(投稿者:神父)
人間同士が戦場で相争う時、最も恐れられ、憎まれ、蔑まれるのは狙撃兵である。
Gにとっても狙撃兵は少なからぬ脅威ではあろうが、彼らは恐れも憎みも蔑みもしない。
ハインツ・ヘルメスベルガーは、先の大戦で公式戦果120名を挙げた優秀な狙撃兵である。
しかし彼は、血の通うトリガと化した己の指を嫌っていた。
SS本部が人員の大半を挙げて悪夢のような大騒ぎを演じた後、
サバテは今度こそ図書館に放り込まれた。
ハインツは四日間をベッドの上で過ごしたが、とりあえずは後遺症もなく、医師にも復帰してよいとの太鼓判を押された。
次の任務のために迎えに行った時、サバテは何故か恋愛小説の山に埋もれていたが、彼は理由を問いただしたくなかった。
ともあれハインツはどうにか彼女を図書館から引っ張り出し、作戦会議室に入って任務を説明した。
「亡命の阻止……ですか」
「ああ。移民科学者がルインベルク経由で逃亡しようとしておるそうだ」
「逃亡って……どうしてでしょう? 私、生まれてから日が浅いですけれど、
エントリヒ帝国がそう悪い国とは思えません」
「お前さんはまだこの国の裏側を知らんのさ」
だがもうすぐ知る事だろうよ、とハインツは苦々しく思った。
最初の任務からしてそうだったが、何故SS司令部はこんな仕事を生まれて間もないMAIDにやらせようとするのだろうか?
「そういうものなんですか」
「そういうものなんだ。……我が国は戦争が始まってこっち、政情が不安でな。外人排斥が起こってるのさ」
「排斥? 外国の人と仲良くしてはいけないのですか?」
「いや、わしはそうは思わんよ。しかしな、お前さん、例えば家族が……」
「あのう、私には家族というものが何なのか、よくわからないんですが」
一瞬、ハインツは言葉に詰まった。確かにサバテには家族というものがない。
MAID同士はある意味で兄弟姉妹だと言えるかも知れないが、彼女がまともに姉妹に会える可能性がどれだけある事か。
「ううむ……それじゃあ、親衛隊の本部を思い浮かべてみろ」
「はあ」
「本部にはそこにいる人の数に見合った部屋と、食料と、仕事とがある。ここまではいいかね」
「はい、まあ」
「よし。それじゃあそこに、隣の建物が火事になって焼け出された人々が逃げ込んできたとしよう。どうなると思うね?」
「あ、泊める部屋が足りなくなって……」
「その通り。食べ物も足りなくなる。そして部屋と食べ物が充分にあったとしても、それをただでくれてやるわけにはいかん」
「仕事も足りなくなる……という事でしょうか」
「そうだ。そして本部の人間が仕事にあぶれたとなると当然給料ももらえん。そうすると食うに困る」
ハインツは腕を振って、「今の話を、わが国とGの攻撃で壊滅した国々に当てはめてみろ」と言った。
サバテは黙って眉をひそめ、目を伏せた。ハインツは彼女をなだめるように続けた。
「……国の偉いさんだって、本心ではこんな事はしたくないだろうよ。
だがなあ、よその人間に何でもかんでもしてやって、それで本来の国民が路頭に迷うなんて事になったら本末転倒だ」
「で……でも、何か方法があるはずです」
「もちろんわしらはその方法を考えたし、実行したさ。だがお前さんが生まれる前に全部出尽くした。何事にも限界はある」
「……」
「それにな、やれと言われた事をやらなけりゃ軍はばらばらになっちまう。
軍がばらばらになればGが大挙して押し寄せてきて、この国もおしまいだ。誰かが手を汚さなけりゃならん」
「私でなければ、ならないんですか……?」
「他の連中はよそに行っておって間に合わん。今動けるのは本部に釘付けになっていたわしらだけだ」
「……わかりました」
部屋を出る時に、サバテが「親も、名前もある人を目標なんて」と呟いたのを、ハインツは聞き逃さなかった。
だが彼はその言葉を黙殺した。
かつて、国境警備隊は押し寄せるGをせき止めるため、他国からの避難が終わるのを待たずに国境を締め切った。
泣き叫び、バリケードを破壊しようとする避難民を撃ち殺しさえした。
ハインツは彼らの一人と話をした事があった。その男は言った。
かつて国境の向こうにバイザントやダキア、サモ王国、他にも珠玉のような国々が栄えていた事を、どれだけの人間が覚えているだろうか、と。
あれはわずか十年前の事だった。わずか十年で人々がどれほどの事を忘れるか、彼は嫌と言うほど知っていた。
今度は、本部にも運転手を用意するだけの余裕がなかった。
教導の中には軍用車両の運転の手ほどきも入ってはいたが、ハインツとしてはサバテの運転する車には乗りたくなかった。
確かに射撃訓練では彼が今まで見た事もないほどの好成績を叩き出したが、だからと言って運転まで上手いとは限らない。
仕方なしに、ハインツは自らアウトバーン(これも難民対策の公共事業の一環であった)を飛ばす事にした。
そうすれば、少なくとも自分の命は自分で預かれる。それに事故を起こしても、MAIDがその程度で死ぬとは考えにくい。
「……」
出発して以来サバテはどこか上の空で、膝に狙撃銃を抱えたまま座っていた。
最初に外出した時にはあれほど外を見たがったというのに。
ハインツはバックミラーで彼女の様子を見て、声をかけた。
「おい、お前さん、ぼんやりしとるがな、膝の上のそれには気をつけてくれ」
「……」
「サバテ?」
「……え? あ、はい、なんでしょうか」
「お前さんが膝に危なっかしく乗っけてる箱の事さ。そいつはわしの銃だ」
「あ、はい、すみません……え、ハインツさんの?」
サバテは慌てて座り直し、膝の上で銃のケースをしっかりと抱えた。
今回は、あの取り回しに困る怪物狙撃銃は持ってきていなかった。
エッケブルクの一件で、対人任務ならば明らかに不要だと判断されたのだ。
「そうとも、わしの銃さ。前の戦争の時に支給されたのをいまだに使っとる」
前の戦争……三十年前の、
ルージア大陸戦争の事である。
あの時もひどかったが、今はもっとひどい事になっている、とハインツは胸の内で呟いた。
「三十年も……」
サバテにとって、いやすべてのMAIDにとって、三十年などという年月は想像を絶するだろう。
彼らの最も年長の者ですら、十年と生きていないのだ。
サバテはケースを撫で、そこから何かが読み取れるのではないかとでも言うように目を閉じた。
「……」
「お前さん、感慨深いのはいいが、居眠りするなよ」
「……そのくらい、私にだってわかってます」
感動を台無しにされたと言わんばかりに、サバテがふくれっ面をした。
ハインツはにやりとミラー越しに笑ってみせたが、内心ではこれで少し手も彼女の気が晴れればいいがと案じていた。
SS技術部所属、元エイギア人科学者ブルーノ・ダヴィッドは国境への道を急ぎ足に歩いていた。
時折、何もかもが不可解だ、と呟きながら。
彼はGの出現当初から、Gの生態に関する研究を行っていた。
陸上の節足動物としては異常に巨大な生物である彼らに、尋常ならざる興味を引かれたのである。
彼らは細い脚の限界を明らかに超えた質量を支えきっていたし、その上信じられないほどのスピードで移動する事ができた。
しかもその胴体を守る甲殻は、ナイフや拳銃程度では傷一つつかなかったのだ。
まさに驚くべき生物である。彼らの生態を研究すれば、人類にとって役立つ事が何かしら発見できるはずだった。
しかしそうはならなかった。
悠長に研究生活を送っていた彼は、いつの間にかエイギア共和国の半分がGの餌場と化している事を知って度肝を抜かれた。
大慌てで荷物をまとめ、いくつかの国境を越えてエントリヒ帝国にたどり着いた時、故郷はすでに跋扈するGの足元に埋もれていた。
バリケードは、彼が国境を越えた直後に閉鎖された。有刺鉄線の向こうには、絶望的な顔をした人々がまだ並んでいた。
彼は帝国内の友人に頼み込んで皇室親衛隊の技術部に籍を取ってもらう事に成功した。
Gと戦うためにはGの研究が欠かせない。彼は歓迎され、それなりに満足な研究生活を送る事ができた。
しかしこの半年ほど、技術部の上層は雲行きが怪しくなっていた。
彼が提出したGの生態に関する論文が、完全に黙殺されているのである。
最初はよくある手違いで紛失したのだろうと思い、複写して再提出した。しかし反応はなかった。
技術部長と直に会って渡そうとしても、予定が埋まっているの一点張りで会う事ができない。
では国外に発表しようと各国の科学者たちに論文を郵送しても、その後の音沙汰がまったくない。
戦術研究に役立つはずの情報を、誰かが握り潰しているとしか考えられない。
仕方なしに、彼はエントリヒとクロッセルを隔てるブロイク川の向こう、ルインベルク大公国に住む友人を訪ねる事にしたのだった。
ほとんど休みなくアウトバーンを飛ばした結果、彼らは目標よりも先に国境にたどり着く事ができた。
ハインツはひどい腰の痛みを覚えたが、まずは仕事を片付けねばならない。
ブロイク川を望む丘陵の上で、彼は目ぼしい狙撃点を探し始めた。
……ほどなくして、SSの徽章が描き込まれた指令書を振りかざすまでもなく、彼らはある屋敷に陣取る事ができた。
そこは廃屋だった。かつては美しかったであろう石壁は苔にまみれ、マンサード様式のレンガ屋根もあちこちが欠けている。
室内を見ても、大きすぎて運び出せなかったと思しき家具を除いてほとんどの家財道具が持ち出されていた。
犯罪者が隠れている可能性があるため、一通り家の中を回ってこいとサバテに命じ、ハインツは二階の寝室に腰を落ち着けた。
彼はここまでサバテに持たせておいた狙撃銃をケースから取り出し、素早く組み立てて点検した。
特に問題はない。銃床は長年使ってきたために磨り減っているが、手入れを怠らなかったおかげで機能は往時のままだ。
ZF38照準眼鏡付Gew91対人狙撃銃……公式戦果120名。
実際には少なくとも180名以上を射殺した銃だ。SS入隊後の人数を含めれば200に達するだろう。
彼は狙撃のためにこの銃を手放せなくなっていたが、同時に彼の手を200人の血に浸す事になったこの銃を憎んでもいた。
Gを撃ち殺すために、その目の前にいた味方の腕を吹き飛ばした事すらあった。だがあの時は……
彼は首を振って、考えるのをやめた。いずれにせよ、大佐はもう彼のような一士官の事など覚えてはいまい。
それに彼は今やSSにすらいないのだ。心配するだけ無駄というものだ。
「……ハインツさん?」
いつの間にか、寝室の戸口にサバテが立っていた。右手にはM712をぶら下げている。
大型拳銃は、つつけば折れてしまいそうな彼女の姿には不釣合いに見えたが、それと同時に、悪魔のような骨翼にはよく似合っていた。
「戻ったか。誰もいなかったのか?」
「誰もいませんでした。あ、でも台所にかわいい猫さんがいましたよ。ほら、おいで……」
サバテが後ろを向いてしゃがみ、金色の瞳を輝かせた黒猫を胸に抱いて寝室に入ってきた。
魔女と黒猫! ハインツはあまりにできすぎた組み合わせに思わず吹き出した。
すると黒猫は、何がおかしいんだと言わんばかりに不機嫌な唸り声を上げ、床に飛び降りた。
「何がおかしいんですか?」
サバテが、黒猫の通訳をするように言った。
ハインツは手を振り、「なんでもない、気にするな」と真面目な顔を取り繕った。
「それにしても、猫に懐かれるとはなあ。てっきりその翼を見て一目散に逃げ出すんじゃないかと思っとったんだが」
「動物は人間と違って物事を外見で判断したりはしないんです。……って、何かの本に書いてありました」
「ほう、図書館で何をやっておったかと思えば、ちゃんと勉強しとるじゃないか。……ともかく、邪魔にならんように注意しておけよ」
「はい」
サバテは素直に頷き、黒猫をダブルベッドの上に抱え上げた。
猫はおとなしくベッドの上に寝そべり、じっと彼女の目を見上げていた。
彼女はしばし猫と見つめ合っていたが、やがて思い直したように振り向き、ハインツの立つ窓際へ歩み寄った。
「……どうしても、しなくてはならないんですね」
「それがお前さんの生まれた理由だ」
「けれど、私は、こんな形で生まれる事を望んだわけではありません」
「自分の思い通りに生まれる事など、誰にもできん。誰にもだ。現実と折り合いをつけるんだ」
「……」
ハインツが壁に立てかけておいた狙撃銃をサバテに手渡した。
サバテは両手で銃を抱え、「こんなに重いものだとは思いませんでした」と呟いた。
ハインツがバルコニーへのガラス窓を開けると、彼女は慎重に外へ出て、周囲を一渡り見回した。
「左手、遠くに見えるのがブロイク川だ。目標はそこの下の道を通ってあそこの検問所へ向かう」
「検問所で止められないのですか?」
「正規の旅券とSSの身分証を持っている人間を止めるには無理がある。ともかく、そこの道を上がってくるところを撃てばいい」
「……」
「目標は近くの旅館から徒歩でやってくるそうだ。よく狙えば一発で片がつく」
「……」
「幸い、このあたりにはほとんど人が住んでいない。誤射の心配は無用だ」
「……」
「おい、お前さん、なんとか言ったらどうなんだ?」
「……そんな事を、言われましても、私が……また、人を殺さなければならないなんて」
ハインツは顔をしかめた。サバテは彼女の素体になった人間……アデーレ・リットの事を言っているのだ。
「お前さんの素体になった人間がどんな奴だったか、わしは知らん。だが伝言は受け取っている。
自分は心が弱かったから、前轍を踏まないように注意しろ、だそうだ」
「……どういう、意味でしょうか?」
「わしが教えてもわからんだろうよ。自分で考える事だ」
「はあ」
「そろそろ来るはずだ。いつでも撃てるように準備して、警戒を怠るな」
ブルーノは足早に道を歩きながら内心で悪態をついた。
長らく研究室にこもっていたせいで、少し歩いただけで脚がひどく痛むのだ。
しかし休んでいる余裕はない。誰かがこの情報を留めておきたいのだとすれば、彼自身に追っ手がかかるのは時間の問題だ。
それにしても、こんな情報を秘匿して誰が得をするというのか?
少なくともSSや国防三軍にはメリットがない。
帝国が優勢に立つ事を他国が憂慮しているとすれば、情報を伏せるのではなく奪いに来るだろう。
では誰が―――
誰、ではなかったとしたら?
突如として浮かんだ考えに、ブルーノは愕然として足を止めた。
だが筋が通っていないとは言えない。彼らはあまりに不可解だ。
苦労して手に入れた標本は、明らかに彼らの原型になったであろう昆虫とはまったく異なる物質で組成されていた。
さらに信じがたい事に、彼をはじめとした研究室の面々は、その物質が何なのか解析すらできなかったのだ。
彼らはただ巨大化した害虫ではない。もっとおぞましい何かだ。
そう、そして―――彼らが人類には思いもよらない方法で戦略を練っていないと、誰に言えるだろうか?
彼は不意に視線を感じ、目を上げた。
ブロイク川へ下ってゆく道の途中に、かつては立派な屋敷であったろう廃屋が佇んでいるのが見えた。
そしてその瞬間、彼は胸の真ん中に衝撃を感じ、もはや何かを心配する必要もなければ、心配する事もできないのだと知った。
半秒と保たず死にゆく彼の目に、バルコニーに立って彼に鎌を向けた死神の姿が見えた。
意識の最期の断片が、あらゆる怨嗟の感情を死神へ向けて撃ち出した。
最終更新:2008年09月23日 02:30