野辺の花 ◆n7eWlyBA4w
その向こう側に何があるのか、誰も知らない。
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ペダルを踏む足が止まったのは、疲ればかりが原因ではなかった。
サドルに跨ったまま、額を流れる汗を袖口で軽く拭いながら
渋谷凛は僅かに眉をひそめた。
「……気のせいだと思いたいけど。違うよね……ううん、気のせいじゃない」
無視しようとしても粘りつくようにその存在を主張してくる、確かな違和感。
凛は無意識に顔をしかめていた。脳が直感的に分析を拒否しているように感じる。
そもそも、今自分はどの辺りにいるんだろう。
自分を取り巻く嫌な感覚から意識を逸らすように、そんなちょっとした疑問へと焦点をシフトさせる。
水族館を後にしてからしばらくの間
自転車を漕ぎ続け、周囲の風景が市街から草原へと移り変わって間もないと思うのだが、
あまりに変わり映えのしない風景のせいで時間と距離の感覚が曖昧だ。
慣れない手つきで携帯端末を操作すると、どうやらまだ水族館と同じエリアであるようで、凛は小さく溜息を付いた。
あまりにも遅々として進まない道のりは、おそらくこのいやに重い円筒形の武器のせいだろう。
運搬用のスリングベルトで肩にかけてはいるものの、本当に重い。
ディパックとこの武器を両方背負った上で自転車を漕ぐというのは、バランスを取るだけでも一苦労だった。
流石に慣れては来たものの、注意力が散漫になってしまうのは如何ともしがたい。
「でも、そのおかげで気付けた、ってことなのかな……」
凛の足を止めたのは、臭いだった。
本来なら、風に撒かれて消えてしまいそうなほど微かな臭い。しかし一度気付いてしまえば、異常としか思えない臭い。
それに気付くことが出来たとはいえ、別に凛は自分の鼻が人よりも利くとは思っていない。
でももしかしたら、実家が花屋だから、人一倍嗅ぐという動作が自然と見に付いていたのかも知れなかった。
しかし、ただ不審な臭いがするというだけなら、凛も怪訝に思いこそすれ自転車を止めようとはしなかっただろう。
ただ、問題は、凛にとって心当たりのある臭いだったということだった。
もっともその臭いとはいくぶん違う。ただでさえ人の臭いに関する記憶は曖昧で、気のせいである可能性だってある。
それでも本質的な部分、胸の奥がむかむかと疼くようなこの感じは同じだ。
こういう臭いは、数時間前に、あの山頂で、嗅いだ覚えがある。
ほとんど本能的な直感に近かった。だけど、それは確かな事実だと思えた。
だからこそ、素通りする訳にはいかない。気付かなかったことにしてしまえば、きっと楽なんだろうけど。
立ち向かわなければいけないと、その時の凛は僅かな躊躇いの後に決意した。
自転車を止め、ディパックと武器の肩掛けベルトをそれぞれの手で握り、臭いの源を探す。
幸いというべきか、あるいはその逆か、開けた草むらで探しものを見つけるのは難しいことではなかった。
すくむ両足に鞭打って、凛は歩を進めた。何を目の当たりにするかは、半ば予測していた。
問題は、その想像を、現実が少しばかり凌駕していたことだけど。
ともかく、凛は違和感の正体を、その目に収めた。
今井加奈。
彼女こそ、この惨劇の最初の犠牲者であり……そして今はその死から半日以上が経過した、物言わぬ屍。
「……………………っ!」
反射的にこみ上がってきた胃酸が喉の奥を焼く、嫌な感覚。
意識を集中しなければ吐き気を押さえ込めないほどに、その姿は痛ましいものだった。
顔こそ傷らしい傷はなく、生前の面影を残しているものの、胸から下の傷は悲惨としか言いようがなかった。
銃で撃たれたのだろう、と推測はできる。それでも、このような破壊をもたらす銃を凛は知らなかった。
その凛の語彙の範囲で表現するなら、人体が「砕かれていた」。そう言わざるを得ないほど、形を失っていた。
すでに赤黒く固まったこの血と肉は、本当にあの華奢な体に詰まっていたものなのか。
凛の記憶にある加奈の面影と結びつけようもないほど生々しい、むせ返るほどの死の実感。
それに、傍にいるから一層分かってしまう、この臭い。
血の匂い、鉄分の匂い、それはあの山頂の一件で嫌というほど嗅いだもので、それだけでも耐えられないのに。
今この時、自分の鼻を刺激しているこの匂いは、それだけのものじゃない。
具体的に何が起こっているかは考えたくもないが、彼女が死んでかなりの時間が立っていることだけは間違いないと思えた。
それから――ああ、嫌だ。これは、これだけは嫌だ。
こんなことがあっちゃいけない。こんなことが、加奈みたいな普通の女の子に起こっちゃいけない。
絶対に、こんなこととは無縁でいなきゃいけない。こんなの、人間にあっていいことじゃない。
おかしいよ、こんなことは絶対に許されない――だって『羽音』が聞こえる。無数の羽音が。
視界に入れないようにしているのに、それでも聞こえる。唸りを上げている。加奈の、加奈の周りで……!
「――――――――z______ッ!!!!!」
気付くと、凛は声にならない声で叫びながら、近くに落ちていた枯れ木の枝を振り回していた。
加奈を守りたかった。もう死んでいるなんて関係ない。ただ救ってあげたかった。
何を? 尊厳を。人として生きた彼女のそれまでを。こんな形で彼女が穢されていくのだけは我慢ならなかった。
「消えろ! 消えろ、消えろ、消えろ!」
叫ぶ。叫んだって何にもならないって分かっているのに。
「消えろ、いなくなれ、これ以上近づくなぁっ!」
それでも叫びながら、音を生み出すものを追い散らす。
だけど、その音は小さくなるわけもなく、一層耳障りに唸りを上げて、凛の耳と精神を苛んでゆく。
振るう枝がめちゃくちゃに空を切るのを感じながら、いつしか凛の視界は滲んでいた。
どれだけ力を振り絞っても何にもならないと、そう悟るまでひとしきり無駄な努力を続けてから、
ようやく凛は枯れ枝を放り出し、そのまま力を失ったようにぺたんと尻餅をついた。
「もう放っておいてよ……もう十分辛い目にあった、悲しい思いをしたじゃない……!
夢も未来も何もかも奪われて、なんで死んだ後でまで、こんな酷いことされなきゃいけないの……?」
こんなのは、あまりにも惨め過ぎる。
アイドルとして人を笑顔にしようと頑張っていた女の子が受けていい仕打ちじゃない。
加奈だけじゃない。死んでいったアイドル達は、みんな看取られることも弔われることもなく、
こうして車に轢かれた野良猫か何かのように、無残にも野晒しにされ続けるというのだろうか。
あのスポットライトも、歓声も、死んでしまった彼女達には浴びせられることはない。
人らしく扱われることすらなくただの死骸として朽ちていくしかない。
あんなに一生懸命生きていたのに。これが結末だなんて、そんなのは報われなさすぎる。
「……未央……っ」
凛は無意識に、いなくなってしまった大事な親友の名を呼んでいた。
どうしようもなかったとはいえ、彼女は……未央は今もあの山の天辺に置き去りにされているのだろうか。
プロデューサーにも、ファンの皆にも、何処にいるのか気付いてもらえないまま。
それが、この島で死ぬということだっていうのだろうか。
「……違う……死んだら後はただのモノだなんて、そんなの違う!
そんなのは認めない! 私が認めない! だって、だって私達には――」
叫ぶ。叫びながらも、凛には自分の声がまるで自棄を起こしているように聞こえた。
卯月に、奈緒や加蓮にもう一度会うためには、こんなところで立ち止まっていちゃいけないのに。
死の影が粘りつくように凛の体を這い回り、この場に繋ぎとめようとしているように感じた。
凛は助けを求めるように、加奈の顔へと縋るような視線を送った。
そして気付いた。……いや、何故、この時になるまで気付かなかったのだろう。
もう生気は抜け果てて、あの頃の温かさなんて残っていないはずなのに。
こんなにも体を滅茶苦茶にされるような死に方をして、そんな余裕があるはずがないのに。
正面から撃たれているのに。銃を向けられて、きっと怖くて仕方がなかったはずなのに。
怯えて、震えて、泣きじゃくってもおかしくなんてないのに。
彼女の……今井加奈の死に顔は、穏やかだった。
この殺し合いに放り込まれて、死の恐怖を突き付けられて、今にも命の火を消されるその時に。
それでも、アイドルだった時と同じように、彼女は微笑んだのか。
「――ほろびないものだって、あるんだ」
気付かないうちに、そう口に出していた。
眼の前にあるのは依然として、惨たらしく目を覆うしかないような現実だけど。
そしてその残酷な現実を凛にはどうすることも出来ないこと、それは変わっていないけれど。
息が詰まりそうな臭いも、許せないこの音も、そのままだけれど。
だけど、こうして体は朽ち果てようとしていても、"今井加奈"は死んでいなかった。
胸の中の霧が晴れていくような気がした。
▼ ▼ ▼
それから。
長いようで短い時を経て、凛は重い腰を上げた。
迷った末、加奈の体はそのままにしていくことにした。
凛は誰も答えてはくれないと分かってはいたけれど、あえて声に出して詫びた。
「……ごめん、加奈。本当は、埋めてあげたい。こんな残酷なことの起きないところに遠ざけてしまいたい。
だけど……そうしたら私、一度は安心して、それからきっと後悔するから。振り返らずにいられなくなるから。
未央をあんな姿で置き去りにしちゃったこと、今以上に辛く感じるに違いないから。……だから、ごめん」
こういう形でしか一線を引くことが出来ない自分は、やっぱり強くはないのかな、と心のどこかで思う。
だけど、今は前を向かなければいけない時だから。立ち止まってはいられない時だから。
決断しなければいけない。何もかもを大事にすることが出来ないのなら、今の自分が本当にするべきことを。
「何かを選ぶことは、何かを選ばないこと……そういうことだって分かった。
だから私は、手が届くはずの友達を選びたい。今までもこれからも、それが私の願いだから」
胸の片隅に、水族館で別れた彼女達のことがちらりと浮かんだ。
特に凛の心に残るのは、二人の少女。
岡崎泰葉と、
喜多日菜子。
彼女達のこれからを、見届けたいと思った。その気持ちに、きっと偽りはない。
だけど、凛は自分自身の願いのために選択した。彼女達との別れを。
それはもしかしたら、彼女達を選ばなかったということなのかもしれない。
彼女達の運命はもう凛の与り知らぬところへと遠ざかってしまった。
考えたくないことだけれど、凛自身の運命とは、もう二度と重ならないかもしれない。
そして、そのことを、いつか凛は悔やむかもしれない。
選ばなかったことを悔やみ、置き去りにしたことを悔やみ、それでも前を向くしかないのだろう。
まだ自分は、弱くて脆いから。せめて前を向き続ける強さが欲しい。
(だから、加奈。私、もう振り返らない。どんなに頼まれたって、振り返ってなんかあげない。
前だけ向いて、大事な人に手を伸ばす。だけどさ、こんな勝手な私だけど、背中、押してくれると嬉しいな)
返事なんてあるわけがない。苦笑しながら、膝や服に付いた泥や草切れを払う。
それから、もう一度だけ加奈の遺体のそばに屈みこんだ。
凛が手向けたのは、ちっぽけな、みすぼらしい花だった。
この草むらにただ生えていただけの、なんでもない花。
人よりも花に詳しいと思っていた凛ですらよくは知らない、野辺の花。
もっと可憐な花を手向けられたらよかったのにと凛は少しだけ思い、それからこれでいいのかもしれないと思い直した。
(どんなにみすぼらしくても、誰にも目を向けられなくても、それでも確かにここで咲いてる。
ちっとも華やかじゃなくて、それどころか泥だらけで、だけど今、咲いてるんだ。……私達も、そうだよね)
野辺の花でいい。自分らしく咲いていたい。そう思いながらもう一度立ち上がる。
そしてもう一度、今井加奈の姿と、その傍の小さな小さな花を視界に収めて、ほんの少しだけ寂しげな顔をしてから、
凛はすっと踵を返した。目を逸らしたのではなく、再びあるべき道へと向かうように。
気持ちの整理が綺麗に付いたなんて言えはしない。それでも、その足取りは確かだった。
荷物の重さも、今はもう気にならなかった。
それ以上のものを背負っていると思えば、こんなもの重く感じるはずがない。
サドルに跨る。ハンドルを握り込む。ペダルに体重を掛ける。そして、息を吸って、吐く。
「……さあ、行こう!」
見えない力で後ろから押されているかのように、自転車はもう一度走り出した。
▼ ▼ ▼
あれから、凛と自転車は走り続けた。
加奈の亡骸に出会うまではあんなに長く感じた道のりよりも、もっともっと長い距離を駆け抜けた。
それでも、まだ先は遠い。まずは南の街を目指すにしても、まだ進むべき行程の半分もこなしてはいないだろう。
それに、走りながらでは端末が見れないので正確な時間は分からないが、そろそろ放送が近いはずだ。
あまり悪い想像はしたくはないけど、それでも心を出来るだけ落ち着けて聞きたい。
禁止エリアのこともある。一本道を寸断されるかもしれないことを考えると、今のうちに距離を稼いでおきたかった。
だから走る。荒い息を整えて、一心不乱に前へ進む。
疲れを感じないかといえば、きっと嘘になる。それでも、ペダルを踏み込む足は止まりはしない。
誰に強要されたわけでもない。諦めたくないという自分の意志が凛を衝き動かす。
だけどその源にあるのは、凛ひとりだけの想いじゃないはずだ。
そう思うだけで、何度でも力が湧き上がってくる。
だから、どこまでも信じていく。自分らしくあるために。死んでいった皆のこれまでを、継いでいくために。
野辺の花のように、たとえ誰の目に止まらなくても、自分らしく咲くために。
会いたい人がいるんだ。繋ぎたい絆があるんだ。だから、今はただ前へ。
その向こう側に何も無くても、構わないから。
【F-7/一日目 夕方】
【渋谷凛】
【装備:折り畳み自転車】
【所持品:基本支給品一式、RPG-7、RPG-7の予備弾頭×1】
【状態:軽度の打ち身】
【思考・行動】
基本方針:私達は、まだ終わりじゃない
1:山の周りを一周して、卯月を探す。そして、もう一度話をしたい
2:奈緒や加蓮と再会したい
3:自分達のこれまでを無駄にする生き方はしない。そして、皆のこれまでも。
最終更新:2013年09月28日 21:41