カナリア ◆n7eWlyBA4w



 毒がその身に回るまで、何も知らずに囀り続ける炭鉱のカナリアのように。





   ▼  ▼  ▼





「…………南条、光?」





 小関麗奈は、ダイナーの椅子に腰掛けて、ぼんやりとその名前を繰り返した。

 食事の後、今後のことを話し合って、しかし諸星きらりとの一件を最後にずっと二人だけでここまで来たせいか実のある話にはならず、
 とりあえず北の端から出発したのだから南を目指してみようという単純な結論に至ったものの、出発のタイミングを逃したのに気付き、
 動くにしても放送を待ってからにしたほうがいいと留まることを決めて、そして今。


 そして今、麗奈は誰よりもよく知る名前を、こうして聞いている。


 その名前がこうして呼ばれることが一体何を意味しているのかは、麗奈にもよく分かっていた。
 南条光は死んだのだ。あの馬鹿みたいに真っ直ぐないい子ちゃんは、結局麗奈と再会することなく逝ってしまった。

 もう二度と会うことは出来ない。もう二度と、事務所でヒーローごっこをして遊ぶこともない。
 馬鹿みたいに些細なことで喧嘩したり、どっちがカッコいい決めゼリフを思いつくかで勝負したり、お姫様役の小春を取り合ったり。
 悪のウサミン星人に扮した菜々を、二人がかりでやっつけようとしてみたり。そんな時間はもう巡ってはこないのだ。

 永遠の別れ。その事実が、動かしようのない現実としてただ目の前にある。


「れ、れいなちゃん……」


 隣で傍目にも分かるぐらいに真っ青になった小春が、麗奈にすがりつくように震える声を上げる。
 小春は麗奈が南条と張り合う時はいつもくっついて来ていたし、なにより悪役の自分と違って彼女の前での南条は常にヒーローだった。
 ショックを受けて当然だろうと麗奈は思う。その心の痛みを和らげてあげなくちゃいけない、とも。

 なのに。絞り出したようにか細い小春の言葉へ無意識に返した答えには、麗奈自身にとっても想定し得ないような空々しい響きがあった。


 だけど、絞り出すような小春の言葉への無意識の答えは、麗奈自身にとっても想定外のものだった。

「雨が降るらしいわね。放送聞いたら移動しようかと思ってたけど、ここでやり過ごしたほうがいいのかもね」
「……えっ?」


 驚いたのは小春だけではなかった。当の麗奈自身が、その淡々とした言葉に当惑していた。


「いつ降るか分からないんじゃ、雨宿りできる場所が見つかるかも分からないもの。なによ、変なこと言ってる?」
「…………っ」

 小春はなにか言おうとしたが、そのまま言葉を飲み込んでしまった。
 さすがに薄情過ぎる言い方なのではないだろうか。そう自分でも思ってしまうくらいに、冷静な言葉が自分の口から出てきている。


 ずっと一緒にいた人間が死んだのに、どうして自分は、こんなにも平然としているのだろう。


 いつかこんな時が来るような気はしていた。
 アイツは根っからのお人好しでヒーローバカだから、余計なことと分かっていても躊躇わずに首を突っ込むだろう。
 そして、そういう性格だからこそ、この殺し合いでは長生きは出来そうにないタイプ。それは麗奈も、これ以上ないほど理解していた。
 だからこうやってアイツの死を知る時が来てしまう。そう恐れていたし、今まで考えないようにしていた。

 だけど、いざ聞いてみると、拍子抜けにすら感じてしまった。
 安部菜々が死んだと聞いた時と同じだ。もっと打ちのめされるのかと思っていたのに、こんなものなのだろうか。
 もちろん寂しさを感じないわけではない。だけど、自分自身でも驚くぐらいに、麗奈は平静を保っていた。

(アタシって、自分で思ってたよりも、クールな性格だったのかしら)

 そう考えてみたけれど、その発想はひどく現実離れしているように感じて、だからこそ一層戸惑ってしまう。
 でも、そうとでも考えないと自分でも納得がいかなかった。だって、涙のひとつも出そうにないのだ。
 そういえば麗奈達のプロデューサーなら、こんな時はどうするんだろう。やっぱり大人だから、泣かずに受け止めるのだろうか。
 そう考えると、麗奈は思ったよりも大人なのかもしれない。大人だから、こういう時に泣かないのかもしれない。

 そこまで思いを巡らせたところで、麗奈は努めて柔らかく聞こえるよう、小春に声を掛けた。


「小春。アンタは泣いていいのよ」
「えっ?」
「アンタはまだ小さいんだから、悲しい時には泣けばいいのよ。子供なんだから」


 麗奈はいい。どうやら涙を流すことなく、南条の死を受け止められそうだから。
 だけど小春はそうじゃない。ここで悲しみを貯めこむと、きっと爆発してしまうだろう。そういう気遣いだった。
 なのに、小春はその肩を小刻みに震わせて、床を睨むようにじっと見つめて、こう言った。


「れいなちゃんが泣かないから、小春も泣かないの」
「……なによ。レイナサマはこんなことじゃ泣かないのよ。アンタと違って子供じゃないんだから」
「それでも、泣かないの」


 そう言って唇をぎゅっと結ぶ小春の姿に、麗奈はやれやれとため息をついた。
 そんな理由で我慢しても仕方ないのに、小春の意志は固いようで、必死に堪えているのが分かるのに結局泣き出そうとはしなかった。


「……別にアタシは、我慢なんてしてないのに」


 そう。麗奈は、悲しみを抑えこんでなんかいないのに。そのはずなのに。
 ただ受け止めて、そして乗り越えていけるはずなのに。



   ▼  ▼  ▼



「まったく小春の変なところで頑固なのにも困ったものね。今回ばかりは仕方ないかもしれないけど」


 あの後、小春がヒョウくんのお世話をすると言って奥の部屋に引っ込んでしまったので、麗奈は一人でキッチンに立っていた。
 ただでさえ小さい背中が一層小さくなってしまったような気がして、流石になんとかしてやらなきゃいけないと思ったのだ。
 自分と違って、小春はまだ子供だ。それくらいの温情は掛けてやるのが上に立つものの務めね、と自分に言い聞かせる。


「温かい飲み物でも飲ませてあげれば少しは落ち着くでしょ。せいぜいこのレイナサマの気配りに感謝することね」


 麗奈は仰々しく腕を組んで、ダイナーの棚をぐるりと見渡す。
 とはいえ、どんなものを用意したものか。あの小春のことだ、コーヒーなんて砂糖の山を入れても飲めやしないだろう。
 かといってスープみたいな手間のかかるものは単純に作れない。もしかしたらレトルトのようなものがあるかもしれないが探すのは面倒だった。
 やはり、こういう時の定番はホットミルクではないだろうかと、麗奈は考える。
 試しに冷蔵庫を開けてみれば案の定、牛乳パックが並んでいた。業務用なのか見たことのないデザインだが、味に変わりはないだろう。


「あっためるだけなら簡単だし、これに決まりね。自分自身の頭脳の冴えが怖いわ」


 自分の思いつきに大いに満足し、麗奈はさっそく支度に取り掛かった。
 調理用具の棚から頃合いの大きさの小鍋を引っ張り出し、それにミルクをとくとくと注ぐ。
 あとは火を着けて、ちょうどいい温度になるまで熱を加えていくだけのこと。何の失敗もしようのない、完璧な作戦だ。


(ほら、こんなにもいつも通り。アンタが死んだからってアタシが泣き喚くと思ったら大間違いよ、南条)


 そう心のなかで呟く。……そして呟いてから、なんでわざわざアイツに向けての言葉にしてしまったのか首をひねった。
 アイツの名前が出てくるようなところではないのに。意識する場面なんかじゃないのに。
 なぜだか分からないがモヤモヤする。あんなヤツのためにこの自分が不愉快な思いをするのが納得いかず、麗奈は鼻を鳴らした。


(アタシはアンタみたいないい子ちゃんとは違うのよ。今まで通り賢く立ち回って生き残るの。アンタも馬鹿やったもんだわ)


 突き放すようなことを考えてみたが、そうすると余計にモヤモヤが酷くなったので、いよいよ麗奈は不機嫌顔になった。
 どうして南条のことが自分の中から離れないのだろう。追い払おうとすればするほど、いっそう強く残るのだろう。
 答えは分かりそうな気がするが、深く考えてしまうことに本能的な恐怖を感じて、麗奈は意識して目をそらした。


「……あんなヤツのことなんか考えていたって時間の無駄だわ。今のうちにカップの準備でもしなきゃ、うん」


 頭を振って思考を散らし、気を取り直して食器棚を必要以上に勢い良く開ける。
 中に並んでいるたくさんのカップからホットミルクを飲むのによさそうなマグカップを選び、麗奈はおもむろに手を伸ばした。


 たったそれだけの動きだったし、麗奈はカップを手に取る以外の何かが起こるだなんて考えてもいなかった。



 それなのに。伸ばした麗奈の指は、そのまま空を切った。



 マグカップの取っ手が小指の先に引っかかって、そのまま転がり落ちたカップは床にぶつかって鈍い音を立てて欠けた。
 頭の中が一瞬で真っ白になった。取っ手と縁の一部が無くなったマグカップがごろごろと転がるのをぼんやりと見下ろす。
 何が起きたのか麗奈自身にも分からなかった。呆然とカップを掴み損ねた自分の手を見て、そこでようやく理由を悟った。

「え……なによこれ。なんで震えてるわけ……?」

 自分の手が、別の生き物のようにぷるぷると小刻みに震えているのを見て、麗奈は困惑した。
 まったく原因に心当りがない。そもそも何がどうなったらこんなふうになってしまうのか。
 指先に意識を集中させて止めようとしても一向に上手く行かず、戸惑いはいっそう大きくなる。

「なんなのよ、もう! 止まれ、止まんなさい!」

 もう一方の手で強引に抑えつける。そのまま何度も深呼吸を繰り返すうちに、いつの間にか震えは治まってきた。
 大きく一息をつく。そして、自分でも気づかなかったが疲れでも溜まっていたんだろうと勝手に結論づけることにした。
 しかし、ようやく平静を取り戻しかけた麗奈の耳に届いたのは、更なる悪い状況を告げる音で。

「あ、ああーっ! 吹きこぼれてる!」

 鍋に入れた牛乳がごぼごぼと音を立て、泡立って溢れ出していた。
 どうしてこんなになるまで気付かなかったというのだろう。麗奈の頭を焦りが支配していく。
 そして、悪い時には悪いことが重なるものか。
 慌てて火を止めようとして、しかしそこで手元が狂い、鍋を傾かせかけてしまった。

「あっつぅっ!?」

 幸い完全に引っくり返して大惨事になることだけは避けられたが、それでも跳ねた数滴が指にかかってしまった。
 涙目になってその指を口に含みながら、麗奈は目の前の惨状を見渡した。

「ど、どうなってるのよ……難しいことなんてないはずじゃない。なんでこのレイナサマが、こんな簡単なこと……」

 この程度の失敗しようもないようなことで、こんなにも醜態を晒すなんて、自分でも信じられない。
 それでも、認めるしかない。自分でもはっきりと分かるくらいに麗奈は取り乱していた。
 ただカップを取って、ちょうどいい温度まで温めたミルクを注ぐ、ただそれだけのことすら出来ないくらいに。


 そして、その理由として思いつくのは、麗奈自身が何よりも認めたくない、たったひとつ――


「これじゃまるでアタシが、南条がし……死んだからって、それで動揺してるみたいじゃないの……」


 自分の呟きに、どきりと心臓が跳ねた。
 そんなはずはないと、声に出して言い切りたかった。だけど出来なかった。
 心のどこかでそれが真実だと言っていて、それを別の自分が必死に否定しようとしていて、混乱するばかりだった。
 ただ蓋をし続けられないくらいに胸の奥のわだかまりが広がって、じわじわと心を飲み込みそうになっていた。


(なによ……アタシは、アイツが死んだことをちゃんと受け入れられたはずなのに……)


 麗奈はどこか遠くに助けを求めるように、ぼんやりとキッチンから見える窓の向こうに目をやった。
 そういえば雨はいつ頃降り出すんだろうと、現実逃避じみたことを考えながら。



 そして、そこで麗奈は、目を見開いた。





 窓ガラスの向こう側、そのもっともっと奥で、見覚えのある深い黒のロングヘアが風になびいていた。





「――光っ!?」





 体が、理性を置き去りにして反応した。

 散乱したマグカップの破片を危うく踏みそうになりながらも、よろめきながらキッチンの出口へ辿り着こうと進む。

 その途中で肘が流し台の隣に積んであった別のコップに当たり、今度は完全に砕け散る音が聞こえたが、視線を落とそうともせずキッチンを飛び出した。

 がむしゃらに店内を一直線に駆け抜けようとして、つま先で椅子の足を蹴飛ばし、だけど痛みよりもまどろっこさが先じて、倒れた椅子を飛び越えて出口へ走る。

 体当りするようにドアを開けるとその勢いでベルが大音量で響き、店内の奥から「麗奈ちゃん!?」と驚く声が聞こえた気がしたが、逸る気が返事すら飲み込ませた。


「光……光、そこにいるの!?」


 代わりに麗奈は、知らず知らずのうちに彼女の名前を呼んでいた。

 今まで一度も、面と向かって下の名前で呼んだことなんてなかったのに。
 それが照れくさかったからなのか、自分の悪役としてのポーズなのか、それ以外なのかは自分でも分からない。
 あるいはこんな日が来ると分かっていたら、もっと真っ直ぐに向き合えたのだろうか?

 走る。走る。走る。

 距離にしてみれば大したことのない道のりが無限に遠く感じて、ひたすらに足を動かした。
 血を薄めて流したような夕焼け空の下、駐車場のほうから店の裏に回りこみ、窓から見えるはずの場所に視線を飛ばす。

 いないはずはない。ヒーローは何度でも蘇るって、アイツはしょっちゅう言っていたじゃないか。
 どうせ今度もやられた振りでもしていたに違いない。そして自分達を驚かそうとこっそり覗いていたとか、そんなところだろう。
 相変わらずガキっぽいんだから。そんなだから背だって伸びないんだ。顔を見たら思いっ切り馬鹿にしてやる。

 そんなことを思いながらも焦りだけは抑え切れずにいる麗奈の視界の片隅で、何かが揺れた。

 一瞬で、麗奈の顔から不安の色が消え失せた。
 裏返りそうになりながらも声をかけようとした、その意識の先に、




 ちぎれた青いビニールシートが木の枝に引っかかったまま、夕暮れの風に吹かれてはためいていた。




「……なによ、それ」


 こんなもの、認められるわけが、なかった。

「光、いるんでしょ光……何隠れてんのよ、らしくないじゃない」


 目の前の期待外れにも程がある現実を拒否するように、うわ言のように呟く。

 いや、違う。現実を拒否していたのは、今に至るまでずっとだった。受け入れたつもりでいて、結局受け入れられていなかったのだ。
 今までそこにいるのが当たり前過ぎて、だから、まだ今まで通り呼べば出てくるんじゃないかと、そんな気がしてしまったのだ。


「ほら、出てきなさいよ! 何こそこそしてんのよ! 正々堂々と正面から来るのがいつものあんたでしょうが!
 アタシは……レイナサマはまだ健在なのよ! 今にも世界を征服しそうな勢いなのよ!? 今出てこないでどうすんのよっ!」


 いつも以上にオーバーな身振り手振りで、どこかに隠れているに違いない彼女を挑発した。
 なのに何の反応も返ってこない。いつもなら馬鹿みたいに大げさなポーズを決めながら飛び出してくる場面なのに。
 今は麗奈の言葉だけが夕暮れの空気に吸い込まれるばかりで、ごっこ遊びですらない、滑稽な一人芝居にしかならない。


「……かかってきなさいよ! 悪を倒しにきなさいよっ! ヒーローなんでしょ!? 正義の味方なんでしょっ!?」


 自分の声が虚空に消えていくたびに、認めたくない事実が暗雲のように自分の上からのしかかってくるようで。
 それを跳ね除けようと、八つ当たりめいた怒りを叩きつける。叩きつける相手なんて、いはしないのに。


「無視してんじゃないわよバカ南条! ナメてんの!? このレイナサマを、バカにしてんじゃないわよぉ……っ!」


 叫んだ。叫びながら、地面が陥没しそうなぐらいの勢いでひたすらに地団駄を踏んだ。

 馬鹿げた行動だというのは頭の片隅で分かっていた。だけどそれ以外に、感情の持っていきかたが分からない。
 どうやって爆発させたらいいのかが分からない。いや、この感情の正体そのものが、麗奈自身にも分からない。

 何故こんなに自分が必死なのか、そんなことを疑問に思う余裕すらなかった。勢いに身を任せることしか出来なかった。


「あのね! 言っとくけどね、アタシとの決着はまだ着いてないんだから! アタシだけじゃないわ、あのウサミン星人だって野放しにしてたら――」


 だけど、激情のほとばしるままにそこまで叫んだとき、麗奈は、ふと自分の過ちに気付いた。
 それは頭では分かっていて、それなのに最初は実感が湧かず、その後は考える余裕がなくてそのままにしていたこと。
 今の今まで向き合えずにいた、それでもいずれ気付かなければならなかったことに、今気付いてしまった。



(……………………あっ、そうか。菜々さんも、もういないんだっけ)



 ――あるいはそれが、最後のひと押しだったのかもしれなかった。



「……ぅう、う、うう」



 麗奈の足元から、神経が寸刻みにされていくように感覚を失っていった。

 足の着かない水中で立ち泳ぎをしているような底冷えする浮遊感が、徐々に全身を覆っていった。

 そのうちに視点の位置がガクンと下がったが、足に力が入らず尻餅をついたということに、麗奈はすぐには気付けなかった。

 反射的に地面に突いた手のひらに砂利が食い込んだのに、その痛みすら何秒も遅れて感じられた。

 代わりに体の芯がきゅうっと絞られるような不快感が、みぞおちの辺りから喉元までせり上がってきて、思わず声を出しそうになった。

 だけど言葉は漏れずに、代わりに制御の利かない震えで歯がひとりでにカチカチと断続的に音を立てていた。

 耳鳴りがして、周りの音が遠ざかっていって、世界から自分が切り離されたように感じられた。


 知らない。こんな感覚は、知らない。こんな自分なんて、知らない。


「じょ、冗談じゃないわよっ……このレイナサマが、なんでアンタ達のために、こんな……っ」


 こんなに弱々しく震えるのが自分の声だなんて、知らない。
 こんなに脆くてちっぽけで無様なのが小関麗奈だなんて、知らない。
 そんなこと知らなかった。知りたくなんてなかった。


「……なんでよ……なんなのよぉっ……なんでこんな思いをしなきゃいけないのよ……う、ううっ……」


 もう二度と戻ってこないもの。もう二度と訪れることのない時間。
 くだらないと思っていたのに。大したものじゃないと思っていたのに。
 当たり前すぎるぐらいに当たり前だったものが、ただ当たり前でなくなったというだけで、こんなにも張り裂けそうだなんて―― 





「――れいなちゃんっ!」





 いつになく鋭く、それでいて悲痛さすら含んだ声が自分の名を呼ぶのを耳にして、麗奈はその意識を繋ぎ止めた。


「小春……?」


 へたり込んだ格好のまま、呆然と視線を上げる。そこには、夕焼けを背にして立つ小春の姿があった。
 朱い光の中にいながらその顔は傍目にも分かるくらいに真っ青で、唇は不安に引き結ばれていた。
 小さな両手は胸の前できゅっと握られている。いつも抱いているヒョウくんを連れてくる余裕もないくらい、焦っていたのだろうか。


「な、何よ。何見てんのよ。アタシならなんでもないんだから、戻ってあのトカゲの世話でもしてなさい」


 自分でもはっきりと分かるくらいに上ずった麗奈の言葉に、小春は首をぶんぶんと振って拒絶の意思を示した。
 日頃の小春らしからぬ強い意志表示に、逆に麗奈のほうがたじろいでしまう。
 それでも虚勢のメッキで取り繕って、必死で平静を装う。小春にこれ以上、弱みを見せるわけにはいけない。
 麗奈にとってそれは精一杯のプライドだったし、あるいは不安にさせまいとする思いやりの発露かもしれなかった。


「ふ、ふふん。アンタみたいなお子ちゃまに心配されるほど、このレイナサマは落ちぶれてなんていないのよっ」


 しかし小春はそんな言葉など耳に入っていないように麗奈に近寄ると、その手で手を取った。
 その柔らかさと温もりで自分の心がふっと融解してしまいそうなのをこらえようとする麗奈の目が、小春の目と合う。
 その目は不安と恐怖で揺れていて、今にも力を失いそうで、それでも懸命な意志に満ちていて。


「だ、だって、れいなちゃん言ったじゃない。れいなちゃんが悪いことしたら、小春が止めてって」


 その小春の言うことは麗奈にはさっぱり意味が分からず、自然と言葉が強くなってしまう。


「何よ、アタシがいつ、アンタに止められるようなことしたっていうのよ!?」 
「してるよっ! 」


 だけど突然の強い語勢に虚を突かれたその瞬間、小春の小さな体躯が麗奈の胸に飛び込んできた。
 思わずバランスを崩しそうになりながらもその体を支えた麗奈に届いたのは、今まで以上に震えて弱々しい言葉だった。


「してるよ……今だって、してるよぉ……」
「な、何を……」


 顔を上げた小春と改めて目が合った。

 はっとした。

 そういえば、この一日が始まってから、麗奈は一度も小春の泣き顔を見ていない。
 最初はこの殺し合いを理解していなかったとはいえ、辛いこと、怖いこと、不安なこと、きっとあったはずなのに。
 それでも、いつも通り隣にいる自分までほんわかするような笑顔を浮かべていたのだ。今までずっと。



「悲しい時にひとりで泣くなんて、悪いことだよ……絶対やっちゃいけないことだよぉ……っ!」



 その小春の両目から、大粒の涙がぼろぼろと溢れていた。
 今までの時間ずっと心の奥に溜め込んでいたであろう涙が、堰を切って流れ出していた。
 小刻みに震えるその肩を見て、たった今彼女が口にした言葉を思い起こして、麗奈はあの笑顔のわけを察した。


「小春……もしかして、今までずっと、アタシのために……っ」


 そこから先は、言葉にならなかった。

 ただ無心に、自分にすがる小春の小さな体にしがみつくように手を回した。
 小春の体がぴくりと震え、それから耳元で最初は控えめに、しかしすぐに抑え切れないほどの嗚咽が聞こえ始めた。
 それを聞いて、麗奈の心の頑なな部分もまた、あっさりとほどけていくのを感じた。

 悪役のプライドも、悪い子の仮面も、今だけはどこかに行ってしまった。
 剥き出しの感受性が、ただただ、ありのままの自分の感情を溢れさせていった。


「くぅうっ……う、うぁあ、ああぁあああああ……っ」
「うぇえん、ぐすっ、ううっ、うえぇええぇえん……」


 そして麗奈は、今まさに小春がそうしているように、恥も外聞もかなぐり捨てて、声を上げて泣きじゃくった。




   ▼  ▼  ▼


 泣いて泣いて泣いて、そして。



「……暗くなってきたわね」
「うん」
「戻ろっか」
「うん」
「あのイグアナもさ、ひとりぼっちじゃ、その、寂しいでしょ」
「うん。ありがとうれいなちゃん、ヒョウくんの心配してくれて」
「バカ、そんなんじゃ……まぁいっか」


 どれくらい時間が経ったかは分からないが、来た時とは色を変えた空の下、二人で短い短い帰路に就く。
 小春の手が麗奈の指を握り、照れで少し顔が火照ったが、不思議と悪い気はしなかった。
 ついさっきまで、もっと恥ずかしい姿を晒していたからかもしれない。


(調子狂うわね。今まで築いてきたレイナサマ像が、いつの間にかボロボロじゃない)


 だけど、そんな地の見えてきた麗奈を受け入れてくれる子が、すぐ隣にいる。
 そのことが麗奈にとってくすぐったいくらいに心地よいのがなんだか悔しくて、つい声に出してしまう。


「言っとくけどね。これでアタシが改心したと思ったら大間違いよ。アタシは、あくまでアタシの道を行くんだから」
「うんっ。れいなちゃんは、れいなちゃんらしいのが一番だと思うのー」
「そーよそーよ、レイナサマはいつだってレイナサマなのよ」


 そうは言いながら、やっぱり自分は変わってきているような、そんな気もする。
 それは麗奈にとっては認めがたいことではあるし、不安がないと言ったら嘘になってしまうだろう。
 だけど、それは悪いことばかりでもないのだろうと、そう感じるのも本当のことだった。
 そんな思いが、ぽろりと口から滑り落ちる。


「……アンタがいてくれてよかった」
「なぁに、れいなちゃん?」
「あ、アンタみたいな甘ちゃんは、アタシにくっついてるくらいがお似合いだって言ったのよ」


 照れくさくて咄嗟に誤魔化したのに、小春はそれを聞いて、えへへと心底嬉しそうに笑った。
 それを見た麗奈も、バカねと呆れながら微笑んだ。くしゃくしゃの顔で、うまく笑えていたのかは分からないけど。
 それでも、この健気なお姫様の輝きを守るためなら、なんだってできるような気がした。



(……ざまぁ見なさい、光。この役は、もう二度とアンタなんかに譲ってやらないんだから)



 ヒーローのいない世界で、それでも悪役とプリンセスと、ふたり一緒なら生きていけると思った。



   ▼  ▼  ▼








 生と死の最前線に晒されながら、それでも生きている限り囀るのをやめないカナリアのように。








【B-5 ダイナー/一日目 夜】

【小関麗奈】
【装備:コルトパイソン(6/6)、コルトパイソン(6/6)、ガンベルト】
【所持品:基本支給品一式×1】
【状態:健康】
【思考・行動】
 基本方針:生き残る。プロデューサーにも死んでほしくない。
 0:小春と一緒にいる。
 1:放送を待って南へ移動する予定だった(雨が降るなら中止?)
 2:小春はアタシが守る。

古賀小春
【装備:ヒョウくん、ヘッドライト付き作業用ヘルメット】
【所持品:基本支給品一式×1】
【状態:健康】
【思考・行動】
 基本方針:アイドルとして、間違った道を進むアイドルを止めたい。
 0:麗奈ちゃんと一緒にいる。
 1:放送を待って南へ移動する予定だった(雨が降るなら中止?)
 2:麗奈ちゃんが悪いことをしないように守る。

 ※着ている服(スカート)に血痕がついています。


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古賀小春

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最終更新:2013年11月03日 20:27