ソリトン ◆wgC73NFT9I



 泣いていたんだ。と思う。
 真っ白な中で膝を抱え、アタシは一人でふるえていた。

「あ、レイナ! どうしたんだそんなとこで」

 ふと、聞き覚えのある声がする。
 目を開けると、空気が沁みてひりひりした。
 戦隊ヒーローのプリントシャツ。
 長い黒髪。
 力強い笑顔。
 ――南条光だった。

「一緒にヒーローごっこしようよ!
 さっき、きらりさんにも遊んでもらったんだけど、すごかったよ! 猫みたいに体柔らかいしあの人――」
「のんきに遊べるわけないでしょ! あんなライブの後で!」

 ロケット弾のように、叫びをぶつけていた。

 しんとした事務所の中に何回か跳ね返って、その声は消える。
 もう、他のアイドルたちは出払っている時間帯だった。
 午前中がオフなのは、今日はアタシと南条くらいのはずだ。
 たじろいだ南条の顔を見て、その空きの理由をイヤでも思い出す。

 昨日、アタシと南条光は、一大ステージにあがっていた。
 「夢のLIVEフェスティバル」と銘打たれたアイドル達の競演会で、アタシたち“ヒーローヴァーサス”は、観客どもと他のユニットを圧倒させ、ひれ伏させるはずだった。
 でも――。

「……まあ、殺陣(たて)を忘れたのはまずかったと思うけど」

 南条光は、困ったように頬を掻いている。
 アタシたちは、ヒーローショーのような華麗な戦闘シーンと歌を交えた、まったく新しいライブ演出を試みていた。
 だが、アタシはその最中に、組み手の動作を取り違えた。

「……そんなのじゃ、ないわよ」

 それは、スピーカーの配線につまづいてこけたからだった。
 今のをやられた演技にして、以降で辻褄を合わせればいい――。
 咄嗟に、そうは考えた。

 でも、そのショックは、アタシの頭から以降の歌の歌詞を吹っ飛ばしていた。
 ずれたダンスと殺陣のタイミングも戻せなくて、立ち尽くした。
 終いには、苦し紛れにアドリブで入れたトークで、むせた。

 脇でまごつきながら必死にフォローする南条の姿が眼に残って、お腹の辺りが引き裂かれそうに苦しかった。

 アイツ……プロデューサーは、「あれはあれでお客さんに受けたから、気にするな」とかほざく。そしてその慰労の午前半休。

 このレイナサマに、あんな失態があっていい訳はない。
 悔しさとやるせなさがこみ上げてきて、どうしようもなかった。
 今日だって、事務所にくるのだけで精一杯。
 ろくに寝付くこともできず、あのまま家に閉じこもっていたら、頭がぐちゃぐちゃに潰れてしまいそうだった。
 応接間のソファーで休んでたっていいだろう。南条なんかにとやかく言われる筋合いはない!

 南条光は、アタシの噛みつきそうな視線から目をそらす。
 その口から出た呟きは、いつもよりもいくらか低い音に聞こえた。

「……そんなに思い詰めてるんなら、なおさらここで立ち止まってはいけないんじゃないか」
「なによ! アンタには関係ないことでしょう!」
「言わせてもらうけど、レイナは、絶対的にレッスンが足りなかったと思うよ」

 南条は、岩みたいに硬い言葉を、私の前に置いた。
 のどまで出かかった罵声は、その大岩にすくんで胃の中に落ちていた。

「トレーナーさんの振り付け指導、途中で投げ出してただろ。歌は、家で何回くらい暗唱した?」
「な、な……。だって、ダンスは、アタシできてたじゃない! それを何度もあの分からず屋姉妹がケチ付けるから!」
「レイナが今つかんでるクオリティより、もっと高いものが必要なんだよ。これからのアイドル活動をしていくには」

 ひとつひとつ、南条光は壁のように言葉を積み上げていった。彼女の目は、積みながら沈んでいく。

 だってあいつらが注意してくるのは、指の先とか体重の置き方とか胸の張りだとか、そんな細かいところばっかりだった。
 ステップ自体は完璧だったし、歌詞だってソラで言えるくらい暗唱した。
 レイナサマにはそんな馬鹿げた指摘なんて、必要ないのよ!

 南条光の言い分を否定しようとして、でも、返す言葉は掠れて震えていた。

「……は、はは。本当に南条はイイ子ちゃんね……。あんなセンスない奴らの言葉を真に受ける気なの」
「レイナは人を見てない。センスもクオリティも、人から学ばなきゃ身に付かないよ。
 発声と肺活量、体力も鍛えなきゃ、むせる癖も抜けないだろう。
 菜々さんは駅の階段で通勤しながら腿上げしてるそうだし、きらりさんなんて、イベントごとにプロデューサーさんとスタドリ飲んで走り込みしてるって言ってたよ」

 見上げるほどに高くなった岩壁の隙間から、水が染み出してくる。水かさはどんどん増して、高波のようにアタシをさらう。
 ぼたぼた、音が立つくらい大粒の涙を流してたことを、アタシは覚えていた。




 ――アタシはこの時なんて言ったんだっけ。
 南条光のことを、バカバカ罵りながら、アンタにアタシのことが解る訳ない、って、事務所の外へ逃げたんじゃなかったっけ。

 でも、今は、光の手を取って。
 違うことを言いたかった。

 光は顔を伏せて、震えていた。
 こんな南条光の様子、この時は気にも止めなかったような気がする。
 逃げたから。アタシに向けてずっと溜めていた言葉を、光は投げかけてくれていたのに。

「……ねぇ、ヒーローなら、アタシのミスをなんとかしなさいよね……。アタシは、アンタじゃなきゃ……」

 光は、顔を上げて、ゆっくり首を振った。

「それは、できないよ。だって……」

 鈍い音がした。
 光の悲しそうな笑顔が、地面へ落ちてゆく。

「……次は、レイナがヒーローになるんだから……」

 足元に水が跳ねた。
 静かな環が、そこから広がっていく。
 倒れ伏した光の頭は、パックリと割れていた。
 アタシが流した涙の中にうつぶせに倒れて、動かない。
 頭から、真っ赤な血が脈打って流れていた。
 足首まで浸かる涙の中に、その血が緩やかに波紋を広げていく。

 寒気を感じて眼を上げれば、目の前には背の高い女が一人。
 影になって顔の見えないその女は、腕を南条光の血に染めて、薄っすらと笑っているようだった。

「あ、アンタ……。光に、何をしたのッ!?」

 薄い笑みから見える白い歯だけが、アタシの叫びへの返事だった。
 女はくるりと後ろを向き、歩き去ろうとする。

「……くそッ! 待ちなさい!」

 追いすがろうとした。
 それも束の間で、アタシの全身は壁のようなものに真正面からぶち当たる。
 痛みに呻き、見上げた。

 触れているのは、大きな岩だった。
 それは壁としてアタシの前に立ちはだかり、その高さも、長さも、果てが見えない。
 女はこの壁の向こうへ、去ってしまった。


 南条光の投げかけた言葉が固まって出来た壁。
 小関麗奈が築いてしまった壁。
 今まで、直視することなく過ごしてきた壁。
 ――アタシにはあの女を追いかけることができない。
 自分の心の前で、小関麗奈は立ち尽くすしかできなかった。


 ふと波を感じて、眼を落とす。
 振り返れば、腰まで水嵩の増した涙が、南条光の体をゆっくりと流し去ろうとしていた。

「ま、待って! 待って、光っ!」

 必死に追いかける。
 もう水は肩まで埋めている。
 抵抗で足が地につかない。
 泳ぐ。
 型はめちゃくちゃに崩れる。
 焦りだけが水を掻く。
 波だけが騒ぎ立つ。

 遠く。もう光の姿は見えない。

 ――泳ぎの練習なんてしてない。
 水着の仕事なんて掛からなかった。
 クラス対抗水泳大会なんて、体力バカが出とけばいいとしか思ってなかった。

「届かないよぉ……! ひか……ッ! ゲボッ!!」

 口へ水が入る。
 水はあまりに塩辛く。
 むせた。

 胸の中へ津波が押し寄せる。
 肺の奥へ奥へ。
 細小気管支の一本一本まで、肺胞の一つ一つまで、波は丹念に破壊する。
 沈む。

 動けないまま、仄暗い水の深くへ、小関麗奈はどんどんと沈んでいった。


    ~~~~~~~~~~


「ひかるッ!!」

 跳ね起きた拍子に、倒れた椅子が地面に乾いた音を響かせた。

 荒い息を肩先に揺らしながら、小関麗奈は辺りを見回す。
 多くの座席が並んだ店の中。
 西部劇にでも出てきそうな年季の入った取り合わせの家具類。
 ジュークボックス。
 コーラの自販機。
 ソファー席に横たわる古賀小春の寝顔。

「……小春」

 思い出した。
 アタシと小春は、このダイナーとかいう店の中で休もうとしてたんだ。
 二人で大泣きして、店に戻って。そこで二人して、疲れて眠りこんでしまったんだ。

 ……嫌な夢だった。
 記憶と悪夢が交じり合った、人生最悪の夢。
 はっきりと思い出せることに腹が立つ。

 立ち尽くした背に、首筋に、ぷつぷつと冷や汗が玉になって浮く。
 ただの夢なのに、体が竦んでいる。

「こ、こんな堅い椅子でうとうとしたのがいけないのよ。ははっ」

 カラカラに乾いた口で笑って、倒れた椅子を元に戻す。
 その椅子に手をついたまま、麗奈はしばらく動けなかった。

「……にしても。あんなのが、南条との最後の仕事になっちゃったの、よ、ね」

 夢の中で繰り返された惨憺たるライブの記憶。
 あれも、光の言葉も、私が逃げたことも、事実だ。
 ……光が死んだことも、事実。

 もう、一緒にヒーローごっこなんてできないし、ライブでの失態を巻き返すチャンスもない。
 体の半分がボロボロに崩れて、液体になって口から溢れそうだった。
 ――アイツの死を受け入れたアタシは、今度は、それを乗り越えて生きなければ。
 重い気持ち悪さをかろうじて引き止めて、思い出す。

 光はあれ以来、普段通りにアタシに接した。
 小春や千佳、ウサミン星人とか、紗南とかと一緒に遊ぶ日々だった。会議室のテレビ使ってゲームしてたら、たまに莉嘉とかニート女とかが混ざってきて、楽しかった。
 ――結局、光の言葉なんて、アタシは忘れていたんだ。

「……レッスン、か」

 目的のためならなんだって努力する。それがレイナサマ。
 プロデューサーだって、そんなアタシを褒めた。

 ――裏を返せば、アタシは目的のためのことしかしてきてなかった。

 台本でも、振り付けでも、進行に必要なら完璧に覚えてやった。
 でも、必要ないと思ったことははっきり切り捨ててきた。
 だから、アタシは、アドリブに弱いのかも知れない。
 完璧な計画の足元は、スピーカーの配線一本で掬われる。

 どだい、足元を掬う要素を片っ端から事前に取り除くなんてできっこない。
 だからアタシは、より計画を完璧に、洗練されたものにしようとしてきた。
 レッスンといったって、イベントまでの限りある時間で雑多な要素を訓練しているヒマはない。
 だから、あのライブの時だってタイムスケジュール通り完璧に体を動かせるよう、努力した。

「……なんで、それで、上手くいかないのよ」

 いつもいつも。

 歌番組で、手作りと言って店のおにぎりを差し入れしてやった時。
 怒り狂ったのは、競演してた金髪の女ひとりだった。さっきまであくびしてた寝ぼけヅラが見る間に歪むのは覗いてて面白かったが、部屋の全員が驚くかと期待していたのに拍子抜けだった。

 共演者の控え室にカエルを放っておいた時。
 後で見に行っても、何故か誰もそのことに気づいていなかった。カエルはいつの間にかいなくなっていた。部屋にいたやつ全員に訊いたのに、本当どこに消えたんだか。

 あのきらりとかいうデカ女の靴に画鋲を仕込んだ時。
 普通に歩き回っていた。どうしてかと次の日覗いたら、画鋲の針が根元からへし折れていた。

 サマーライブでライバルユニットへ下剤入りしるこドリンクを差し入れておいた時。
 ……誰も飲んでなかった。糖分はすぐエネルギーになるから絶対に飲むと思ったのに。

 ほとんど成功していない。入念に計画を練り上げても、大抵何か予想外のことが起きてしまう。
 あらゆる危機を想定してきたのに。
 この島でだってアタシは、「さすがレイナサマ」と言われておかしくない、逞しい想像力を使ってきたはずだ。常にプランを練り、最善策を探そうとしてきた。
 だが、この島は予想もつかないことばかりだった。その度に完璧な計画はボロボロに崩れた。
 その中でも一番、アタシの計画を崩したのが。
 ――南条、光。
 アンタよ。わかってる?

『レイナは人を見てない』

 記憶の中の光は、静かにそう言うだけだった。
 目の前には岩の壁がある。
 地響きのようにその壁が、足元の水面に波を立てる。アタシをも流し去ろうとする。
 もう会うこともないのに、どうしてアイツの言葉だけがこんなにも重いんだろう。

「……わかったわよ!
 南条、見ればいいんでしょ見れば。色々見てやるわよ!」

 回りつづける思考に嫌気が差し、小関麗奈はぶっきらぼうに椅子へ座った。
 向かいには、ソファー席で穏やかな寝息を立てる古賀小春の姿がある。
 あのトカゲを胸に抱えたままだ。小春の柔らかな髪とお餅みたいなほっぺたは、あのトカゲの質感に却って引き立たされているようでもある。
 あいにく空は、いつの間にか降り出していた雨で真っ暗だったが、月明かりでも差していたらどれほど絵になっただろうか。ブロマイドにして売り出そうとするやつが出てもおかしくない。正直言って、かわいい。
 灯台では、アタシだってイタズラしたくなった。まさしくお姫様然とした、安らかで愛らしい寝顔だ。


 ……守ってやりたい。


「……はい。見たわ。
 ……で、こんな想像が生き残りの役にたつかっての! バカ南条!」

 叫びながら、何故か顔面が熱くなるのを感じた。
 頭に浮かんだ小っ恥ずかしい考えに苛立って、麗奈はガンベルトに差した拳銃を引き抜く。

「アンタは、どうせそんなつまらない指摘に頭をひねってたから死んだんでしょ。
 アタシは違うわ。きちんと武器を取って、戦って、小春と、生きてやるんだから!」

 口に出すたびに、眼が冴えていく。
 そうだ。アタシは光なんかとは違う。生き抜くためなら、なんだってしてやる。
 この鉄の色合い。
 これは、そのための銃だ。
 ええと、名前は……。

「ピーワイティー……。
 いや、ピ? ピートホン? 『ピーチョン357』?
 ……意外と可愛い名前してたのね」

 暗さに慣れた眼でかろうじて読める刻印。
 一丁が1キログラム以上となる重厚な蛇の銃身には、『PYTHON357』と書かれていた。

 コルトパイソン。
 職人が一丁一丁を手作業で仕上げた、高い命中精度を誇るリボルバーの逸品である。
 総身の青みがかった漆黒の輝きからは、爬虫類のような冷たい怜悧さが匂い立つ。
 その口から放たれる0.357インチマグナム弾は、さながらうわばみの牙の如く、標的を過たず噛み砕く。堅牢にして高威力、故障しにくく的を外さない。
 加えて、麗奈が持つのは取り回しやすさを高めた4インチモデル。
 自分の言うとおりに動いてくれる手乗りの蛇、といったところだろうか。
 戦うには、うってつけの相棒と言える。

 ――撃てるならば。


    ~~~~~~~~~~


 銃を持つ手は震えていた。
 ――アタシに、このピーチョンを撃つことが、できるのか?

 小春やアタシに襲い掛かってくる相手に。光を殺したような相手に。
 夢で見た、女の薄笑いが思い出される。

 手に力が篭る。
 撃てる。――とは、言い切れなかった。

 真夜中に会ったあのデカ女にも、灯台で寝てた小春にも、撃てなかった。
 これから会う奴らだって、アタシたちと同じように、アイドルとして張り切ってた女の子ばかりだ。第一、アタシたちはここへ、殺し合いをしない連中と合流したいがために降りてきたんだ。
 やっぱり、人を撃つなんて、正気の沙汰じゃない。
 そして、人を殺すのは、さらにその上を行く狂気だ。

『――やめろよ、レイナ。お前は悪党だけど、人を殺したり死なせたりなんかしないはずだ!』

 こんなセリフ、実際に南条光は言ってたっけ。
 あれは、そうだ。お手製のスペシャルバズーカで学校の奴らを脅かしてやろうとしてた時だ。アイツは、バズーカを本物の武器だと勘違いして、本気でアタシを説得しようとしてた。逃げるのに苦労したわ、あの時は。
 結局、バズーカは忍者気取りの女に叩き折られて、挙句に暴発したんだけども。
 あれは、景気付けに紙ふぶきが出る、ただの驚かしアイテムだったのにさ。

「――そうよ。アタシは人を殺したりなんてしない。驚かす。動きを止める。それだけで十分。
 一度優位に立ってしまえば、誰だってこのレイナサマに、ひれ伏さないヤツはいないわ!」

 力が漲ってくる。
 恐怖や畏怖は、人心を掌握する最も手近な手段だ。放たれた矢や銃弾が自分の頬をかすめてみろ。アイドルといえど女の子なんて、それだけでへなへなと腰が抜けてしまうだろう。
 このピーチョンでちょっと威嚇してやる。それで、アタシに敵わないんだってことを他の奴らに教えてやるのよ!

 カチリ。
 舞い上がる心と裏腹に、手元から無機質な音が響いた。

「ん……? って、おひゃあ!?」

 思わず声が裏返る。
 自分の右手の中で、蛇が鎌首をもたげていた。
 コルトパイソンの撃鉄が、いつの間にかひとりでに上がっている。
 そのまま指がもう少し力を込めていたら、間違いなく自分の左手か、もしくは膝の辺りが弾け飛んでいただろう。
 ――オマエなどの言いなりに、誰がなるか。
 膝元の蛇は、そう言っているように見えた。


 恐る恐る、震える指で撃鉄をつまみ、ゆっくりと元の位置へ戻す。
 髪の生え際からだらだらと汗が垂れてきた。息が浅くなって、背中がバランスをとるように丸くなる。
 傍から見れば酷く滑稽な光景だったろうが、これは寸毫のミスも許されない慎重な作業であった。
 結んだ口の下に、梅干みたいなしわが寄る。
 撃針を勢い良く戻してしまったら終わりだ。銃口の向く先に確実に穴が開く。
 とりあえず人差し指を引き金から外して、銃本体を取り落とさないように慎重に。
 利き手でない左で戻さねばならないのが非常に恐ろしかった。


 ――わかった。このピーチョンは、引き金を引くと自動的に撃鉄が上がるんだ。
 そしてそのまま力を込めれば弾が出る。自分で撃鉄を上げることもできるみたいだけど。
 二動作する時間で命中力を取るか、力を振り絞ることで速射を取るか、そういうのが選べる銃なのだ。


 知らなかった。撃鉄が下がっていれば安全なものだとばかり思っていた。
 小関麗奈は、なんとか牙を納めた蛇に安堵する。


 もし仮に、あの時、諸星きらりや古賀小春に向けて引き金を引いたとしても、あの力の込め方ではただ撃鉄が上がっただけだったか、もしくは予想外の硬さに引けていなかっただろう。
 ……そもそも、もし当初の考えどおりだとしたら、むしろ引き金引くだけじゃ撃てないじゃない。なんで気づかなかった。

 お互いがあっけにとられるだけ。
 そしてもしそれが、自分たちを殺そうとしている相手に向けてだったら。
 一拍開いた変調の間を突いて、相手は即座にアタシの胸を叩き割っているだろう。
 完璧な計画は足元を掬われる。
 転げ落ちる先はステージの床ではなく、死、だ。

 薄ら寒い感覚と共に、小関麗奈は確かな充足感を得る。
 完璧な計画を邪魔する足元の石を、まずは一つ拾い上げることができた。


 ――これが、『見る』ってことかしら……。光?


「……れいなちゃん?」
「ひゃあ!? ……って、小春?」

 突然の声に、体が椅子から浮く。
 拳銃に落としていた視線を上げると、隣には眠そうな目をした小春が立っていた。
 起こしてしまったようだ。あれだけ騒いでたら、起きるのも当然か。
 素直に、小春には申し訳ないと思った。

「ああ……なんか悪かったわね。起こしちゃったみたいで」

 小春はそれを聞いて、しばらくキョトンとしていた。
 そして何故か、急にくすくすと笑い始める。

「な、なによ気持ち悪いわね……。一体なにが可笑しいのよ」
「ううん。れいなちゃんが、すごく格好よかったから~」

 一瞬、その言葉の響きに体が熱くなる。照れる。
 内心の嬉しさをどう取り繕って返そうか。と考えて、麗奈はある点に気がついた。

「あ、アハハッ……って。そういえば、アンタ……いつから起きてたの?
 ……もしかして」
「ええとー。れいなちゃんがなにか大声出して、銃を触ってたときかな~」

 熱くなっていた顔がもっと熱くなって、それから一気に冷えた。
 水風呂に放り込まれたみたいに、血が下へ落ちていくような気がした。


 ――アタシの恐怖を、見られた。


 小春には、いくらか自分の地をさらけ出してはいた。『アタシがアンタを守れて、アンタはアタシを守れて万々歳計画』まで話した。一緒に大泣きまでしたんだ。
 でも、アタシはその後も自分の威厳はしっかり保っていた。小春を守るものとして、光よりも適任なんだって思わせたい張り合いもあった。

 ――恥ずかしかった。

「フ、フフフハハハハッ! ハァーッハッハッハ……ガッ!? ゲホッ、ゲホッ!」
「だ、だいじょうぶ!?」

 思わず笑い出して、大笑いしすぎて、むせた。
 差し伸べてくる手を振り払い、精一杯の威厳をかき集めて、堅い声で小春を刺す。

「アタシはね! アンタには及びもつかないような高等作業をしていたのよ!
 アンタには関係ないんだから、勝手に晩御飯でも作って食べて寝なさい!」

 言うだけ言って、ダイナーの中に電気を点そうと立ち上がる。小春の横を大またですり抜けて、わき目も振らずスイッチを入れに行った。
 壁に向かって歩きながら、小関麗奈は恥ずかしさを収めようと、深呼吸を繰り返す。


 ――恐怖や畏怖は、人心を掌握する最も手近な手段。
 本当にその通りだわ。


 ――恐がっているのはアタシだ。
 あの時、腐ったトマトみたいに破裂する人の頭を見たときから。
 諸星きらりにも。
 古賀小春にも。
 ピーチョンにも。
 南条光にも、アタシは何かしらの恐怖を抱いている。
 見たくない。
 アタシは、そいつらより優れていなければ、恐怖で潰れてしまう。
 他人がアタシより優秀だなんて、認めたくない。
 アタシは、いつだって強大な悪のカリスマ、レイナサマでいたいのに。
 それに、気づいてしまった。

 目の前の壁。
 波立つように揺れるその大岩は、足元を掬う石くれの群れは。
 ――アタシの恐怖心だ。

「……こんな恥ずかしい姿、見られたくないわ……」

 その呟きすらも、誰にも聞こえないように。
 アタシは自分の波を殺して、誰にも気づかれまいと、努めた。


    ~~~~~~~~~~


 からんから~ん。と、扉のベルが陽気な音を鳴らす。
 太陽はガラス戸とショウウィンドウから誇らしげに差し入る。それはこの地域のトレードマーク。
 真昼。
 九州の春の日差しを逆光にして、麦藁帽をあみだにかぶった少女が一人。
 ちょうどその少女の笑顔のように、それは地元の誇りであった。

 小太りの店主が、ケージの動物たちに餌をやっていた手を止めて振り向く。

「おお、いらっしゃい! 小春ちゃんじゃなかか! ライブ、がばい良かったばい!」
「おじさん、ありがとうございます~! ヒョウくんのご飯、やっぱりおじさんのが一番いいみたいです~」

 涼しげなワンピースの胸にグリーンイグアナを持ち上げて、古賀小春はふわふわと笑った。
 店主の顔も、娘を見守る父親のような優しい笑みとなる。イグアナと少女の頭を一緒に撫でて、朗らかに声を上げた。

「嬉しかこつば言ってくるっばい。 小春ちゃんも、佐賀ん誇りのアイドルだけんね!」

 古賀小春と脇山珠美は、長崎と福岡と熊本に挟まれて忘れられがちな佐賀県が輩出した、大きな希望であった。一時期とある芸人の歌により全国的な知名度を上げたものの、長続きはしなかった佐賀県にとって、彼女たちの活躍は県民の感嘆だ。
 店内にも、さりげなく目立つ位置に、彼女たちが先日行なったライブのポスターが張り出されている。

「そっで、ヒョウくんの餌っていうと、またあれね?」
「ええと、そうなんです~。やっぱりヒョウくんが一番食べてくれるのは、おじさんのでー……」

 そるは困ったぁ。
 店主は苦笑いする。先ほど店内の動物にやろうとしていた餌のタッパーが、まだ脇にあった。

 乾いた紙をこすり合わせるような音が、かすかにそこから聞こえている。
 足をもいだコオロギが、タッパーの中に何十匹も犇いていた。

 店内の通路の両脇には。
 イグアナ、パイソン、コロンビアボア。サビトマトガエル、ステリオアガマ。
 トカゲモドキにササクレヤモリ、オビタマオヤモリ、サラマンダー。
 極彩色かつ異様な形態をした爬虫類・両生類の飼育ケージが所狭しと並んでいた。
 爬虫類通ならばきっとこの店は知っている。ここはそんな、全国でも有数の異端なペットショップであった。

「ヒョウくんも、もう大人じゃろもん? グリーンイグアナは元々草食だけん、消化機能が揃ってきたら虫ば喰わすっといかんって」
「お野菜食べさせなきゃいけないのは、わかってるんですけど~。ヒョウくんの幸せな顔、やっぱり見たいんです~」
「あっはっは! 小春ちゃんな、ヒョウくんの気持ちば分かるとかい? そるはスゴかなぁ」

 少女は、申し訳無さそうな顔まで可愛らしい。
 地方ライブのついでに、わざわざ店にまで足を運んでくれたのだ。県の誇りの頼みを、無下にして帰すわけにもいくまい。
 今までも、なんだかんだ言って結局はコオロギやミールワームを持って帰ってもらっていた。

「わかった。持っていきなっせ。折角アイドルが来てくれたんだけん、お代は良か。
 そるにしたっちゃ、帰りは新幹線? 飛行機? 持っていけるかね?」
「本当ですかぁ、ありがとうございます~!
 持ち運びは慣れたので大丈夫ですぅ。いつもの筒ダンボールで、100匹くらいお願いしますね~」

 晴れやかな笑顔に、扉のベルが再び重なる。

「おーい、小春。そろそろ出ないとバスに間に合わんぞー」
「小春ちゃん、地元に帰って嬉しい気持ちは分かりますが、少々巻くのですよ!」

 髭を伸ばしたスーツ姿の男性と、小春と同年代に見えるショートカットの少女だった。
 古賀小春と同じく佐賀出身の脇山珠美。高校生には見えない外見と、剣道で培った溌剌さのギャップは県民にも大人気だ。

「おお、珠美ちゃんも居んなはったっかい! プロデューサーさんも!」
「店長さんには、昨日のライブにもご足労くださって、かたじけのうございます!」
「そがんこつは当然たい! こるからも、みんなで頑張ってくんしゃいよ!」
「いつも応援して下さって有難うございます。よし、それじゃ行くぞ、小春」

 有明佐賀空港行きのバスは、一本逃したら3時間は来ない。よくよく事情のわかった店主は、手早く活コオロギをつめた箱をビニール袋に入れて手渡す。

「小春ちゃん。そん、みぞか笑顔ば、忘れんごつな。そるが俺たちの希望だけん!」
「はい~! どうもありがとうございました~!」

 古賀小春たちは、店主へお辞儀をしてペットショップを後にする。
 外で待っていたのは、同じプロデューサーの下で働く、4人のアイドルたちだった。
 みんな素性を隠すため、それなりに普段と違う格好をしてはいるが、その輝くようなオーラは遠目からでも窺い知れる。

「雫さん、まゆさん、みりあちゃん、仁奈ちゃん、お待たせしました~」
「大丈夫ですよ~。発車までもう少しは余裕あるかと~」
「好きなものには一心不乱になるものねぇ。まゆにも分かりますよぉ、その気持ち」
「お客さんの評判も改めて上々だったみたいだね! 良かった良かった」
「何買ったんでやがりますか? 可愛かったら仁奈も見てーでごぜーます」
「この袋? ヒョウくんのご飯……あの、虫だよぉ?」

 7人で連れ立って歩きながら、近くのバス停まで歩く。全員から、喜びを誇るような充実感が溢れている。地方公演といえど、地元出身のアイドルが二人もいて、ファンの熱狂具合は自分たちにも伝染する程だった。
 プロデューサーが、ふと小春に声をかけてくる。

「……そういえば、店長さんは、小春に最後なんて言ってたんだ? 訛りが強すぎてよく解らなくてな」
「『その、かわいらしい笑顔を、忘れないようにな』って言ってました~。えへへ~」
「そうか、みぞか、っていうのは、かわいらしいって意味か……」

 プロデューサーの顔は、なぜか一瞬、とても悲しそうに見えた。
 でも瞬きをした後には、その翳りはもう、伸ばした髭に隠れて見えなくなっていた。
 いつも以上に明るい声で、プロデューサーはみんなに呼びかける。

「そう言えばみんな。お前たちに、結構大きな仕事が入ったそうだぞ。お前たち全員が出るし、事務所のアイドルたちも大半が出演するみたいでな」
「本当ですか~! 光ちゃんとか、れいなちゃんともお仕事できるんですかぁ?」
「ああ、そうだと思う。お前たち、ちゃんと準備しておけよ?」

 楽しげな期待に、胸が膨らんだ。プロデューサーは、小春の問いかけに、にっこりと微笑む。
 6人のアイドルは、お互いに顔を見合わせて、きゃあきゃあと浮かれたった。



 本当に、楽しかった。

「……ファンが『かわいらしい』って、『希望』だって言ってくれる、その笑顔。お前たち、絶対に忘れるんじゃないぞ――」

 でもなんで。プロデューサーの首には、あの変な首輪がついてるんだろう。
 笑顔が、すごく遠いように見える。
 周りのみんなも、小春も、同じ首輪をしていた。

 地面がぬかるむ。
 べったりと体にまとわりつくように地面が這い上がってきて、腕となってみんなの首輪を掴む。

「珠美ちゃん! みりあちゃん! まゆさん! 雫さん! 仁奈ちゃん!」

 次々とその体の自由を奪われて、液状化した地面に幽かな波紋だけ残して連れ去られる。
 小春も、足首はもう地面に呑み込まれて動けない。
 ヒョウくんの入ったペットケージにも地面は這い上ってきて、それを奪い去ろうとする。

「や、やめて! ……きゃあっ!」

 泥のような腕に後ろから首筋を掴まれた。口の中に、気持ちの悪い苦味が入ってきて、息ができない。
 霞んでいく視界の奥に見えるプロデューサーへ手を伸ばす。
 もうプロデューサーの顔もわからない。遠い。
 伸ばした指先が震える。

「た、助けて……。~~さ――」

 彼の名前を叫ぼうとして、小春はついにぬかるみに呑まれた。


 ――そうだ。もう、みんな、死んじゃったんだ。
 あの光ちゃんさえも。
 遠くに行って、もう届かない。
 プロデューサーさんにも、きっと、小春は、届かないのかも。
 ――ごめんなさい。


『――アタシは違うわ』

 沈んでいく心の中で、はっきりとそんな声が聞こえた。

『きちんと武器を取って、戦って、小春と、生きてやるんだから!』

 視界を覆う暗い泥濘が、真っ二つに切り裂かれる。
 小春の体は、力強い腕に抱えられていた。
 その感触には覚えがある。
 いつも一緒に遊んでくれた、南条光。そのヒーローのような力。
 見上げたその先の顔。
 真昼の日差しの逆光を宿して、まっすぐに結んだその口元。
 ――力強い笑顔。

 その両腕には、鉄のような青い輝きの蛇が二匹。
 太く、逞しく絡みついて辺りを睥睨する。
 二人を囲んだ泥の腕は、その眼差しに射竦められて、石となったように動かない。
 小春は、石化した地面に降り立った。
 その足元から波が広がる。
 同じ地点から放たれる、二人分の高まり。心が震えるその波紋は、自分たちを囲む腕をことごとく崩してゆく。

 隣に佇むその蛇使いへ、小春はもう一度向き直った。

「あ、ありがとうございます~」

 いつもの不敵さとはちょっと違う、照れたような、はにかんだような笑みが返ってくる。

『――誰だってこのレイナサマに、ひれ伏さないヤツはいないわ!』

 恥ずかしさも恐怖も飲み込んだ、輝く笑顔。


 そのヒーローは、とっても格好よく見えました。


    ~~~~~~~~~~


『――、――!?』

 麗奈ちゃんが、何か大声で叫んだような気がする。
 目を開けたら、周りは薄暗い部屋だった。
 しとしとと、微かに雨の音。それと、押し殺した息遣いが聞こえる。
 寝そべっていたソファーから体を起こすと、テーブルの向こうに麗奈ちゃんが座っていた。
 何か真剣な表情をしている。
 胸に抱いたヒョウくんと一緒にそっと立ち上がって、邪魔にならないように脇に立った。

 麗奈ちゃんは、銃を手に持っていた。
 この島で麗奈ちゃんと会った時に向けられた、かっこいい拳銃だ。
 おでこの汗が光っている。今まで見たことないような真剣な顔で、麗奈ちゃんはゆっくりと銃を動かしている。
 夢で見たヒーローみたいに、まっすぐに口を結んで。

 カキン。
 聞こえたかどうかも定かではない小さな音がして、麗奈ちゃんは大きく溜め息をついた。

「……れいなちゃん?」
「ひゃあ!? ……って、小春?」

 声をかけるタイミングを待っていたけれど、びっくりさせてしまったようだ。
 麗奈ちゃんはそれでもすぐに冷静になったみたいで、落ち着いた声で返す。

「ああ……なんか悪かったわね。起こしちゃったみたいで」

 その眼差しは、夢の中のヒーローに、そっくりだった。
 恐怖を知り、それでも立ち向かうような、光ちゃんがしていたような眼。
 ううん、それよりももっと。
 格好よく見えた。

 なんだか嬉しくて、思わず笑っていた。

「な、なによ気持ち悪いわね……。一体なにが可笑しいのよ」
「ううん。れいなちゃんが、すごく格好よかったから~」
「あ、アハハッ……って。そういえば、アンタ……いつから起きてたの?
 ……もしかして」
「ええとー。れいなちゃんがなにか大声出して、銃を触ってたときかな~」

 言った瞬間、どうしてか麗奈ちゃんの顔が固まる。
 ああ、せっかく格好よかった眼が消えちゃった。

「フ、フフフハハハハッ! ハァーッハッハッハ……ガッ!? ゲホッ、ゲホッ!」
「だ、だいじょうぶ!?」

 そして、急に大声で笑い始めて、むせた。
 差し出した手を振り払われる。
 麗奈ちゃんの顔は、怒ったような、悲しいような、変な顔だった。

「アタシはね! アンタには及びもつかないような高等作業をしていたのよ!
 アンタには関係ないんだから、勝手に晩御飯でも作って食べて寝なさい!」

 小春を押しのけて、麗奈ちゃんは大股で歩いていってしまう。
 いつもの麗奈ちゃんらしいといえば、らしいセリフだ。
 でもおかしいよ。いつもみたいに強い悪役だったら、なんでそんなに、苦しそうなの?
 麗奈ちゃんは壁を向いて佇んでいる。
 ゆっくりと、その肩に手を伸ばす。

「来ないでっ!!」

 振り向きざまに、強く手をはたかれた。
 麗奈ちゃんのその動きに押されて、ダイナーの電灯が一斉に明るくなる。
 壁に荒い息の背を預けて、振り抜いた右腕は、拳銃を構えていた。

 麗奈ちゃんは今にも崩れ落ちそうだった。
 灯りに照らされて、その顔はシルクワームみたいに真っ白に見える。
 蛹になれず、脱皮もできず苦しんでいるような。すぐにでもトカゲの餌になることを悟ってしまったような――。
 自分の手に持った蛇に食べられることを恐れて震えているちっぽけなカイコの幼虫。


 小春とヒョウくんには、麗奈ちゃんがそんな風に見えました。


    ~~~~~~~~~~


 ――また、逃げるのか? アタシは。

 小春は、怯えてはいなかった。ただただ驚いているようだ。
 肩に伸びてきた手を、怒声とともに思わず叩いてしまった。
 一斉についた明かりに慣れてきた眼は、自分の手が震えながら拳銃を構えていることに気づく。
 アタシは、弱さを見られる恐怖へ、恐怖で対抗しようとしている。

「……いいから、あっち行きなさいよ」
「行かないよ、れいなちゃん。誰も食べないから。平気だよ」

 撃つ気なんてさらさらないことを、見透かされたか。だが、即座に返ってきた返答は微妙にずれている。ここで晩御飯の話……?
 小春は、真っ直ぐアタシの目を見たまま言う。いつものふわふわした、世間知らずの姫みたいな顔じゃない。
 いくつもの死を見てきた特撮番組の主人公みたいに、静かな顔をしていた。

「小春もヒョウくんも、れいなちゃんを食べたりしないよ。一緒に頑張る、完璧な計画なんでしょ?」

 水面が波立った。
 大きな振動だった。岩壁を背にした私の心が漣立つ。
 眼を上げられない。
 アタシは自分の恐怖心に挟まれたのだと思った。

 その時、手に暖かいものが触れる。
 小春が、アタシが構えた手を、両手で包み込んでいた。
 目と目が合う。
 小春は、にっこりと笑った。

「れいなちゃんは、ちっぽけな虫なんかじゃないよ! アイドルだもん。怖がる必要なんて、ないよ」
「小春……」

 水面に降り立っていたのは、小春だった。
 アタシの涙に子鹿のような足取りを踏み入れて、今、アタシの目の前に。
 自分と壁以外見えなかった水の中に、暖かな笑顔を放つプリンセスがいる。
 王子様が、ヒーローが、焦がれてやまない輝きは、アタシの手の震えを止めていた。

「……ありがとう」

 自然と、その言葉が口をついた。
 小春は、安心したようで更に顔を緩ませる。おしるこに伸びきったお餅みたいだ。
 アタシも、たぶん笑っていた。
 普段なら恥ずかしすぎて、すぐうやむやにしたくなるようなセリフ。でも、この暖かみが手に触れていると、そんな感情は実につまらないものに思えた。

「元気になってくれたみたいで、よかったぁ~」

 カラカラカラ……。
 ダイナーの天井についていた大きな扇風機みたいなものが、ゆっくりと回りだす。
 乾いた音だった。
 私の背中にぶつかっていた岩壁が、そんな音を立てて一枚剥がれ落ちていた。

「でも、危ないからピーチョンから手は離しなさい。暴発するかも」
「……この銃、ピーチョンっていうのー? かわいい名前だね~」
「そーよほら。離して。ここに書いてあるでしょ?」

 うまいこと小春の手を銃から外して、銃身を見せてやる。引き金に入っていた人差し指も、勿論抜いた。

「……これ、『パイソン357』って読むんじゃないかな~」
「はぁ? アンタお子ちゃまねー。英語も読めないの。Aの音もSの音もないじゃない」
「でも『PYTHON』はパイソンで、ニシキヘビって意味だよ~。ヒョウくんのいたお店でよく見てたもん」
「え……」

 意味のある単語だったの? ただの銃の愛称じゃなくて? にしき蛇?
 気づいたら、銃を取り落としていた。
 繰り返す失態の恥ずかしさに、頭がミルクのように吹きこぼれているような気がする。
 何が「アンタお子ちゃまねー」だ。アタシがバカみたいじゃない。

「でも、パイソンはパイソンでも、ピーチョンはピーチョンでしょ~?」

 アタシの痴態をよそに、小春は落ちた拳銃を拾って、変わらぬ笑みで手渡してくる。

「……どういう意味よそれは」
「ヒョウくんは、グリーンイグアナだけど、ヒョウくんです~。ピーチョンも、パイソン拳銃だけど、れいなちゃんはピーチョンって名前にしたんでしょ? かわいいね~」
「え、あ……。あー、そーよそーよ! うん。そのつもり! アタシたちは人を殺すつもりなんてないから、せめてカワイイ名前をつけようとね!」
「ヘビだったら、ヒョウくんとも親戚だよ~。嬉しいね~」

 焦って取り繕うアタシを気にせず、小春の言葉は胸のイグアナに言っているのか、アタシに言ってるのかいまいちわからない。

「……じゃあ、小春は、れいなちゃんの分も晩御飯作るから。一緒に食べようね!」

 もう一度目を合わせて笑った後、小春はキッチンへと駆け出していく。


 結局小春は、アタシの感情を、取り乱している理由を、まったく尋ねてこなかった。
 それでいて、彼女は怯え震えていたアタシの水面を、鏡のように鎮まらせた。
 思えば今まで島で一緒にいて、ずっとそうだった。
 物言わぬイグアナともコミュニケーションできるように、アタシの心もすっかりわかるのだろうか。
 ――なら、アタシが必死で保とうとしてきた『レイナサマの威厳』なんて、どれだけ薄くて意味のないものだったんだろう。


「きゃっ! コップが割れてます~」
「あ、しまった! 小春、大丈夫!?」
「大丈夫です~。れいなちゃんは待っててくださいね~」

 キッチンから聞こえた声で、アタシはあの放送のときの割れたコップ類をそのままにしてたことを思い出した。
 だが、小春がそういうのなら大丈夫なのだろう。先ほどの席に戻って座ることにした。

「……小春でさえ、アタシより凄いところ、いっぱいあるじゃない」

 呟いた言葉は、さっき剥がれた岩壁の一部だ。
 アタシが泣くまで泣かないと決めた精神力。
 アタシやイグアナの心を見抜く洞察力。
 ファンもヒーローも惹きつける、その暖かい笑顔。
 どれも、アタシにはない。それらは、小春が今までの人生で『レッスン』してきた事柄だろうから。

 ――じゃあ、アタシには何がある。今まで一番アタシが『レッスン』したことは。

「『いたずら』。しか、ないわよね」

 呟きながら、アタシは即座に窓のブラインドを降ろした。

 ボックス席側は全面が窓ガラスで包まれたこのダイナー。夜中に煌々と電気を点していれば、中は丸見えだ。アタシがここを襲撃するなら、バカ正直にベルのある入口からなんて入らない。
 外からでも標的が見えたなら、窓から銃でも石でも乱射して入り込むだろう。
 雨が降ったから自分たちが今日ここに泊まることはほぼ確定だ。
 だけど、放送で言われたように、この期に乗じて襲い掛かろうとするヤツもいて当然。
 ――1階で眠ってしまうのは危険だ。

 防衛するなら全部のブラインドをおろし、その隙間を縫ってタコ糸を通し、入口のベルと繋げて鳴子にする。2階にいても気づくように、ベルを増量する必要があるかもしれない。

 さらに地の利を活かして襲撃者を止めるなら、上で回ってる扇風機の羽根に、椅子の足でもくくりつける。トラップだ。壁際のスイッチさえ押せば、勢い良く入口に向かって椅子がすっ飛ぶように作れるはず。
 暗ければ顔面ヒットも狙えるだろうし、当たらなくても驚かせるには十分。
 紗南が前に言っていた用語を使えば、初見殺しというやつだ。
 階段や通路にも、フライパンだの引き糸だので罠はいくらでも作れる。


 いままで、成功に乏しかったアタシのイタズラだけど、今度こそ上手く、やってみせる!


 ブラインドを全て降ろし、アタシは息巻いてキッチンに入った。
 床のガラス片陶器片は綺麗に端に寄せられ、そこには甘い匂いが立ち込めている。
 玉ねぎが、炒められている匂いだ。

「あれ、れいなちゃん。待っててくれていいのに~」

 小春はミルクの鍋の隣にもう一つ鍋を置いて、色々な野菜やらなんやらを炒めているようだ。小麦粉と調味料が脇においてある。
 イグアナは火から絶妙な温度加減の位置取りをして、ボリボリきゅうりをかじっていた。

「ああ、アタシたちの身を守る為に、いくつか『いたずら』を仕掛けようと思って。道具があるか探しにきたのよ」

 小春は、そう言うアタシの顔を見て、「かっこいいなぁ~」と微笑んだ。

「れいなちゃんのイタズラは、きっと上手くいくよ~。小春もびっくりしたもん」
「へ? アタシ、アンタに何かしたことあったっけ?」
「前、ライブの時のお部屋にカエルさんを置いておいてくれたの、れいなちゃんだったんでしょ? 後でみんなが話してるの聞いたんだ~」
「カエル……って、もしかして。アンタもあの控え室だったの……」
「あの時、ヒョウくんはお家でお留守番してて、小春、すっごく不安だったんだ~。
 その時、一番乗りしたお部屋にかわいいカエルさんがいっぱいいて、裏口に出して遊んでたら、元気が出てきたの。」


 ありがとう、れいなちゃん。


 ファンを虜にするような笑顔で、小春は言う。

「だから今度も、れいなちゃんの素敵なイタズラは、絶対上手くいくよ~!」

 光が見えたような気がした。
 果てが見えなかった岩壁の上から、光明が。
 アタシの右手には、まだ子鹿のような温もりが残っていた。

「……え、ええ、そうに決まってるわ! レイナサマのいたずらで、感動して驚かないやつなんて、いないってのよ。
 ……プリンセスが言ってくれるんだから、間違いないわ!」

 目の奥が熱くなった。
 自然と、口角が上がっていく。
 足元に落ちた波紋は、二人分だ。

 アタシ一人じゃない。どんどん波は高まる。
 あのイグアナのヒョウの分も、ピーチョンの分もだ。
 千佳の分も、菜々さんの分も、紗南の分もきらりさんの分も、高まってほしい。
 南条光が見えるまで、衰えるな。
 プロデューサーが見えるまで、衰えるな。
 この岩壁を越えられるまで、高まれ。
 津波のように衰えない波で、何度でもぶつかってやる。足りない高さは、他の奴らから盗んでやるってのよ。
 ――レイナサマの足場になれるんだから、誇りに思いなさい、愚民ども!
 弛まない目的への努力と、逞しい想像力こそが、アタシの持ち味なんだから!


 小春は、アタシが少し吹きこぼしていたミルクを、鍋から鍋へ移して炊き上げた。

「古賀流、特製ホワイトシチューです~。お母さんのレシピなんですよ~」

 味見してみて下さい~。
 そう言って、小春は手招きする。
 手に持っていたピーチョンを流し台において、替りにスプーンを掴む。
 ゆっくりと、啜った。
 小春は、味見するアタシの顔を見て、ふわふわと笑う。

「……美味しいわ、小春。フフ……、でもこれ、ちょっとしょっぱくない?」
「でも、れいなちゃんは、すっごくかっこいいよ~」

 自分の顔が見れないのが、ちょっと残念に思う。
 ……でも、小春の笑顔も、イグアナの顔付きも、拳銃の色合いも、きっとアタシ以上に、格好いいんじゃないかな。



 スプーンの小さな水面に、高まり始める波紋が、また一滴広がった。



【B-5 ダイナー/一日目 夜中】


【小関麗奈】
【装備:コルトパイソン(6/6)、コルトパイソン(6/6)、ガンベルト】
【所持品:基本支給品一式×1】
【状態:健康】
【思考・行動】
 基本方針:生き残る。プロデューサーにも死んでほしくない。
 0:小春と一緒にいる。
 1:小春とアタシの身を守るために、ダイナーにトラップを仕掛けてやるわ!
 2:放送を待って南へ移動する予定だったが、雨が降ったので中止の予定
 3:小春はアタシが守る。


【古賀小春】
【装備:ヒョウくん、ヘッドライト付き作業用ヘルメット】
【所持品:基本支給品一式×1】
【状態:健康】
【思考・行動】
 基本方針:アイドルとして、間違った道を進むアイドルを止めたい。
 0:麗奈ちゃんと一緒にいる。
 1:あったかーいシチューで、麗奈ちゃんにも元気になってもらいましょ~
 2:放送を待って南へ移動する予定だった(雨が降ったから中止?)
 3:麗奈ちゃんが悪いことをしないように守る。


 ※着ている服(スカート)に血痕がついています。


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最終更新:2014年01月04日 20:42