彼女はどこにも辿りつけない ◆n7eWlyBA4w
我に返って最初に思ったのは、どうして私は走っているんだろうという、単純なことだった。
そう、
島村卯月はその時、確かに走っていた。
僅かな月明かりだけを頼りに、塗り込められた闇の中、足元すら覚束無い下り坂を、
ぎこちなく頼りない足取りで、それでもただひたすら、ともすれば転がるように。
視界の悪さを思えば、実際に転げ落ちていないのが奇跡のようなものだった。
それでもただ前へ進めているのは、この体を衝き動かすものがあるからで。
しかし、その時の卯月は、それがなんであるのか咄嗟に思い出せなかった。
いや、思い出したくなかったのだ、本当は。
あの場所から、心ごと、こうして逃げ出してきたのだから。
だけど、徐々に再起動する意識が、自分が何から逃げてきたのか認識した瞬間、
彼女の両足は突然に鉛のように重くなり、数歩歩まぬうちにその足取りを止めてしまった。
(な、なんで私っ、こんなところに……! り、凛ちゃんは――)
その時はじめて、島村卯月は、自分がどのようにしてここまで走ってきたのかを思い出した。
そして、ここまで走ってくる間、一度も凛のことを思い出さなかったことを、自覚した。
自分が現実から逃げるために、大事な親友を置き去りにしたことを、ようやく理解したのだ。
(も、戻らなきゃ……助けに行かなきゃ……)
そう思う心と裏腹に、卯月の両足はぴくりとも動かなかった。
もう手遅れなんじゃないだろうか。自分が戻ったところで何も変わらないんじゃないだろうか。
坂道を転がる石のように、不安はただ勢いを増して絶望へとすり替わっていく。
そんな弱い考えが頭を満たして、だけどそんなことはないと振り切ろうとして、
「卯月さん……卯月さぁん……どこですかぁ……おいていかないでぇぇ……」
恐らくは今までずっと自分を呼び続けていたであろう声に今更ながら気付いた。
来た道を振り返る。人の姿は見えない。でも、声が少しづつ近づいてくるのはわかる。
山頂で聞いた時のあのほんわかした喋り方とは大違いだったけど、間違いない。
(さ、里美ちゃん……無事だったんだ……)
一心不乱に走っている間は自分のことで手一杯過ぎて、周りの音など耳に入っていなかったけれど、
彼女は今までずっと、卯月の名前を呼びながら走り続けてきたに違いない。
卯月が逃げ出したあと、彼女もまた自分を追いかけてきたのだろうか。
生き延びていてくれて嬉しい。純粋にそう感じたのは、間違いない。
だから本当は、すぐにでも駆け寄って、無事を喜び合いたいと、そう思っていたのだ。
それなのに。そのはずなのに。
(あ、あれ……)
咄嗟に、卯月は近くの茂みにうずくまって身を隠していた。
自分がなんでそんな行動を取ったのか、すぐには理解できなかった。
ただ、怖かった。
たとえ合流したところで、いずれはまた山頂と同じようなことが起こるんじゃないかとか、
明らかに平常心を失っている彼女と一緒にいたら、他のアイドルに狙われるんじゃないかとか、
今度は、自分のせいで彼女が死んでしまうことになるかもしれないとか、
今の自分を、自分自身すら見失ったちっぽけな自分を、他の誰かに見られたくないとか、
いろんな考えがごちゃごちゃになって、何が本当の理由なのか、卯月自身にも分からなかった。
(な、なんで……)
彼女は自分を探しているのだから、答えてあげないといけないのに。
こんな真っ暗闇で、何も持たずに、見えない驚異に怯えて、どれだけ心細いか、
今もこうして一人で隠れている卯月自身には痛いくらいに分かるはずなのに。
それなのに、声が出ない。体が動かない。
ただ立ち上がって、自分はここだと、安心していいんだと、伝えるだけなのに。
たったそれだけのことなのに、体が竦んでしまってぴくりとも動かない。
「どこですかぁっ!? ひとりに、ひとりにしないでくださいよぉっ……!」
里美の必死すぎる泣き声が、一言毎に卯月の心の柔らかい部分を抉っていく。
全身は石のように固く重く気配を殺しているのに、心だけは傷つきやすいままで、
卯月は為す術なく、内側から外側から、罪の意識に切り刻まれていた。
(やめて、やめてっ……!)
これ以上葛藤に耐えられなくて、卯月は両の手で強く耳を押さえつけた。
早く立ち去ってくれればいいと、心の何処かで感じている自分が嫌いで、
なのに我が身可愛さで動けずにいることがどうしようもなく辛くてたまらなくて、
それでも何もできずにいることが苦しくて、でもそのことに安心している自分が確かにいて。
このまま里美をひとりで行かせるなんて、あまりに酷薄なことだと分かっているのに、
早くこの時間が過ぎ去ってしまえとひたすらに願っている自分が汚らわしく思えて。
結局のところ、島村卯月はあまりにも、普通の女の子だった。
冷酷な打算でもって人を切り捨てることも、覚悟ある善意でもって人に手を差し伸べることも、
どちらの道も彼女には選ぶことが出来なかったから。そんな勇気を持ち合わせていなかったから。
だからこうして何もできないまま、何もできないことに傷つき続けるしかない。
それが、ありふれた日常を幸せなままに享受していた、彼女の罪なのだろうか。
「卯月さぁん、怖い、怖いですぅ、助けてくださいよぉっ……ううっ、うえええん」
里美は大声で泣き叫びながら、おぼつかない足取りで卯月のそばを通り過ぎていく。
自分の名を呼ぶ声が少しずつ遠ざかっていっても、卯月はその場を動けずにいた。
しかし、その声がほとんど聞こえなくなったと認識した瞬間、金縛りはあっけなく解けた。
卯月はよろよろと立ち上がった。ただ呆然と、里美の消えたほうを見やった。
(……私、なんで、こんな……)
頭の中で、自分の言葉だけが別の誰かの囁きめいて反響する。
卯月自身の思考のはずなのに、それは風に吹かれた風船のように不安定で、
まるで自分のものではないかのように頭の中でふわふわと漂っていた。
「……でも、私なんかと一緒にいたら駄目だよ、里美ちゃん。だって、未央ちゃんも、凛ちゃんも……」
ぽつりと口を突いた言葉は、自分自身すらどきりとしそうな響きを持っていた。
だけど、今の卯月の心は既に冷え切ってしまっていたから、ただ当たり前としか感じなかった。
自分の大切な友達を死に追いやるような人間だから、他の誰かを救う資格なんてないと思った。
ましてや、他の誰かに安心感を与えられて、救われる資格なんて、なおさら。
里美には、死んでほしくない。無事に、生き延びてほしい。
だけど、彼女を救うのは自分ではない。自分に、彼女を支えるなんて、できそうにない。
卯月の親友、
本田未央は死んだ。無残にも首を刎ねられて、あっけなく死んだ。
もうあの笑顔は見られない。いつも自分達に勇気を与えてくれた、あの明るさは戻らない。
どうして彼女は死ななければならなかったのだろう。何故殺されなければならなかったのだろう。
(そんなの、決まってる。私が、ゆかりちゃんを呼んだから。私のせいで、未央ちゃんは……)
そう。元を辿れば、卯月の思いつきが全ての発端なのだ。
彼女のアイディアに、呼びかければ殺し合いをやめてくれるなんて夢物語に、巻き込まれただけなのだ。
未央は何も悪くない。落ち込んだ自分を励まして、支えてまでくれたのに。
自分のせいで、何も分からないままに死んでしまった。
そして、殺されたのはきっと、未央ひとりではないはずで。
(……凛、ちゃん……)
もうひとりの親友のことを思い出すと、目の前に差す絶望の影が一層濃くなって思えた。
彼女は卯月を庇ってくれたのに。自分の命を賭けて、卯月を死なせまいとしてくれたのに。
どんな時でも最後まで諦めない彼女が、自分自身を投げ打って救おうとしてくれたのに。
なのに、卯月は。現実を受け入れられなくて、恐怖に立ち向かうことができなくて、
何もかも分からなくなって、そのまま凛に背を向けてしまった。
凛はきっとあのあと殺されたのだろう、と思った。生きているなんて想像もできなかった。
彼女は、最期に何を思いながら死んでいったのだろう。
自分を見捨てた卯月をどう思ったのだろう。どれだけ失望し、絶望したのだろう。
それを考えるだけで胸の奥が内側から張り裂けそうになる。
時間を巻き戻してあの瞬間からやり直せればどれだけいいだろう。
そんな子供じみた空想、なんの救いにもなりはしないのは分かっているのに。
そう、二人はもう、どうやっても帰ってなんてこないのだ。
その事実が、ただ冷徹な事実として、卯月を打ちのめしていた。
そうして、二人を生贄にして、自分だけがこうしてのうのうと生きているだなんて……。
(ごめんね、未央ちゃん、凛ちゃん……私を、私なんかを信じたばっかりに……)
卯月は生気の抜けた表情のまま、ディパックの中へ手をやった。
しばらくごそごそと中をまさぐったのちに、彼女の両手は何かを掴んだ。
それは卯月の支給品の包丁だった。
僅かに森の中に差し込んだ月光がその刃に反射して、誘蛾灯めいた妖しさを与えていた。
その煌めきに吸い寄せられるように、卯月はその切っ先を自分の胸に向けた。
(仕方ないよね……こんな私なんて、生きていたってしょうがないもん……)
大事な人を犠牲にしてまで生きようとするような自分は、死んでしまえばいい。
こんなことで自分のことを二人が許してくれるなんて思わないけれど。
もしもあの世があるのなら、心の綺麗な二人は天国で、自分は地獄行きだろうけど。
それでも、もう他にどうしようもないと思った。
親友を殺してまで生きながらえる理由なんて、卯月には思いつかなかった。
包丁の先端を自分の胸に添えると、そのまま柄を強く握り締めた。
後は、両手に少し力を加えるだけ。
(お母さん、お父さん、おばあちゃん……悪い子で、ごめんなさい……)
両手に、少し力を加えるだけ。
(里美ちゃん、美波さん……巻き込んで、ごめんなさい……見殺しにして、ごめんなさい)
少し、力を加えるだけ。
(ゆかりちゃん……私、もう笑えないよ……どうしたらいいか、分からなくなっちゃった)
力を、加えるだけ。
(だから、これで、おしまい。もう、全部、終わり)
力を――。
(……………………。)
――。
「……う、ううっ、ねえ、未央ちゃんっ」
――力が、入らない。
「み、未央ちゃん、いっ、遺書の書き出しって、どうするんだっけ、ぐすっ、うっ」
もうこんな自分は死んでしまえって、そう思うのに。
「う、い、今、今必要なんだよ、なんであの時教えてくれなかったの、未央ちゃんっ……!」
なのに、最後の一歩が踏み出せない。
「もっと、もっとおしゃべりしたかったよぉ……もっと一緒に笑いたかったよぉっ……!」
生きていたって仕方ないのに、生きていたい。生きていても辛いだけなのに、生きていたい。
「りっ、凛ちゃん、も一度、諦めないでって言ってよ……私のこと励ましてよぉ……ぐすっ」
震える卯月の手から包丁の柄が滑り落ち、重力に引かれるままにその切っ先は地面に突き立った。
それを見て、自分は自殺することも出来ないんだと、卯月ははっきりと自覚して、
「う、うぅ、っ、――――――――――z__________っ!!」
声にならない程に掠れた、悲鳴めいた叫びを上げて、彼女はその場にへたり込んだ。
まざまざと蘇る親友達の死の実感が、もはや逃れられない絶望として卯月を覆っていた。
自分の力で死ねないのなら、卯月はこれから、ひとりぼっちで生きていくしかないのだろう。
だけどそんなこと、今まで一度も想像したことがなくて。
今までずっと三人一緒だったから、今からずっと独りだなんて考えられないから。
だからあの日に帰ってきて欲しくて、それでもそんなことは有り得ないと理解してしまって、
それでも笑顔を忘れたくなくて、だけど、大事だったはずの親友を、楽しかったはずの日々を、
きっと幸せだったはずの明日を、他でもない自分が身勝手に裏切ったのだと思い知った時、
「こんなのやだよ……こんなにずるくて汚いのが、私だなんて、やだよぉっ……」
彼女はそこから一歩も動くことができなくなってしまった。
【E-5 山間部/一日目 早朝】
【島村卯月】
【装備:拡声器】
【所持品:基本支給品一式、包丁】
【状態:健康、後悔と自己嫌悪】
【思考・行動】
基本方針:??????
1:どうすればいいんだろう……
※凛は自分のせいで死んだと思い込んでいます。
【
榊原里美】
【装備:なし】
【所持品:なし】
【状態:健康、パニック】
【思考・行動】
基本方針:死にたくない
1:怖い、見失った卯月を見つけたい
※卯月を見失いました。
卯月よりも山のふもとに近い位置にいます。
最終更新:2013年02月04日 15:48