(投稿者:神父)
彼女が目覚めた時、最初に感じたのは心を圧するような悲しみだった。
石造りの灰色をした天井を見上げながら数秒間考え込み、涙を流していたに違いないと思って顔をこする。
しかし顔には少しの湿り気があるばかりで、涙を流した跡などどこにもなかった。
何故悲しいのだろう、と彼女は天井を見上げたまま再び考え始める。
「おはよう」
唐突に、塩辛い男の声が彼女の注意を引いた。
彼女にもグーテンモルゲンというのが「よい朝だ」という意味である事はわかったが、しかしそれに何と応ずるべきかは知らなかった。
仕方がないので寝台に横に寝かされていた身体を起こし、声をかけた男を正面から見つめた。
見たところ、彼女がいるのはどこかの小部屋のようだったが、窓がないため外がどうなっているのかはわからない。
男は黒い服をきっちりと着込んだ初老の人物で、気難しげな顔をして腕を組んでいた。
「お前さんの名前は
サバテだ」
「サバテ……私の名前?」
「ああ、それがお前さんの名前だ。他の名前が思いつくかね?」
サバテと呼ばれた彼女は、しばし目を空中に彷徨わせたが、やがて首を振った。
「……ない」
「そういう時は
ありませんと言うんだ」
「ありません」
「言い直さんでよろしい」
「はあ」
「まあ、その辺はおいおい教えよう……わしは
ハインツ・ヘルメスベルガー親衛隊中尉、お前さんの教育担当官だ」
「シュッツシュタッフェルオーバーシュトゥルムフューラーハインツヘルメスベルガー? ……長い」
「……」
ハインツは嘆息した。発音能力は大したものだが、これはひどい。
確かにサバテ以前に担当した数人のMAIDも無知ではあったが、ここまでひどいピンボケではなかった。
彼は「これは苦労しそうだ」と呟き、背中から骨翼を生やしたMAIDを見やった。
禍々しいデザインの翼は、ぼんやりとした表情とはあまりに不釣合いに見えた。
一週間ほどで、サバテの常識的能力はそれなりに向上した。
しかしその一方で、本部勤務の親衛隊員たちはハインツが血管の切れそうな顔つきでうろつくのを見る事になった。
その日の教導を終えたハインツは上官に呼び出され、蜜蝋で封をされた手紙を受け取っていた。
「中尉、技術部から君に、だそうだ。内容は読めばわかると言っていた」
「技術部から? 連中は一体何を企んでおるのですか」
「私は何も聞かされておらんよ。まったく、奴らと来たら何もかも秘密にしたがる」
「まあ、何もかも喋っちまう連中よりはましですな。ともかく、わしも気をつけるとしましょう」
ハインツは本部建物内の自室に戻ってから手紙を開封した。妙に厳重な封印に反して、手紙の内容は簡潔で短かった。
それは
ブルクハルト・マイネッケ大尉なる人物からのもので、
「貴官が担当するMAID、サバテに以下のメッセージを伝えよ。
“この身体の元の持ち主は心が弱かったから、前轍を踏まないように注意しなさい”
これはMAIDの素体に志願した人間の遺言によるものである。MAIDは人体を使って作られるため、このような事態も時として起こるのだ。
しかしこの事実は機密指定であり、貴官もサバテ以外に対しては決して口外してはならない。
サバテに関しては貴官の知る限りの事実をありのまま伝えてよいが、任務に支障のないよう配慮する事。
なお、この手紙は読み終えたらすぐに破棄するように」
という内容だった。
ハインツは内容が真実かどうか確かめるかのように読み返してしばし沈思黙考していたが、
やがて手紙の最後にあった指示に思い当たって、部屋の隅に置いてあった灰皿の上で手紙を燃やした。
彼は椅子に戻ると、背もたれに寄りかかって天井を眺めた。
「……わしが送り出してきたあの娘たちが、生きた人間を使ったものだったとは」
ハインツは悔いるように呟いた。
今までまったく疑問に思わなかったと言えば嘘になるが、MAIDがそのような人道を踏み外した技術によるものだとは知らなかった。
だからこそ、彼は今までMAIDの教導を行い、あるいは共に任務に就く事ができたのだ。
知らない方がいい事もある。
「それを本人に知らせろと言うのか……」
この一週間で、サバテの常識レベルは人間とまともな会話ができる程度にまでなっていた。
軍務関係の会話となると途端にぼろを出すが、それでもハインツが彼女に親愛の情を覚える程度には成長した。
良好な関係を築こうとしている真っ最中にそんな爆弾を落とせば、彼らの関係は二度と元には戻らないだろう。
それどころか、サバテの人格形成にすら悪影響をもたらしかねない。
それをブルクハルトは、「任務に支障のないよう配慮する事」の一言で片付けようとしているのだ。
正気の沙汰ではない。
いや、むしろわざと失敗を誘っているのかもしれない、とハインツは考えた。
自身が人間を犠牲にして作られた怪物だと知った時にMAIDがどう反応するか、実験結果でも欲しいのだろう。
技術部の連中は血も涙もない狂科学者の集団だと聞くが、どうやら根も葉もない噂ではないらしい。
彼は夜が更けている事に気付いてぎこちなくベッドに横たわったが、結局一睡もせずに朝を迎えた。
サバテは相変わらず世間から半波長ほど外れたセンスで周囲の人間の神経を逆撫でし、ハインツの顔色は日を追って悪くなっていった。
と言っても、彼の神経をすり減らしていたのは彼女の態度ではなかった。
それに教導のスケジュールは完全にこなしていたし、彼も自身の失調を認めようとはしなかった。
手紙には、サバテへの通告に関して期日が切られていなかった。
そのためハインツは、事実を己の胸一つに収めておく事にしたのだ。
「おはようございます、ハインツさん」
その朝、彼らはいつも使っている作戦会議室でいつも通りの時間に集合した。集合と言っても、二人ではあるが。
「おはよう、サバテ。いつも言っておる事だがな、こういう場所ではわしの姓に“中尉”か“マイスター”をつけて呼ぶんだ」
「おはようございます、ヘルメスベルガー中尉、マイスター・ヘルメスベルガー」
「あのなあ、それじゃわしが二人いるみたいじゃないか」
「はあ……どう見てもハインツさんは一人ですけれど」
「だから名前で呼ぶなと言っておろうが」
「ええと、そのう、ごめんなさい……」
サバテは見るからにしょげ返った様子で背中を丸めた。
本来ならば庇護欲をかき立てる光景と言えるだろうが、喪服じみたSS制服を着て背中に不吉な骨翼を突き出させていてはそんな効果は期待できない。
とはいえ精神的に追い詰めるのがよくないのは人間もMAIDも同じ事だ。
ハインツは悲しげに上下する(彼は骨翼にも感情が表れる事に気がついていた)骨翼の先端を避け、命令書をひらひらと振って見せた。
「今日は外出だ。お前さんの様子見も兼ねて、わしの仕事につきあってもらうぞ」
「外に出られるのですか?」
「だからそう言っておる」
見る間にサバテの顔が輝いた。
ハインツは、なるほど効果覿面だ、まるで子供のようだ、と考えてから彼女の実年齢は子供にすら達していない事を思い出した。
彼女の心はまっさらなカンヴァスのようなものだ。彼と、彼に命令を下した司令部は、それを今から汚そうとしていた。
ハインツは自動車の運転にはいささか歳を取りすぎていたし、SS中尉に運転をさせるのもどうかという事で二人のSS隊員が彼らに同行する事になった。
サバテは乗車してからずっとミリテーアヴァーゲンの後部窓越しに外を眺めている。
助手席に座った隊員がちらちらと後ろを盗み見ているのは彼らの組み合わせが悪いからだろう。
客観的に言って、二人は年老いた魔法使いと彼が呼び出した悪魔のようにしか見えなかった。
「ハインツさん、あそこのあれは何で……痛い!」
「……下の名前で呼ぶなと言っておろうが」
彼がぼそぼそと小言を言いながらサバテの足を踏みつけているのも、印象を悪くしているようだった。
数時間後、彼らは目的地に到着した。
ハインツが何年ぶりかに訪れるエッケブルクは、過去と何も変わらぬ治安の悪い街だった。
淀んだ瘴気が住民の魂を腐らせているのかもしれない。
その上、と彼は胸の内で呟いた。
今から逮捕しに行こうとしているようなヴォストルージアの工作員どもが跋扈していれば当然の帰結だろう。
「それで、ハインツさんのお仕事というのは?」
「これだ」
内ポケットから一枚の写真を取り出す。無論、サバテの足を踏みつけておくのも忘れない。
サバテは「だってヘルメスベルガーだなんて長い名前、発音してられません」などとぶつぶつ言いながら写真を覗き込んだ。
「この男には隣国ヴォストルージアの工作員の容疑がかかっておる。よって今からわしらが逮捕しに行く」
「逮捕……ですか」
サバテの顔に暗い影がよぎった。
彼女も教導のおかげで工作員だとか逮捕だとかいう単語がどういう意味なのかくらいは知っている。
ハインツはその影を見逃さなかったが、黙殺して話を続けた。
「戸口に立つのはお前さんにやってもらう。お前さんが使い物になるのかどうか、司令部が心配しておってな」
「はあ、わかりました。手順は教導で教わった通りでしょうか」
「それでいい。何かまずい事になったらわしやあの二人が」と彼は顎をしゃくった。
「対応する。いいか、自分の身を守る事を第一に考えろ。不測の事態にも慌てるな」
「わかりました」
「ようし、行くぞ。……おおい、お前たち、ついて来い!」
彼は写真をしまい込みながら言った。
その写真の裏には、走り書きで「Gernot Weber」とあった。
最終更新:2008年09月14日 21:51