(投稿者:Cet)
二人の男が対座している。
片方の男には、二人の女が付き添っている。
「では、そういうことで」
「ああ、問題ない、確実に約束する」
その言葉を受けて、金髪の、眼鏡を掛けた背の低い男は微笑んだ。
アルヒヴァールはとっくに国外へと逃げていた。もとい、逃げたことになっていた。逃がされた、とも言える。
彼女が今滞在しているのは、
ベーエルデー連邦の都市部である。この極端な独立状態にある国家では、敵性勢力の手が著しく及びにくくなっている。
彼女は一ヶ月程前からこの都市に滞在していた、そして、現在
情報戦略課が一体どのような状況にあるのかについては、ほとんど分かっていなかった。
「どういうことなんでしょう……」
彼女が携えた命令書には、以下のようなことが書かれていたのだ。
-貴方は今から独立した権限を獲得します。貴方の任務は『情報収集』です。
特に、我々情報戦略課について、世間に明らかになっていることから、伏せられていることまで、調べられる範囲で探って下さい。
尚、この命令の期限は基本的に存在しないので、そのつもりで。
その文章を要約すればつまり、お役御免ということだった。
何でも好きなことをしてもいい。命令を受けた際に費用として支給された資金は、莫大なものだった。更に言えば、活動を延長する為の資金が、綺麗な形でこの国の銀行にもプールされており、それを含めれば十分永住も可能なほどの資金を彼女自身で保有していたのだ。
一体あの課長が何を考えているのか、彼女には皆目見当も付かなかった。
それにそもそも、それから数日も経たない内に課そのものが消滅するに至ろうとは、彼女にしたところで夢にも思っていなかったのである。
「どうなっとるんだ一体」
ハインツ・ヘルメスベルガー中尉は呟いた。怒りの滲んだ口調であった。
その怒りももっともなものである。というのも、作戦の指示に、というか構築段階において誤りがあったということを、彼らは今ようやく認めざるを得ない状況に入っていたのだ。
現在の時刻は午前三時を回ったところであり、国境沿いの市街に潜伏し始めて既に七時間近くが経つ。お上の想定だと、『彼ら』の現在位置が、国境を優に百キロ程は離れるだけの時間が過ぎていた。
それにしたところで、彼らは未だその姿すら見せていなかった。
「
サバテ、状況を報告」
「は、はい。今のところは特に変わりありません」
宿の一室の窓際に佇む黒い親衛隊制服に身を包んだ女性は、ところどころ詰まりながらに報告を行う。
「……何故なんだ」
心底疲れ果てた呟きを、絞り出すかのように吐き切った。
この界隈に潜伏している親衛隊員は、特務部隊の者を含めると四十人以上に上る。彼らはともども、現在の状況にやきもきしていた。沈黙を守る無線に、暴言の一つでも吐き掛けたいほどだ。
彼らが潜伏を続けている必然性は、たった一つに限られる。それはつまり、お上の指示である。得られた情報を総合すると目標がここに現れることは必然なのだと、お上の決定があったからこそ、彼らはここに居る。それ以上でも、それ以下でもない。
「なあ、サバテ、そろそろ我々はお上の誤謬を認めなければいけない時間なんじゃないかと思うんだが」
「そうかもしれませんけど、私には私自身の権限でこの場を離れることは、できません」
ぼそぼそと会話を交わしながら、潜伏を初めてから何十回目かになる溜息を、ヘルメスベルガー中尉は吐き切った。
「そうは言えども、お上からの指示は来ない。要求したところで、任務の継続を命じられるだけだ」
「それはそうですが……」
宿の四階から路上へと視線を投げかける彼女の緊張も、大概なものだった。
そろそろ、現場の判断というものが必要になる時期ではないのだろうか。
えぇ、どうなんだ実戦指揮官。彼は自らの脳裏に這い上る悪態を相手に議論を続けた。
そんな時だった、無線が返答を要求したのである。
ヘルメスベルガー中尉は素早く通信機を掴み取った。
「こちら赤手袋、どうぞ」
『こちら青頭巾、作戦の停止が号令された。繰り返す、作戦は停止、各員は待機を続けろ、通信は以上』
最悪のシナリオが達成された瞬間であった。
「……了解した、通信は以上」
無線の電源を早々に切ると、窓際に立つ彼女に告げた。
「サバテ、作戦は停止、命令は待機。有り体に言えば撤退準備だ」
ふぅ、と今日彼が初めて聞く、彼女の溜息が漏れた。
「了解です……」
お互いに目を合わせて、一体何だったんだ、と合図し合う。ただただ穏やかでない心中が、どろどろと表情から溢れ出す。
と、その時であった。再び無線機が反応を示したのだ。
指示を小出しにするとは、中々混乱も極まっているといったところか、とヘルメスベルガー中尉は再び無線機を手に取る。
「こちら赤手袋、どうぞ」
『ハインツ・ヘルメスベルガー中尉だな』
聞いたことのない声だった。少なくとも、例の『実戦指揮官様』とは違う声色であった。
「……どちらさまで」
『命令系統の上位に当たるものだ、君達の実戦指揮官よりも。
君たちは今から独立した命令系統に置かれる、これから話す内容は一切口外してはならない』
ヘルメスベルガー中尉は、その時点で、これが一種の異常事態であることを悟った。直接無線に連絡を取れる立場の者が、憚ることなく命令系統の上位を主張しており、そこに根拠は全く示されていないのだ。
「……御言葉ですが、貴殿の身分が全く示されないことには、何であれ私は行動を取りがたい」
『ジェームス・ヴァン・フォッカーの所在を報告しようというのだ』
ぎし、と、軋みを立てて全身が硬直する。
沈黙を保ちながら、彼がサバテの方へと視線を遣ると、彼女は何ら違和感なく小首をかしげてみせた。
「さて、何とか合流にも成功しましたね」
皇室親衛隊の警戒範囲から百キロ程離れた小さな町、その閑散とした路地裏に彼らはいた。
「ひどく、くたびれましたよ課長。意図も知らされないまま逃走を続けて、しかも命令には一通り根拠が無いと来た」
クナーベはぼやいてみせる。というのも、昼間の強襲を凌いだ後の彼らは、再度合流する時刻、場所のみを確認した後に散開し、十数時間を過ごしたのである。
全員がその場にいるわけではなかった。ほとんどのメンバーは、先の時点で脱出を果たしている。
国境沿いのその街において、今、検問は行われていない。というよりも、『ちょっとした手違い』によって、今そこは無人の状態にある。
フォッカーが行った、上層部への手回しが、情報を捻じ曲げ、また、本来行われるべき検問をも停止させたのだ。
クナーベと
ファイルヘンは昼間の時点でも、行動を共にしていた。そして今彼らの目の前にいるのは、フォッカーと、アイシャ、アカシアの三人である。
「嘘ですよね」
フォッカーが笑顔のまま述べる。
「……まあ、嘘ですけど」
「当然、貴方も私たちの動向に気付いていて当然です、そんなことは、流石の私でも存じています」
フォッカーは笑顔のままで言い続け、その間どんどんとクナーベの表情は引きつっていった。ただ彼の愛用品であるサングラスのおかげで、少しばかりその変化を隠すことができてはいた。
「しかしまあ、どうしてこんなことをしようと思ったんです」
ただ、そればかりは彼の納得していないところだった。
その問いに対し、フォッカーは黙りこくって、発言をする様子を見せなかった。
「こうまでして俺たちは解放されて、その上でどうしようかなんて、あまり考えられませんでした」
「そうですね」
静かに、フォッカーは懐から一丁の拳銃を取り出す。
小振りなフォルム、フィンガーカバーから銃身に掛けてのラインが優美な一品であった。
「受け取って下さい」
彼は、それを無造作に、クナーベへと放り投げた。
「うわ」
動揺もそこそこに、それを危なげなくキャッチする。
「何をするんですか」
「それを、こちらに向けなさい」
フォッカーは何気なくそう言ってみせた。
ファイルヘンが、一歩、クナーベの前に出た。
アイシャとアカシアは、沈黙を保っていた。
そしてクナーベは、黙ってその言葉に従った。
「引鉄を引いて下さい」
「何故ですか?」
「理由を聞くようではいけませんね」
戦慄が走って、クナーベは凍りついた。
暗闇の中から、幽鬼の類としか思われない、そのシルエットが現れたのである。
「時間は限られています」
フォッカーが言うと同時に、ファイルヘンが既に取り出していた銃を、暗闇に佇むシルエットに向けて構えた。ぴたり、と銃身は方向を定められ、微動だにしない。
悪魔の類にしか思えないシルエットであった。
その背中には、凶々しい存在感を放つ、翼の形が覗いていたのである。
その時、ザザ、と、ノイズと共に、低い男の声が響いた。
サバテ、そのまま、そのメードに狙いを付けろ。
その声を聞いたのは、ファイルヘンだけだった。彼女は一瞬表情を動かして、そして、状況の経過を見守ることに決めた。
彼女が予想する分に、恐らく、この場にいるのは、あの幽鬼だけではないはずだった。
その誰かを、今行動を起こさせることなく繋ぎとめておくには、状況を継続させなければならない。その法則性を彼女はそれとなく感じとったのだ。
「……動かないで」
銃を携えた幽鬼たるそのシルエットは、か細い女性の声で、そう言った。
最終更新:2009年11月10日 03:24