(投稿者:エルス)
その瞬間を、
ソイリンは寝起きでぼんやりとした頭で見ていた。
狙撃手とは一瞬に掛ける集中力と、敵を一方的に撃ち殺す精神力、目標が現れるまで待つ忍耐力を必要とする。
更に激戦地においては休息も充分でないまま任務を遂行しなければならない。
白夜戦争でその経験をしたソイリンは、比較的凍死する可能性が低い場所で休憩していると、寝てしまうのだった。
今回も訓練の合間に与えられた休憩中に寝ていた。
それを煙草を吸い終えた
クリスティアが軽い拳骨で起したのだ。
「痛い」
「当たり前だ。休憩中に寝る奴がいるか、馬鹿者」
「ごめんなさい。治すように努力する」
「口では何とでも言える。速く立て馬鹿者、他の奴らもだ。立てない奴はスクワット200回だぞ」
最後の言葉を聞いて瞬時に立ち上がる遊撃隊の面々より緩慢な動作で立ち上がったソイリンは愛銃であるモソン・ヴォガンM1891/30の残弾を無意識の内に確認
して、これから何の訓練が始まるのかと考えていた。
クリスティアの都合で10時半に始まった午前訓練は戦術論で言う逆襲だった。
これはカウンターアタックと言われるもので、敵に攻撃を受け、これを防御した上で行う攻撃であり、攻撃転移の手段―――らしい。
らしい、と言うのはソイリンがその意味を半分も理解できていないからだ。
彼女にとってそれは訓練の名前でしかない。戦術は指揮官であるクリスティアに頼りきっているからだ。
―――応急攻撃、追尾追撃、離心的退却、偽陣地・・・
思いつく限りの訓練を考えていると、背中を見せていたクリスティアが左右によろめいた。
そして体勢を立て直そうと踏み込んだ左足からガクンと力が抜け、彼女はそのまま倒れる。
皆、何が起きたのか分かりかねていた。ジョナサンが駆け寄るまで約3秒掛かったのは、その為だ。
「姉御!」
「心配するな・・・少し目眩がしただけだ」
無理矢理立ち上がりかけたクリスティアがまた倒れかけ、ジョナサンはそれを支えた。
比較的落ち着き払っているようにみえる彼も、心の中では皆以上に混乱していた。
だが、彼以上にショックを受けたのはソイリンだった。
彼女がクリスティアに寄せる信頼は絶対だ。だから、そのクリスティアが倒れた時には、ソイリンの眼は人間では無くなっていた。
彼女にとって倒れるという事は、攻撃を受けたと言う事になる。モソン・ヴォガンM1891/30を構え、悪魔は皆を睨み回した。
「誰だ」
ゴクリと誰かが生唾を飲み込む音が大きく聞こえる。殺気が場に蔓延し、精鋭と言って差し支えない皆が戦慄した。
入団手続きの際にソイリンが言った数字を、ジョナサンは思い出し、この殺気に納得した。
―――507
それがカレヴァランド国防軍時代に記録した彼女の公式スコアだった。非公式スコアを合わせれば、それ以上になると言う事だ。
初めは殴れば何処までも飛んでいきそうだと思っていたが、実際飛んでいったのはかかっていった兵士の方だった。
身長も体重も勝っていた兵士が殴りかかった勢いそのままに飛んでいったのは、驚くしかなかったのを覚えている。
それを知っているからこそ、皆は何も言えなかった。空気が重く停滞する。
「ソイリン・・・大丈夫だ。私は大丈夫だから、銃を下ろせ」
「でも」
「下ろせ。これは命令だ」
「了解」
淡々としているソイリンから殺気が消えると、ジョナサンは此方に早足で歩いて来る彼女を見ながら息を吐いて心底安心した。
他の面々も同じだったのか、胸を撫で下ろしたり、冷や汗をふき取る者が多数居た。本人を目の前にして少々リアクションが大きすぎるのではとジョナサンは危惧したが、ソイリンがそんな事まで頭が回るわけがない。
今、彼女の眼が見ているのはクリスティアだけだからだ。それ以外の者など見えてもいないし、聞いてもいない。
クリスティアを支えていたジョナサンは彼女の顔を見たが、それは何時もと同じ無表情で、涙などは全く無かった。
漸く表情が変化すると思ったら、彼女は喋るだけだ。表情に変化は無い。
「クリスティア。大丈夫か?」
「そんなに慌てるな・・・ソイリン。ちょっとした・・・風邪だ」
「風邪?治るのか?大丈夫なのか?」
少しだけソイリンの眼が細まる。ジョナサンは彼女が心配しているのだと思った。
「治る、治るから・・・そんな心配そうな目で見るな・・・やせ我慢をしていた罰だな・・・ふぅ」
やせ我慢、と聞いてジョナサンはクリスティアの額に手を当てた。すると、熱かった。暖かいのではない、熱いのだ。
小さい身体に似合わない事ばかりだなと彼は心中苦笑し、それを表情に出さないように務めた。
大凡38度9分程度か、とジョナサンは推測する。
「ったく・・・無茶しすぎですよ隊長」
「そうだぜ。おい、ジョニー、隊長を運んでってくれ」
「ソイリンも一緒に行け。心配なんだろ?そら、行った行った」
強がりなのか思い思いの台詞を言う遊撃隊の面子に彼は「ジョニー言うんじゃねぇ!ジョナサンだ!」と言い返しながら医務室に向かった。
その後ろをきょろきょろとしながら付いていくソイリンを見たクリスティアはまるで子犬じゃないかと含み笑いを浮かべる。
倒れておいて笑みを浮かべているクリスティアを見たジョナサンは、溜息を吐いてから言った
「姉御はやっぱり無茶ばっかだ」
「何だ・・・ゴホッ・・・ジョナサン、無茶のない戦場があるとでも言うのか?」
「いーや、ただ思っただけですよ。ソイリンと姉御は、自分の身体を気遣わない所とか似てるなってね」
言ってから殴られるんじゃないかと思ったが、クリスティアは少し笑っただけで、殴られるようなことはなかった。
「ゴホッ・・・何だ、分かってるじゃないか・・・」
ただ、そう呟いただけだった。
―――[V]―――
結局医務室に運ばれて元軍医のユッカ・コルピに安静にしているようにと言われたクリスティアは大人しくそれに従うしかなかった。
数日間彼女が居ない遊撃隊の士気低下は仕方が無いにしろ、誰も気にしていなかった最大の問題点があった。
事務である。書類整理、補給された物資一覧表、予算関係、外交などなど。
さすがにゼロヘイヤ・カートン一人だけでその穴を埋めるというのは不可能なので、遊撃隊から頭の良い元エリート
三名でローテーションさせてやる事にした。一人だけでは戻った時に鈍って使い物にならなくなるからだ。
臨時中隊長に選ばれたのは第二小隊隊長のルドルフ・ベーレンドルフで、ベーレンドルフの抜けた第二小隊は人数上そのままで、副隊長がそのまま隊長になった。
元
エントリヒ帝国国防陸軍少佐の彼ならば大丈夫だろうと、病床のクリスティアは言っていた。ジョナサンもその通りだと思っている。
実際クリスティアが抜けた事で遊撃隊の士気が下がっていたが、ベーレンドルフはそれを感じ取ったかのようにミーティングを開いた。
勿論、全員出席した。それが士気の上昇になったかと言えば、そうだろう。
クリスティア程ではないにしろ、ベーレンドルフもそれなりのカリスマ性を持っている男だ。苦笑しながら聞く者も居たが、最後には拍手がベーレンドルフを迎えた。
ただ、ジョナサンがその事で胸を撫で下ろすことはできなかった。
その原因は、ソイリンだ。
無表情で無口だから落ち着いているように見えるが、行動が全然落ち着いていなかった。
まずお湯を運んでいたら何にも無いところで転んで向かい側から歩いてきた
ナイト・ロウ・バイパーにそのお湯が掛かってしまったり、体温計の使い方が分からなくて手を滑らせて落っことしたり、
勝手に薬を勝手に持ち出そうとして文字が読めないから手当たり次第持ち出そうとしたり、などなど。
勿論、体温計や薬の持ち出しの件についてコルピは真っ赤になって怒っており、叱られるソイリンは表情こそ変わらないものの、しょんぼりとしていた。
そんな事やら何やらがあってクリスティアが倒れてから三日経ち、今日も医務室でソイリンとジョナサンが見舞をしていた。
見舞と言っても、ジョナサンはクリスティアの介抱をコルピと協力してやっているので、精確に言えば見舞をしているのはソイリンだけだ。
「気ぃ落とすなよソイリン、お前は姉御を見守ってるだけで良いんだからよ。介抱は俺に任せとけって」
軽い口調でジョナサンが言うが、心中ではコルピの怒りを収めるのが面倒だからという愚痴も入っている。
「ジョナサンの言うとおりだ・・・ソイリン」
「それが命令なら。従う」
「ゴホッ・・・命令ではないが、出来ない事を無理してやる必要は無い。分かるな、ソイリン?」
「分かった。私は見守るだけにする」
「そんなに落ち込むな・・・ゴホゴホッ・・・私は大丈夫だ」
「分かってる。そろそろ時間だ。また明日」
「あぁ、また明日」
心なしかしょんぼりとするソイリンが医務室から出て行くと、クリスティアはジョナサンの袖を三回引っ張った。
それは、話があるという意味だ。
「何です、姉御?」
「今日は訓練か?」
ジョナサンはなんでそんな事をと言いながらも、今日は物資を奪いに行くんですよと返した。
クリスティアは何度か咳をしながら、何か考え事をし始めて、ジョナサンは何事も起きませんようにと願う。
勿論、何事も起きない筈がなかった。そういう時ジョナサンは、呆れたように溜息を吐くしかないのだ。
―――[V]―――
対G戦の初期に廃墟となった街を移動していた
アルトメリア連邦陸軍補給部隊の護衛に付いていた一両のM4シェイマンはそのワイヤーに気付く事無く
引っ掛かり、左側面からツィーファウスト二発の直撃を受けた。成形炸薬弾頭を使用するツィーファウストはM4シェイマンの装甲を易々と貫通し、
搭乗している兵士を爆風で殺傷し、M4シェイマンは派手な音を立てて無力化された。
異変に気付いた後方のトラック五台の内真ん中の一台と最後尾の一台は乗せていた歩兵を周囲に展開し、防御の陣形を取る。
その動きは速かったが、攻める遊撃隊がそれを許す訳が無い。身を隠すのに最適な五箇所にはエントリヒ軍の対人地雷が設置されていた。
Sミイネと呼ばれるそれは触覚のようなセンサーを踏んだ兵士の足元で跳躍する為に一度爆発し、それぞれ差はあったが約1.2m程飛び上がった所で二度目の爆発を見せた。
ケース内の320個の鉄球とケース本体の破片が兵士の至近距離で炸裂し、身体をボロ雑巾のように引き裂く。
動きの遅かった兵士も少量だが破片や鉄球を喰らい、無傷の者の方が少ない。
そしてそれに追い討ちをかけるかのように、軽機関銃を構えた兵士の頭が割れた。
「狙撃手だ!伏せろ!」
そう叫んだ老兵の頭も割れた。ある者は死んだ仲間の銃を取り、弾丸を掻き集めて反撃に出ようとするが、その逆も居る。
トラックの下に潜り込んで震えている者や、銃を持ちながらもどこかに白い布は無いかと探している者達だ。
「バウンシング・ベティだ!畜生めっ!変態帝国の野郎共が糞ったれなもん作りやがって!」
「伏せろ!伏せろ!頭を出すな!狙われるぞ!」
「ああああああぁぁ!糞っ畜生畜生畜生おぉ!俺の目があぁ!目がああぁ!」
「何なんだよこりゃあ!?人間相手の戦争は馬鹿馬鹿しいとかこの前大統領だって言ってたぞ!?」
「馬鹿馬鹿しい!?血生臭ぇの間違いだろうが!」
突然の攻撃に混乱する部隊を見て、中隊指揮を執るベーレンドルフは第一小隊を陽動として敵前面に移動させ、第二小隊を敵の背後から攻撃するように指示した。
第三小隊は物資回収の準備をしており、第四小隊は二班に分けられ、第一斑は約300m離れている丘から狙撃しているソイリンの護衛、第二班は第三小隊の護衛だ。
鹵獲したSミイネの性能を見るという目的は達し、敵部隊も既に壊滅状態。
中隊指揮官として華々しい戦果だと思いつつ、敵部隊の頭上、廃墟ビル三階で事を見ていたベーレンドルフは赤い地面から目を逸らした。
廃墟ビルを使用しての頭上からの攻撃は作戦としては有効だったが、床の強度が問題となり、実行できなかったのだ。
負傷者が出るかもしれないと半ば恐れながら、ベーレンドルフはあの悪魔に願った。
「赤髪の悪魔・・・貴様の狙撃で、全員が無事で帰れるかが決まるのだ・・・」
―――[V]―――
ソイリンが慣れ親しみ、身体の一部と言っても過言でもないモソン・ヴォガンM1891/30で行う狙撃は、精確無比だ。
彼女は廃墟を見下ろすかのように聳え立つ岩山の頂上で地面に寝そべり、照準眼鏡を使用せず、アイアンサイトで狙いを付けていた。
照準眼鏡を使用すればその反射光で位置が敵に露見する事と、射撃時の体勢がどうしても高くなってしまい、逆に狙撃され易くなるからだ。
もっとも、彼女は白夜戦争の頃からこうして狙撃を続けているので、一種の癖のようなものとなっている。
横には双眼鏡を覗き込み、ぶつぶつと風速や次の目標指示、その目標までの距離を等の狙撃に必要な情報を呟き続けているのが、観測手だ。
だが観測手を努めているオブライエンはそろそろ我慢の限界が近かった。先程から観測手として情報を伝えているのに、彼女は聞く耳を持たないからだ。
「次、右に3cm。距離312m、風速右4m。変則的に変―――」
その先の言葉は銃声で掻き消された。目標の軽機関銃を両手に持った兵士に命中はしたが、オブライエンは彼女に聞こえるように舌打ちをする。
観測手の情報を最後まで聞かないで撃つというのは明らかに侮辱行為だ。同じく狙撃手でもある彼はその事に我慢できなかった。
目の前で自分の役目を淡々とこなされ、それを手助けしようとしている此方の手を彼女は無視しているのだ。
彼がそんな事を考えている合間にも、彼女は遊底を引き、次弾を装填した。
双眼鏡を覗き、敵の位置を教えようかと思ったが彼は口を中途半端に開き、そして止めた。
どうせ聞いていないのだ。言っても無駄だろう。
その答えのように彼女は鉄爪を引き、銃声が鳴った。
「・・・ん?」
その異変に最初に気付いたのは他でもないオブライエンだった。目標を指示していなかったので彼女が何を狙ったのか分からなかったが、動いている兵士の数が減っていない。
まさかなと思いつつ彼は双眼鏡から目を離し、彼女を見る。そして、驚いた。
それは彼女が始めてみせる顔だった。アイアンサイトを覗いたままの体勢で目を丸くして口をポカンと開けている。
遊底に触れている左手は良く見れば微かに震えていて、顔色も段々悪くなっていく。
―――命中せず
その一言が喉から出て行きそうだったのを咳で誤魔化し、彼は彼女の肩を叩いた。
「おい、何ボケッとしてんだ!早く次を撃て!」
「了解。次は。外さない」
ハッとして現実に帰ってきたソイリンは遊底を引き、次弾を装填。狙いを付けて、鉄爪を引いた。
だが、銃声はしない。モソン・ヴォガンタイプの目立つ発砲音が、鳴らなかった。
オブライエンはその初歩的過ぎるミスに唖然とするしかなかった。弾切れの状態で遊底を引いて鉄爪を引いた所で、何も出るわけが無い。
残弾数の確認など長くその銃を使っていればしなくても分かるようなものだが、それが出来なかった。それは兵士として致命的だ。
慌てて弾丸を込める彼女の精神状態など彼にはあまりよく理解できなかったが、何時もとおかしいと言う事は理解できた。
そして思い返すと彼は漸く納得するのだ。クリスティアが彼女にとってどれ程大切な存在かと言う事に。
「落ち着けソイリン!何時も通りやれば上手くいく、だろ?」
「分かっている。大丈夫。外さない。外れない」
今度はちゃんと銃声が響いたが、命中はしなかった。
「何故。手が震える」
ボツリと呟くソイリンの目には、仕留められない獲物が映っている。
そしてその獲物は死に掛けていた。前面に展開した第一小隊が建物内に逃げ込み、後ろに回り込んだ第二小隊が所持する銃火器を連射する。
前に気を取られていた者は次々と弾丸に身を引き裂かれて絶命していくが、脆いというのに強靭さを見せるのが人間か、まだ抵抗する者は必死の反撃に出た。
人数にしてたった11人だが、指揮する中年の兵士が他を奮い立たせ、極度の興奮状態に陥っている為に、急所を外れた弾の一、二発では止まらない。
更にトラックに積まれていたのか、ブローニグM2重機関銃を碌な狙いも付けずに乱射するのだから、第二小隊は攻撃を中止するしかない。
ならば第一小隊がと建物から出ようとするが、前面はM3半自動式小銃と軽機関銃を持ったオールバックの兵士が筋肉質の兵士と割れ眼鏡の兵士の三人組で、
警戒されており、運の悪いことに裏口も崩壊しているので第一小隊も動けない。
第三小隊と第四小隊第一斑を援護にやればすむかもしれないが、その場合物資の回収作業が遅れることになり、敵増援と手合わせする事になる。
しかしこのままでは、時間だけが過ぎるだけだ。ベーレンドルフは考え、眼下で行われている戦闘を見るしかなかった。
武器は自衛用のヴァトラーP.08。しかし、拳銃弾一発でも撃てば、重機関銃の銃口は此方を向き、弱りきったコンクリートを砕き散らして我が身を襲う。
指揮官を失った部隊は混乱し、行動を停止する。頭を失った蛇と同じように。
「アルトメリアンドリームってヤツを穴にブち込んでやる!!出てきやがれ臆病な強姦魔共ッ!」
「犯るだけ犯ってとんずらってか!?笑わせんじゃねぇよ!こちとら脇腹に穴開けられてカンカンだっつんだよ!」
「脳足りんのド低脳の集まりなんかがでしゃばりやがってえぇ!ざけてんじゃねぇぞ畜生が!」
唾を飛ばして口の端に血の混じった泡を作りながら声を張り上げる兵士達の1人、割れ眼鏡の男にソイリンは狙いを付ける。
風速、距離、射撃に必要な情報は全て分かっている。それでも手の震えは止まらない。彼女は自分の事にも係わらず、その原因が分からない。
鉄爪を引いて撃つ。しかし弾丸は命中せず、湿った地面に突き刺さっただけだ。砂埃すら上がらない。
呼吸が乱れている訳でもなく、精神的に追い詰められている訳でもない、なのに何故と彼女は自問する。
そんな時だった。出口の見えない問題に立ち向かっている彼女の肩に軽い重みが掛かった。
「ソイリン・・・ったく、私を困らせないでくれ・・・ゴホッゴホ」
小さな声でそう言ったクリスティアは寝巻きの上にトレンチコートという格好で、顔色は赤くはなく、青に近い。無理をしているのは目に見えて明らかだ。
その後ろではここまでクリスティアを運んできたジョナサンが第四小隊第二班の面々から抗議を受けている。病人を外に、しかも戦闘が行われている前線に出すとは何を考えているんだと。
そんな言い争いも、ソイリンにはもう聞こえていなかった。狙撃体勢のまま、彼女は蚊の鳴くような声で言う。
「何で。ここにいる?何で。貴方は休まないといけない。だから。私が頑張らないと―――」
「ソイリン!・・・命令を復唱しろ」
やはりこいつは子兎よりも子犬の方が似合うなとどうでもいい事を一瞬思ったクリスティアだが、それでもソイリンが駄目になった理由が彼女には一瞬で分かった。
言葉よりも行動で示すのがソイリンの良い所であり、悪い所だった。それに表情には出なくても、雰囲気に出てしまうのもある。犬の尻尾のようにソイリンの感情がクリスティアには読めた。
「命令。ごめんなさい。忘れた」
命令など出していないのだから当然だ。クリスティアはそう思いつつ額を押さえたが、すぐにそれを止めてソイリンの頭に手を置き、そのまま優しく撫でた。
驚いたかのようにソイリンの身体がビクリとしたが、クリスティアは気にせずソイリンの耳元で呟く。
「・・・さあ、いつもどおりに成果をみせてくれ、ソイリン」
「了解。だから。自分の身体を気遣ってほしい」
「判っている・・・作戦が終わったらゆっくり休む」
「約束した。絶対だ」
「約束する。・・・そのためには、判ってるな?」
「解ってる。私は狙いを外さない。弾丸は狙いを外れない」
悪魔が遊底を引き、次弾を装填する。ソイリンは何時の間にか手の震えが消えていた事に気付かなかった。今の彼女はそれを障害と見ていない。指が潰れていても、今の彼女は狙撃をするだろう。
一度深呼吸をしてこの弾丸なら当たると自分に言い聞かせ、改めてアイアンサイトを覗き、目標の敵兵士を見る。1人事切れたのか、数は10人に減っていた。
だがそれも些細な問題だ。少なくなっているのだから、此方に特と言っても良い。
―――さて、終わらしてくれよ?さっきから頭を煩い請求屋がノックしてきているぐらいに頭痛が響いてるんだ・・・
クリスティアの限界を知ってかしらずか、赤髪の悪魔は本人もそれと知らずの内に連射していた。
一撃目を放ちすぐに遊底を引き、二撃目。その繰り返しで撃ち切れば弾を込め、また狙い撃った。
こうして約1分半の内に10発の弾丸が放たれ、その全てが命中した。
作戦成功を見たベーレンドルフが物資回収の為に第三部隊と第四部隊第一斑を呼び出し、第一小隊と第二小隊は戦利品を漁り始めていた。
「全弾命中。終わった。早く帰ろう」
ソイリンが隣に立つクリスティアに言う。その声はやや低く、震えているように感じた。
また心配しているのかと、後ろで控えているジョナサンは気付いてからソイリンに見えないように少し笑った。
最初は感情が無いのかと思っていたが、今となっては声で分かるのだ。
「あぁ・・・」
クリスティアがそう漏らすと同時に強い風が吹いた。その風にすら対抗する力がないのか、彼女はそのまま倒れてしまった。
運良くソイリンが居る方へと倒れてきたので良かったが、前に倒れていたら3m下の岩に激突していた所だ。
「どうした?何処か痛いのか?一体。何処が」
クリスティアを支えるソイリンの心情は、ジョナサンだけでなく観測手という任務を放棄してしまったオブライエンにも分かった。
今にも泣き出してしまいそうなその声を聞き、何かしなければならないと知っているが何をすれば良いのか全く分からないので震えている手を見ればどんな馬鹿でも分かる。
そしてジョナサンは待ってましたとばかりに短距離を走り、持ってきていた毛布をクリスティアに被せた。
「無理しすぎだ姉御・・・ああ、ちょっと体が冷えすぎてるな・・・おい、ソイリン。とびっきり重要な任務だぜ」
「何だ」
「じつは・・・」
ごにょごにょとソイリンにある事を伝えるジョナサン。ある事と言っても、それ程難しい事ではない。
要はクリスティアが冷えないように添い寝しておいてくれというものだ。理由として同性だから、と付け加えておいて。
「解った。それで。治るんだな?」
「治るというか、まあ治りやすくするための手段だ。あとは姉御次第だから・・・無茶しなければ大丈夫、そうだろ?」
「そうなら。そうなんだろう」
「なら頼んだぜ、何せ小さいっても遊撃隊の隊長だ。とびっきり重要な任務だろ?」
「理解してる」
「よし、そら行け」
「了解。ありがとう。ジョナサン。感謝してる」
「いいからとっとと行けって、俺行くんだから、ほらほら」
ほぼ無理矢理ソイリンとクリスティアを車に乗せて、後部座席に自分も乗り込み、運転手にOKサインを出してジョナサンはホッとした。
運転手がアクセルを踏み、ピーキーにチューンされたエンジンが化物のような馬力を発揮して驚異的な加速をした。
その走り去る車を見ながら、癖毛のマックが煙草をポケットから取り出し、口に咥えてジッポーで火を点け、吸い始める。
「ったく、名前で呼んだの、隊長の次がジョナサンかよ・・・オブライエン、あとで50メルトやるよ」
「おいマック、てめぇらソイリンで賭けてたのかよ?」
「まあな、軍隊の娯楽と言えば隠し持つポルノ雑誌と賭け事に鍛え上げられた肉体に惚れて来る面ヤバ女だけだって知ってんだろ・・・フゥ、作戦成功祝いのヤニは格別だねぇ」
「何気取ってんだか。ヤニより自分の財布心配しろよ、50メルト持ってんのか?」
「そんくらい持ってるって、心配すんなよオブラナリ」
「わざと間違えてんじゃねぇよ、オブライエンだ馬鹿チン」
物資回収を終えた第三小隊と第四小隊第一斑が廃墟の街を出て行くのが岩山からははっきりと見えた。
オブライエンは癖毛のマックを軽く小突いて笑い、それに合わせて第四小隊第二班の面々は互いに握手をして笑い合った。
それは他の小隊も同じだった。また今日を生き延びたという実感は無かったが、重傷者も無く戦闘が終わってくれた事に対して誰とは言わないが感謝しているのだ。
この時は普段寡黙で滅多に笑わないベーレンドルフも声を上げて笑い、臨時中隊指揮官として初陣を完全な勝利で飾った男として、彼は賞賛された。
地平線に太陽が消え始め、空が真っ赤に染まった時だった。
―――[V]―――
クリスティアは眠りから覚めた。瞼を開くがそれはぼんやりとしていてはっきりしない。
慣れるまで医務室の天井を見ていた彼女は左右を見ようと首を回して、まず最初に右を向いた。
そこにはパイプイスに座ったまま眠っているジョナサンがいた。比較的地味な私服姿で何故かうなされている。
見舞いをする体力が無いのなら自分の部屋で寝ていれば良いものをと思いつつ、次に左を向く。
「・・・・・・なっ?!」
珍しくクリスティアが素っ頓狂な声を上げる。左にいたのはベッドに入り込んで眠っているソイリンだった。
彼女はクリスティアにピッタリとくっ付いて眠っていたため、左を向いた拍子に額と額が触れ合ってしまう程の近さにまで達していた。
左を向いて目に飛び込んできたのが物凄く近いところに居る人だったら、誰だって驚く。
そして少し離れてクリスティアはソイリンの頭を優しく撫でた。すると眠っている彼女の表情が、今まで一度も見たことの無い笑顔になった。
今日は驚くことばかりだなとクリスティアは嬉しい溜息を吐いた。こいつもこんな顔をするのかと思い、これは安心しているからだろうなと続けて思う。
よく見ればソイリンはおもしろい寝方をしていた。猫のように丸くなって寝ている。
恐らくは体温を逃がさない為にそうしているのだろうが、それを知らない者が見れば可愛らしい少女にしか見えないだろう。
子兎と呼ばれていてそれを自分はそんなに可愛らしくないから似合わないと言っていたが、あれは嘘だな。
そんな事をクリスティアが考えていると、ソイリンが三度ほど咳をした。今更気付いたが、顔も少し赤らんでいる。
「まさか・・・な」
そう言いながらクリスティアはソイリンの額に手を当てると、予想通り熱かった。
対してクリスティアはまだ寝起きでぼんやりとするものの、頭も痛くないしだるくもない。
「・・・うつしてしまったか」
その言葉に答えるようにソイリンがまた咳をする。
逆側のジョナサンは盛大にくしゃみをしてパイプイスから落ちて、物凄く痛がっていた。
―――[●]―――
医務室で申し訳程度に生えている白髪と白いチョビ髭持つ老人、ユッカ・コルピは最近になって急激に増加した溜息をついた。
メードが風邪をひくという事が起き、とりあえず人間と同じ処置をしたが赤髪の娘が体温計を割ったり薬を盗もうとしたりと面倒を起し、
最終的のその娘まで風邪をうつされて寝込むとはどういうことだ。
しかしそれでも、短時間の説教と溜息だけで済むようになったのはコルピがもう既に老人だからだ。
というのも、白夜戦争以前から軍医を続けていたコルピは怒鳴り続けた結果、大声が出せなくなり、凍傷で右足の指を失っている。
それほど元気の無い爺を拾ってくれたのが
ヴェードヴァラム師団であって、この問題児の巣窟であった。
だが、そんな巣窟にも真面目な奴らはいるものだ。風邪をひいたメード―――クリスティアが率いる遊撃隊の面子がその代表例だ。
性格は異なるが根は真面目で仲間思いの彼らは、風邪をうつされた娘―――ソイリンを頻繁に見舞っていた。
それはクリスティアの時と同じだったが、同じだからこそ仲間思いの強さが分かるのだ。
今日もコルピの前には見舞い客としてクリスティアが椅子に座っている。
「全く、お主らは馬鹿だから風邪には掛からんと思っとったからなぁ、薬を手に入れるのには苦労したんだ」
「その件については感謝している。それで、ソイリンはどうだ?」
見た目に似合わぬ固い口調にコルピは眉を顰めた。自分の孫と言っても通じてしまうような年齢の容姿をしているが為に、その口調が心を痛ませる。
本来ならばこのような事になるべきではないのだと、コルピは思う。軍医としての傍ら白夜戦争末期ではメード技師としてメードの素体が何なのか
知っている彼は、幼子のメードを見る度に心を潰される思いをしているのだ。
「熱も下がってきておる。お前さんより長かったが、もうじき感知するだろう」
「なら良かった。では、見舞いをするので失礼する」
「念の為言っとくが、患者に乱暴はするんじゃないぞ」
「分かっている。病人を戦場に送らんのと一緒だ」
なら子供を戦場に送るわしら馬鹿者共は、一体何なのだとコルピは問い掛けたくなるが、それは飲み込んだ。
自分が人類の代表者であるかのような台詞は私には不釣合いだと判断したからだ。
その間にクリスティアはソイリンが横になっているベッドの横にある椅子に腰をかけていた。
「クリスティア。見舞い。ありがとう」
「何、気にするな・・・身体の具合はどうだ?ソイリン」
「熱い。気持ち悪い。頭が痛い」
「それが風邪ってやつだ・・・まあ、静かに安静していれば治る」
「でも。私の任務が―――」
「ねてろ」
ベッドから降りて立ち上がろうとしてふらついたソイリンをクリスティアは押し付けるようにしてベッドに戻した。
自分も相当無理をしていたが、部下にそんな事はして欲しくないのだろう。
「分かった」
目を細め、顔を下に向けながら乾いた咳をしつつ、ソイリンはボソリと言った。
最初に会った頃はこんなに喜怒哀楽が分かりやすい奴ではなかったなと思いつつ、クリスティアは彼女の頭をそっと撫でる。
「任務を遂行したかったらちゃんと治せ、当面の命令はそれだ」
「了解。風邪はちゃんと治す。大人しくする」
「よろしい」
そう言うとクリスティアは一度席を立って、用意していたのか粥を持ってきた。
「私の治療に貢献した褒美だ・・・食え」
彼女はスプーンで粥を掬い、それをソイリンの口近くまで持っていった。
一方、こんな事をされたのは生まれて始めてのソイリンは少し戸惑ったが、食えと言われたのだから食うしかないと思い、パクリとスプーンに食い付いた。
「―――ん」
勿論、粥も生まれて始めて食べるのでどんなものかと思っていたが、これが美味しい。
塩と米とお湯だけで出来ているとは思えないくらい美味しいとソイリンは目を輝かせている。
それを見てクリスティアはもう一度粥を掬い、彼女の口まで持っていった。
その繰り返しで彼女が粥を食べ終えると、身体が温まって眠くなったのか、目をパチクリさせるようになる。
「眠いのなら寝ろ。そうすれば治りが早くなる」
「うん。寝るけど。待って」
「どうした。何かあるのか?」
「少しだけ」
「何だ、言ってみろ」
「今度は。カーシャが食べたい」
それを聞いたクリスティアはカーシャという料理がどんなものなのか分からなかった。
ただ、推測としてヴォ連辺りの料理なのだろうと大凡の見当をつけ、どんな料理か知らないがこう答える。
「・・・いいだろう。ただし味のほうは期待するなよ?なにせ料理はしたことがないからな」
「別に良い。私は気にしないから」
それだけ言うとソイリンは瞼を閉じて眠ってしまった。そして少し声を漏らしながら身体を丸め、また猫のような格好になった。
恐らく癖なのだろうとクリスティアは微笑みながら席を立ち、顔を顰めて紅茶の入ったカップを見ているコルピの前の椅子に座った。
「カーシャとは、一体どんな料理なのか知っているか?ヴォ連辺りの料理だと思うのだが・・・」
勿論、コルピは顰めていた顔に更に皺を寄せ、変な表情をする。
此方が真面目に質問しているのにどんな態度だとクリスティアは少し思ったが、それも次の言葉で粉砕された。
「あのねぇ・・・カレヴァランド人にヴォ連辺りの料理の事を聞くのは苦だと思うんだがね?」
あ、と思わず言ってしまいそうになるのを堪えて、コルピに謝罪すると、気にしてないからと返され、
ついでにと言ってカーシャがどんな料理であるかを詳しく説明してもらい、作り方のメモまで貰った。
どうやらカーシャとは粥に近い料理であるようで、作り方としてはそれほど難しそうではない。
問題は、クリスティアが料理をしたことがないということだが、それはあまり深刻な問題でもないと願う。
しかし、万が一の事もあるかもしれないと彼女は考え、結論として最初にソイリンではない別の誰かに味見してもらうと言う事になった。
「・・・しかし、一体誰が・・・」
クリスティアは少し考え、そしてすぐにその相手は決まった。
そしてその相手は同時刻、盛大にくしゃみをして「おいジョニー、風邪なら医務室行って来いよ」などと言われて言い返していた。
「だからジョニーじゃなくてジョナサンだっての。しかも俺は風邪じゃねぇ、誰かが俺の噂してるか俺の事を考えてくれてるだけだ」
少なくともジョナサンは、クリスティアが決して良い事とは言えない事をさせようと考えているなど、彼は知る由も無かった。
関連項目
最終更新:2009年11月14日 00:26