(投稿者:神父)
その日、ゲルノート・ヴェーバーはいつも通りに目を覚ました。
静かな家の中で一人、朝食を作って黙々と食べるのにももう慣れてしまった。
先日のアデーレ・リット以来、彼の家を訪れる者はSS隊員以外には誰一人としてなかった。
彼はひどく寒々とした暮らしをしていたが、もはやそれを変えようとする気力すら残ってはいなかった。
代用コーヒーを淹れ、新聞を読んでいると玄関にチャイムの音がした。
またSSか、と彼は一人ごちて新聞を置き、応対のために出て行った。
サバテは玄関先でそわそわと足を組み替えていた。
戸口の横には彼女のために用意された長銃が立てかけられていたが、彼女は一度もそれを撃った事がなかった。
表通りにはミリテーアヴァーゲンが駐車され、ハインツとSS隊員二名が油断なく周囲を見張っていた。
「あんた、どちらさん?」
扉がわずかに開き、疑わしげな男の声が隙間から流れ出た。
サバテはどういう対応をすべきかよくわからなかったので、とりあえず笑顔で「こんにちは」と言った。
男はその声に反応して扉をぐいと引いた。
「おや、アデーレじゃないか! また休暇かい?」
一瞬、サバテの表情が固まった。
ハインツが目をむき、顎を落とした。
隊員たちはハインツの反応を見て、とっさにホルスターから銃を抜いた。
「……アデーレ?」
硬直から回復したサバテが問い返した。
「何言ってるんだい? まいいや、嬢ちゃん、また来てくれるなんて嬉しいね。代用コーヒーしかないけど上がって……」
ゲルノートはサバテを家の中へ案内しようとしたが、動こうとしない彼女に振り返った。
「どうしたんだい、嬢ちゃん……」と言ってから、ゲルノートは彼女の服装が以前と違う事に気がついた。
「あれ、アデーレ、あんた親衛隊に入ったのかい? あそこって若い女の子はだめだって言ってなかったっけ」
サバテは困惑しきった表情でゲルノートに言った。
「あのう……アデーレって、誰ですか? 私の名前はサバテと言うんですけれど……」
ゲルノートが目を見開き、その拍子に彼の視界に骨翼が映った。
そして、その後ろから銃を抜いて駆け寄ってくる初老のSS隊員も。
「サバテ! そいつの口を塞げ! 今すぐにだ!」
「え?」
サバテはますますわけがわからないという顔でその場に立ち尽くし、ゲルノートとハインツを交互に見やった。
ゲルノートは唇を戦慄かせ、何事かを呟いていた。
「アデーレ……サバテ? 嬢ちゃん、あんた、まさか……」
「あのう、ゲルノート・ヴェーバー……さん? あなたに逮捕状が出ていまして、そのう……」
ハインツが二段飛ばしに階段を駆け上がり、ゲルノートに組み付いた。
ゲルノートは完全に虚を突かれた形になり、玄関のコンクリートに無様に倒れ込んだ。
組み伏せられた瞬間に痛みと衝撃でゲルノートの思考が完成し、彼はわめき声を上げた。
「畜生、MAIDが人間を殺して作られるってのは本当だったのか! この人でなしの気違いども! アデーレになんて事をしやがったんだ!」
サバテが口元を押さえ、一歩後ずさった。目の前であからさまな暴力が繰り広げられるのを見るのは初めてだった。
「黙れ、薄汚い売国奴が!」
「アデーレ、アデーレ! 思い出せ、あんたは人間だ! フランケンシュタインの怪物なんかじゃないんだ!」
「わしは黙れと言ったんだ!」
「あんたは人―――」
鳩尾に拳銃の台尻を振り下ろされ、ゲルノートは動かなくなった。
ハインツは息を整えると、銃を構えて後についてきた隊員たちにゲルノートを車内へ運び込むよう身振りで指示した。
サバテは真っ青な顔で、今にも倒れそうなほど激しく足を震わせていた。
隊員が失神した男を運び去ると、ハインツは見るからに狼狽した様子で拳銃をホルスターに収めた。
「くそったれ」
「あ……あのう、MAIDが……私が、人間を殺して作られた、と言うのは、一体どういう事ですか……?」
「いいから落ち着くんだ。それと、わしがいいと言うまでその話はするな。……とりあえず、場所を変えよう」
騒ぎを聞きつけて、近所の人々が通りに顔を出しつつあった。
ハインツは暴力沙汰にも動じない隊員に安心しつつ、今聞いた事を口外しないよう確約させた上で先に本部へ帰るよう命じた。
二人はサバテの骨翼がなるべく人目に触れないよう気をつけながら、路地裏を縫って街の外れへと向かった。
一見しただけでわかるほど瘴気の立ち込めた袋小路を見つけ、ハインツは「ここにしよう」と言った。
瘴気を初めて目の当たりにして当惑するサバテをよそに、背嚢からガスマスクを出して装着する。
「あの空気って、すごく身体に悪いような気がしますけれど」
「その通りだ。だからわしはこうやってマスクをつけとる」
「私の分はないんですか?」
「あるわけがなかろう」
サバテがはっきりと傷ついた表情をしたのをマスク越しに見て、ハインツは彼女の能力についての説明を忘れていた事に気がついた。
「ひどい……」
「いや待て、泣くな、わしの説明が足りんかった」
「だって、あんなに身体に悪そうな空気を吸えだなんて……」
「それじゃあお前さん、今、息苦しい感じがするかね?」
「え?」
「深呼吸してみればわかる」
サバテは言われたとおり、恐る恐るではあるが息を胸いっぱいに吸い込んだ。
数秒後、息を吐いてからもう一度吸い込む。
「……なんだか、息苦しいどころか、普通の空気より身体が元気になるような気がします」
「それがお前さんの能力だ。背中に生えてる翼のおかげだ」
「そういうものだったんですか、これ」
サバテが軋んだ音を立てて骨翼を動かして見せる。
彼女はしばらく息を吸ったり吐いたりしていたが、やがて意を決したように瘴気の濃く立ち込める袋小路の奥へと踏み込んだ。
その歩調に合わせ、周囲の濃密な瘴気が音もなく骨翼へと吸い込まれてゆく。
ハインツは瘴炉がいかなるものか聞かされてはいたが、こうして作動するのを目の当たりにすると驚愕の念を禁じえない。
見る間に身軽になり、踊るようにくるくると小路を歩き回るサバテの姿は何かの秘術を執り行っている悪魔のように見えた。
「すごいですね、これ。私、今なら空だって飛べそうです」
「そうかね、お前さんが元気になって何よりだ。……このあたりの瘴気は全部吸い取っちまったようだしな」
ハインツはほんの数分しか使わなかったマスクを外し、背嚢へ放り込んだ。
周辺の瘴気はほとんど害のないレベルまで薄まっている……ただし、サバテそのものは別だが。
「ただ、瘴気を身体の中に溜め込んだ状態で迂闊にその骨翼を人やMAIDに近づけたりするんじゃないぞ」
「何故ですか?」
「骨翼の部分で瘴気を吸収するから、どうしてもそこに瘴気が沈着してしまうんだそうだ」
「はあ、わかりました。……ところで、先ほどの話ですが」
ハインツは顔をしかめた。瘴炉の初駆動で注意を逸らそうと考えたのだが、そうは問屋が卸さないらしい。
流石に自分の生い立ちに関わる話となると、ちょっとやそっとでは念頭から離れないのだろう。
「わかったわかった、仕方ない、話そうじゃないか」
「……お願いします」
一呼吸を置くと、ハインツはゆっくりと、しかしはっきりとした、教導を行う時の口調で話し始めた。
MAIDが生きた人間を使って作られる事。
社会的な非難を避けるためそれが機密に指定されている事。
しかし機密に指定されていても情報が漏れ、中にはMAIDの素体として志願する人間がいる事……。
「あの男が言っていたアデーレ・リットというのは、お前さんの素体になった人間の名前だろう」
「つまり、私はあの人の知り合いを殺して作られたと……?」
ハインツは首を振った。
「わしは志願者と言ったんだ。決して無理強いされたわけじゃあない。そのアデーレという女は、自分が死ぬという事を承知の上で素体になった」
「でも、あの人は私たちを人でなしだと……」
「あの男は間違っとるよ。わしらは悪魔じゃあない。Gの脅威がなければあんなものに手を出しはしなかったろう」
ただし、と彼は
心の内で呟いた。一度手を出してしまえば二度と手放す事はあるまい。たとえGの脅威が去ったとしても。
そしてその時こそが、次なる世界大戦の始まりなのだろう。
「はあ……」
「ともかく、お前さんが気に病まなけりゃならん理由はどこにもない。わしらは必要な事をしているんだ。胸を張れ」
「あの、他のMAIDにあった時に、どんな顔をすればいいのかわかりません」
「他の人間と同じように接するんだ。いいか、確かにMAIDって奴はお前さんのように人間にゃない力を持っとる。
だがな、これは絶対に忘れるなよ、お前さん方の心は人間と同じだって事をな。喜びもするし悲しみもするんだ」
ハインツの見たところ、サバテは一応のところ納得はしたようだ。
どの程度の期間効果があるのかはわからないが、定期的に言い聞かせてやれば思索の横道に逸れる事はあるまい。
もとより軍隊組織の精神的支柱というものはその洗脳性にあるのだ。
元気を取り戻したサバテがここからニーベルンゲまでハインツを抱えて飛んでいけると主張し始めた事で、彼の思考は中断された。
付き添いの隊員を車もろとも帰らせてしまったために帰りの足を調達せねばならなかったのだが、彼はその案に便乗する事にした。
彼女の能力を試すのは悪い事ではない。それに、ハインツは今まで飛行機に乗った事すらなかった。
空を飛ぶというのは、どんな気分なのだろうか。
その日、
エントリヒ帝国辺境の街エッケブルクに、三つの食い違った噂が流れた。
曰く、この街の出身で空軍パイロットだったアデーレ・リットが皇室親衛隊に洗脳された。
曰く、アデーレ・リットが悪魔と契約して空飛ぶ魔女になった。
曰く、死んだアデーレ・リットが死神になって、この街の住民を皆殺しにするために現れた。
さらに、この小さな街から帝都ニーベルンゲまでの間に存在する街のいくつかでは鋸を持った悪魔が干からびた死体を抱えて飛んでいったという、
「飛翔する殺意」なる名の都市伝説がまことしやかにささやかれるようになった。
皇室親衛隊によって逮捕されたゲルノートは、逮捕から四日後の朝、拘置所内で死亡しているところを発見された。
親衛隊は死因を明かさず、それどころか彼を死亡させた事実すら公表しなかった。
結局、ゲルノート・ヴェーバーが
ヴォストルージア社会主義共和国連邦と内通しているという事実が確認される事はなかった。
親衛隊本部はハインツの報告を受け、サバテを特設MAID部隊ではなく特務親衛隊に配属する事を決定した。
戦闘補佐士官、つまり監視官としてハインツをつける事を条件として、である。
あまり前例のない事ではあったが、他のMAIDへ悪影響を与えうる事を考慮しての決定だった。
彼らは、茨の道へと踏み出しつつあった。
最終更新:2008年09月14日 21:49