(投稿者:suzuki)
森叢の屋敷も、かれこれ何年になるだろうか。
先々々代の時期に火事で焼け落ちたのを補修したから、一二〇年かそこらはあるか。
そんな屋敷も、そろそろ一二〇と数回目にになる冬を向かえ、軋む屋根に雪をかぶらしていた。
森叢の総本山は楼蘭東北部の山中にあることから、豪雪地でもある。
家屋の耐久年度で言えばまだ折り返しと呼んでも差し支えなかろうが、それでも相当の無理を強いるのだ、そろそろ替え時だろうというのが周りの思うところだった。
とはいえ、そもそも寒地の住まいである。
都には比べ物にならないが中は十分に暖かく、衣を厚くして囲炉裏のひとつでもあれば暖は十分に取れるぐらいだ。
しかし、屋敷の主の向かいに座る男にはどうにも我慢できるようなものではなかったらしい。
田舎者目にはハイカラな衣装をまとった以磨川の使者は、話中もしきりに手足をこすったり、肩を震わしていた。
屋敷の主にしてみれば、軟弱者なのだろうというのが正直なところだった。
その軟弱者が持ってくる話はいつだって傲慢不遜であるし、またそれに彼等は従わざるをえないほど、弱かった。
ただ、事のしだいをあらかた言い終えた使者に対し、主は軟弱以外の感想を何とも抱く事はなかった。
それだけに、この関係は決まりきったことなのだ。
「……では使者殿、以磨川は光をそちらへ引き渡せと」
いくばくかの間をおいた後で、その屋敷の主、第十六代森叢隠斎はそれだけ、口を開いた。
さて、その重たい口も使者にしてみれば面妖な顔立ちにしか見えず、また表情も図りきれなかった。
「そういうことになりますな」
「肉親を贄に出せとは酷を仰る……私と違い、あれは優秀だ。森叢の秘伝を受け継ぐのは最早あれしかいないというのに」
鳥獣の亜人の流れを汲む森叢家は当然容姿にも鳥のそれを色濃く残している。
「動物らしさ」は個体によって様々で、犬や猫が二本足で立って話をしているだけのものもあれば、翼や耳など、体のほんの一部分しか共通点のないものもいる。
隠斎はどちらかと言えば前者に近く、足腰こそ人間のそれだが上半身に向かうにつれて、森叢に相応しい烏の体になっている。
顔などは完全に鳥のそれであり「口を開いた」も実際見たままを言えば「嘴を開いた」としたほうがいい。
ともあれ、その顔のせいで表情を推し量る事は使者には叶わなかったが、そのハシボソガラスに似たしゃがれ声からはかすかに動揺の色を感じる事が出来た。
この男はきっと揺れ動いている。
見てくれこそ礼儀正しいが、心のうちでほくそ笑むほど、この使者は浅い男であった。
「だからこそ、でもありますな。既に葛神のが崩御……いえ、転身なされて幾分か経ち、メヱドの運用性は貴方もご存知のはずです」
「罰点の件もある……此度は問題ないと?」
「ええ、今頃は勉学に励んでおられることでしょう」
「しかし……」
「隠斎様」
そう思った使者は、とりあえず自分のメリットの思うところを挙げて畳み掛けることにした。
どうせ森叢などがこちらの言葉に逆らえるはずもなく、懸命な兄ならばこちらの言わん事は分かるだろう。
「件の
葛神白々朗様は、自ら永核をその身に宿すことで常の命と更なる異能を得られました。
その力を以って又、今後は退社の象徴、
楼蘭皇国の顔としての任を担うことでしょう。
同様に大社の柱である九家の中からメヱドを出すという事はつまり、どういうことか……お分かりですね?」
事実、今の大社の性質がそういうものなのだ。
もとより異能に頼り切った、崩れかけのオカルト集団だ。食いつなぐには同じく禁忌に触れる他ない。
が、以磨川が直接それに関るのはあまり相応しいとは言えない。メヱドはあくまで工芸品で、取引物なのだ。
工場制手工業、分業が普及し、資本分離の著しい昨今でも工場主が職人となるのは異な事ではないが、しかしそれ自身が生産物となるのは望ましくない。
確かに葛神はその現人神然とした力で以ってまた一定の力を取り戻す事にはなったが、しかし所詮は力馬鹿、狂気の沙汰よ。
祀られるだけでは、世を動かすに叶わない。
なればこそ森叢に白羽の矢が立てられねばならなかった。
実験集団、私兵集団としての役割を発揮してもらうにこれほど見合った素材もあるまい。
将来的には森叢の忍び衆の侍女兵可も検討のうちに入るのではなかろうか。
「森叢に再興を果たせと」
「然様でございます」
囲炉裏の火が揺れる。
一途、押し黙ったかのように見えた隠斎だったが、大方使者の、以磨川の思うところは察したつもりだった。
自分らの立場は心得ているつもりだ。
「ふむ……どうせ体のいい実験台が欲しいのだろう。
葛神のが先行したのは些か肝を冷やすところではあったろうが、罰点もウチも九家では使古しの蓑でしかなかろうよ。
……しかしな使者殿」
が、しかし。
確かに森叢の者であればこの件従うが上策。
滅びを拒むのであればこのまま機密と同じくして闇に葬られようよりかは、何か別の形で権威への足がかりを掴むほうがいいだろう。
しかし、それ以上に、隠斎には懸念すべき事柄があった。
「何か」
「あれは優秀だが……狂っておるよ。すっかり、森叢の業に身を窶してしまった」
なぜその人柱とて選ばれるのが、よりにもよってあれなのか。
たしかにあれは優秀だが、それ以上に危険であるという事は兄が一番よく認識している。
事実、狂っても仕方のないものだと思うほど、彼女の生活は凄絶を極めていた。
「ですが、核を埋め込めばその業も、記憶ごと封ぜられます」
「いいや使者殿」
罰点はどうだったか、其れは図りかねるが。
「如何様な毒でも、薬でも、人の心の根を腐らす事は出来んよ」
葛神白々朗がそうであったように、記憶が抜け落ちたところで人の本質は何も変わらない。彼だから、大社の象徴足りえるのだ。
光が既に捻じ曲げられてしまった後だとしたら、その歪みは記憶の有無で正すことの出来るものではなく、その前提にあった痛みすら忘れ、爪の行き場さえも失うのではないだろうか。
……そして、狂人が力だけを手に入れればどうなる事か。
無論、ここでこの申し出を断るという事は森叢の明日を失うに等しい行為である事は隠斎も承知している。
しかし、故に恐ろしい。
隠斎の意図を測りかねたのか、それとも測った上で語りかねたのか、使者も暫らく押し黙ったままとなった。
お互いの心を移すかのように、囲炉裏の火に照らされた影だけが揺れている。
「……では、この件は御断りになられるということでよろしいので?」
沈黙に耐えかねるかのように、使者が言う。
色々言いはしたが、さっさと答をもらって帰路に就きたい気持ちはあるのだ。
流石にこの場に長居するには、正直寒い。
「いや……時間を頂きたい。これも家庭の事情だ、私
一人で決められるものではない」
お互い、この場にこれ以上留まるのをよしとしない、という部分では意見は一致したようだった。
「承りました。ではまた、日を改めて参ります」
「世話をかける」
「いえ、これしきは。では、失礼いたします」
使者が適当に世辞を添えて、その場を離れようと立ち上がる。
どうせ次の機会まで答を保留するだけに留まったのだ。
上が答を急がない限りは、こうやって穏便に済ます手段を温めるのが、楽でいい。
一先ずは安堵を身に含ませ、襖に手をかけた。
――が。
使者と隠斎、二人の呼吸はほぼ同時に止まった。
少なくとも片方にはよく見覚えのある姿が、襖を隔てたすぐ向こうに立っていたからだ。
腰まで伸ばしたぼさぼさの髪は鴉を思わす艶のある黒塗り、ちょうど同じ色をした、亜人特有の翼が背を包むように垂れている。
直接姿を見るのは初めてだった使者だが、兄の姿を知っていれば、一目で血縁のものであると分かった。
それが冬だというのに、薄手の忍装束一枚。
話には齢十六であると聞いたが、その肉付き、体つきからは想像に難いほど、艶かしく柔らかい。
女子の忍びの武器に色気があるとすれば、まさしくその罠にかかるようであった。
しかして聞きしに及び、妖艶ではあれその目が濁りきっているのは使者にも伝わる。
先ほどまでの話の中身も中身。それは息も呑もうものだ。
その場から逃げ出したいのもありきで、さっさと挨拶だけでも済ませてしまおうと思った。
「おや、これはひか――」
が、そこまで言って逃げ出すまもなく、楔を打たれた。
直後に伝わってきたのは、喉を通り抜ける冷たい感触。
それが何かの刃物……恐らくは刀だろう。ということが分かるのにさほど苦労は要しなかった。
「あっ」
そこで彼の思考は停止する。
刀は彼の口から喉を貫いて1尺ほどで止まった後、挨拶どころか声を発する間も無く、引き下ろされた。
喉から腹にかけて一閃、刀の通った後が一瞬の間を置いてぱっくりと空気の通り道を作る。
胸と腹から何かが流れ落ち、噴き出し向かいの少女の白い肌と黒い髪を一様に朱に染めてしまった。
痛みも一瞬に、するりと何かの抜け出る感覚を味わった使者の残骸は、何か喋ろうとしたのかヒュウヒュウと音を立てながら、自身の作った血溜まりに沈んだ。
一連の流れを眺めて満足した娘――光は、床にこぼれた臓腑を気に留めることもなく、隠斎に向かって歩み寄る。
その光景を前に、彼は何を言う事もできなかった。
「――光」
俯いたまま、名前だけを搾り出す。
「なあアッツァ、お客さんだが?」
(あら兄さん、お客さん?)
「……聞いでらったなが」
(……聞いていたのか)
「ンだよぉ」
(そうよぉ)
受け答えだけは実に無邪気なものだった。だからこその恐ろしさというものもあろうが。
恐らくは口封じのつもりであろう。
屋敷内であれば隠蔽工作は利くし、死体を発見さえされなければこの雪だ、帰り際に遭難でもして行方不明になったとでも言えば説明もつく。
出すぎた真似をし、九家の禁忌に触れたとしてその場で刃にかけたといってもある程度は取り繕うこともできようか。
そういった外部向けの調整は隠斎が受け持っており、これまでも祖父や妹の工作活動の支援はこれまでにも経験し、また心得のあることだった。
「……ワリがったな、光。どしめだ話だッつっても、こんたごど……」
(……悪かったな、光。急な話とはいえ、このようなこと……)
「気にしねたっていいよぉ」
(気にしなくていいのよぉ)
それを分かって、この狼藉をはたらく。
ただの快楽殺人などではなく、自分の身の安全を承知の上、根をまわしてある状態、また必要性を満たした状態で。
その上で、自分の満足度を最大限まで引き上げるようなるべく目に見える形、手に残る形でになるよう手口を仕立てるのだ。
別に隠斎に頼らなければいけないのなら、ここで殺そうが帰り道で殺そうが同じなのだから。
「アッツァは、オラの事どごおもやンでけだなだべ?」
(兄さんは、私のことを心配してくれたのよね?)
要するに確信犯であり、また兄を目撃者、共犯者に仕立て上げようとしているのだ。
耳元まで寄り添い、優しく囁きかけるように言を放つ光に対し、相変わらず隠斎は無愛想な返事しかしなかった。
できなかった、というべきか。
女の匂いというのは男を惹きつけるものかもしれないが、光には、殊に今の彼女に関して言えばそのような事は全くなかった。
鼻を突く血と漿の臭いと、微かに香る……人を乱すだろう毒の香り。
それは妖艶な姿をしただけの悪鬼であり、また昨今の世を悩ます蟲どもすら想起させるものだっただろうか。
「……ンだな」
(……そうだな)
「ン、まずすまねな」
(ん、ありがとう)
隠斎から改めて肯定の言葉を聴いた光は満足そうに踵を返す。
べチャリと、何か液体のような固体のようなものを踏んだ音と感触に、彼女は漸く、自分が切り捨てた相手のことを思い返すようだった。
行為の後の液体というのは、余程惚けていなければ、往々にして不快であろう。
「せばやばちぐなったおの、ゆさヒャってくるな」
(それじゃ汚れちゃったもの、お風呂に入ってくるわ)
自分の行った事を一瞥、一通り確認するとそういい残し、光はさっさと風呂桶のある棟へと移動を始めてしまった。
少なくとも、彼女にとって先ほどの使者はその程度の扱いをされるべき相手でしかなかったのだ。
「チー、流してけれ」
(千景、背中流して)
「は、はい!」
光に呼ばれ、入れ替わるようにして隠斎の視界――件の場に今度は千景が姿を現す。
彼女には些か刺激が強いらしい。血溜まり+αを眺めて一瞬息を呑んだ後、そそくさと礼をし、光を追いかけていった。
いくらかの歳の差はあれど、これが比較的正常な反応なのだろう。
「……」
無言のまま二人を見送った、隠斎は深く溜息をつく。
吸った空気に混ざり込んでくる死臭が若干不快ではあるが、それはこの際どうでもいいということにした。
今はまずこの惨状をどうにかせねばなるまい。
関連
最終更新:2010年02月22日 11:51