(投稿者:怨是)
1945年8月16日
連続放火事件、黒旗の犯行!
帝都の各地にて連続放火事件が発生、家屋が相次いで全焼したこの放火事件は、今や我々の注目の的だ。 |
狙われた建物はどれも無作為で、何ら関係性が見出せない。そして、ついに昨日、放火の現場から |
黒い防火服に身を包んだ犯行グループを目撃した。彼らの左肩には黒旗の紋章が付いており、 |
エントリヒ帝国皇室親衛隊公安部隊は犯行グループを黒旗と断定。彼らの動向を今後も探る事とした。 |
彼らが何故このような無差別な破壊活動をするに至ったかは、未だ不明であるが、 |
我々エントリヒ帝国の国民達はこの暴挙を絶対に赦す訳には行かない。更に信じ難い事に、皇室親衛隊からも |
これに協力したと見られるMAIDが居るという恐るべき事実が、公安部隊の調査結果より判明した。 |
彼女の名はプロミナ。彼女は炎の能力を有し、その能力を用いて燃焼範囲を広げたとされている。今後の更なる調査結果が待たれる。 |
もしも帝都にて怪しい人物を発見した場合は、政治喫茶か、付近を巡回中の親衛隊に通報して欲しい。 |
我らに軍神の加護あれ。ジークハイル! ハイル・エントリヒ! |
「全く……」
スィルトネートは昼下がりの自室にて、読み終えた今日付けの新聞を机の上に放り投げた。
ただでさえプロミナの脱走事件、そしてそれに伴う逮捕に関する連絡不行き届きに頭を悩ませている中で、黒旗による連続放火事件まで――否、正確には新たに加わった目下の悩みたる連続放火事件に関する新たな情報がこの様な形で――加わるとは。帝都栄光新聞の脚色振りたるや、記事の信頼度に於いてルージア大陸では一、二を争う低さを誇るほどであるが、かといって即座に「所詮はガセだ」と捨て置く訳にも行かない。嘘か真かをその都度精査せねば、記事の裏に隠れた致命的な真実を見逃してしまう事とて、ままあるのだ。
そもそも、そのプロミナの引渡し先とて、確保から数日が経過した今頃に報告が来た。親衛隊本部へ戻された直後の、今頃である。あまりに遅過ぎる。親衛隊は今、確実に空中分解を起こしている。意図の読み取れぬ暗躍が、そこかしこで頻発している。
スィルトネートは眉間に皺を寄せ、デスクを見下ろした。
「何処で何が起きているか、把握しておかないとね」
必ずや確固たる証拠を掴み、宰相府代理執行権を行使して種々の陰謀を白日の下に曝すのだ。スィルトネートは途中で手を止めていた報告書の作成を再開する。時間との戦いだ。対応が後手に回れば、悲劇的状況の回避は難しくなるだろう。
同時刻、
アースラウグはスィルトネートに同じく、自室にて帝都栄光新聞を読み終えた所だった。但しあくまで丁寧に、それをスクラップ帳へと仕舞った。
「プロミナさん……」
つい先刻、プロミナが漸く帰って来たらしい。きっと彼女は罪の意識に苛まれ、俯いているに違いない。弱りきっているに違いない。黒旗に協力したと新聞にはある。新聞と一緒に郵便受けに入れられてた一枚の写真に、黒旗の兵士らと目的地へ向かっているプロミナの姿が写っている。
だがあの卑劣な黒旗の事だ。何らかの強硬手段を以って、無理矢理協力させたと見るのが妥当だろう。或いは何かの間違いであると思いたかった。
友人の危機をその場で救えなかったのなら、せめて危機を脱した後にその肩を抱いてやらねば。気高き母、
ブリュンヒルデならそうした筈だ。ならば自分もと、アースラウグはスクラップ帳を抱えて部屋を飛び出す。
「……」
果たして、プロミナは髪を普段と異なり下ろしてはいたものの、直ぐに見付けられた。ラウンジの隅で、虚ろな表情で天井を見上げ、煙草の灰を灰皿に落としていた。彼女が煙草を吸う所を初めて見たが、今まで彼女の仕事以外の一面を見た事がなかったアースラウグは、元々プロミナが愛煙家であるとしても特に違和感を感じなかった。彼女の能力は炎だ。それならば、煙草を吸えても可笑しくはない。そんな事より、彼女の周囲に誰も居ない事の方が重大だ。誰一人、彼女へ近付こうとしなかった。皆、初めから彼女が存在しないかの様に振舞っている。
アースラウグは堪らず、プロミナに駆け寄った。
「プロミナさん! 無事でしたか!」
心なしかやつれた顔を、プロミナは向けてくれた。良かった。彼女は幻ではない。ここに確かに存在しているのだ。アースラウグはプロミナの右手を強く握る。
「ずっと心配していたんです。黒旗に拷問されませんでしたか?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
プロミナは最初のうちこそ無表情だったものの、それからすぐさま笑顔で返してくれた。アースラウグは、ほっと胸を撫で下ろす。この爽やかな笑みは、いつものプロミナだ。ただ、嫌な予感がアースラウグの脳裏から離れてくれない。試しに、数日前の夜の事を訊ねてみた。
「12日の夜、それから今日までの間、何があったか教えてくれませんか?」
「あー……何があったっけな。日付の感覚がおかしくなっちゃって。ごめん」
歯車の擦れる様な、薄気味悪い感触が胸中を圧迫する。何かを隠しているのか。あれだけの数の人間を自身の固有能力で焼殺すれば、普通はその記憶が鮮烈に焼き付く筈だ。
「その、ニトラスブルク区で、焼死体が沢山見付かって……ここでは何ですから、廊下へ」
「……そう、だね」
歯切れが悪いのは、罪の意識ゆえか。それとも別の理由があるのだろうか。普段と変わらぬラウンジの喧騒を背に、アースラウグはプロミナを廊下へと連れ出した。幾つもの視線を感じるが、今はそれらを一瞥する余裕も無い。
アースラウグは賑わっているラウンジからやや離れた場所で、尚も小声でプロミナに尋ねる。ここでなら、連続放火事件についても教えてくれるかもしれない。まずはその入口からだ。
「あの焼死体、やっぱり、プロミナさんが?」
プロミナが無表情で頷く。心の奥底では嘘であってほしいと願っていたが、事実というものは往々にして残酷極まる。否定したい事に限っていつも“是”であり、肯定したい事に限っていつも“否”と冷たく突っ撥ねられる。
「生き残る為に、そうせざるを得なかった。銃を突き付けられて、殺されそうになった所を、銃を奪って反撃して、そのまま死なれちゃってね。で、タガが外れて、そのまま何人も」
「辛くは、なかったのですか?」
「……あんまり、気にしてないよ。相手は黒旗。しかも、命を狙っていた。そしたら殺すしか無いじゃない」
「でも……」
何も、殺さずとも良かったではないか。MAIDの身体能力を以てすれば、彼らの武器を無力化するなど造作も無い事である。プロミナの用いる炎は銃弾をも無力化する。持久戦を仕掛ける事で弾切れに持ち込むといった方法を用いれば、殺す必要は生まれてこない。暴力的な極限の環境が、彼女の精神を暴力的な結論へと導いたとしか思えない。
狼狽し、熟考するアースラウグに対し、プロミナは一度足りとも省みる様子は見られない。
「まぁ、悔しかったのは、私を救ってくれた空戦MAIDが、黒旗にやられちゃった事かな。私にはまだ、誰かを守れるだけの力が無い。守られても、守りきってもらえるだけの強さが無い……生き残ってくれてるといいんだけど」
アースラウグの心が揺らいだ。今のプロミナは異常な体験をし、異常な精神を宿してしまった、憐憫すべき異常者なのか? 否、他にも手を差し伸べてくれたMAIDが居た。そしてそのMAIDの安否を気遣ってさえいる。彼女の精神は未だ、悲劇に溺れてはいない。
「そのMAIDについて、詳しく聞いても?」
「私が殺されそうになる寸前だった時、あの人が、
シーアさんが助けに来てくれた。私が憧れてる空戦MAIDなんだ。シーアさんは」
名前は聞き覚えがある。
ベーエルデー連邦の空戦MAIDで、同国の保有する空戦MAID部隊『ルフトヴァッフェ』の、赤の部隊の隊長を務めている。弱きを助け強きを挫く、炎使いの空戦MAID。なるほど、プロミナが憧れを抱くのも道理だ。そして憧れの対象に窮地を救われた時の感情は、想像に難くない。無理からぬ話ではあるが、アースラウグの内心は複雑だ。エントリヒ生まれのMAIDでありながら、他国のMAIDに憧憬されるのは、どうにも感情の整理が付け難い。
「そんなに身近ではないけれど、憧れるという点では似ているね」
間違いとは云えないだろう。ベーエルデー連邦に於けるシーアというMAIDは、云わばエントリヒ帝国に於けるジークフリートと同等の羨望を受けている。悔しい事に、元帝国領のベーエルデーでは、街の至る所にシーアの写真が用いられている。レッドバロンとあだ名される彼女の戦いぶりは、あの国の国民にとって賞賛されるべき栄光として映っているのだ。
「疑心暗鬼になった私の心までも、あの人は救ってくれた。私の居場所になってくれると云ってくれた。それが、嬉しかった。でも……」
初恋を語る乙女、という表現がよく似合う仕草で回想するプロミナは、再び表情に陰りを帯びた。
「でも、手負いの私を抱えたシーアさんでは、黒旗の数の暴力には勝てなかった。シーアさんを守る為に、一杯、黒旗の兵士を焼き殺したけど、それでも駄目だった」
炎に形容されるプロミナの赤い瞳は、下ろした髪の影で暗く彩られ、それが血のような禍々しさを放っている様に見えた。実際、彼女が黒旗に向けた殺意の残滓は、実に粘着質な質感を伴ってアースラウグの背筋を冷やしている。片手で眉間を押さえ、苦悩するプロミナの姿が、地獄の門の前で考える男の彫像と重なった。
次にプロミナが放った言葉を、アースラウグは一語一句、聞き逃さなかった。
「……あと少しで、この国から居なくなれたのにね。私には翼が無い。だから、ここからは逃げられない」
「この国から……」
そして、アースラウグは絶句した。
プロミナが黒旗に協力させられていた事だけでも、アースラウグは心が折れそうになった。それでもアースラウグは何とか己を奮い立たせ、友の無事を祈りながら声を掛けたのだ。もしも彼女の頬を涙が伝っていたら、それを拭ってやるつもりだった。それを云うに事欠いて、気にしていないなどと。あまつさえ、あと少しでこの国から居なくなれたのにと、笑顔でのたまうとはどのような神経をしているのか。つまるところ彼女は、この期に及んで国外逃亡を企てたという事を恥ずかしげもなく、それも二代目軍神たるアースラウグの前で告白してみせたのだ。国家そのものへの侮辱に等しいではないか。
「……心配して損した」
「ごめんね、ありがとう。でも、もう大丈夫だから。これからもよろしくね」
――こっちの気持ちが解らないのか。
プロミナから差し出された手は、握手を求めているのだろうが、アースラウグはその手を握り返そうなどとは微塵も思わない。
「国外逃亡まで考えていた事を口にしておいて、これからもよろしくだなんて。しかも、黒旗に屈して利用されて、方々で放火事件を起こしていた事まで黙っていたなんて」
「ん? 何の話?」
「とぼけないで下さい。これを」
アースラウグはプロミナを睨み付けながら、スクラップ帳に綴じられた今日付けの新聞記事を見せた。プロミナの表情が瞬く間に凍り付いた。初めは驚愕から。そして、僅かな間を置いて、溜息と共に冷ややかなものへと変わる。
「……ふぅん。君がこれを信じるなら君にとってこれは真実だけど、私はこれを信じない。だって私はこいつらと一緒に動いた記憶がない。まして、黒旗には殴られ、銃で撃たれ、追い掛け回されていたから」
「それだけは、本当なんですよね?」
「本当だよ。彼らから逃げる為に、何人も焼き殺した。頭がおかしくなりそうだった。いや、実際おかしくなってたかもしれない。本当に、よく覚えていないんだ、あの時の事を。ヘッドドレスも何処かに落としてしまったし」
アースラウグはますます、プロミナの供述に疑いの眼差しを強めた。短時間のうちに矛盾した発言が多すぎる。よく覚えていないと云いつつも、部分的には細かく話せる。都合の悪い部分だけ、妙に反応が悪い。記憶が曖昧なのではなく、まるで、口にするのを躊躇っている様に見えた。彼女の視線も何処か、ふらふらとアースラウグ以外の別の場所を、逃げ場を探している。
プロミナは明らかに、後ろめたいと思っているのだ。という事は、つまりは偽っていると看做しても誤りではあるまい。それを確信したアースラウグはもう、プロミナが売国奴か何かに見えてしまって仕方がなかった。彼女が落としたヘッドドレスは、アースラウグの部屋に置いてある。リボンが銃弾で穿たれ、焦げ目のついたそれを、いつか返そうとも思っていた。が、今となっては、返す気はとうに失せていた。
「……本当に、覚えていないんですよね」
「うん、嘘じゃない。あの時は必死で逃げていたから。とにかく命を狙われた事は確かだよ。だから、黒旗と私は協力する事なんて、絶対にありえない」
「ならばこれは、何ですか」
アースラウグはスクラップ帳に一緒に仕舞っていた、一枚の写真をプロミナに見せた。プロミナは目を見開き、口を閉ざす。誰の目から見ても、効き目良好なのは明らかだった。手応えは「有り過ぎる」と云える程だ。
「何処で、こんな写真が……」
「どういう、事ですか」
「そ、それは、その……」
「さっき、黒旗とは一緒に行動していないと云っていたじゃないですか! 私を騙していたのですか!」
やはり隠し事をしていたのだ。アースラウグの怒りは指先にまで達し、気付けば両手でプロミナの胸倉に掴み掛っていた。烈火の如く吹き上がる感情を抑え切れず、何度もプロミナを揺らした。頭に登った血流と、張り上げた声で両目に涙が滲む。
「空白の数日間は、プロミナの罪の歴史の一ページだったと! 私達がどれだけ心配していたか、血眼になって暗く寒い、静まり返った街を探し回ったか! 貴女は知らないまま、家を焼いていたというのか!」
「心配させたのは申し訳ないと思っているけど、私は求められるままに火を操っただけだよ! 黒旗が関わっているなんて知らなかった! それに、火を広げているんじゃなくて、その逆で、抑えていた!」
恐怖感で引き攣ったのであろうプロミナの顔を、アースラウグはまじまじと見詰めた。火力を、抑えている? 被害の範囲を調節しているという事に違いない。
「何を云っている……焼死体だって出ているというのに!」
「そんな……! プロトファスマの活動拠点だって云われてた!」
「今更そんな云い訳を! 信じてやるものですか! 誰の指示でこんな事をやっているのです!」
今まで廊下に響いていた二つの声が、急に止んだ。その様子がアースラウグには、何処か非現実的に感じられた。自分の事ではない、遠い過去に起こった出来事をスクリーンで再生した様な、奇妙な錯覚だ。ひとしきり叫んだ後の軽い貧血状態に依る、思考の誤作動なのだろうとアースラウグは考える事にした。
「……それは、云えない」
プロミナが涙混じりに、声を漏らした。この期に及んでまだ、何かを隠そうというのか。痺れを切らしたアースラウグは、プロミナの髪を掴む。
「云ってくれませんか」
「い、嫌だ、口止めされてる……“あいつら”が見張ってる、話したら、殺される!」
アースラウグはプロミナを解放し、立ち尽くした。“あいつら”とは誰だ。宰相派の何者かが彼女を監視しているという事だろうか。
「“あいつら”が誰であろうと、私は貴女を守れるだけの権力がある。それでも、云ってくれませんか」
「その権力にだって限界はある。姿の見えない奴をどうやって捕まえるっていうんだ」
「公安部隊はそういった仕事にも長けています。調査は私が依頼します」
「無理だ。“あいつら”は何処にでも紛れ込んで、私を監視してる」
“あいつら”の正体を探らねば、話は進まない。が、どこから進めば良いものか。新たに浮かんだ疑問に、アースラウグは身じろぎする事も叶わない。ただ、ただ、考えても追い付かない程に事態の変遷が早い事を悔やむ他、何も出来ない。
目の前の彼女がこの苦悩を理解できる程度に聡明だったなら。しかし、彼女は逃亡の好機と見たのか、何度か振り返りながら足早に立ち去ろうとしていた。
「えっと……じゃあ私、そろそろ出撃だから。行くね」
「何処へなりとも行けばいいでしょう。もう、貴女とは口を利かない」
「そう……残念だね」
「……」
プロミナは、最後に立ち止まってぼそりと呟いた。そのまま駆け足で消えて行く彼女を、アースラウグは最早、止めようなどとは思わなかった。苛立ちばかりが胸中を埋め尽くし、何をする気も起きない。大きく溜め息を吐きながら、握り締めたままだった拳を開き、汗ばんだそれを自らの金髪で拭った。
少ししてから、スィルトネートが駆け寄ってくる。
「アースラウグ、何があったのですか。部下達から、様子がおかしいと聞きました」
「スィルトネートさん、聞いて下さい……プロミナは、本当に黒旗に協力していたのです。これを」
アースラウグは先程プロミナにも見せたスクラップ帳を、スィルトネートにも開いてみせた。プロミナの様な明らかな狼狽は見せず、スィルトネートの反応はひどく冷淡だ。宰相派のMAIDは皆、冷徹を旨とする教育でも受けているのだろうか。
「……写真、ね。でも、捏造の可能性もあるでしょう」
「捏造だったら良かった。でも、プロミナはこの写真が本物だと認めてましたよ」
「それは本当なの?」
スィルトネートの眉が微かに動いたのを、アースラウグはしっかりと見た。やっと興味を持ってくれたか。アースラウグは事細かに説明するべく、プロミナから得られた情報を頭の中で整理する。
「燃やした家は、プロトファスマの活動拠点だと云ってました。何者かの指示で動いている所までは解ったのですが、それが誰なのかは教えてくれませんでした」
「解りました。その件については私の方で調べておきましょう。それより、プロミナと喧嘩してたみたいですが、大丈夫?」
「大丈夫です。もう金輪際、プロミナとは顔を合わせるつもりもありません」
「どうしてまた……」
「あれだけの事をしていながら、けろっとしているなんて……黒旗に染まりきっていますよ。彼女は。その内、自分の炎で自滅してしまえばいいんです、あんな奴は」
思い出すだけで、抑えようのない憎悪が沸々と沸き上がる。過熱する激情はそのまま雑言となって口から零れ出た。
「アースラウグ!」
半ば金切り声に近い叫び声と張り手を顔面に受け、アースラウグは一度、口を閉ざした。解っていない。スィルトネートは全く解っていない。信じていた友人に裏切られた悲しみを。敵対する組織に手を貸しているにも関わらず、それを止める術が今の自分には無いという絶望感を、この女は全く解っていない!
「痛……」
「貴女の目指す軍神っていうのは、そうやって、仲間を見捨てる様な酷いMAIDなの?」
「……幾ら先輩でも、母様の侮辱は許しませんよ」
「待って。ブリュンヒルデを侮辱してはならないのに、プロミナは侮辱していいという事になる。よく考えて。貴女が今、どれだけ酷い事を云ったかを」
気に入らない。ブリュンヒルデ『様』と云わない不敬ぶりも去る事ながら、こちらの感情を無視した云い草が、アースラウグの癇に障った。プロミナは最早、仲間でも何でもないのだ。
「……それでも、偉大な功績を残した英雄と、徒に破壊と殺戮をしただけの犯罪者とでは全然違います」
「呆れた……」
「何ですか。私が何か、ひどい事を云いましたか! 先輩は宰相派の人だからそんな事が云え――」
二度目の張り手に言葉を遮られる。スィルトネートの怒りはアースラウグの、烈火を抱えた激情とは異なり、まるで見下すかの様な、凍て付く視線に満ちていた。
「二度とそんな事云うな。自分でろくに調べもしてなかったクセに」
「……お勉強なら、ちゃんとやってます」
「与えられた餌を飼育小屋で喰べ続ける事の、どこが勉強ですか」
流石に我慢の限界だ。些か云い過ぎではないか。幾らスィルトネートが苛立っているという事を加味しても、これ程までに侮辱されてはアースラウグも相手が先輩であろうと関係なかった。彼女の肩を握り、唾を吐き掛けんばかりの勢いで捲し立てる。
「どうしてそういう事云うんですか! まるで私を家畜みたいに! それが“騎士姫”の異名を持つMAIDの使う言葉なんですか! 私は仮にも軍神である母様の二代目ですよね?!」
「少しでも授業内容を疑った事は? 丸ごと鵜呑みにしてはいませんか?」
「してません! ちゃんと考えてます!」
「鵜呑みにしないで考える力があるなら、少しくらいはプロミナのこと信じてあげて欲しかったな……」
少し前までは信じていた。心配して、部屋を飛び出る位に。そんな事も察せないとは、随分と見下げ果てた先輩も居るものだ。スィルトネートはこちらの心境を余所に、うんざりした表情を見せる。辟易しているのはこちらとて同じだというのに。
「そろそろ帰る。もっとよく考えてみてね。今の君を見てると、あまりいい気分じゃないから」
「スィルトネートさんはあの黒旗の、髪の黒い女の人と同じ事を云ってますよ……?」
数週間前の、喫茶店での出来事を回想する。あの時感じた敵意と悪意は、間違い無い。明らかにこちらを貶め、疎外し、萎縮させ、二度と立ち上がらせまいとする感情そのものだった。スィルトネートからもそれとよく似た波長を感じ取れるが、本人にその自覚は無いらしい。黒旗のそのMAID――確か、柳鶴という名前だったか――と面識も無いのか、一瞬だが思い出そうとするそぶりをスィルトネートは見せた。が、どうやらそれに該当する者は居なかった様だった。
「……その人が誰だかは解らないけど、敵に説教されるのはよくある事でしょう。確かに癇に障るかもしれない。でも、それで気付かされる事だって沢山あります」
「敵は敵じゃないですか! 黒旗なんかから何を学ぶっていうんですか!」
猫を追い掛けてここまでやってきたベルゼリアが、こちらの口論に気付いて立ち止まる。あまり期待は出来ないものの、今は猫の手も借りたい状況だ。
「ベルゼリアも何か云って下さいよ、おかしいですよスィルトネートさんは!」
「……むぅ。ベルゼ、難しい事、解らない」
「あぁもう!」
解ってはいたが、こうも予想通りの戦力外ぶりを発揮されると清々しさよりもまず、気分が鬱屈してくる。それを見るスィルトネートは無表情を貫いている。暗雲に包まれたこの場を、如何にして打開するべきだろうか。アースラウグは眉間の皺を緩めようともせず、俯いた。
そんな状況を打ち破ったのは、プロミナなどよりも慣れ親しんだ間柄のMAIDだった。
「あら。アースラウグ様にスィルトネートさんではありませんか。如何されましたか?」
神は見捨てていなかった。
アドレーゼが心配して駆け付けてくれたのだ。
「アドレーゼさん! スィルトネートさんは、プロミナが黒旗に加担している事を認めてくれないんです!」
ごく簡単な説明だが、これで大まかな出来事は伝わる筈だ。スィルトネートが慌てふためいてかぶりを振る。
「待って下さい。まだそれが事実と決まった訳では――」
「――いけませんね。真実から目を逸らすのは。それとも権謀術数に長けた宰相府の、その直属MAIDであるスィルトネートさんの事ですから、さてはアースラウグ様を騙そうというお考えでしょうか?」
「勘違いなさらないで下さい。きちんとした事実関係が明らかになっていないのに友人を見捨てるな、と諭しただけです」
中々に見苦しい弁解をするものだ。自らの立場を絶対に崩したくないが故に、あくまで『友人同士の喧嘩を仲裁する』という体裁を繕おうとしている。確かにプロミナは今日まで友人だと思っていた。だが、それも今日までで終わりだ。真の友人ならば包み隠さず話してくれた筈だろうに。
「あんなのが友人だなんて、身の毛がよだつ!」
「アースラウグ、やめなさい!」
「声が廊下に響きましてよ? 諭すつもりであれば、声は包み込む様に、柔らかく」
こちらの両肩に手を添えるアドレーゼの、何と頼もしい事か。この温もりがあれば、宰相府代理執行権を持つスィルトネートが相手であろうと、怖くはない。
「……アドレーゼ。貴女こそ、その子を誑かす様な真似は止すべきではないのですか。物事の正しい考え方をきちんと教えないと」
「宰相派にとって都合の良い手駒が減ってしまう、と?」
「手駒、ですって……?」
「貴方達宰相派の方々は、手駒を次々と使い、勢力を伸ばしている。違いまして? プロパガンダによる情報操作、宰相府代理執行権の濫用による悪法の乱立で、わたくし達を陥れようとしている事は既に明確ですわ」
スィルトネートはいよいよを以て、顔を赤く染めた。図星を指され、それが逆鱗に触れたのだろうか。彼女の両手は震え、口元には苦々しく皺が刻まれる。
「勘違いも甚だしい。どうせハーネルシュタインの入れ知恵でしょう」
「名誉大将たるハーネルシュタイン様を愚弄なさるのですか。騎士姫ともあろう貴女が、品格に欠ける発言をなさるのはどうも聞き苦しゅうございます」
「本人に確認をとれば解る話でしょう」
「あの御方はご多忙ゆえ、わたくしの様な者が訊ける立場ではございませんわ」
渦中にあったアースラウグを差し置いて、両者の口論は更なる熱を帯びる。
「大体、あの帝都栄光新聞の記事だって、年々購読者は減少する一方です。あんな、信頼度はほぼ皆無に等しい記事を作らせたのは他でもない、貴女達、皇帝派の連中ではありませんか。今回の記事も宰相派のMAIDに罪を着せ、軍法会議にかける暇もなく処分する事で政敵の戦力を減らそうという魂胆では?」
「ですが、わざわざ身内から裏切り者が出たなどという、親衛隊の看板に泥を塗る様な真似を何故する必要があるのでしょう? よりにもよって黒旗と手を組んだという不都合な記事を、好んで捏造する筈も無いとは思いませんこと?」
アドレーゼの云う通りだ。帝都栄光新聞はこのエントリヒ帝国の国民の為の、国家の為の、皇帝の為の新聞である。もし、スィルトネートが云う様にデマを流布するとしたら、リスクが大きいばかりで皇帝派の見返りは殆ど無い。ましてこの国の者は皆、黒旗の話題に対して神経質なのだ。
「とにかく、事実関係はこちらで調べて置くので、余計な事はしないようにお願いします。アドレーゼ」
「調査方法に公平性が認められない場合は容赦なく介入いたしますわ。そのつもりで。それでは、また」
「……えぇ」
咽返る程の憎悪に満ちたこの空間を、果たしてどうしてくれようか。アースラウグは傍らのアドレーゼの袖を引き、助け舟を求めた。アドレーゼはただ、ただ、気難しい面持ちで俯くばかりで、暫くして「ラウンジへ、戻りましょうか」と一言発したきり、そのままラウンジに辿り着くまで黙ったままだった。
アースラウグもこの時ばかりは、二代目軍神の威光を一度脱ぎ捨て、か弱き少女でありたいと願った。その思いが通じてか、アドレーゼが手を強く握ってくれた。
その日の記憶は、それ以外はあまり残っていない。
最終更新:2011年02月26日 04:57