファスマ、特にレギオンと言う集団に対して少しずつ情報を集めていた。その結果が今回の戦闘であった。
彼らは盲いた中年男という人相をあらかじめ知っていたがためにカ・ガノ・ヴィヂの正体を看破し、先制攻撃を加えたのだ。
さらに彼らは巧みな誘導により彼を機動の困難な位置へと追い込み、MGによる面制圧を試みた。
がしかし───それでも充分とは言えなかった。彼らは数発の命中弾を出す事に成功したが、彼らの幸運もそこまでだった。
「銃……特に機関銃が一番厄介だ。俺の音感に引っかからねえ上に、とんでもない弾量が飛んできやがる」
「初速が音速を超えている以上、当然だろう。もっともお前のM1911A1は亜音速だが」
盲目であるカ・ガノ・ヴィヂが外界を知るための最大の手がかりは音にある。
だが音の伝播する速度は光速に比してはるかに遅く、時としてその差が致命的な結果を生み得た。
彼にとって、音速を超えた物体を見る事は不可能なのだ。
「……しかもだ。奴ら、俺の刀の弱点を知ってるに違いねえ……こっちが切りつけた瞬間にへし折ろうとしやがった」
紫煙とともに吐き出されたカ・ガノ・ヴィヂの苦々しげな言葉に、グ・ローズ・ヌイの表情がわずかに動いた。
「切られた瞬間に?」
「ああ。おかげで一人殺すたびに刀を作り直さなけりゃならなかった」
「……」
「奴らは化物だ。俺たちよりもずっと。Gの進化なんて生ぬるいほどの速度で学習し、技術を発展させ、俺たちを殺しにかかる。
そして何よりも、自分が死ぬとわかっていても一矢報いようとする。自分だけでも生き残ろう、ってな意志がまるで感じられねえ。
一人ひとりは馬鹿でかい機械の部品の一つみたいな……消耗品だ。吹けば飛ぶような屑どもだ。
だが俺たちの敵はその馬鹿でかい機械なんだ。消耗品なんて、いくら潰してもきりがない。頭を潰そうにも奴らには頭の予備までありやがる。
俺たちにできるのは、人類がいなくなるまで殺して回るか、あるいは一気に皆殺しにする方法を考え出すか、二つに一つだ」
「……難しいな」
グ・ローズ・ヌイは、「そんな事は不可能だ」とは言わなかった。それを言ってしまえばレギオンそのものの否定となる。
「さて、辛気臭い話はここまでだ。そろそろ行こうぜ」
「ああ。……待て、乗らないのか」
カ・ガノ・ヴィヂは煙草を踏み消すと残骸から腰を上げ、さも当然のように歩き出そうとしていた。
「車じゃ足がつくだろうが。今頃盗難届けが出てるだろうし、そうなったらアウトバーンを延々追いまくられる事になる」
「……なるほどな」
彼もそこまでは考えが及ばなかった。恐らくは、比較的客観的な立場にあったカ・ガノ・ヴィヂであったからこそその可能性に思い至ったのだろう。
思考する主体が複数存在する事は重要だと、彼は改めて認識した。
「行くぞ」
カ・ガノ・ヴィヂはベルトで覆われた目元を隠すようにコートのフードを被り、人一人いない街道を歩き始めた。
白み始めた東の空に背を向け、夜へ逃げ込もうとするかのように。その背中を見たグ・ローズ・ヌイは、我知らず呟いていた。
「……俺たちは逃げ続けている。現実から逃げるだけで、一体どこへ辿り着けるのか。……そもそも、辿り着く場所があるのか」
「おい、何か言ったか?」
「……いや、何でもない。気にするな」
目深に被ったフードのために聞こえなかったのか、あるいは聞こえない振りをしたのだろうか。
グ・ローズ・ヌイはあえて問おうとはせず、またカ・ガノ・ヴィヂも答えなかった。
……二人は長い街道を歩き続け、地平線から曙光の差す頃、何処とも知れずその姿を消した。
最終更新:2009年05月24日 01:47