Chapter 8-4 : 道標、発見せり

(投稿者:怨是)


「アシュレイのあんな顔を見るのは、2年ぶりくらいか……」

 ホラーツ・フォン・ヴォルケン中将は制帽を被り直し、窓を見下ろした。アシュレイはヴォルケンの部下の中でも一番古い。303作戦以前からの付き合いだ。出会った当初は無垢な若者という印象を抱かせた彼だったが、悲嘆すべきは今が戦時中だという事だ。幾ら相手が人心の通じぬ怪物で、殺す事に何ら後ろめたさを感じないとはいえ、アシュレイもまた戦場の空気にやられて荒んでいった。エミアという恋人が出来てからは少しは持ち直したものの、その彼女が死に、シュヴェルテというMAIDに生まれ変わらせた後からは、アシュレイの心には相変わらず暗い影が付きまとっていた。

「シュヴェルテを失った時以来だな」

 戦果並列化を悪用した陰謀に破れ、シュヴェルテを失ったアシュレイは、放心した様な、それでいて拗ねた様な、複雑な表情を一度たりとも崩さなかった。今の彼はそれと同じ顔をしている。
 国を追われ、そしてまた国に呼び戻され、今度はレンフェルクで暗躍する事となった当初の彼は、退廃こそしていたが、何らかの前向きな感情を内に秘めていた筈だ。

「それとも私はまだ、アシュレイの本質を知らないだけなのだろうか」

 正義感に満ち溢れ、逆境にも負けずに生き残る強さをも併せ持った男。それがヴォルケンから見たアシュレイだ。が、しかし。この所、アシュレイの過去を知るにつれてその認識がぐらついて行くのをヴォルケンは感じる。ついこの前、ライサ・バルバラ・ベルンハルト少将より聞かされた話がある。
 アシュレイは十代半ばの頃、犬を飼っていた。お世辞にも飼育の態度は良いとは云えず、少しでも粗相をすれば蹴る、殴る等の暴行を加えていたという。今の――否、シュヴェルテが居た頃のアシュレイからは考えられない。無論、紆余曲折あって今の彼に落ち着いたのだろう。幼少期のアシュレイを知る者達からの証言である為、あまり信憑性は無いとライサは苦笑混じりに云っていたが……しかし。

「私は一体、いつまで彼を信じていられるのだろう」

 ページを遡る度に、疑心は色濃く存在感を増して行く。正義に狂気は付き物だとでも云うのか。いつぞやに精神病院へ送られる事になったのも、内に秘める狂気が発露したとでも云うのか。誰か、答えを教えてくれぬものか。

「此処で独りでぼやいても仕方の無い事、か」

 歳を取ると独り言が増えて良くない。年々老いて行く身体に鞭打って、ヴォルケンは立ち上がった。陰鬱な気分を紛らわすには散歩が一番だ。
 そうと決まれば話は早い。持つ物もそこそこに部屋を後にし、受付前へと足を運ぶ。

「帝都を巡回視察してくる」

 というのは無論、口実だ。本部営舎にずっと居ては気分が塞ぎ込むからであって、レンフェルクの華々しい活躍ぶりなどに興味は無い。ついでに新しい発見でもあれば、と考える程度だ。受付係の兵士はそんな事はつゆも知らないのだろう。極めて事務的に、外出者一覧に名前と階級と事由を書いていた。

「了解しました。お戻りはいつ頃でしょうか」

「夕方には。私宛ての電話が来たらそう伝えてくれ」

「了解しました。ではお気を付けて行ってらっしゃいませ」

 考え事をしながら歩き、気が付けば本部営舎はすっかり遠くなっていた。休まず仕事をするのは悪い癖でもあるのだろう。たまには休息を挟み、己を見つめ直す機会を設けねばなるまい。昔とは違い、老いては無理も利かぬ。
 さて、冬の気配が忍び寄る帝都に於いても心に寒風の吹かぬ人々は居るもので、大通りでは大の大人達がはしゃいでいた。

「やっと俺達の力が認められた! アルトメリアのゴールドラッシュなんざ目じゃ無ェぜ!」

EARTHのお偉方ってば、太っ腹! 今の三倍ですよ、三倍!」

「車にしようか、いや、嫁が新しい家が欲しいって云ってたからなぁ」

「どっちも買っちまえ! どのみち、余るほど貰えるんだ!」

 などといった話で盛り上がっている。何をそんなに嬉しく思うかは知らないが、騒ぐ程幸せなのは喜ばしい事ではないか。問題は、道行く人々がそれを快く思っていない事だ。よく見れば、男達はビールのジョッキを片手に持っていた。白昼堂々と道の真ん中で酒に呑まれるとは。

「すまんが続きは、ビアガーデンかパブで頼む」

「あ……す、すみませんでしたぁ」

 男達に一言注意すると、彼らは驚く程冷静に立ち去った。てっきり掴み掛かられでもするのかと身構えていたヴォルケンは、肩すかしを食らった格好となった。近くに居た十歳にも満たぬ少年達が、此方を指差して談笑する。

「見たかよルドルフ! 中将の位にも為ると大騒ぎも一発で鎮まるぜ。すげぇよ」

「ハンス、あのおじさんの階級章が中将なの?」

「そうだよ。学校で習っただろ。やっぱ親衛隊ってすげぇよ。憧れるぜ。でも俺の父ちゃん陸軍だからなぁ。俺は親衛隊には入れないかもなぁ」

「なんでさ?」

「世の中はそういう仕組みになってるんだって。母ちゃんが云ってた」

「ふぅん」

 なるほど、巡回視察という名目の散歩もしてみるものだ。親衛隊の制服と、学校の教科書にも載っている階級章が功を為して、あの酔っ払い達を大人しくさせたのかも知れない。今度暇になった時にでも『軍事組織の及ぼす社会的影響』という表題で論文を作ってみようか。少年達の会話の続きが気になる。ヴォルケンは手帳に何かを書き込むふりをしながら、聞き耳を立てた。

「ところでハンスのお母さん、また家に居ないの?」

「政治喫茶って所に居るんだとさ。今頃、親衛隊のお兄さんとダベってるよ」

「いいのかな、それ……不倫じゃない?」

 母親の不在、政治喫茶、不倫……実に不穏な内容を思わせる。親衛隊に於いても隊員の妻が、夫の不在を理由に寂しさを訴え、別の男と不倫をしてしまうという話はよく耳にする。前線送りの兵士、特に恋人や妻の居る者にとって大きな悩みの一つだ。少し前は本当に戦場が切迫しており、祖国に残された恋人達が他の男にうつつを抜かす余裕などほぼ皆無だったらしいが、死傷者の減った現状では、緊張が緩んだのかもしれない。命の危険が減った事は、必ずしも良い結果だけを引き連れた訳では無いのだ。
 さてさて、この少年達の興味深い会話をもう少し聞いてみよう。往来の真ん中では邪魔になるので、端に寄りながら彼らを追跡する。捉えようによっては変質者だが、この黒い制服が確固とした理由を与えてくれる。
 ――そうだ。これは巡回視察だ。後ろめたい事などあるものか。このホラーツ・フォン・ヴォルケンは教師でもあるのだから、数多の普通の学校がどの様な物かを参考にする必要とてあるに違いない。勉学に励め、ヴォルケンよ。
 気が付けば少年達の会話を手帳に書き込んでいた。会議で書記を務めていた経験が此処で活きるとは。

「父ちゃんにバレたら大喧嘩になって面白そうだと思って、この前チクったんだ。父ちゃん、何て云ったと思うよ?」

「知らないよ。ハンスのお父さんと話した事無いもん。顔を真っ赤にして怒ったとかでしょ、どうせ」

「て思うじゃん?」

「違うの?」

「ところがどっこいヨロレイヒ! “あぁ、そうかい”とか、すっかり冷めちまってやんの!」

「それって駄目じゃないの? 不倫しても怒らないってさ」

「自分に魅力が無いとかって、諦めてんだよなぁ」

「甲斐性無しもいい所だね」

「じゃあルドルフの所のリモネおばさんはどうなんだよ」

「ん、お母さんがお父さんとどうだって? まぁ、それなりに仲良くは」

 子供とは、親の背中を見て育つものである。そしてまた、家庭が不毛であれば、心も渇く。戦時下の家庭環境はどの様なものが標準的なのかは知らないが、貴族の家庭で裕福に育ったヴォルケンにとって、少年達の会話が決して十全な愛情と共に育てられたものではないという事くらいは推し量れた。

「おうよ。それなりに仲良くってのが、世間的に見た夫婦の相場なんだぜ。君はその幸せを噛み締めたまえ」

「訳が解らないよ」

 ハンスと呼ばれた少年の「君はその幸せを噛み締めたまえ」という言葉は、聞き覚えがある。昔、グリーデルで流行った映画『雪を愛したカラス』のワンシーンで使われたセリフだ。恐らくはハンスの父親が見ていたのだろう。

「まぁ、フランツの所は不幸だったよな」

「フランツのお父さん、死んじゃったもんね。しかも家まで焼かれるし」

「黒旗がいけないんだ」

「とか云ってハンスだって虐めてたじゃないか。親が黒旗だからお前も削除してやろうかとか云ってさ」

 フランツ、フランツ……何処かで知った名前だ。確か、連続放火事件にて焼失した家屋の住人リストを洗っていた時に見た。フランツという名前は数有れど、亡き父親が黒旗で、家を焼かれたフランツ少年といえば、フランツ・ラクスウェルに他ならない。事情聴取の時に見たあの顔――大人の身体でも入りきらぬ程の怒りを、小さな身体に詰め込んだ様な顔だった――は、絶対に忘れてなるものか。そうか、彼らはフランツの同級生だったのか。

「過ぎた事はいいんだよ。学校でのあの戦争は終わったんだ。その証拠にもう虐めてないだろ」

「そうだけど、やっぱ違うと思うんだよね。お互い、よそよそしいというか」

「フランツはなぁ。元々、グリーデル人とのハーフだし、だから余計にみんな気を使っちゃうんだ」

「なら尚更さ。悪い事をしたんだから少しは反省しなよ。僕は納得行かないよ」

「反省はしてるよ。でも先生がほら、黒旗嫌いじゃん。俺、先生と仲良しだからさ、つい……」

「気に入られたくってエスカレートした? 下らないね。ハンス。もし将来、君が大人になってもまだそういう事をしているなら、多分ものすごく痛いしっぺ返しを喰らうんじゃないかって思うんだ。友達として、僕はそういうのを見過ごしたくないよ」

 フランツが放火事件の被害者だからか。プロミナを巡る一件と、彼らの会話が重なった。ハンスに悪気が無かったのと同じく、アースラウグも純粋に、評価を得て認められたいが為に、借り物の正義を振りかざした節があるのは否めない。当人にその自覚があるかは訊いていないが、大方の想像は付くというものだ。
 それにしても、ルドルフは大凡その年齢には似つかわしくない理知的な言葉遣いでハンスを諭している。何処か諦観の漂うルドルフの口ぶりは、ヴォルケンが家庭教師をしていた頃のライサを思わせた。

「大人達は気にも留めないだろうけど、子供である僕らにとっては、この世の終わりが訪れるのに等しい痛みなんだ。だからあの日以来、僕は何度も先生を殺す方法を考えた。僕はその虐めを止める事が出来なかったから。せめて、責任を取る方法は無いものかと、何度も自分を責めながら、僕は毎晩考えてた」

「お前時々、恐い事云うよな」

「なんでさ? 僕のお父さんが空軍だから?」

「いや、空軍っつっても引退しただろ。不死身の撃墜王は過去の話じゃんか。それよりももっと恐ろしい、予言とかそういう次元じゃ無い何かを感じ取ったというか」

「訳の解らない話を次々としてくる君の方が、僕は恐ろしくてしょうがない」

「いや、俺はお前がいつもすっとぼけた感じなのに突然鋭い事を云ってくる方が恐いよ」

「先生といい、君といい、いつも何かにつけて誰かを見下したがるから、見下した相手が突然何かを成功させた時に恐ろしく感じるんだ。僕は至って平凡な少年だよ」

「自分で平凡って云う奴は平凡じゃないって相場が決まってんだ! だいたい、俺がいつお前を見下したよ!」

「でも、とぼけてるって云ったよね?」

「違ぇよそういう意味じゃねぇよもう! この、馬鹿野郎!」

 ハンスが恐怖に堪えかねて、ルドルフを殴った。あれが普通の少年の反応に違いない。身の丈に合わない聡明さは、時として恐怖を伴うものだ。顔にめり込んだ拳を、ルドルフはそっと掴む。

「公衆の面前で子供同士が喧嘩したら、大人が止めに来る。存分にやりたきゃ裏でやろうか。周りも見てる事だしさ」

 ヴォルケンの予想通り、ルドルフは動じるどころか、大人の目を気にしてハンスを諫めた。その時一瞬だけルドルフと目が合った気がしたが、恐らくこの少年はヴォルケンが喧嘩を止めようとしたと思ったのだろう。第三者を意識して喧嘩になる前に、火種を潰す。何処でそんな事を覚えた。ルドルフ少年よ。君はどういう家庭で育ってきたというのだね。ヴォルケンもルドルフ少年の、その大人でも成し得難い達観ぶりに少しばかり不気味さを覚えた。

「う、ゆ……少しは痛がれよ! 悪かったよ」

「うん、気が済んだ? じゃあ仲直りだ」

「おう」

 ルドルフは笑顔に戻る。が、ヴォルケンは直前の彼の表情が脳裏に焼き付いて、その笑顔すら何らかの意図があると疑うしか無かった。

「ふむ。近頃の少年達はませているのか、荒んでいるのか解らんな……」

 よくよく考えると、ベルゼリアも時折似たような顔をする。Gの出現が人々の生活に変革をもたらし、その一環である少年時代にも何らかの影響を与えたと考えるべきだろうか。それとも、大人達が大抵、顔を顰めている事の多いこのご時世、子供達もまたそれを見て育ってきた所為だろうか。ヴォルケンは手帳と睨めっこしながら、頭を掻いた。

「あ、お母さん! 今日もハンスが遊びに来るんだけどいいかな!」

「あら、ルドルフ。野良犬市場で小麦粉が安売りしてたから、クッキーでも焼こうかと思ってたのよね。ハンス君が来るなら多めに焼くわよ」

 野良犬市場とは、近頃になって方々に出店を繰り返している、ストレイドッグス・カンパニーという新鋭企業傘下の小売店の通称だ。正式名称は失念したが、野良犬市場と云えば通じるのだから問題ない。G被害で飼い主を失い、野犬化した犬を手懐け、マスコットとして店先に繋いでいる事でも有名だ。社会貢献を謳っている事で宰相府からも一目置かれているものの、その商品の仕入れ先が不透明な為に手放しで評価できないという一面もある。

「やったぜぃ! ルドルフの母ちゃん太っ腹! 今日も今日とてお邪魔しまぁーす!」

「ひどいやお母さん、僕が食べたい時はいつもあんまり焼いてくれないのに……」

「だって小麦粉、高いんだもの。Gが畑を食い荒らしたせいで、最近は収穫も少ないのよねぇ」

「だから先週はジャガイモしか無かったんだ」

「あのジャガイモだって相当苦労して買ったやつなんだから」

「お父さんは文句タラタラだったね」

「あぁ、あれね。だったら家族や畑を守る為に身体張ってこいって、張ッ倒してやったわよ」

 いつ帰るかも解らない夫を見送り、不可視の戦場を耐え抜いた母親は、時として強者だ。

「リモナおばさん聞いてよ。俺の所の母ちゃんさ、政治喫茶に入り浸って、そういう会話すら無いんだよ」

「だからうちによく遊びに来るのね。全く、フレデリカったら。またニルフレート中佐とお熱なのかしら」

 ――?! 一寸、待ちたまえ。ハンス少年の母親の不倫相手とはまさか、ニルフレート中佐か。
 ヴォルケンは自分の顔が青ざめるのを感じた。親衛隊は容姿に優れる男性が多い。また、戦場でも優遇されているエリート集団という印象が強い。黒旗という不始末を生んだ現在に於いても、その栄光に満ちた偏見は国民の間では揺るいでなど居ない。女性が政治喫茶に入り浸る理由の多くがそういう親衛隊、特に今を時めくレンフェルクの紳士達とお付き合いしたいという不純な物であると知っているだけに、かつての部下であるニルフレートがその枠組みに入っている事が衝撃的だった。今やあのいけ好かない朴念仁が、さる奥方の不倫相手とは。世も末だ。

「待てよ……?」

 否。これは或いは……好機か? リモナ、ルドルフ、フレデリカ、ハンス、名前を列記する。役所にて家族関係と交友関係をこの四つの名前から洗い出せば、姓も洗い出せるかもしれない。そこから切り込み、フレデリカという女性がニルフレートと不倫関係にあるという事実に裏付けが取れれば……レンフェルクの名に一筋のヒビを入れられるかもしれない。これを好機と云わずして、何を好機と云うか! 泥棒犬め、今に尻尾の油へ火を付けてくれようぞ。
 そんなヴォルケンの企図もいざ知らず、ごく普通の親子と、その友人の会話は続く。

「へぇ。あの親衛隊のお兄さん、ニルフレートって名前なんだ」

「学生時代の同級生よ。御託ばっかりで何ら面白味の無い奴だったわ。あらいけない、私ったらまた陰口。いつまでもこんなんじゃ駄目ね。今度、私が話を付けたげるわ」

「いいよ。俺の母ちゃんだから、俺からカマかけてやろうかなって今思い付いてさ。父ちゃんに愛想尽かしてても、俺とはよく話すから……」

「辛くない?」

「リモネおばさんの方が、確かに付き合いは長いかもだよ。俺らが生まれるずっと前からの友達だし。でも俺なら、文字通り血の繋がった親子じゃん」

「あらやだ、ハンス君てば男前だわ。将来きっといい男になるわよ」

「そうだね。時々男前だ」

「いつも男前だろ」

「嘘つくなよ」

 この辺りでいいだろう。会話を追うのを止めたヴォルケンは、彼らの歩む道から離れ、シルワート通りへと進んだ。広大で長々と続くこの大通りは、あらゆる物が集まる。昨年初頭、雪の降る中でベルゼリアのぬいぐるみを買ったのもこの通りの店だ。今もやっているだろうか。どの辺りにあったか、いまいち記憶が曖昧だ。

「まぁいいさ。歩けば見付かるだろう」

 種々の悩みの答えも。民間人という切り口で情報を集めるのは今まで多くの部署がやってきた事で、今更珍しくもない。ただ、ヴォルケンが直接赴くのは十数年という時を経ており、それが新鮮な感情を湧き起こした。どんな人間にも家族が居る事を頭では解っていたつもりだった。が、ああして実際に目の当たりにし、彼らの感情を言葉から感じ取るという事が、自身の心にどういう影響を及ぼすかは考えた事も無かった。
 寒空を青く照らす陽光が、目に痛い。

「ん?」

 見覚えのある男が、噴水に面したテラスで黄昏れている。が、人違いだろう。もしも彼がグレゴール・フォン・シュタイエルマルク中将であれば、こんな小洒落た喫茶店に独りで居る筈が無い。何故ならヴォルケンは、彼が「喫茶店の料理は碌な物が無い」と愚痴をこぼしていたのを何度か聞いた事があるからだ。

「おお! ホラーツじゃないか」

 否、人違いではなかった。グレゴールは此方に手を振り、破顔する。

「グレゴールか。こんな所でどうしたんだ」

「情報屋に約束をすっぽかされて立ち往生さ。もう少し経ったら電話でもしようと思っている。そういうお前は?」

「巡回視察」

「と、云う名の散歩だろ」

 中々どうして、グレゴールは鋭い。巡回視察ではない事のみならず、散歩である事まで見抜くとは。

「お見通しか」

「見れば解る。普通は中将にもなれば、護衛くらいは連れるものだ。それにお前は巡回視察なんぞする柄じゃない」

「本部営舎に籠もっていると、気が滅入ってな……」

「嫌な事がこれだけ続けば確かに滅入る。陸軍に於いてもそれは変わらぬ。テオドリクスが行方をくらませ、我々陸軍はいよいよ発言力を失った。全く、黒旗は一体何を望んでいるのか……」

 今回は親衛隊と陸軍の双方から離反者が出た為に、傷痕も大きい。陸軍が現在保有しているMAID戦力は二桁にも及ばず、一人でも欠ければ国内外の打撃は相当なものとなる。益して、テオドリクスは稼働年数7年という古株だ。それだけに陸軍の幹部等はかなり頭を悩ませている。

「私も丁度同じ事件で悩んでいたんだ。せめてそれぞれの居場所さえ掴む事が出来て、連れ戻せたら良いのだがな。過半数が納得しないだろう、今更」

「罪を犯す様に仕向けられ、後戻りも叶わないと来たらな」

 お互い、溜め息以外に何も出てこない。テオドリクスは連続放火事件の首謀者に祭り上げられ、陸軍内部でもそれを信じ切ってしまった兵士が多いらしい。彼が黒旗へ離反した事で、いよいよ後戻り出来ない現状となった。せいぜい今は、事件の真犯人の足掛かりを探り出し、関係者の首を順番に断ち切ってやるしかあるまい。背後にハーネルシュタイン名誉上級大将が居るのは解っているが、手を出せないのは何とも歯痒い。
 グレゴールはコーヒーを飲み干すと、立ち上がった。

「さて、そろそろ電話してみるよ」

「ああ」

 辺りは静寂に包まれている。但し寒気を呼び起こす物では無く、休息を促す穏やかな静寂だ。外を歩いていた時は喧噪に包まれ、ゆっくり考える暇など無かった。噴水の水の流れでも眺めるか。五感から飛び込んでくる情報量が多すぎると、処理しきれない。故にこうしてぼうっと、休む必要がありそうだ。
 向かいの席からの気配に気付き、ヴォルケンは視界を戻す。グレゴールは明らかに落胆を含んだ面持ちで座った。電話口で何を云われたか、粗方想像が付く。とびきりの貧乏くじでも引いたのだろう。

「おかえり。早かったじゃないか」

「担当だった奴が殺されたんだと。射殺らしい。何でも、別件で色々無茶をやらかして、それが敵対組織の逆鱗に触れたんだそうだ」

「敵対組織?」

「同業者だ。同じ情報屋同士でも小競り合いが絶えないなら、時には殺し合う事もあるさ。お互い譲れない以上、争う以外に道もあるまいよ。一命を賭して仕入れた情報なら、尚更だ」

「不毛な話だな」

「だが、真理だろう」

 公安SSが官憲と揉めている処を何度か仲裁に入った事がある。要するに、苦労して手に入れた宝物を奪われる事が我慢ならないのだ。彼らも。そういう事態を未然に防ぐのは秘密警察の役目だった筈だが、肝心の秘密警察も現在は殆ど政財界の治安維持組織としては機能して居らず、レンフェルクの使い走りへと成り下がってしまっている。

「ところで、此処で出くわしたのも何かの縁だ」

「……腐れ縁という奴か? かなり古い付き合いだものな」

「腐れ縁とはまた随分とご挨拶じゃないか、ホラーツ」

 何がご挨拶だ。記憶を頼りに可能な限りの陰湿な思い出話をグレゴールにくれてやろうか。

「だが、真理だよ。忘れはせん。あれは今から24年前の冬、お前が町外れのビール工場へ見学へ行かないかという誘いを持ちかけ……」

「すまんかった。あれは忘れてくれ」

「それだけでは無い。そう、あれは確か今から17年前、マイスターシャーレの何期生だったか、うむ、忘れてしまったが、そう。あの時は……」

「あれも忘れてくれ」

「最近物忘れが酷くてな。具体的に何があったかを事細かに思い出すのが億劫になってしまったよ」

「うむ。是非ともそうしてくれ」

 ――飽きた。止めよう。
 そう思った処で、グレゴールの方から話を振ってきた。

「それで、連続放火事件で何を悩んでいるんだ? さっきの話からすると、テオドリクスやプロミナの事だけでは無い様だが」

「その件なんだがね……」

 そもそも何故、自分が外へ出て来たのか。それはアシュレイとどう接するべきかについて思い悩んでいたからに他ならぬ。直接訊きに行く事への恐怖が今まで自分を足止めしてきた。勇気を根底から奪われ、すっかり臆病者になってしまった己を奮い立たせる切っ掛けになる何かが欲しかった。旧友に悩みを打ち明ける事を恥じる必要もあるまい。42年という今までの生涯で、恥辱は散々味わってきた。自然と、口は開いた。

「アシュレイの様子がな、おかしいんだ」

「何があったんだ?」

「この世の全てを敵視する、それでいて何もかもを諦めている……そんな眼をしている」

「プロミナという、二度目の教え子を失ったからでは無かろうか」

「そうだと思いたい、が……」

 問題はそれ以前からだ。言葉を何度掛けようと、返ってくる言葉は敵意に満ち、他者の感情を撥ね除けていた。

「アシュレイは、帝国に戻ってきた時から敵意を露わにしておった。以前、彼がプロミナを連れていた時も語らおうとしたよ。だが、駄目だった。喧嘩になり、最後には、悲しい顔をして去って行った。もう何と語り掛ければ良いかも、解らん」

 手を差し伸べるのが恐い。噛み付かれ、また遠くへ行ってしまう気がしてならないのだ。

「もう一度、本人と語ればいいじゃないか。彼が憎まれ口を叩きたければ思う存分吐き出させてやれ。上官とぶつかり合った末に手に入れられる物だって必ずある筈だ。お前とアシュレイの信頼関係は、決して浅くなかったじゃないか」

「そう単純に事が運べぶなら、お前に相談してはいまいよ」

「迷路を素早く攻略する方法はただ一つだぞ。目的地を見下ろし、罠も壁も破壊して目的地まで辿り着く。それが最善だ。時間は毒にも成り得るからな。他に方法も無いだろう?」

 それも、そうだが……懸念は残る。

「本当に、そんな単純馬鹿の遣り方で上手く行くとは思えんが」

「単純馬鹿は云い換えれば、正直者だ。俺はこの性分を悪癖とは捉えないよ。さぁ、行くがいいさ」

「すまん。達者でな」

「ああ」

 釈然としない気分のまま、本部営舎への帰路に着く。



 時刻は午後の7時を回っていた。
 何とはなしに営舎を歩き回って辿り着いたラウンジに、アシュレイは居た。ヴォルケンはすかさず彼の居るソファまで歩く。付近には誰も居ない。ラウンジの面々はその四方の空間だけを避けて、談笑していた。

「隣、いいかね?」

「構いませんよ。こんな奴の隣でもいいなら」

「そう卑屈になるなよ、アシュレイ君や」

「……おや、万年中将殿。これはどうも、市内巡察ご苦労様です。何か収穫はお有りでしょうか?」

「沢山、収穫したよ。民衆は強いものだな、アシュレイ君」

「何をそんなに感じ入ってるのやら。俺がプロミナを失って悲しみに暮れ、未亡人初日みたいに目を真っ赤に泣き腫らしている間に、中将殿は暢気にお散歩と。まぁその腹なら少しは運動した方がいいかもとは思うけど。で? 此処に来るって事は、何かしら話があるんだろ? 珍しいじゃないか」

 終始刺々しさを含ませたアシュレイの言動に迎撃され、ヴォルケンは些か面食らった。だがしかし、こんな触り程度で物怖じしてなるものか。罷り通ると決めたなら、貫き通すが道理だろう。可愛い若造の為にも此処は一つ、腹を決めて突撃すべきだ。

「そう、お前がプロミナと歩いていた時の事といい、その態度がどうしても気になる。私がまた、何かしてしまったのかと思ってね……」

 さぁ、存分に糾弾してくれ。気に喰わぬ事があったなら、洗いざらい話してくれ。此方が悪いなら全て謝罪し、償おう。
 と思った矢先に放たれた言葉は意外にも弱々しい声音であった。アシュレイは少しだけ驚愕した後に、頭を抱えて俯いた。

「……決して、そんなんじゃ、ないんだ」

「ん?」

「あんたが独自に動いて、MAID狩りを食い止めてるのは知ってるよ。本当は感謝もしている。でも、駄目なんだ。俺は誰かと親しくなっちゃいけない。俺の意志とは無関係に、俺は翻弄され続け、誰かを巻き込んで、それで、犠牲を出す……俺は、もう駄目だよ。プロミナだけが犠牲になったのは、見方によっては不幸中の幸いだ。でも俺は辛いんだ……」

「私も、悔やんでいる」

「それでも俺は前向きに考えて、進み続ける。そうしないと、押し潰されそうになるんだ。せめて、シュヴェルテやプロミナをあんな目に遭わせた連中の首だけは獲らなきゃ、いよいよ駄目になっちまう気がして。ただ……あんたは守り続けてくれ。俺は結局、誰も守れなかったから。俺は、俺が苦しんでいる間にも成功している奴らが、ひたすらに憎い」

「気は、確かだよな? ならば(はや)るなよ」

「知ってるよ。待たなきゃ行けないのも。聞けば、黒旗に寝返ったばかりのシュヴェルテもまた、貧乏くじを引いた自分の横で成功している奴らが許せなかったらしいじゃないか。まさか同じ結論になっちまうなんてね。……ふははっ、そうだよ。俺はまだ、狂気と正気の狭間を、ゆったりと行き来している。正気の側に辿り着いた時に初めて、狂っていた時の事を考え直せる」

 辺りが重苦しい沈黙に包まれた。ラウンジで語り合う兵士等の声があるので、此処に居る二人を見て黙り込んだ訳では無い事は解る。アシュレイとヴォルケンの周囲の空気だけが、雪の様に重く湿気た感情が覆っているのだ。アシュレイの方から口を開く。

「許してくれ。正直、誰に対してもどう接していいか解らなくなってきてる。温もりが戻ってくるなんて信じられないんだ。人を信じる事が出来ない頭になっちまって」

 ぽつぽつと語るアシュレイの目は、泳ぎつつも何かを探していた。青い目の奥は淀んでおり、今の彼が健全な状態ではない事を知らせている。

「元々、俺は、拾われた子だ。死んだ両親は俺の実の親じゃない。12歳の頃に捨てられた俺を拾って育ててくれたんだ。だから、俺は失う事には慣れているつもりだった。でも本当は違うんだ。何かを失う度に、俺は磨り減って、もう俺がまともだった頃の感覚が殆ど無くなってきている。何が正しいかを思い出せないんだ」

「そんな事が……」

 事と次第によっては除隊処分になりかねない、重大な情報だ。が、処分すべきか否かはヴォルケンにとってはどうでも良い話であって、真に驚嘆すべきは彼が孤児である事そのものだ。複雑な生い立ちが、彼の心をも蝕んできたというのか。

「ひょっとしたら、次はあんたまで失うかもしれない……そう思ったら辛いんだ。不幸の神様に奪われちまう前に、俺が自分から手放す……そうすりゃ、少しは痛みが和らぐかもしれない」

「私を甘く見ないでくれ。不貞不貞しくも此処まで生きてきた手前、そう簡単には死なされて堪るものかよ」

「だが俺は今やレンフェルクの犬。宰相派のあんたが俺に触れれば、第三者は嫌な目で見るぜ……まだ機会じゃないんだ……きっと、そうだ。火傷するぜ……」

 そうか。助けを求めている顔だったのか。内側から生え続ける棘を抜き取る事も叶わず、ずっと苦悶していたのだ。アシュレイは。
 ならば特効薬だ。今日の散歩で得られた土産話は、彼にとっても吉報と成り得る確信がヴォルケンにはある。

「別口でな、ニルフレートを蹴落とす。あやつ、人様の奥方を寝取るかもしれんのだ。旦那の苦労を知るか知らないか如何にかかわらず、な。知って遣れば大罪。知らずに遣れば無知の罪。いずれにせよ、不倫はあのお盛んな皇帝陛下ですら犯さなかった禁忌だ。只では済まされんよ」

「……」

 何かを期待しているが、それを云い出せない顔だな。先程から妙に、誰かの視線を気にしている。ヴォルケンはウィンクしてみせた。仲間内であれば誰にでも通用する暗号だ。意味は“私を信じろ”。それまで雨雲に覆われていたアシュレイの表情から、晴れ間が垣間見える。手応えは有った。

「へぇ、遣れるもんなら遣ってみな! あいつは次期大佐候補だ! 華々しいレンフェルクに噛み付く度胸が、万年中将であるあんた如きにお有りかな?」

宣戦布告なら随分前に済ませたよ。マイスターシャーレの椅子を蹴倒した罪が如何程の物か思い知らせてやろうじゃないか」

「せいぜい期待してますよ」

「大いに期待したまえ、アシュレイ君」

 傷は浅くは無い。が、まだ動ける。心臓が動いている。手足も頭もまだ在る。引き金を引く指だって、地面を踏みしめる為に必要な足の指だって、此処には在るのだ。風穴を開けてやるには充分ではないか。


最終更新:2011年10月09日 00:00
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