(投稿者:神父)
国境での一件以来、
サバテとハインツは何件かの任務をこなしていた。
無論、対人任務に関してはすべてハインツが行っており、サバテは周囲の警戒と観測を行うに留まっている。
任務中にGが襲ってきたために応戦するという一幕もある事にはあったが、それなりに平穏ではあった。
……サバテ自身が、殺人に加担しているという事を思い出しさえしなければ。
「にゃあ」
黒猫が、SS本部の通廊を歩くサバテの足元にまとわりついた。首にはSS中尉の階級章がぶら下がっている。
この黒猫、国境でサバテが勝手に拾ってきたのだが、
猫を車内に持ち込んで連れてきた事にハインツが気がつかなかった事を連れ帰る事に反対しなかったと勘違いし、
おまけにしばらくの間誰もサバテと黒猫の組み合わせを不審に思わなかったものだからうやむやの内に定住してしまった。
ハインツの制服にじゃれついて遊んだ挙句階級章を台無しにして以来、そのぼろぼろの階級章をタグ代わりにつけられている。
おかげで代わりの階級章をもらう言い訳をするのに苦労したとは、ハインツの言である。
パイワケット―――はるか西方、グリーデン島の伝承に言う黒猫の名前である。
魔女に使い魔として使役されていた云々と言われているが、サバテは名前の由来を知らない。
拾ってきた猫に名前すらつけないというのも随分だが、SS本部に住み着く過程で周囲の人間が勝手に命名したのだから仕方がない。
ついでに言うとサバテ自身がパイワケットの飼い主というわけでもない。
パイワケットは好き勝手に餌をもらったり散歩したりで日々を過ごし、サバテの部屋に戻るのは寝る時だけである。
それどころか、寝る時すらよその部屋で済ませる事すらある。
……ともかく、パイワケットはある意味で猫として健全な生活を送っていた。
サバテは懐中時計を取り出し、まだ本部食堂が混雑している時間帯だという事を確認した。
あまり大勢がいる中に骨翼を持ったサバテが入るわけにはいかない。彼女も他人の食事時に不愉快な思いをさせたくはなかった。
「ごめんね、パイワケット。まだ私は食堂に入れない時間なの。でも、ひとりで行ってもご飯はもらえるから大丈夫」
「にゃ」
パイワケットは金色の瞳をしばたかせると身を翻し、食堂の方へ去っていった。
無論人語を解するわけはなく、ただ餌がもらえない事を彼女の雰囲気で察しただけだろうが、
しかしサバテを知る人間は、彼女が何かしらの魔法を使ってパイワケットを化け猫に仕立てたに相違ないと噂していた。
サバテはパイワケットの後ろ姿に手を振り、自室に戻ろうと振り向いたところで目の前に男が立っている事に気がついた。
男はSSの制服の上に白衣を羽織り、技術部隊の徽章と大尉の階級章をつけていた。
彼は陰のある微笑みを浮かべ、サバテが何か言う前に話しかけた。
「サバテ、君に用があるのだがね」
「あの、あなたは……?」
彼は一瞬だけ不審げに眉をひそめ、それからしたり顔で言った。
「ああ、そうか、君は私を知らないのか。私はブルクハルト・マイネッケ……見ての通りSS技術大尉だ」
「ええと、その大尉さんが、私に何の御用でしょうか」
「こんな場所で立ち話もなんだ、研究室まで来てもらいたいのだが……ヘルメスベルガー中尉はどうしたのかね」
「ハインツさ……じゃなくて、ヘルメスベルガー中尉でしたら今は食堂にいると思います。お昼時ですから」
ブルクハルトは制服の内ポケットから銀鍍金の懐中時計を取り出して時刻を確認した。十二時三十分過ぎ、確かに昼時である。
「なるほど、しかし君はいいのかね? MAIDとて腹は減る……肉体的にはどうという事はないが、空腹は精神に悪影響をもたらすからな」
「……私は、皆さんから嫌われていますから、仕方ありません。
まともに話しかけてくれた人も、ハイン……じゃなくて、ヘルメスベルガー中尉以外ではあなたが初めてです。
こんな翼さえなければ、他の人たちとももっと仲良くできるのに……」
半ば無意識に吐き出されたサバテの一言に、ブルクハルトは複雑な表情を呈した。
だが君がその翼を望んだのだろう、という言葉を飲み込み、彼は提案した。
「では、私の研究室で軽い食事でも振舞おう。遠慮はいらん、用があるのは私だからな」
「へ? ええと……あの、ありがとうございます」
あっさりと諒承したサバテに、ブルクハルトは獲物を釣り針にかけた瞬間の、あのなんとも言えない暗澹たる気持ちを味わった。
どのMAIDにも言える事だが、彼女らはあまりにも他人を信用しすぎる。
ただひたすら敵と味方しかいない戦場にいるせいだろうか、あるいはそもそも人間社会で過ごした時間が短すぎるのか。
いずれにしても、MAIDは騙し討ちや裏切りにすこぶる弱い。赤子の手をひねるようなものだ。
いや、まさに赤子の手なのだ、とブルクハルトは思い直した。
彼が自らアデーレを素体にサバテを作り出してから、まだ数ヶ月にしかならない。
そのような彼女が社会生活を送れるのも、ひとえにコアの作用によるものに他ならないのだ。
彼はサバテを後に従えて研究室へと降りていきながら、コアに関わる諸技術の功罪に思いを馳せた。
「さて、粗末な食事で申し訳ないがね、まずは腹を満たそうじゃないか」
湯気を立てるエントリヒアン・ポテトを前に、応接用のソファに座ったブルクハルトが言った。
「Gがグロースヴァント東部の穀倉地帯を荒らしていてな。ジャガイモまでやられなかったのは不幸中の幸いと言うべきか」
「ジャガイモはヴィタミンが豊富だから健康にいいそうですよ」
「ほう、よく知っているな、飛曹長」
飛曹長と呼ばれ、フォークを取り上げかけたサバテがブルクハルトを見て首を傾げた。
無論、MAIDに役職はあっても階級は存在しない。人間ではないからだ。
彼女の視線に気付いたブルクハルトは一瞬だけ身をこわばらせたが、落ち着いてナイフを握り直し、訂正した。
「……いや、なんでもない。サバテ、気にしないでくれたまえ」
「はあ」
「では、冷めない内に食べるといい。最近は代用バターの質もいまひとつでな……冷えると悪臭がする」
ブルクハルトはぶつくさと食生活レベルの低下に文句をつけながらもポテトを口に運び始め、サバテもそれに倣う事にした。
……程なくして軽い昼食は二人の胃の中に落ち着き、ブルクハルトは食後のコーヒーを淹れようと言って席を立った。
「ところで、私に用があるというのは、どんなご用件なんでしょうか?」
「まあ待ちたまえ……今コーヒーを出そう。即席だから香りはひどく薄いがね」
「……」
ブルクハルトが二人分のマグカップを手に戻ってきた。
彼は研究室の戸棚を示し、「砂糖とミルクは薬瓶のなかに入っているから好きに取るといい」と言った。
彼自身も実験用の撹拌棒を取り出して薬瓶を開けると、おざなりに砂糖とミルクをマグに流し込んでかき混ぜ始めた。
どちらにも手をつけないサバテを見て、彼はにやりと笑った。
「君は無糖派か、あるいはダイエットでも企んでいるのか。悲しいかな、MAIDの体型はどこをどう頑張っても変わらんぞ」
「ち、違います! ただ、そのお砂糖とミルクは、ちょっと……」
「おやおや、清潔さにかけては我々はちょっとした権威なのだがね。まあいい、ともかく本題へ入るとしよう……」
ブルクハルトがテーブルに戻り、長身を折り畳むようにしてソファに沈み込んだ。
コーヒーマグを慎重に卓上へ置き、ひそめた眉の下からサバテを鋭く見やる。
落ち着きのないサバテの様子を見て、彼は一言目で彼女を釣り上げる事にした。
「君は司令部から与えられた任務を怠っている。その上、虚偽の報告をしているな」
サバテの顔が一瞬にして色を失った。まさに見物というべき様相である。
せわしなくひょこひょこと動いていた骨翼すらも凍りついたように動かない。
「サバテ、君は自身に与えられたはずの任務をヘルメスベルガー中尉に丸投げしている。
これが特務部隊及びその母体たる皇室親衛隊、ひいてはわが国にとってどういう意味を持つかわかるかね?」
「な……あ、あの……ど、どうして……」
「どうして知っているのか、と? 君は我々を何だと思っているのかね? 私はMAIDを作る技術者だ。
それが自ら手がけたMAID―――そう、君の事だとも―――の生産後管理をしないとでも言うのかね?」
サバテの唇が戦慄き、何事かを言おうとしている。だが、彼はそれに構わず先を続けた。
「任務を遂行する事のできないMAIDなど無用だ。それどころか軍務の邪魔にすらなりかねない。
断言しよう。君はわが国にとって有害だ。
そして我々は問題のあるMAIDの調整も行っているのだよ。つまりここで―――」と室内の機材に手を振る。
「君の精神を再設定する事になる。これが何を意味するか、わかるかね?」
ブルクハルトが人差し指を立て、それに反応してサバテがソファの中で震えながら縮こまる。
彼はゆっくりと立ち上がり、その拍子に照明の陰になった顔に大きく笑みを浮かべた。
「い……いや、来ないでください」
「今ある君の精神は消えてなくなる。死ぬと言い換えてもよかろう。
生まれてから今まで何ヶ月になるのかね? その間にできた知人や友人はいるかね?
まあ、いてもいなくても構う事はあるまい。これで誰も彼もさようならというわけだ」
サバテの脳裏に、ハインツや
ジークフリート、パイワケットの姿が横切った。
ほとんど数えるほどしかいない知り合い。それでも彼女にとってはかけがえのない存在だ。
彼女は涙ながらに懇願した。
「死にたく、ない……」
ブルクハルトがますます大きな笑みを浮かべた。
「ほほう、命乞いをするのかね? では君の差し出す代償は何かね?」
「な、何でもします……だから、どうか、殺さないでください……」
君も悪魔に魂を売るのかね、とブルクハルトは一人ごちた。
アデーレ・リットも同じ事をし、そしてサバテに前轍を踏むなと言い残した。だが現実はどうだ。
人間もMAIDも愚かしく、同じ過ちを繰り返すばかりだ。
「では私の与える任務を遂行したまえ。この任務を受けるというならば、君の事は上にも報告すまい」
「ど……どのような任務でしょうか?」
「それは請け負う事を誓ってからでなければ言えんよ」
「考える時間を―――」
「今決めたまえ。でなければ君の事を報告する事になる。直ちにだ」
サバテは衝撃から立ち直りつつあったが、突然に突きつけられた二者択一に頭を悩ませていた。
が、ふと思いついたように顔を上げ、ブルクハルトに言った。
「あのう、今ここで私があなたを殺してしまったら、報告する事もできないのでは?」
ブルクハルトは飲みかけのコーヒーを吹き出した。
人間―――いや、MAIDか―――は追い詰められるととんでもない思考を始めるというのを目の当たりにしたのは始めてだ。
彼は白衣に点々とついた染みを払い、咳き込み、笑いながら「こいつは傑作だ」と呟いた。
「この場で私を殺したら、ただちに君は拘束されるだろうな。ここの警備はそれなりに厳重だ。
まあ、おとなしく諦めたまえ。もっとも、君に私を殺すような勇気があるとも思えんがね」
最後の一言にサバテは言い返せず、うつむいて黙り込んだ。ブルクハルトは続けて言った。
「なに、心配はいらんよ。私は君に機会を与えたいだけだ。君を生み出したわが国に対して報いるための機会をな」
……やがて、長い時間が過ぎ、彼女が「やります」と言った時、彼は喜びが顔に現れるのを抑えきれなかった。
彼は「このような悪魔の所業にも等しい不当な取引を持ちかけているかもしれないが、私は悪魔ではない」と言ったが、
サバテの目にその顔は悪魔の笑みとしか映らなかった。
最終更新:2008年10月14日 23:54