(投稿者:神父)
生物が死の直前に信じがたいほどの力を発揮するという説は、市井にも知られるほど有名である。
だがそれが誇張などではなく真実である事を、どれだけの人間が知っているだろうか。
そして、その力が目に見える形で発揮されるとは限らないという事を。
最初、ハインツはサバテががく引きを起こしたのだろうと思った。
緊張した射撃初心者にはよくある事だ。だが彼の観測用双眼鏡には、胸骨の中心を撃ち抜かれてくずおれる男の姿が映っていた。
「おや、この距離からど真ん中を一発で撃ち抜けるとは、大したもんだ。やる前はあんなに緊張していたのに―――」
耳障りな音を立てて、狙撃銃がバルコニーの床に落ちた。
「おい、お前さん、銃の扱いには気をつけろと言ったじゃないか。何をやって……」
ハインツは顔をしかめて双眼鏡から目を離し、
サバテを振り返った。
取り落とした狙撃銃に引っ張られるように、蒼白な顔をしたサバテが床に崩れ落ちた。
彼は目をむいて双眼鏡を放り出し、彼女の手首を掴んだ。
「サバテ!」
「あ、あ、ああ―――」
彼女の目はどこも見ていなかった―――あるいは、この世でないどこかを見ていた。
ハインツは彼女に肩を貸して室内に引っ張り込んだ。
「おい、サバテ、どうした、一体何をやったんだ」
「い―――いや、来ないで! 殺さないで!」
目の焦点が合った瞬間、サバテはハインツの手を必死に振りほどいた。
ハインツが伸ばした右腕を、骨翼の先端がざっくりと切り裂いた。
「おい、何をするんだ! くそったれ、歳を食うと傷の治りが遅くなるんだぞ―――」
制服の袖をべったりと汚し、血が流れ落ちた。ハインツは切り裂かれた腕を押さえ、慌てて飛び退いた。
サバテは逃げるようにして床を這っていき、ベッドに突き当たると瞳に恐怖をありありと浮かべて彼を振り返った。
「死にたく、ない……やめて……来ないでください……」
「一体何を言ってるんだ、お前さんは……わしはお前さんを殺すつもりなんて毛ほども、」
「私は死神でも、悪魔でもありません! そんな目で見ないでください!」
サバテは恐るべき速度でホルスターからM712を抜き、ハインツの額を真っ直ぐに狙った。
ハインツは信じがたい思いで、奈落のような銃口を凝然と見つめた。
畜生、と彼は身動きの取れないまま呪った。“教育担当官、MAIDに射殺さる”、か? 冗談じゃない。
しかもあれだけ動転しているにもかかわらず、銃の安全装置は間違いなく解除されていた。
そのくせトリガにかかる細い指は震えたままで、いつ暴発するとも知れない状態にある。
ハインツの右腕は、血を失って少しずつこわばり始めていた。
「なあ、サバテ、頼むから落ち着いてくれんかね? わしは鼻の穴を増やしたくはない」
「いや……やめてください……」
サバテは目に涙を浮かべ、見当はずれな懇願を繰り返した。
まるでわしが彼女を強姦しようとしとるみたいじゃないか、とハインツは死に瀕した人間特有の現実離れした思考に入った。
まったく、男の盛りなどとっくに過ぎてしまっているというのに。
銃は女の武器だと言ったのは誰だっけ? 確かにか弱い女性に対して拳銃は強い味方になる。
どこがか弱い女性だこん畜生、ふざけておるなら承知せんぞ、と彼は口にも出さず罵った。
彼女ならば軍の一個中隊くらいは軽くひねってしまえるだろう。
彼が冷や汗と血をだらだらと流しながら立ち尽くしていると、ベッドの上で何かが動くのが目に入った。
先ほどの黒猫だった。
サバテのただならぬ気配を察したか、音を立てずに彼女の後ろににじり寄って様子をうかがっている。
彼女がしゃくりあげるたびに震える骨翼が危険なほど近くを通過しているが、飛び退く様子もない。
「来ないで……もうやめて……」
トリガにかかる指に力がこもった瞬間、黒猫がサバテの肩を飛び越えて胸の上に着地した。
サバテは悲鳴を上げて銃を取り落とし、それから胸の上に飛び降りたものを払いのけようと腕を振りかぶった。
しかし胸に鎮座したその猫と目が合い、「何やってんだこの阿呆」と言わんばかりにねめつけられると、唐突に身体の力を抜いた。
いや違う、とハインツは彼女の銃を左手で拾い上げながら訂正した。
何が起きたのか彼に知るよしもないが、彼女は安堵のあまりに失神していた。
ハインツは悪戦苦闘しながら右腕の止血と応急手当を済ませると、同じく苦労してサバテをベッドの上に寝かせ、外へ出た。
ベッドの上は埃まみれだったが、彼女は気にはすまい。ともかく、射殺した死体を急いで始末しなければならない。
彼は廃屋の裏に止めた車のトランクから折畳み式のシャベルを取り出し、片腕で柄を真っ直ぐにした。
今度は折畳みでないシャベルを持ってくるぞ、と心に誓いながら。
サバテが射殺した男は道の真ん中にうつ伏せに倒れ、おびただしい量の血が地面に吸われるがままになっていた。
ハインツは男の顔を指令書の写真と比べ、目標に間違いない事を再確認すると、廃屋の裏まで引きずっていった。
売国奴とはいえ死者は死者である。それに死体を野ざらしにして国土を汚す事はSSの名を貶める行為だ。
彼は廃屋の裏に到着すると、死体が持っていた書類入れにガソリンをかけて火をつけた。
何が書いてあったのか彼の知るところではないが、ともかく司令部からは焼却命令が下っていた。
続いて死体の胸ポケットに入っていた血まみれの身分証一式を取り出すと、周囲を汚さぬよう油紙で包んでポケットに収めた。
さて、墓穴を掘らねばならない。比喩的な意味ではなく、文字通りの墓穴である。
片腕で人間一人の納まる深さの墓穴を掘るとなると、相当な時間がかかる。
ハインツとしては日が暮れる前に片付けたかったのだが、時間を考えるとそれは困難な作業になるだろう。
彼が途方に暮れて空を見上げると、廃屋の二階から顔を出したサバテと目が合った。
「あ」
「あ、じゃないだろう。お前さん、わしに全部始末させてそこで見物しているつもりだったのか?」
「えと……その、先ほどは取り乱してしまって、何と言って謝ればいいのかと……」
「わしらに必要な事は謝罪じゃあない、行動だ。まあ、お前さんの気分が悪いならわしが片付けても構わんよ」
「いえ、怪我をさせてしまいましたし、それに……私が撃った事には、変わりありませんから」
「そうかい。だったら、日が暮れる前に片付けるとしようかね」
サバテは二階から飛び降りるような真似はせず、窓から首を引っ込めて一階の裏口から現れた。
例の黒猫も一緒についてきている。
ハインツが無言でシャベルを手渡して地面を示すと、やはりサバテも何も言わずシャベルを受け取り、地面を掘り始めた。
結局、埋葬が終わったのは日没の直前になってからであった。
二人は澄んだ山の空気を通り抜けた薄暮の下、最後の土をかけ終えた。
ハインツは何も目印のない墓に向かって二言三言、祈りの言葉を投げかけた。
亡骸はただの肉の塊ではない。人間が死者を想う限り、それは人生の容れ物であり続ける。
だが、死者の事を考えるには彼はあまりに歳を取りすぎていたし、あまりに多くを殺しすぎていた。
ぞんざいな祈りは、彼にとってのある種の妥協点であった。
一方、サバテは先ほど墓穴に下ろした死体の感触がまだ腕に残っているのか、自分の手を見つめてじっと立ち尽くしていた。
黒猫が足元にまとわりつき、時折軍靴を前足でつついているのにも気がついていない。
ハインツは彼女が口を開くまでは黙っていようと決め、シャベルに寄りかかって右腕の傷を検分した。
幸いな事に血はすでに止まっており、筋張った腕を斜めに横断する傷口はきれいなものだった。
治癒するにもそれほど時間はかかるまい。
「……ハインツさん」
ややあって、サバテが口を開いた。
「なんだね」
「あの、すみません、怪我をさせてしまって」
ハインツは肩をすくめ、「軍医は適当にごまかすとしよう」と言った。
「それで、お前さん、何があったんだね?」
「……ええと、説明しにくいんですけれど、撃った瞬間にあの人と目が合って……」と、彼女は墓を身振りで示した。
「撃った瞬間に、何かが……死にたくないとか、痛いとか、憎いとか、そういうものが、私の中に……」
「……」
どこで知ったのかまでは思い出せなかったが、彼はとある論文の事を思い出した。
その論文は
ルージア大陸戦争についてのもので、復員兵の心理について書かれていた。
論文によると、死の瞬間に放散される怨嗟の感情は瘴気とよく似た作用をし、
そのために大規模な戦場は精神科医の試算をはるかに上回る、異常な数の精神病患者を出すのだという。
一人の人間がどこから撃たれたかもわからずに死んでゆくとすれば、怨嗟は周囲に撒き散らされるだけで済むだろう。
しかし撃った人間をはっきりと認識し、すべての怨嗟をそちらへ向けたとすればどうだろうか?
そして、その射手が人間ではなく、瘴気を受け止めるための翼まで備えたMAIDだとしたら?
「それからは、ただもう怖くて、どうしたらいいのかわからなくて……」
「そうか」
あっさりと納得したハインツに、サバテは驚きの目を向けた。
「そうか、って、あのう、それでいいんでしょうか?」
「お前さんが納得できんと言うなら聞いてやるが、別に教育担当官だから何もかも知ってなけりゃならんという事はない」
「そういうものなんでしょうか」
「そういうものなんだ。ともかく、お前さんが人を撃つには向いてない事はよく分かった」
「……すみません」
「構わんよ。人間には誰にでも向き不向きがあるもんだ」
「人間、ですか……」
いつの間にか日は暮れ、宵闇が辺りを支配し始めていた。
ハインツは寄りかかっていたシャベルから身体を起こし、腰が痛む云々と小声で文句を言った。
「確かにお前さんは戦うために生まれたMAIDだ。だがMAIDが人間の真似をして何が悪いかね?
お前さんになる前の人間に戻る事も、あるいは別の人間になる事もできんが、近付く事はできるだろうよ」
「何を、言いたいのですか?」
「わしの気が変わったって事をさ。お前さんは人殺しには不向きだ。さてどうする、我慢して仕事を続けるかね、それともわしに任せるかね?」
「……」
「人間とそうでないものの決定的な違いはな、自分で道を選ぶかどうかだ……結果がどうあれ、自分で背負うという事だ」
「つまり、私がこういう―――」と、サバテが墓の方へ腕を振る。
「人殺しを続けるか、それともハインツさんに押し付けるかを選べ、という事でしょうか」
「あるいは、道を選んだ後の責任を背負いたくないなら、今の話は聞かなかった事にしても構わん」
「そんな事……」
サバテは唐突な話に戸惑っているようだったが、ここで先延べにすればハインツの決心がぐらつく可能性があった。
ハインツとしてはこの場で決めてしまいたかった。
「まあ、お前さんはまだ子供みたいなもんだからなあ。実感が沸かないのも仕方ないが」
「……私、子供じゃありません」
「いやはや、まだ誕生日も迎えていないのに子供じゃないとは恐れ入った」
ハインツは声を押し殺して笑い、片腕でシャベルを地面から抜いて折り畳んだ。
そのまま車まで歩いてゆき、暗闇に目を凝らしながらトランクに放り込む。泥汚れまで掃除する気にはなれなかった。
トランクから武骨な懐中電灯を取り出し、電球が切れていない事を確認する。
「サバテ、わしは上を片付けてくる。その間に考えといてくれ」
「はい」
ハインツは電灯をつけるとサバテを残したまま廃屋へ入り、二階へ上がった。
外から猫に話しかける声とにゃあにゃあという返事が聞こえ、サバテは本当に考える気があるのかと彼は顔をしかめた。
……狙撃銃はサバテが放り出した位置に残されたままで、少なくとも電灯の光でわかるような瑕疵は見当たらなかった。
ハインツは「やれやれ、一安心だ」と呟いたが、それと同時に彼の一部はこんな銃はいっその事壊れてしまえばいいと願っていた。
彼は微かに首を振ってその考えを仕舞い込むと電灯を横に置き、またもや片腕で苦労しながら銃をケースに収めた。
ハインツが狙撃銃のケースをベルトで肩にかけ、双眼鏡と懐中電灯、さらに細々とした書類を片手でどうにか掴んで下へ降りると、
サバテは彼が戻ってきた事にも気付かず暗闇の中で黒猫と戯れていた。
ハインツはむっつりと押し黙ったまま、電灯の明かりをサバテの顔にまともに浴びせた。
「ひゃあ!? って、ああ、ハインツさんですか……何するんですか、もう」
「それはわしの台詞だ。誰が遊んでおれと言ったか、誰が」
「だって、こんな暗いところに
一人でいろだなんて、怖くて……猫さんがいなかったら、どうしようかと……」
完全に子供の言いわけだが、ハインツはその点を指摘するのはやめておく事にした。
彼はトランクに懐中電灯を放り込み、ドアを開けて後部座席に狙撃銃を押し込みながらサバテに問うた。
「それで、決まったのかね」
「……はい。私は、これ以上人を殺したくありません。ハインツさんに、その、代わってもらいたいです」
「ふむ、正直だな。よろしい……その選択は、わしに何か言われたからではなく、自分で決めた事だと、断言できるかね?」
「……はい」
「よろしい。では、これからの対人任務に関してはすべてわしが引き受けるとしよう。
ただし、この話が司令部に漏れるのは非常にまずい。わし以外の誰にも話すんじゃないぞ」
「あのう」
ハインツは後部座席のドアを閉め、運転席に乗り込もうとしたところで振り返った。
「なんだね」
「私は自分の道を自分で決めました。でも、ハインツさんはそれでいいんですか?
私の決めた事で、ハインツさんの選択肢が狭まるんじゃないでしょうか?」
宵闇は夜闇に取って代わられ、星明りがサバテの顔を微かに照らしている。
表情はよく見えなかったが、ひどく真剣な顔をしているに違いなかった。彼は肩をすくめ、無事な方の腕を軽く振ってみせた。
「誰かの意思を尊重する事も選択肢のうちさ。わしはお前さんに人殺しを続けろと命令する事もできる。
だがわしはお前さんに任せた。わしが選択したのはその点だ。もっとも、軍人にあるまじき選択ではあるが」
「何故そんな事をするのか、聞いてもいいですか?」
「おいおい、今更不満でもあるのかね?」
「いえ、そういうわけではなくて……ただ気になっただけです」
「それこそわしの自由だろうが。お前さんに知る権利はないし、わしも言うつもりはない。以上、終わり。
……あ、いかんな、こりゃあ」
MAIDが人を撃たなくて済むならそれに越した事はない、という本心が口から出そうになるのを押し殺し、ハインツは踵を返した。
改めて運転席に乗り込もうとして、ハインツは右腕が使えないためにシフトも駐車ブレーキも操作できない事に気がついた。
右ハンドルのグリーデル車か楼蘭車ならどうにかなったかもしれないが、フォルクスヴァーゲンは左ハンドルだ。
「サバテ、帰りはお前さんが運転してくれ」
「私の運転する車には乗りたくない、なんて言ってませんでした?」
「わしだって嫌だが運転できないんじゃ仕方なかろう。それともお前さんの足元にいるちびすけに運転させるか?」
「……え、いいんですか?」
「いや待て、冗談だ」
「はあ」
ハインツは助手席側へ回り、サバテに早く乗るよう促した。彼女が運転席に乗り込むと、何か落としてはいないかと周囲を確認する。
特に問題はない事を確認すると、彼は助手席に乗り込んだ。
その直前の、「やはり、心の弱さを克服するなんざ、簡単にできるもんじゃあないな」という彼の呟きを聞く者は、誰もいなかった。
“人間は自然の内で最もか弱い葦の一本に過ぎない。しかしそれは考える葦である”
……三百年前にそう言ったのが誰だろうと、ハインツの知った事ではない。
何ができようと弱いものは弱いという事を、彼は己の半生と引き換えにして知っていた。
きっと何も知らなければ、人々はまだ幸せだと言えるうちに死ぬ事ができたろう。
しかし人間は知らずにいる事に耐えられない存在である。人は、より多くを知る事ができれば希望が生まれると信じている。
だが誰が知っているだろうか、希望こそが最大の災厄である事を。
良いか悪いかわからぬままに、人を闇の中へ駆り立てるという事を。
わずかな人々が、背後に回り込んだ彼らの存在に気付き始めた。だが、多くの者はいまだ無知の幸福に包まれていた……
最終更新:2008年10月06日 23:58