(投稿者:エルス)
狭苦しい世界の中で、俺は空を飛ぶ。
操縦桿を捻り、ラダーペダルを踏みつけ、フラップレバーを状況に応じて操作する。
老いぼれた心臓が歓喜に震え、血液と言う血液が沸騰したかのような錯覚を覚える。
このまま心臓発作で死ねたら苦しみなんか感じずに死ねる気がしたが、そんな死に様はまっぴら御免だった。
「黒の27より各機、状況を開始する」
『了解。指示を』
「編隊を崩すな。突っ込むぞ」
『了解』
通信を終え、深呼吸した後、溜息を吐きだす。
今は防弾ガラスと、照準器、そしてレシプロエンジンとプロペラが、視界に収まる全てだ。
防弾ガラスの向こう側は、青と白の世界。そして、俺のような飛行中毒者達の墓場だ。
何れは俺もここで死ぬのだと思うと、笑えてくる。死と言うのは、こんなにも身近な存在だったろうか。
「ついて来い」
操縦桿を引き、ラダーペダルを踏みつけた後、一気に倒す。
高空を飛ぶ三機の
Me110を従えて、俺は巨大なハエの群れに突っ込んでいく。
速度計と高度計が火花を出しかねない速度で回り、黒々とした群れが壁のように立ちはだかる。
撃てば当たるような気もするこの壁は、狙わなければ銃弾を回避する俊敏性を持っている。
照準器を覗きこみ、狙いをつけ、十分に距離が迫ってから、引金を引く。
二基の十三ミリ機関銃と二十ミリモーターカノンが吠え、壁の一部がパッと消えて無くなった。
後に続く三機のMe110も俺に倣い、壁に大きな穴を開け、その穴を通って低空に離脱する。
針葉樹の覆い茂った山々が俺ごと戦闘機を叩き落そうとしているのではないかと錯覚を覚えるほどの低空飛行を続け、四機編隊であるシュバルムを再構築。
続けてスロットルを上げ、加速しながら高度を上げる。後続の部隊が本当に続いてきてくれているのを信じながら、百八十度旋回。
目の前に捕らえた群れ目掛けて機関銃をぶっ放しながら突っ込み、更に高度を上げる。
そのままインメルマンターンを決め、ぐちゃぐちゃになった壁にありったけの機関銃弾を叩き込み、突っ込まずに離脱。
単純な一撃離脱の繰り返し。これを三つ以上のシュバルムで行うことで、どこに反撃していいか分からなくさせるという、そんな戦術だ。
もっとも、仕上げの方法が方法なだけに、立派な戦術とは言えないのが玉に傷だ。
「仕上げだ。やれ」
『命令するな、このオヤジ。黒の部隊、出番どぞー』
「……」
毎回の如く聞かされるこの倦怠感に溢れる声に、最初は怒りを覚えたものだが、今では気にならないどころか、苦笑を浮かべてしまうほど受け入れている。
ルフトヴァッフェの通信係、
ドレスという
空戦メードの声だというのは分かっているが、その姿を一度として見た事がないのは、戦闘空域外にいるからなのだと、分かっていた。
ふと、
帝都防空飛行隊が軍隊に縛られていると仮定するのなら、ルフトヴァッフェは強大な戦闘能力のデリバリーサービスと言ったウィングマンのミヒャエルの顔を思い出す。
確かにその通りだった。今この瞬間、戦闘機を超える速度で群れの中に突っ込んだ小さな少女。その少女一人で、Me110何機分の敵を屠ってきたのだろうか。
考えるだけ憂鬱になることだと分かっているが、考えずにはいられない。そんな性分に生まれてきたことを悔やむが、この性分のお陰で生き残ってきたのだと考えると、それまた憂鬱になる。
『ヒュー』
編隊の誰かが口笛を吹いたのだろう。注意する気にもなれず、一方的に殲滅されていく群れを見ながら、ゆったりと旋回する。
もし落とし損ねたハエがいたらと、同じようにして旋回するシュバルムが計五つ。内二つは三機編隊になっていた。
「こちら黒の27、ルフトヴァッフェに感謝する」
聞いているのかいないのか、怠惰な通信係からの返信はなかった。
駆逐されていく
フライの群れを眺めながら、俺は操縦桿を握り直し、どっと押し寄せてきた疲労感に耐えながら、Me110を飛ばし続けた。
灰色の雲の下、一直線に伸びる滑走路が近づいてくる。何度やっても心臓が高鳴ってくるのは、何度やってもMe110の着陸が難しいからだ。
着陸脚の間隔が狭いんですよと、機付整備員のハンスが無傷のカウルを我が子を撫でるように優しく撫でながら言っていたのを、ふと思い出す。
その時、俺はハンスに言ったのだ。着陸脚だけじゃない、視野の問題もあるんだと。だが実際、その他にも問題は山積みであって、やはり事故と言うのは起こる。
今回の事故は、酷かった。中隊の中でも腕利きだったアレクサンダーの機体が、滑走路上で一度大きくバウンドし、機首が地面を向き、そのまま機体が地面に突き刺さった。
「おい嘘だろ……アルの機体だろ、あれ」
既に格納庫に機体を収め、飛行後のぼんやりとした余韻に浸っていた俺の隣で、ミヒャエルが青ざめた顔で言った。
整備兵や軍医が次々に滑走路上に出ていく中、俺は潰れたカウルと砕け散った風防と、そこから飛び出している枝のようなものを見ていた。
それはアレキサンダーの腕だったが、地面に激突した際の衝撃で
壊れた人形の腕のように折れ曲がっていた。所々赤いのは、出血していたからだろう。
過去形なのは、アレキサンダーがすでに死んでいるからだ。理由は幾つもあるが、決定的なのは、コクピットがエンジンに押しつぶされているから、だろうか。
駈け出して行った中隊の面々が消火隊に阻まれて事切れた戦友の元に行けないのを見ながら、俺は溜息を吐き出し、ポケットからマッチ箱と煙草を取出し、歩き出す。
煙草を咥え、マッチで火を点け、どうすれば良いのか分からないと言った表情の面々を押しのけながら、消火隊の隊長であるクルトに目を向ける。彼は首を横に振った。
「中隊各員、通常軍務に戻れ。アレキサンダー曹長は死んだ」
「しかし大尉―――」
「彼は死んだ。後は軍医と滑走路整備班に任せておけ」
俺がそう言うと、中隊各員は名残惜しそうに滑走路に突き刺さった不気味なオブジェを見たが、すぐに立ち去った。俺もそれにならって、まずはこの飛行服を脱ぐために、更衣室に向かった。
司令官に事故の様子を説明し終えた俺は、煙草を吸いながら格納庫へ向かった。入れ替わりに出て行ったハンスが「NO SMOKING!!」と書かれた標示板を指差したので、咥えていた煙草を吐き捨てて、ブーツの底ですり潰す。
ジャケットのポケットに手を突っ込みながら格納庫に入り、黒の27と書かれた愛機を探す。翼の前縁部が黄色に塗られ、スピナーに例の『虫除けのまじない』こと、黒いチューリップを描いた、Me110G2。俺の死に場所でもある、小さな棺桶。
そしてそれは、いつもの場所に鎮座していた。驚いたのは、俺の愛機の前に、一人の少女が立っていたことだ。髪がやたら長い、しかし身体は恐ろしく小さい、子供のような少女だった。
どこかで見たことがあるなと、少し考えてみると、それはルフトヴァッフェのメードだった。
少し近づいてみると、足音で気付いたのか、その大きな目を向けてきた。俺は少し間を置いて、言った。
「何をしている?」
「この機体、いっつも戦場でみかける機体なんです」
「俺の機体だからな。ルフトヴァッフェの
チューリップだったか?」
「ひゃ……はい、そうで……す」
「いつも感謝している。ありがとう」
手を差し伸べると、小さな撃墜女王はハニカミながら俺の手を握り、小さく上下に振った。
滑舌がよろしくないのか、少しだけゆったりとした喋り方をしていたが、それ以外は気になる点は何もない。
ただ、小さく、幼く、未熟で、どうしようもないくらいに脆い存在に見える……ということくらいだろうか。
「こちらこそ……大尉が数を減らしてくれているから……楽なんれ……です」
「そうか、中隊が丸ごと当たっても倒せない群れを屠って、楽か……いやはや、エースは凄いな」
「あ、いえっ……しょんなつもりで言ったわけっっっ~~~~!!!」
「……大丈夫か?」
どうやら、焦ったついでに舌を噛んだらしい。両手で口を押え、涙目になって、プルプルと震えている。まるで子犬だなと、俺は思った。
「らいりょうふ……れす」
「なら良いんだが。ところで、黒の部隊の隊長が、どうしてこんなところに?」
「しょれは……予想以上に数が多くて、消耗してしまったので……」
「ここで小休憩、というわけか」
「しょうゆうことれす」
まだ涙目になっているチューリップを見下ろしながら、俺は彼女らのことを考えた。戦場のデリバリーサービス、ルフトヴァッフェ。彼女らも死を見た事があるのだろうか。
儚く脆い存在に見える、この小さな体に、あの恐ろしく空虚でとてつもない暴力性と無感情をもたらす現象を、受け入れたことがあるのだろうか。なんとなく、俺は彼女に聞いてみようかと思った。
「……」
しかし、俺はそうはしなかった。そんなことを聞いたところで、どうなるというのだ。まったく、何も変わらないではないか。
彼女から目を離して愛機を見上げると、格納庫の屋根を雨粒が叩き出した。その音はやがて轟音となり、外が大雨になったということを知らせていた。
「……どうやら、小休憩じゃすまなくなりそうだな」
「しょうなりしょうでしゅね」
おまじないの描かれたスピナーを見ながら、俺がそういうと、チューリップは小さく言った。
虫よけの黒いチューリップ。その発祥の元が誰だったのか、何にあやかろうとしているのか、それを俺は知らなかった。
最終更新:2011年07月12日 22:49