手塚治虫による言説・発言。
手塚治虫「手塚治虫自伝」『手塚治虫エッセイ集1』(『全集』別巻1、講談社、pp.84-85。初出『ぼくはマンガ家』、毎日新聞社、1969)
ぼくは、すでに何冊かの単行本を出し、ことに「新宝島」は東京でもよく売れていたので、威風堂々(?)と社[講談社]の玄関をくぐった。が、やはり井の中の蛙であった。
「もう少し絵を勉強なさってください」
と慇懃に断られた。腹が立って、練馬の島田敬三氏のお宅を訪ね、「新宝島」を見てもらった。
「こりゃ、漫画の邪道だよ。こんな漫画が流行ったら一大事だ。描くのはあんたの自由だが、あんたひとりにしてもらいたいね」
次に、上野の新関健之助氏宅へ押しかけた。ここでも一目見て、
「こりゃひどい。これで、君がデッサンをやっていないことがはっきりわかった」
ときめつけられた。
新関健之助氏は、「トラノコトラチャン」「カバ大王さま」など一連の動物もので優しい作品を描き、ぼくの尊敬する先輩のひとりだった。それだけに、強烈にデッサン力の欠如を指摘されて、ぼくはがっくりしてしまった。
それからこの方、この一言がぼくの胸に食いこみ、医者という水と油の職業から、下手の横好きでこの道に進んだハンディキャップのようなものを、いやというほど思い知らされている。
手塚治虫『手塚治虫のマンガの描き方』(『全集』別巻17、講談社、pp.16-17。初出『マンガの描き方』、光文社、1977)
ピカソのデッサンには、すばらしいものがある。また、パウル・クレーやミロの絵には、幼児画のような、落書きのような、そしてマンガ的な感じがある。
しかし絶対に幼児画ではなく、落書きでもなく、マンガでもない!
なぜかというと、これらの画風は、すべて写実的なデッサンのキャリアから生まれた、たまものだからだ。
ピカソの末期の作品は、アフリカの原始文明を思わせるシンプルなものが多い。
しかし、ピカソが「青の時代」と呼ばれる若い時期に描いたものを見ると、きわめて厳格な写実画から、しだいに変貌していったことがわかる。
マンガや落書きはそうではない。はじめっから、デッサンも写実もヘチマもないのだ。描きたいものを思うがままに描きなぐる、そこからはじまって、そこで終わるのだ。
手塚治虫『手塚治虫 漫画の奥義』(『全集』別巻9、講談社、pp.109-110。初出『子どもの文化』、1988-1989)
子どものマンガというのは、どこか未熟で不自然なところがなければ、子どもは魅力を感じないんですね。漫画集団の人たちが子どもマンガを描いてもいまひとつです。「北斗の拳」のような圧倒的な大ヒットが生まれないというのは、絵がうますぎて、完成しすぎてしまっているために、子どもにひっかかる部分がないんですね。大人が見ると魅力的だし、すっきりして、美術的にも申し分ない。しかし、子どもが一連のマンガに惹かれる理由っていうのは、自分にも描けそうだという、へたさがなければだめなんですね。
子どもは落書きが好きで、ぼくも小さい時“冒険ダン吉”とか、“のらくろ”なんてよく描いたものですけれど、あれは、一筆書きに近いようなかたちですらっと描けるんでね。細かいディテールを入れなければ描けないようなものは、子どもは敬遠しがちになります。
田河さんの絵に、島田敬三さんや芳賀まさをさんなんかよりも魅力を感じた部分は、つまり、パターン化しているという点ですね。たとえば、歩いている人間がいるとすると、必ず片っぽの手はにぎっているんですね。その点、島田敬三さんの手の描き方はもっと複雑で、はっきりしてはいませんでしたね。田河さんの描く人物というのは、部分的にデッサンをわざと狂わせているところがあって、ごつごつとしているので、田河さんの絵をまねようとしたら、そういうものを強調して描いたんです。
手塚治虫・小松左京「コミック――過去・現在・未来」『手塚治虫対談集4』所収(『全集』別巻14、講談社、pp.12-15。初出『本の窓』秋号、1981)
小松 ぼくたちSF作家って、みんなマンガを描くの知ってる? そのなかでいちばんヘタが筒井康隆(笑)。
手塚 あれはうまい。
小松 マンガのつくり方はうまいけど、絵はね。
手塚 だから、つくり方だけですよ、マンガっていうのは。絵なんてものはどうでもいいことです。
小松 ひどいこといってる(笑)。ぼくにいわせると、マンガはビジュアル・カルチャーなんだから、長いあいだ見ていると、最終的には絵の質の高さが残るということなんだ。谷岡ヤスジや白木卓は別格だけどね。
手塚 描き手の側からいわせてもらうと、絵というのは、へたはへたなりに、長いあいだにはチャンと画風として固まってくるものです。
小松 うん、それはある。
手塚 つまり、われわれはマンガを、うまい、へたの感覚で見ていないんです。マンガというものは懐かしさで見るものです。だから、たとえば杉浦茂さんの絵にしても、ムチャクチャのようでもあり、また一方で、浮世絵のようにデフォルメされた表現として見れば、うまいような気もするんです。
[中略]
小松 まあ、そういうけれど、いまみたいにマンガが大量に出まわってくると、やはり線の美しさは重要な表現力のひとつだし、それに見合う画技の達者さは残ってくると思うな。新谷かおるなんて、プロポーションはメチャクチャでも、あの線はやっぱり印象に残ってる。
手塚 そんなこといえば、女の子のマンガなんて、あれは人間じゃない(笑)。
小松 竹馬はいてるようなもんだ。
手塚 そうなんだ。だから子どもは、マンガのよさを、そういうところでは見ていない。これが独特なんですね。
小松 年をとると、かえってこうなるのかもしれないけれど、絵のうまさにはこだわりたいな。
手塚 あなたはばかにアカデミックなんですね(笑)。久里洋二も、あなたと同じことをいっていましたがね。
ただし、こういうことはいえる。いまのマンガ家がへただということのなかに、アシスタントに描かせているということが含まれる。つまり、現代の消費文化のなかで、コミックは、僕たちの思惑を越えて、いわゆる大衆向け商品に組みこまれてしまっている。したがって、つぎからつぎに読み捨てられていくものなんだ。あとになにも残らなくてもいいということです。読んだときにはへただなと思っても、それが長く続いているということで、一種の暗示にかかって、これはおもしろいうということになるんだ。一回一回に全然ヤマもなくて、ただ殴り合いの音だけあっても、続けて読めばおもしろいうということになる。
われわれは年をくっているせいか、一回一回丹精こめて描き、デッサンも狂っておらず、きれいだということを味わいながら読もうとするのね。だが、いまのおおかたの読者は、そうではないと思うのですよ。
小松 現実に何人かの新人は、才能はありながら、アイデアだけで、絵が固まらないままにゆく心配がある。
手塚 劇画の人は、比較的デッサンがうまいでしょう。アシスタントでも、師匠がデッサンをやれっていうのか、人体はうまく描けるようになってる。
小松 美大系統を出た、はるき悦巳などはうまいね。
手塚 あなたがしょっちゅういうように、ぼくは女が描けない。腰から下のデッサンが描けないんです。いま、「ビッグコミック」に連載中の『陽だまりの樹』で、芸者を出そうとしているんだけれど、どうも腰から下が決まらない。
ぼくたちがやったデッサンでは、いつもモデルが服を着ていた。ヌードなんてやるとはり倒す時代ですから。
小松 だって、あなた、医学部だろう。解剖でいくらだって見られるだろうに。
手塚 うん。解剖学的な肉体なら知っているんだ。だけど、全体のプロポーションが見られないから、足の格好だけなら描けるけれど、それが腰につながると、これはもう人間じゃない、動物になってしまう(笑)。
手塚治虫・鶴見俊輔・中山茂「マンガは国境を越える」『手塚治虫対談集4』所収(『全集』別巻14、講談社、pp.115-118。初出『歴史と社会』第6号、1985)
手塚 いまのマンガ状況を指摘なさったわけなんですけれども、いまのマンガは、まずアートという点からいうと、われわれみたいなもともと絵描きじゃない人間が描きはじめた見るに堪えない絵が多いわけです。特にギャグマンガなんかで、新聞なんかに載っているのでも、デッサンとしてはまるで無神経な絵があるんです。それを若い読者がまったく抵抗なく見ている。アートの優劣や美しさとか正確さはたいした基準ではなくなってしまった。女のマンガなんて高足ガニか人形浄瑠璃のような姿を描くけれど、読むほうはそれがあたりまえだと思ってる。それがたとえばアマチュア劇団の演劇的理論無視のイベントとか、原宿あたりのパフォーマンスに通じる、アマチュアリズムの勝利になってしまったのですね。海外のマンガにはまったく見られない状況ですね。この状況は日本の読者だけが許容するだけで立派に存在する。この点がマスコミのパラダイムを破った適切な例だと思います。
[中略]
マンガの本質そのものは全然別の方向を向いていてね。書籍としてのマンガは、ある程度プロフェッショナルな技術を必要とするんですけれども、それと関係なくアマチュアを含めて、マンガのアイデンティティーは別のところで育ってきた、というような気がするんです。
その方向はなにかというと、結局、これはさっき話が出たマヤとかインカの壁画と同じで、記号としての役割だと思うんです。つまり、マンガは誕生した時点で一種の記号だったんじゃないか、先生が「漫画の戦後思想」で落書きということをおっしゃいましたけれども、落書きというのは読者がいないですよね。これは一種のマスターベーションだと思うんです。そこにひとりでもとにかく対象になる人間がいた場合に、彼に伝えるべきメッセージとしての記号の役割をしていて、それがたまたま印刷媒体とか映像媒体などのハードを通してなにかのスタイルで表現されたものが、アートという技術的なものだったもんで、マンガは美術だなんていう誤解を招いたんだけれども、実際は絵じゃないんじゃないかという気がするんです。
[中略]
ぼくはそういう意味で、日本の漫画がアマチュアリズムに傾斜していることを評価したい。つまりアマチュアがアルファベットのABCを並べてカタコトをつくっているようなもので、記号なら子どもだろうがだれだろうがおぼえれば描ける、そういう状況のなかからマンガ本来の目的が生まれるんじゃないかと思うんです。
『手塚治虫のまんが専科』(『全集』別巻3、講談社、p.63。初出『少年ブック』付録、集英社、1968)
最終更新:2016年02月06日 19:32