(投稿者:神父)
瘴気という言葉を辞書で引くと、「熱病を引き起こす山川の悪気」とある。
ここで言う熱病とはマラリアなどの伝染病の事を指すが、しかしそうでなければならない理由は、ない。
本部に到着するや否や、ハインツは医務室へ担ぎ込まれた。
低空とはいえ生身で一時間も飛行すれば低体温症になるのは免れ得ない。六十歳近いとなればなおさらの事だ。
生まれて初めて空を飛ぶ爽快感に酔いしれていた
サバテはハインツが死にかけている事にも気付かずニーベルンゲまで一直線に飛び、
着陸してから惨状に気付いて泣きながら衛生兵を呼んだのだった。
干からびた死体を抱えた悪魔に間違われるのも無理はない。
かくしてサバテはハインツの上官から厳重な注意を受け、さらに彼が回復するまでの間、出撃禁止命令が下された。
要するに暇になったのである。
司令部の面々は本部に置いておくと厄介な彼女の処遇に頭を痛めたが、単独運用はそれに輪をかけて厄介な事態を引き起こす可能性があった。
さりとていきなり営倉送りにすれば繊細な彼女の精神に取り返しのつかない傷を負わせる事にもなりかねない。
……彼女の精神は既に傷を負っていたが、彼らはまだその報告を受けていなかった。
それにしても、暇を持て余した人間(彼女はMAIDだが)というものは往々にしてろくでもない結果を引き起こすものだ。
司令部は、サバテを図書館か映画館にでも閉じ込めて置けばよかったのだ。
サバテの行くところ、ありとあらゆる場所は瞬く間に人気がなくなった。
周囲と同じ黒いSSの制服は誰も気にしなかったが、背中に生えた骨翼は折り畳んでも隠しきれるものではない。
人々はサバテを一目見るなり眉をひそめ、何事かをささやきあいながら彼女から離れていった。
サバテはひどく悲しげな顔をしていたが、それも逆効果だった。
この時代のそれほど明るいとは言えない電灯の下では、彼女の表情は亡霊を思わせたのだ。
人々に避けられる事でいたく傷つけられた彼女は、元から人気のない本部最上階のバルコニーへ上がる事にした。
帝都を眺め渡す事のできるバルコニーは、むしろ汚れた人々の営みが見えてしまう側面の方が強く、
国民のために働いている実感を得たい兵士たちにとってはあまり歓迎すべき場所ではなかった。
しかしサバテにとっては違った。
ともかく最初から人がいなければ、逃げられる事で余計に心を痛める事もない。
サバテがバルコニーへ上がると、意外な事に先客がいた。
この土地で一年の半分を占める鈍色の空と鉛色の石造りの建物群を背景に、その人物はサバテに背中を見せていた。
着ているものは明らかにSSの制服ではない。青いロングスカートのようなものの上に、鎧らしきものをあちこちにつけている。
しかも、ここでは誰もが武器を保管庫に預けているというのに、その人物は巨大な剣を手すりに立てかけているのだ。
無論、拳銃や装飾用の短剣は別だが……サバテも、与えられた異形の長銃を保管庫に預けていた。あの銃は持ち運びにはあまりにも不向きだ。
サバテは、こんなところに
一人でぽつんと立ち尽くしているのはどんな人物なのだろうかといぶかしんだが、
よくよく考えるとこの人物がいなければ今頃ここに一人寂しく黄昏れているのは自分なのだという事に気がついた。
その人物はまだサバテに気付いておらず、その背中に哀愁を漂わせていた。
服装のせいか、傍目には肩を怒らせて警戒しているように見えるのだが、サバテは自分と似たような悲哀を感じ取っていた。
いつまでも黙って背後に立っているのもまずかろうと、彼女は思い切って声をかける事にした。
「……あのう」
その人物が、驚いて振り返った。
銀灰色の長い髪を三つ編みにした女性で、頭には多くのMAIDに共通するヘッドドレスをつけていた。
後ろから見ただけでは気がつかなかったが、彼女もサバテと同じMAIDだったのだ。
そのMAIDはサバテを鋭い眼光で射すくめ、緊張した声で誰何した。
「誰だ?」
「ええと、私はサバテと言います。先日、MAIDとして親衛隊に配属されたんですが……」
「新入りか」
「はあ、そういう事になると思います。あなたは?」
「……
ジークフリート」
それだけ言うとジークフリートは再びサバテに背を向け、街並みの観察に戻った。
サバテは何とはなしに置いてけぼりにされたような気分になり、その横に並んで一緒に街を眺める事にした。
背中は大きく見えたのだが、意外にもジークフリートはサバテより頭半分ほど背が低かった。
「何故、横に立つ?」
「へ? ……そうしてはいけない理由があるんですか?」
「そういうわけでは、ない」
「よければ、一緒にいたいんです。……私を見ると、みんな逃げてしまって」
何故、と聞こうとしてジークフリートはサバテの方を振り返り、広げられた骨翼に気付いた。
灰色をした鋭く禍々しい翼はSSの黒い制服と完璧で不吉な調和を成し、サバテが持つ本来の温和な性格を塗り潰していた。
「……その翼は?」
「瘴炉、というものだそうです。これを使えば色々な能力が発揮できると……でも、こんなものを背負ってたら嫌われてしまいますよね」
サバテは軽く肩をすくめて微笑んだが、その目には涙が浮かんでいた。
自分でも涙に気付いたのか慌てて上を向き、それでも涙を止められない事に気がついて顔を背けた。
「あの……ごめんなさい、少しの間……こっちを向かないでください」
「……サバテ」
「少し、嫌われたくらいで、と、取り乱してしまって……恥ずかしくて」
「サバテ」
「こんなもの、外すわけにもいかないんですから、嫌われても仕方ないですよね……」
「サバテ!」
ジークフリートの一喝に、肩を震わせていたサバテがびくりと反応し、涙に濡れた顔を向けた。
「な……なんでしょうか?」
「……らない」
一瞬前の怒声とは打って変わって、ジークフリートが小声で何事かをささやいた。
サバテは手袋をしたままの手で涙を拭い、よく聞こうと顔を近づけた。
「あのう、今、なんと?」
「……ない」
ジークフリートはさらに小声になり、ついと顔をそらした。
サバテは上半身をかがめ、ほとんど頬をかすめんばかりの距離に迫ってもう一度聞いた。
「ええと、ジークフリートさん、よく聞こえないのですが……」
ふわりと、サバテのまとう妖しげな空気がジークフリートを押し包んだ。
そして奇妙に心地よい空気の誘うまま、ジークフリートは一呼吸置いてから言った。
「私は、嫌いにならない、と言ったんだ!」
サバテはまず至近距離で叫ばれた事に驚き、続いてその内容を理解してもう一度驚いた。
ジークフリートは大声を出してしまった事を恥じるかのように顔を紅潮させてうつむいた。
彼女は、孤独の辛さを身に沁みて知っていた。
五年の間、彼女に積極的に近付こうとする物好きなどいなかったし、偶然に近付いた者も彼女がどんな存在かを知った途端に離れていった。
確かに、彼女の応対も悪かったのかもしれない。
シュナイダー大佐の教導はただ戦争に関係するものばかりで、彼女は人付き合いのなんたるかを知る事ができなかった。
おかげで彼女は今や鉄壁ジークなどとあだ名されるに至り、SS特設MAID部隊の中でも孤立し続けていた。
しかしサバテはそうではない。彼女の応対に不愉快な点などまるでなかった。
確かに口調が間延びしすぎている感はあるが、人をいらだたせるほどではない。
彼女の柔らかな表情は、ジークフリートの硬い顔つきに比べればはるかによい印象を与えるだろう。
サバテは長身でスタイルもよく、一目惚れする男性も多かろうとジークフリートは思った。
ただし、それは背中に生えた骨翼さえなければの話だ。
サバテが翼を望んだわけではない。ただ、彼女を生み出した人間の都合で与えられただけだ。
本人に選択の余地がない事を理由に誰かを忌み嫌うなどという事が、ジークフリートには許せなかった。
ただ違う肌の色をしているというだけで、ただ違う土地に住まうというだけで、ただ違う神の下に生まれたというだけで……
己と違うというだけの事で、人々は容易く迫害を始める。そんな事例を、五年の間にどれだけ見てきた事か。
このままでは遠からず、サバテも孤独の果てに生気を失う事だろう。
「え……あの、私、その……嫌いにならないって……」
「……そのままの、意味だ」
サバテの顔がぱっと輝いた。今の今まで、彼女にそんな事を言った人間は一人もいなかったのだ。
ハインツですら、彼女に対する好悪を明かそうとはしなかった。
サバテは感極まって不意にジークフリートを抱きしめ、彼女の顔を自分の胸に埋めた。
「あ……あの、なんて言えばいいのかわかりませんけれど、私もジークフリートさんの事、嫌いになんかなりません」
「……んん! ……ッ…! ……!」
何の前触れもなく抱きすくめられ、ジークフリートの反応は大いに遅れた。
小さい子供に飛びつかれた事はほんの数回だけあったが、自分より長身の相手に抱きしめられるというのは初めてだった。
強くしなやかに身体を引き寄せる腕、顔に押しつけられる柔らかで弾力のある感触、そして鼻をくすぐる香りに彼女の思考は完全に麻痺した。
まったく身動きの取れない彼女の耳元でサバテがささやく。
「お互いに嫌いじゃないって事は、お互いに好きだって事ですよね。……こういうの、両想い、って言うんでしたっけ」
「!?」
「ん……ジークフリートさんって、いい香りがしますね……」
サバテが首筋に鼻先を押し当てて匂いをかぐに至り、ようやくジークフリートは身体の制御を取り戻した。
全力で抱擁を振りほどき、名残惜しげな顔をしているサバテを押しやる。
顔が真っ赤になっているのは、酸欠の一歩手前まで行っていたというだけの事ではなかろう。
「別、に……好きとは、言って、ない」
「それでは、やはり嫌いなんですか?」
サバテが悲しげに眉を下げた。
「ち……違う、どちらでもない」
「……?」
サバテは首を傾げてしばし考えていたが、もう一度口を開いた。
「では……どちらに近いか、と言ったらどうでしょうか?」
サバテが考えている間に呼吸を整えたジークフリートは、うっと呻いて言葉に詰まった。
ここで嫌いだと言えば確実にサバテを悲しませるだろう。しかし好きだと言えば間違いなく誤解を招く。
「どちらか……と、言うと……」
「はい」
明らかに期待のこもった眼差しで見つめてくる。
こうなると嫌いだとは絶対に言えない。ジークフリートは世間で言われるほど冷徹ではなく、本質的には心優しい少女なのだ。
しかし好きだと言えば……
「……」
「……」
「好き、だ」
言ってしまった。
ジークフリートは目を輝かせて喜びをあらわにするサバテと目を合わすまいと天を仰ぎ、どうしてこんな事になったのかと嘆息した。
一方、サバテは心の底から喜んでいた。好きだと言われて喜ばない人間(無論、サバテもジークフリートも人間ではないが)はいない。
もう一度ジークフリートを抱きしめようとするのを阻止されながらも笑顔を絶やさず、「私も好きです」などと口走っている。
ほとんど熱狂的と言ってもいい状態だ。
ジークフリートはお世辞にも上手とは言いがたい会話術でどうにかこうにかサバテを落ち着かせる事に成功し、
二人はバルコニーの出入り口に施錠される時間になるまで、並んで街並みや空を見ながらあてどなく話し続けた。
サバテと別れ、あてがわれた自室に戻ったジークフリートは、動悸がなかなか収まらない事に気がついた。
疲れたのだろうかとベッドに横たわり、目を閉じるとサバテの柔らかな微笑が瞼の裏に浮かび上がった。
「……好き、か」
我知らず呟いてからはっと身を起こし、そんなはずはないと首を振る。
それにしてもサバテの胸はやわらかかった、というよこしまな思念が脈絡もなく浮かび、彼女は火照る顔を押さえた。
もう一度抱きしめられておけばよかった、という言葉を無理矢理に飲み下す。
(サバテはいい香りだと私に言ったが彼女の香りも実にすばらしく、
香りなんていちいち覚えていられるはずがないそれは気の迷いで、
細い身体に似合わずあの腕は力強くしなやかだった、
そんな事は当たり前だMAIDなのだから、
あの声と口調は私を穏やかな気分にさせてくれる、
遅い意思伝達はただ非効率なだけだ、
私はサバテをどう思っているのか?)
……ジークフリートが専属のMAID医療技官の医務室にふらつく足取りで現れたのは、その日の夜遅くになってからであった。
SS司令部は大混乱に陥った。
鉄壁と、あるいは守護神と言われたジークフリートが不調を訴えているのである。
この状態が続けばジークフリート・ラインは崩壊すると将軍たちが半狂乱で叫び立てて卒倒した。
ジークフリートの訴えた不調は以下のようなものであった。
熱が出る。動悸が早い。声がかすれる。背筋に震えが走る。
そしてジークフリートの口からサバテの名が出るに至り、司令部はベッドの上で唸っているハインツを叩き起こし、
貴様は教育担当のMAIDにどんな知識を吹き込んだのかと激しく詰問した。
げっそりとやつれたハインツが何もおかしな事は教えていないと言うと、彼らはサバテに矛先を向け、どんな魔法を使ったのかと本気で問いただした。
彼らの予想に反し、彼女はいともあっさりと答えた。「別におかしな事はしていません、ただ好きだって言っただけです」と。
今度は技術部が大混乱に陥った。
MAIDに恋愛感情を与えたのは誰の責任かという口論に始まり、そもそもMAIDに感情を残す必要がどこにあるのか、
あるいはMAIDを人間と同列に扱う事に問題があるのではないのかという果てしのない議論が始まったのだ。
その上司令部が、こんな事になったのは技術部がMAIDを完璧に調整できていないからだとなじったものだから事態はさらに悪化した。
何年も前から溜まりに溜まった有形無形の不満が爆発し、
司令部がMAIDの不完全さに言及すれば技術部がMAIDの現場運用の稚拙さを非難するといった具合に、現状そっちのけで足の引っ張りあいを始めた。
夜が明ける頃には誰も彼もが疲労困憊し、ジークフリートはうわごとで「サバテに会いたい」などと口走る始末だった。
もはやジークフリートは戦線に戻せないと誰もが思った。
しかし、サバテが瘴炉を持つ事を思い出した医療技官が一本の解毒剤を取りに地下倉庫へ走ったおかげで、彼女はあっさりと治癒したのである。
ジークフリートの病状は、言わば瘴気による一時的な恋の病と言ったところだった。
Gの発する瘴気は様々な病を引き起こすが、瘴炉に取り込まれるとその性質を微妙にではあるが変化させる。
サバテに近付いた時にジークフリートが感じた妖しげな空気は、サバテの身体から滲み出した変質瘴気だったのである。
そしてそれをまともに(まさしく零距離であった)吸い込んだジークフリートが一時的にせよ体調を崩したのも無理はない。
司令部は遅まきながらサバテのもう一つの危険性を認識し、今後二度と彼女が他のMAIDと接触しないように対策を講じた。
ハインツからの報告があったのはその後だったが、それも既に決定している方針を後押しするものだった。
サバテは茨の道へ追いやられた。
いや、茨と言うよりはむしろ百合と言うべきなのだろうが、いずれにせよ世の理解からは程遠い。
回復したジークフリートはサバテがどういうMAIDかの説明を受け、さらに彼女と二度と会えないだろうと聞かされた。
しかし彼女は、ならばサバテに「今度からはジークと呼んで欲しい」と伝えてくれ、とのたまったという。
言うまでもなく瘴気は完全に抜けていたが、それで記憶まで失われるわけではない。
その時の心理状態がどうあれ口から出た事は取り返せない。曲がりなりにも筋を通そうと言うのか、まったく強情な事である。
とはいえ、彼女の五年の人生で初めて花が咲こうとしているのかも知れなかった。
……咲いたとしても徒花だという事は、本人も含めて誰もが知っている事ではあったが。
最終更新:2008年09月20日 23:38