(投稿者:怨是)
1945年4月17日、未明。
アオバーク郊外の安アパートに住まう
アシュレイ・ゼクスフォルトは、仕事前の空いた時間にポストから取り出した小包を開封していた。拳大の紙袋からは、仄かにコーヒーの香りが漂ってくる。同封されていた手紙を開く。
よぉ、エディボーイ。 |
先月めでたくストレイドッグス・カンパニーの代表取締役になった、ジャン・E・リーベルトだ。 |
本業が忙しくなるから暫くは顔出すのもままならねぇが、俺は元気にやってるぜ。 |
まさか本当に会社を興すとは、否――正確には、表立って会社を運営するとは思わなかった。あれは戯言で、社会の裏側で汚れ仕事でも請け負っているだけだと思っていたのだ。アシュレイは食い入るように、続きへ目を通す。
試供品のコーヒーを同封しといた。その名も“アンダードッグス・ブレンド303号”だ。 |
味のほうは会社一丸となって全力で改良したから、かなりいい具合に仕上がってる。 |
お値段は250gで10レア。お前なら絶対に気に入ってくれると思うが、どうかな。 |
――10レア!
コーヒー味を再現した粉末を固めてブロック状にした軍用インスタントコーヒーでさえ、250gならおよそ15レア相当になる。それを考えると、味と香りに優れる本物のコーヒーでこの価格は、破格と云う言葉すら生温い。これが本格的に販売された暁には、各国の軍隊はこぞってこれを購入するに違いない。問題があるとすれば、既得権益を崩される同業者達からの反発くらいだろう。
「じゃ、早速」
仕事までの暇潰しには丁度いい。コンロに火を灯し、水の入ったポットを温める。
「……」
湯を沸かしている間、アシュレイは手紙を薄暗い電球に照らしながら先月の事を回想していた。手紙の主はジャンと名乗っているが、本当の名前をアシュレイは知っている。彼の名前は
カ・ガノ・ヴィヂ。人間ではなく、プロトファスマだ。帝都の破壊を望んでいる、303作戦の落とし子、或いは忘れ形見とでも云うべきだろうか。そんな彼の奈落のように黒い双眸を直視してしまったせいか、この手紙の内容も薄ら寒く感じる。
そっと手紙を畳む頃にはポットの湯は沸騰していた。コーヒーの粉末を匙ですくってコーヒーメーカーへと放り込み、そこに湯を注ぐ。凍った背筋をどうにか溶かさねばならない、が――
「変なものとか入ってないだろうな」
彼はプロトファスマであり、プロトファスマはGという存在によって初めて生まれる。そして、Gは瘴気を用いる。もしかするとこの何処で豆を収穫したか判らないコーヒーにも、多量ではないにせよ瘴気が含まれているかもしれない。
それを考えると、コーヒーメーカーごと窓から投げ捨てたくなる衝動に駆られる。匂いは問題ない。独特の、肺をやられそうな匂いは。
カップにコーヒーを注ぎながら、もう一度思案する。
……思い直せば、既に戦場で何度も吸い込んでしまっているのだから、今更身体に入れた所で大した弊害も無いのではなかろうか。数秒後その結論に至り、ついにコーヒーを口に含む事をアシュレイは決意した。同時に、随分と臆病な人間に成り下がってしまったものだなと自嘲する。
三年前の自分なら、変に勘繰ったりせずに飲んでいた事だろう。“カ・ガノ・ヴィヂ”はプロトファスマだが、“ジャン・E・リーベルト”は少し世界の暗がりに足を踏み入れた時間が長いだけの、善良な精神を持った人間として見る事も出来た。かつての自分ならそう信じて疑わなかったに違いないのだ。
「結局、騙されるほうも騙されるほうなのかな」
このコーヒーが製品化された後、多くの無垢な人間は何ら疑いを持たずにこのコーヒーを賞賛するだろう。味も価格も申し分ない。安すぎるという批判は恐らく、戦線の沈静化や人類が優位を保ち続けている事による生産性の向上という口実に掻き消される。たとえ騙された結果が種々の痛手を被るものであるとしても、真実が大衆にとって都合の良い情報に勝てる見込みは無いのだ。今までの数々の真実がそうであったように。
そうして殆どのカードは裏返しのまま放置され、いずれは忘れ去られる。アシュレイにとって、それは悲しい事だ。
そろそろ時間だ。外出せねばならない。それも、かつて自分を追放したあの
エントリヒ帝国へ。
皇帝派か宰相派かどちらが呼び寄せたかはつい三日前に、この依頼という形で判明した。そして、その目的も。
“
正統エントリヒ主義帝都統一会議”――帝都ニーベルンゲにて、
ヨハネス・フォン・ハーネルシュタイン名誉大将が今年になって結成した組織――が
ジークフリートの誕生日パーティーで用いる物品の輸送に随伴するというのが今回の依頼内容である。この組織は、頭文字を取って“レンフェルク”という通称で知られている。彼らは政治喫茶と呼ばれるものを帝国の随所に建てており、同国の政治に影響を与えているらしい。物品の内訳は紅茶やコーヒー、菓子類の他、機密書類と説明されている。
創設者のハーネルシュタインは筋金入りの皇帝派軍人である。
ギーレン・ジ・エントリヒ宰相と
テオバルト・ベルクマン親衛隊長官の軍事計画を裏から妨害し続けてきたらしいが、今まで全く表に出て来なかった彼が今頃になってこのような組織を結成、そして近衛騎士団と呼ばれる部隊まで編成するなどの大きな動きを見せたのは、やはり黒旗の台頭やそれに伴う政治的変動を危惧してのものだろう。
皇帝派と宰相派との確執は、目に見える形で激化していると考えて差し支えない。また、アシュレイがそのダシに使われるのも間違いなかった。何故なら警備会社に所属する職員は他にも大勢いるにも関わらず、わざわざあの3月3日に黒旗の構成員に電話で居所を訊き、ご丁寧に仕事先まで捜し当てて指名してくるまでの執拗さから見ても、それは明確であったからだ。
無論、彼らのその遣り口はアシュレイの癇に障った。国籍がベーエルデーとなったアシュレイであっても、エントリヒ帝国に於いては犯罪者まがいのレッテルを貼られているのは間違い無い筈なのだ。しかも仕事だから拒否しようがない。
とはいえジークフリート含め、見知った顔を久しぶりに見られるのだ。仕事のついでに確認するのも悪くは無い。
今のアシュレイは帝国に居た頃より広範囲の情報を得る機会に恵まれているが、その代償として身近な部分の疑問を解決する時間が無かった。
ホラーツ・フォン・ヴォルケンはベルゼリアと打ち解けられたのだろうか。また彼の管轄となっているランスロット隊の面々も気になる。たかが一部隊の近況など、余程有名にならない限りは新聞にも載らない。それらを今一度、目に収めたい。そして、自分を追い出したあの帝国が、どうなっているのかを確かめたい。過度な期待など一切しないが、多少の好奇心は刺激された。
「……未練がましいとは思うが、まぁそれも人間だよな」
机の上に置いてあったヴァトラーP.38を、玄関のドアへ向けて構えてみる。
最初にカ・ガノと出会った時、彼は『火薬があればどんなに重たいコインでも裏返せる』と云っていた。今ならその言葉の意味の全てが理解できる。あわよくば“お礼参り”ついでに、林檎が赤いと信じて止まない連中に本当の色を一緒に考えてもらおうか。
ドア越しに気配を感じ、拳銃を持っていないほうの手でノブをゆっくりと廻した。アシュレイはこの右手に持った拳銃の重みを知っている。弾丸一つで、このドアに風穴を開けられる事を知っている。それでも手放さずにドアを開いたのは、感じた気配があまりにも剣呑なものだったからだ。
隙間から気配の正体を探れば、そこには眼鏡をかけた冴えない中年男性が立っていた。アシュレイはこの中年を全く知らない。だからアシュレイは咄嗟に、先方より知らされていた合言葉を口にする。
「“傘が三つ欲しい”」
「“赤と白と黒で良ければ”」
ビンゴだ。命を狙う輩ではない。
「よろしく。さて、俺は何と名乗ればいいかな? 本名か? 偽名か?」
既に帝国からは追放された身であるアシュレイ・ゼクスフォルトは、本来ならば国内に戻ってはならない取り決めになっている。が、これがエドワウ・ナッシュというベーエルデー人なら、国内には入れるのだ。
「どちらでも構わない。帝国政府のお偉方は君を許す心積もりだと、俺は聞かされているよ」
許すも何も、国が勝手に作った罪を勝手にこちらに押し付けて、些細な事に上乗せしたのではないか。それを、さも聖人君子のように。アシュレイは拳銃の撃鉄に指をかけ、湧き上がる殺意をこの中年へと向けた。半ば八つ当たりとはいえそうでもしなければ怒りが収まらないのだ。
「俺個人としては、君が国の都合の犠牲になった事も知っているし、同情もしている。帝都の地獄の門を再びくぐって貰うのにも、胸が痛む。だが、すまない。俺は仕事の都合上、君をどうしてもあの国へと連れ戻さなくちゃあいけない」
「……俺に対する保障は何も無いままかい? 連中も随分と虫のいい事を考えるね」
「やはり君も、
シュヴェルテと同じ事を云うな。それに関しては俺も概ね同意見だが、残念ながら金銭でしか保障する事はできないんだ」
「あぁ、そう」
恐らく随分と以前の話だろう。彼女が黒旗に下った原因も、きっとこの男だ。それ故に、アシュレイは殊更ぶっきらぼうに返した。それくらいあてつけがましく接しないと気が済まなかった。玄関の壁に寄りかかりながら、アシュレイは顎を軽く突き出して訊ねる。
「で、あんた誰なんだ? 銀行員か?」
「俺は
秘密警察のクラウス・ホルグマイヤーだ。今回の仕事の案内人をやらせてもらう」
秘密警察という単語を久々に耳にして、アシュレイはここ数か月分の大笑いを自室に響かせた。粗末な兵士崩れを連れ戻す為のお使いをやらされる程に落ちぶれてしまったのか、彼らは。アシュレイがまだ帝国に居た頃は、もっと脅威を持っていた組織だった筈だが、もはや黒旗、プロトファスマ、他にも各国に点在する組織――例えばルフトヴァッフェのような――を知ってしまっているから余計に、彼らの没落振りが可笑しくてたまらなかった。
「案内人ねぇ。笑わせる話だぜ。昔は指一本で人が殺せる組織だったあんたらが、こんな役回りだなんてな」
「時代と年波にゃあ勝てないものさ……じゃあ、行こうか」
車の中で、詳しい依頼内容を聞いた。ジークフリートの誕生日当日に大きな催し事を行うらしい。アシュレイはその警備、各所の政治喫茶を巡回する所まで担当するという。物資の輸送ではなかったのか、という不満をアシュレイは飲み込んだ。直前になって内容が変わる事はよくある。この程度で音を上げるほどアシュレイも軟弱ではない。
「で、俺がそれをこなしてる間、あんたらは何をやるんだ?」
「スパイの監視だな。テロ対策は親衛隊が行うが、怪文書が出回るようであれば俺達が対処する」
「ガキのお使いみたいだな」
「今じゃあレンフェルクの使い走りのようなもんだよ」
「だろうね」
皇帝派の手足となってジークフリートの伝説をお膳立てしてきた秘密警察なのだから、当然、皇帝派の最右翼たるレンフェルクにも使われる。例え落ちぶれてしまったとしても、情報や人命を影から弄繰り回す体質に変化は無いように見えた。
「でも相変わらず情報通ではあるんだろ?」
「そこに関しては自慢できるよ」
こちらの居所を掴めるくらいには情報網が太いのだろうから、どうせならとアシュレイはホルグマイヤーの両目を睨み付けた。かつてシュヴェルテを一度見つけたのなら、もう一度探すのも不可能ではないのだ。
「俺から報酬の提案をさせてくれ」
「何が欲しい?」
「本当は、云わずとも解ってるだろ? シュヴェルテの捜索を頼むよ」
いつか会いに行く。だからこそ、確実に会えるようにする。カ・ガノが灰色の反対が何であるかという質問を知っているという事は、何処かで会っている可能性は十二分に有り得る。ならば、彼がシュヴェルテとどのような話をしていたのかを知っておきたいし、万が一を想定すると助けに行く為の選択肢を増やしておかねばならない。今度こそ守ってみせる。もう昔のように寄り掛かるような真似はしない。こんなちっぽけな人間であっても、人間なりに守る方法は幾らでもある。
アシュレイの眼差しに、ホルグマイヤーは気圧されなかった。一秒も目を逸らさず、ホルグマイヤーは頷く。
「それが罪滅ぼしになるなら、俺は幾らでもやってみせる。君の恋人だからな」
「っと、残念ながら恋人じゃあない」
確かにある時までは恋人として見ていた。が、今はそうではない。そういった枠組みを超えた、大切な存在である。何と表現すべきかはアシュレイ自身も判らない。が、殴り飛ばす相手が出来たので、是非ともシュヴェルテの拳も借りたいと思ったのだ。その相手は、アシュレイとシュヴェルテの二人で一緒に殴らねばならない。エミアではなく、共にあの皇帝派の面々に煮え湯を飲まされた彼女でなくてはならないのだ。
「――まぁ頼んだよ、案内人さん」
最終更新:2010年07月26日 02:15