新米術師とフェニックスの祠

一章

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 それが岩ではないと気がついたとき、ユエナは『出会った』と思った。
 ルーフェの街からほど近い森の中に、何かの為にその場所だけを切り取ったような開けた空間があった。
 彼女は、森の中からその空間を見ていた。
 大小さまざまな岩が乱立して、地面には草もない。
 岩の影から、トカゲが顔をだして、ちらりと一瞥すると影に戻った。
 空から見ることができたら、ただそこだけが切り取られたように丸く、森の中に広い円を作っているのがわかっただろう。
 その円の中心に、不自然な岩が見えた。
 ユエナは地上から、森の中からそれを見ていた。
            (挿絵:25期魔王)
 自然の岩ではない。直線的な石を組み合わせて立てられた、それは四角い建物のようだった。
 三方は一枚の石で壁が作られ、同質の石で三角形の屋根が載せられている。残る一方は開けていて、左右に丸い支柱があった。
 高さはそれほどない。彼女の身長よりすこし大きい程度である。
 高く昇った太陽が、建物を照らす。白くつやつやとした石が、光を反射してまぶしかった。
 ゆっくりと近づくと、次第に細かな紋様が刻まれていることがわかってきた。
 支柱には、つたのような模様が刻まれ、建物の奥に、三重の同心円と揺らぐ炎の縁取りが刻まれていた。
 術師が多用する紋章によく似ていて、ユエナはすぐにこの建物が祠だとわかった。
「命と火……かな。」
 ユエナは誰に言うでもなくひとりつぶやいた。紋章全体の意味は分からなかったが、細かく見ると、基礎的な紋章の組み合わせだと分かった。
 祠は、周りの森から飛んだであろう木の葉が、建物の中にまで入り込み、砂と木の葉ですこし埋もれていた。
 長い間、誰にも手入れされることなく、ひっそりとここに存在し続けたのだろう。
 それはなんだか、彼女自身と重なって、この祠が自分の半身ような気がした。
 探していたものを見つけた。そんな予感がした。
 彼女は、この祠に会いに、ここまで来たのだ、と思った。
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 ユエナの暮らすルーフェの街は、国に二十三ある領都の一つである。ルーフェ領の領主が住み、領内のあらゆる行政がこの街で行われていた。
 街の中で交差する街道は全国を繋ぐ重要な交易路であり、ルーフェの街から四方に延びていた。東に延びる街道は王都カーランドに続いている。
 多くの人と物が行き交う街道には、多くの商店が立ち並び、人々があふれていた。
 太陽が高く上り、真夏の暑さが街道を照らすと、暑さに対抗するように、行き交う人々は活気づく。
 そんな、行き交う人々の中に、ユエナの姿があった。
 片手に小さなかごを持って歩いている。
 歳は十代後半。少女としても小さめな身長に、華奢な身体に不釣合いなほど大きな胸と、遠目にも良く目立つくせ毛が、歩くたびに揺れて、人目を惹いた。
 彼女自身の特徴の他にも、彼女が人目を惹く理由があった。
 真夏の昼間だというのに、彼女は外套を着込んでいた。
 外套にはひし形に渦を抽象化したような模様が描いてある。右の胸と、背中にそれぞれ刻まれた模様は、魔力の紋章と呼ばれるものだった。
 俗に、術師の外套と呼ばれるものだ。
 術師は、魔力で以ってモンスターを使役する。
 その力で以って街を守るのが、多くの術師の仕事であり、役割だった。
 だから、術師の外套を見れば、人々は街の守り人として歓迎した。
 だが、彼女の場合は少し違った。
 ユエナは術師だったが、モンスターの使役ができなかった。
 確かに魔力があるはずなのに、ユエナの指令はモンスターに届かず、まったく使役できなかった。
 何度挑戦しても、最下級のモンスターの一匹すら使役することができない。
 期待を裏切られた人々は彼女を[落ちこぼれ]と呼んだ。
 だから、術師の外套を着ては居ても、周りの反応は冷たかった。
 [落ちこぼれ]の新米術師。
 それがユエナが貰った評価である。
 それでも、ユエナが術師の外套を着ているのは、それが魔力の拡散を防ぐからだった。
 普通の人間に、魔力は有害だった。ユエナは使役こそできなかったが、保有する魔力は強力だったらしく、外套で閉じ込めないと、耐性のない人間の気分を悪くさせることが多かった。
 まったくやっかいだと思いながら、ユエナは半ばあきらめたように現状を受容していた。
 街道の商店で買い物を済ませ、帰路につく。
 彼女はその魔力から、街の中で暮らすには専用の施設を作らねばならず、しかたなく郊外の森に見つけた小屋でくらしていた。
 森の小屋でくらすのは、買い物に不便だ。とは思っているが、それ以外は快適だったので、ユエナは満足していた。人目を避ける必要も、誰に気兼ねする必要もない。
 朝から散歩に出かけたりして過ごすにもちょうどいい場所だった。
 買い物に街まで出かけ、小屋に帰って寝る。たまに森の中を散歩しては、何かを見つけたりする。
 ユエナはかごの中身を確認する。
 必要なものは揃っていた。
 明日は大事な日だ。今日は早めに寝て、明日に備えよう。そう思って、ユエナは小屋へ帰った。
 その姿を、一人の少女が見守っていた。
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 ほのかな光が灯る。卵の形をした炎が、ユエナの前に灯っていた。
 その周囲は漆黒の闇だった。
 空も、立つべき地面もない。どこまでも広がる漆黒の闇が、世界の果てまで続いている。
 そこに、彼女は居た。
 はるか遠くの闇に、うごめく気配がある。黒く、禍々しく、触れることはもちろん、その姿を見ることすら命を穢されるような、そんな気配を感じる。
 炎が何かを言っている。
 彼女には聞き取れない。なにか、とても大切なことのような気がするのに、何と言っているのか聞き取れない。
 声はか細く、彼女に届く前に消え入ってしまうようだった。
 彼女は炎にもっと近づこうと手を伸ばす。

 ユエナは伸ばした自分の手を眺めていた。
 自分が、既に夢の中に居ないことを自覚して、ベッドの上で、今見た夢を思い出していた。
 最近この夢をよくみる。
 見るたびに、はるか遠くの気配が近づいているような気がしていた。
「何が言いたかったんだろう……」
 また聞けなかった。そんな思いが、彼女の心に重くのしかかっていた。
 きっと大切なことなのに。
「また見たの?」
 ユエナは驚いて、声のしたほうを見た。
 明るい笑顔でユエナの方を見ている少女がいた。
「セツカ……」
 朝の木漏れ日が、窓から入ってやさしく部屋の中を照らしている。やさしい光が部屋の中を満たし、物の形がはっきり見えた。
 セツカの、短めに揃えた黒髪に光がすけて、美しかった。
 木でできた壁が、朝の光を吸収してほのかに光っているような気がした。
 ここには、あの漆黒の闇はない。
 セツカはさっと立ち上がると、机の上を示した。白い陶器のお皿にパンが乗っているのが見える。
「起きたならご飯食べよう!」
 そういって セツカはささっと自分の指定席に座った。
 小さい机が部屋の中心におかれ、向かい合う形で小さな椅子が置いてある。
 ユエナは身体を起こすと、セツカが椅子に座る姿と眺めた。
 彼女の身長は、ユエナより頭一つ大きい。女の子らしい丸みを帯びた輪郭と大きな眼に、短めに揃えた黒髪が、少女らしいかわいらしさと、少年らしい凛々しさを感じさせた。
 セツカは、ユエナが使役できないと分かっても、態度を変えなかった数少ない人物で、
たびたびユエナの小屋に侵入しては、こうして朝食を広げたりしている。
 おそらく昨日のうちに今日来ることは決めていたのだろう。
 ユエナはセツカが待っている机に付くと、パンをちぎって口へ運んだ。
「やっぱり何て言ってるのかわからなかった。」
 ユエナが残念そうに言うと、
「まぁ必要なときには聞こえるよ!」
 と元気な返答が返ってきた。
 セツカには夢の話を何度かしているので、説明を省略しても伝わるようになっていた。
「そうかも知れない。でも、気配が近くなってる気がする。」
 ただの夢、と笑うには、ユエナの夢には妙な現実感と焦燥感があった。
 セツカもユエナの夢を笑い飛ばしているわけではない。
「今日、ハクレンさんに聞いてみればなにか分かるかもね。」
 ハクレンとは、この街に住む術師である。
 領主に雇われている男で、歳は三十くらいのはずだが、ルーフェの街では右に出るものが居ないほど優秀な術師である。
 そのハクレンと、今日、祠を調べに行くことになっていた。
 ユエナが発見した祠である。
 あれ以来、何度か通い、セツカと共に掃除もしたが、なぜこんなところに祠が忘れ去られているのか疑問だった。
 そこで、街一番の術師であるハクレンに相談したのである。
 ハクレンは調べてみよう、と言って、今日の日取りを決めたのだった。
「……そうだね。お弁当つくらなきゃ」
 二人は顔を見合わせて、どんなお弁当にしようか話合った。
 そのために昨日街道に出たのだ。買って来た新鮮な食材が、調理されるのを待っている。
 窓から入った風が、二人の間を抜けて、ユエナの長いくせ毛を揺らした。
 このとき、自分たちに降りかかる運命を、二人はまだ知らない。
 窓から差し込む光が、夏の熱気を帯び始めていた。
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 祠は石で出来ていた。つるつるとした白い石が、太陽の光を反射していっそう白く輝いている。
 ここのところ毎日のように掃除され、手入れが施された祠は、どこか神聖な空気を漂わせていた。
 本来、祠とはそういうものかもしれなかった。ユエナとセツカが、祠を正常な状態に戻した、ということなのかもしれない。
 ユエナが前を見ると、既に、セツカは祠を覗き込んで、なにやら神妙な顔をしてる。
 ユエナは、お弁当の入ったかごを片手に、木の根をふまないようにして一歩前へでた。
 後ろを振り返ると、ハクレンがゆっくり歩いてくるところだった。
 ユエナやセツカと同じ、術師の外套を着た二十くらいの男がそこにいた。
 年齢はそろそろ三十のはずだか、外見が若い。本人は威厳がないと言って困った顔をするが、それがかえって周りに受けていた。
 ハクレンが歩くたび、外套の内側に、キラキラと光るものが見え隠れした。
 それがモンスターの使役や召喚に消費される「ルーン鉱石」だと、ユエナは知っていた。
 一応、ユエナの外套にも鉱石は仕込まれているが、使われることはないだろうと本人も思っていた。
「あれかな?」
 やさしい声が目の前からかかった。
 気がつくと、ハクレンがユエナに追いついて、祠の見える位置まで着ていた。
「はい。あれです。」
 ハクレンはうなづくと、
「それ、もうすこしだ。セツカ君がすねる前に到着しよう。」
 と言った。
 言われてセツカを見ると、すでにお弁当を広げ始めている。

 祠に着く頃には、もうセツカはお弁当を広げて終えていた。
「おっそーい!」
 セツカは頬を膨らませた。
「ごめんごめん。」
 くせ毛を撫でながらすこし頭を下げた。こうするとくせ毛があまり揺れないのだ。
「いや、すまない。森のなかは歩きなれなくてね。」
 ハクレンも続けて謝った。
「はやくご飯たべましょー!」
 セツカは、そのために来たのだと言わんばかりに宣言した。
 ユエナとハクレンは顔を合わせて、少し笑うと、彼女に倣ってお弁当を広げた。
 前日、人の多い街道で買い物して揃えた食材は、新鮮なだけあって、お弁当はおいしかった。
 森を切り取った広間に風が入り込んで、夏の暑さを払い、じんわりとかいていた汗を乾かす。
 信頼できる人たちと食べるお弁当は、豪華ではなくても、贅沢だった。

 ハクレンはまず、祠の支柱を調べた。
 つたのような模様が刻まれている。
 つた、といっても、葉はない。
 ただ、うねるような曲線が、幾重にも折り重なっている。その様が、つたに似ているのだ。
 ハクレンは、ユエナの方をちらりと見ると、すぐに視線を祠の奥へやった。
「確かに、これは命と火の紋章だね。」
 どうやら、ユエナの知識が正しかったらしい。隣でセツカがどうだ、と鼻を鳴らした。
「命と火の紋章は、すなわち不死鳥の紋章だ。」
 続けてハクレンが言う。
 不死鳥とは、フェニックスのことだろう。最上級のモンスターに、そういうのが居た気がした。
 セツカも同じことを思ったらしい。
「フェニックスですか?」
「そうだね。不死鳥、つまりはフェニックスだ。」
 フェニックスは不死の鳥だといわれている。
 身体は火で出来ており、死ぬと灰になってふたたび蘇るという伝説があった。
「つまり、この祠はフェニックスの祠なんですか?」
 今度疑問を口にしたのはユエナだ。
「そうなるね。」
 ユエナとセツカは同時に、ほーっと納得したような息を漏らした。
 特になにかを納得したわけではなかったが、なんとなく賢くなった気がした。
「なんでこんなところにあるんでしょう?」
 ユエナが、今日一番の謎をハクレンに問いかける。
「うーん。……わからない。」
 ユエナはセツカが驚いているのを見た。きっとユエナも同じ顔をしていると思った。
 ハクレンにもわからないことがあることに二人は驚いたのだ。
「フェニックスといえば最上級のモンスターだ。こんなところに放置されているのは不自然だが……」
 ハクレンはそこまで言って言葉を切ると、辺りを見渡した。
「ここだけが森を切り取ったように、ちょうど円の形に広間が出来ている。」
 ユエナもセツカもうなづいた。
「恐らくは、誰かがこうしたのだろう。」
 どうみても、この広間は自然で出来たものとは思えなかった。自然でなければ作為が働いていると考えるのは当然だった。
 誰かが、この広間を作った。
 祠のためか、それとも、広間が作られたあとに祠を作ったのか。
「街の古い文献を調べてみよう。何か載っているかもしれない。」
 ハクレンは二人に向き直ると、そう約束した。

「夢を見るそうだね。」
 ところで、とハクレンはユエナの方を見た。
 ある程度祠を調べ終わって、帰り道の途中だった。
 最近頻繁に見ているあの夢のことだと分かって、ユエナはうなづいた。
「卵の形をした火が、君に何かを語りかけてくるんだったね?」
 ゆっくりと歩きながら、ハクレンはユエナに確認した。
「はい。でも何と言ってるのか聞き取れなくて……」
 ふむ、とハクレンはつぶやくと、少し難しい顔をした。
「それに、遠くの方に何か、来てはいけないものの気配がして、それが近づいているんです。」
 ユエナはゆっくりしゃべろうと気をつけたが、どうしても気がはやるのを抑えられなかった。
「……おそらく、火の卵はフェニックスだろう。」
「フェニックス?!」
 ユエナとセツカの声が同時に上がった。
「どうして夢にフェニックスが出てくるんです?」
 ユエナは疑問をそのまま口にしていた。
「フェニックスは夢を渡れるといわれている。不死鳥の夢渡りだ。」
 二人は聞いたこともなかったが、ハクレンがそうだといえばそうなんだろうと思うしかなかった。
「でも、なぜ出てくるのか、なぜ卵なのかはわからない。」
 ハクレンも難しそうな顔をしている。
「これも古い文献になにか載っていないか調べてみるよ。」
 ユエナの方を見て、ハクレンがそう言った。
「お願いします。」
 ユエナはお願いするしかなかった。
 情報は宝だった。
 どんな情報も、知るにはそれなりの対価が必要な時代だった。
 多くの者は語り継いでいる伝承くらいしかしらず、探究心のあるものでも、古い文献を調べるにはかなりの権力を必要とした。
 ルーフェの領主なら、いろいろ分かるだろう。雇われているハクレンも、調べられることはユエナたちよりよっぽど多い。
 ユエナは、権力とは案外、便利なものだなと思った。

二章

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 祠の様子がおかしい気がする。
 ユエナはそっと手を伸ばして、支柱の一つに触れてみた。
 つるつるとした石の感触と、つた様に刻まれた模様が手のひらに心地よい。そして、ほのかに熱を帯びているような気がした。
「熱い……?」
 思わずつぶやいた。
「夏だからねー!」
 様子を見ていたセツカが笑いながら答えた。
 セツカは、暑さのためか、外套をぱたぱたと扇いでいる。何かを探すように視線を泳がせては、ユエナに視線を戻すのを繰り返していた。
 森は静か佇んで、小動物や、草木の息遣い以外になんの音もしない。
 不意に風か吹いて、葉の擦れる音が混じった。
 周りには、特に異常はない。
 祠は確かに太陽の光を浴びて熱を帯びている。しかし、ユエナには祠の帯びている熱が、太陽のものだけとは思えなかった。
 やけどするほどの熱さはない。何故そう感じたのか、ユエナ自身にも説明できなかった。
「触ってみて。」
 ユエナの真剣な様子で、セツカも何かを察したように祠に触れた。
「熱い……かも?」
 祠はほのかに熱を帯びていた。
 夏の暑さだといえば納得してしまうくらい、わずかな違和感だった。
「どうする? ハクレンさん呼ぼうか?」
「一応そうしたほうがいいのかな。」
 二人は顔を見合わせると、うなづきあった。
 セツカに祠を任せ、ユエナはハクレンの元へ走り出した。

 ハクレンが祠にたどり着く頃には、祠の熱はどこかに消えていた。
 そこには、ただ夏の暑さだけが残っていた。
 ハクレンに無駄足をふませてしまった。
「ごめんなさい。勘違いだったみたいです。」
 ユエナが謝ると、ハクレンは一瞬驚いて、
「ああ、気にしない気にしない。」
 と言って、手を振って笑う。
 そして、真剣な顔で祠をみると、振っていた手を口元へ持っていった。
 ハクレンの視線は支柱の模様、そして奥の紋章へと移動して止まる。
 真剣な表情で物思いに耽るハクレンは、格好がよかった。
「惚れた?」
 唐突にセツカの声が耳元に聞こえ、ユエナは飛び上がった。
「な、ち、違うよ!?」
 あわてて否定するが、ユエナを見て、セツカが笑う。
「なにが違うんだい?」
 笑い声に気付いて、ハクレンが話に混ざろうとする。
 更にあわてるユエナを見てセツカが吹き出すと、ハクレンも笑った。
 つられてユエナも笑った。
 森の中にぽっかりあいた円、岩だらけの広間に、笑い声が満ちていた。
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 ルーフェの街にはいくつかの重要な施設がある。
 その内の一つに書庫楼がある。
 木造の楼閣だが、一部に鉱物を加工した金属を使っており、極めて頑丈のつくりだった。城門以外でもっとも壊れないルーフェの建物は何かと問われれば、多くの者がここを答えるくらい、書庫楼の頑丈さは有名であり、正面門以外からの侵入は不可能だった。
 書庫楼は、中に石版が保管されているだけの施設だったが、石版には重要な情報が記されているとされていた。そのため、領主か、領主に特別に認められた者しか入ることが出来ない建物だった。
 現在、この書庫楼へ出入りしている人物は唯一、ハクレンだけだった。
 ハクレンは、ユエナたちとの約束通り、かつての文献を調べているのだ。
 たとえ何があっても消え去ることのないように、と術をかけられている石版は、何をしても傷つかないと噂だったが、実際のところは石だけあって、叩けば割れそうである。
 ハクレンは、手当たり次第に石版に刻まれた文字を読んだ。石版に使われている言語は古代語と呼ばれる言語だったが、どういうわけか、読めないというほどには、難解ではない。ハクレンでもすぐに読むことが出来た。
 それは、ハクレンが優秀だからでもあったが、それだけでは説明できない違和感があった。
 古代語が簡単に読めるのはおかしい、とハクレンは思ったが、とりあえず実害もなかったので、答えを求めて石版を読み漁った。
 数日が過ぎ、ハクレンは図書楼にあるすべての石版に目を通した。
 ハクレンの読んだ石版には、フェニックスに関する伝承があった。だがそれ以上に気になることがある。
「おかしい……。」
 誰も居ない書庫楼の一角で、ハクレンの声だけが響いた。
 明らかに、内容が欠けている。全ての情報を一箇所にまとめることで、それが一度に失われるリスクを避けようとしたようだ、とハクレンは感じた。
 石版の内容は、ほとんど二つのことで占められていた。
 『魔軍』。
 そしてそれを呼ぶ石、『ナニカ』についてである。
 断片的で、詳しい内容は不明だったが、ハクレンは石版そのものが、この危険極まりない石に対しての警告の為にあるのではないかと思った。
 ユエナの見ている夢には、たしか闇にうごめく気配が登場したはずだな。と一人つぶやいて、ハクレンはほぼ、それが魔軍に違いないと確信していた。
 確信はない。だが、確実に、何かが起きている。ユエナはそれを察知しているのだ、とハクレンは考えていた。
 これを伝えなければ、でもどこに。
 誰に伝えればいい。
 ハクレンは重大すぎる、真実かもしれない情報を持って途方に暮れた。
 ハクレンに呼び出しがかかったのは、その直後だった。
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 ユエナはふと祠を見た。
 あれ以来、たびたび祠は熱を帯びる。
 夢の中で、闇の気配が近づくのと同じように、祠の熱も、少し、また少しとはっきりしてきていた。
 闇の気配が近づくから祠が熱くなるのか、祠が熱くなるから闇の気配が近づくのか、ユエナにはわからない。
「やっぱり、関係あるのかな。」
 疑問を口にしたのはセツカだった。
 夢と祠の熱。その二つは一見連動しているようだった。
 ユエナは祠を見たまま答える。
「かもしれない。」
 なにか、異変が起きている。二人は漠然とそう思っていた。
 ハクレンを呼べば、あるいは分かったかも知れなかったが、一度無駄足をふませてしまっているので、なかなか呼ぶことが出来ない。
 結局、ハクレンを呼ぶこともなく、時間だけが過ぎていった。

 その翌日の朝、王城から各地の領主へ緊急の召集令が届いた。
 セツカがそれを知ったのは、ルーフェの中心地の一角、ハクレンの所有する町の中心と呼ばれる施設の前で、ハクレンと会った時だった。
 ユエナは、まだこの時間小屋で寝ているだろう。
「ハクレン師匠。おはようございます。」
 ハクレンはセツカにとっては術師の師でもあった。
「おはよう。セツカ君。」
 彼女は、ハクレンの様子がおかしいことに気が付いた。
 寝不足気味なのか、目の下にクマが見える。ちらりと見えた外套の内側に、あるはずのルーン鉱石が少ない。
 なにかがあったのだと、セツカは直感した。モンスターの襲撃か、それとも盗賊か。
 ハクレンがルーフェの守り人である以上、野生のモンスターや賊から街を守って戦うことはたびたびあった。
「なにかありましたか?」
 セツカは自分も何度かモンスターを使役して、ハクレンを助けたことがある。
 以前は、ユエナの住む小屋の方にモンスターが向かったと聞いたときだったか。手際のよさを褒められたのを覚えている。
 ハクレンはセツカに向き直って言った。
「継承の術式をかけている。」
 そう聞いてセツカは絶句した。
 継承の術式をかけるとは、術師にとって、遺言を書くに等しい行為だった。
 衝撃のあまり言葉もでないセツカに、ハクレンは事情を説明し始めた。
 カーランド王から、各領主へ緊急の召集令が下され、ハクレンはルーフェ領主とともにカーランド王城に向かうこと。
 魔軍と呼ばれる存在が、世界を脅かしているらしいこと。
 その元がナニカという石であるらしいこと。
 そこまで聞いて、セツカはようやく声が出た。
「私も行きます。」
 そう言うだろうと予想されていたのだろう。
 ハクレンはすぐに右手をすこし上げてセツカを制した。
「セツカ君、君は連れて行かない。」
「どうして……!」
 セツカはハクレンの弟子だった。付いていかない理由がない。
「君にはやってもらいたいことがある。だから、連れて行く術師から外した。」
 きっぱりとした口調に、反論を挟む余地はない。
「帰って……きますよね?」
 すがるような声が、自分の声だと気が付いて、言葉が詰まる。
 ハクレンは答えず、もしも、と言った。
「もしも、帰って来なかったら、――。」
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 ユエナは、セツカがあわただしく小屋に入ってくる音で目が覚めた。
 いつもなら、ユエナを起こさないようにそっと侵入するセツカが、がたがたと物音を立てて屋根から落ちてきた。
「セツカ?!」
 あわてて飛び起きたユエナは、机の上に落下したセツカを見る。
 術師の外套を寝巻きの上に羽織っただけの、簡素な格好だった。外套にはルーン鉱石すらはまっていない。よほどあわてて家を出たのだと思った。
 ふと上を見上げる。
 屋根に出入り口が出来ていた。初めからあったらしい木の扉は、開けてみなければ屋根と同化していて見つけにくい。
 ユエナはセツカの侵入経路を初めて発見して、半分感心し、半分あきれた。
「いたた……。」
 セツカはゆっくり身体を起こすと、ユエナがぽかんとしているのを見て、一緒に屋根を見た。
「ああ、ついにばれちゃったか……。」
 右の人差し指で、自分の頬をすこしかきながら、照れたように言う。
 しかし、次の瞬間、思い出したようにユエナに向き直った。
「大変! ハクレンさんが!」
 切羽詰った声色は、ユエナにもなにかが起きたことを伝えた。
「ハクレンさんがどうしたの!?」
 二人にとって、ハクレンは街の守り人、というだけではなくなっている。
「カーランドに召集だって!」
 セツカの言葉に、ユエナは一瞬頭が追いつかない。
 カーランドといえば王都である。
 そこに召集となれば、ただ事ではない。
 そこまで考えて、ユエナは飛び起きた。
「出発は!?」
 ユエナはあわててセツカに聞いた。
 セツカが急にもうしわけなさそうな顔をして、ユエナはもう出発したことを察した。
「もう、出発したんだ……。」
「ごめん。私もここへ来る途中に偶然町の中心で会っただけだから……。」
 ユエナは使役ができない。セツカと違い、彼女には出発したハクレンに追いつく手段も、連絡を取る手段もなかった。
 ちらりとセツカの外套をみる。そこにルーン鉱石はない。
 ハクレンに託したのだろう、とユエナは思った。
 大切な人の助けになれない。それがユエナには悔しかった。
 セツカはもうしわけなさそうだったが、彼女に責任があるわけではない。
「知らせてくれてありがと。」
 ユエナが笑顔を向けると、セツカもはにかんだ。
 二人はただ、ハクレンの無事を祈った。

三章

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 漆黒の闇が永遠に広がっている。
 ユエナはいつもの夢だと思った。
 しかし、すぐに違いに気がついた。
 目の前に灯る炎が、卵の形ではなくなっていた。
 炎が鳥の雛のような形になっている。まだ小さいが、確かに、羽が生えているのがわかる。両の目が、炎の中できらりと光った。
「ユエナ……。」
 炎の雛は、ユエナに話しかけてきた。
 ユエナは夢の中で目を見張った。ついに、声を聞くことが出来た。
 低く、伸びやかな声だった。ひどく懐かしい響きがある。
「ユエナ……。」
 炎の雛の声が響く。
「なに……?」
 ユエナがつぶやくと同時、周囲を覆っていた漆黒の闇が急激にうごめいた。
 ざわざわとした気配が急激に接近してくる。
 炎の雛から放たれた光が、ついに気配を押し止めることができなくなったようでもあった。
「――を壊せ……。」
 炎の雛の声が響く。
「な、なに?」
 周囲に気を取られて聞きそびれた。わからない。
 聞き逃すまいと炎の雛に集中する。
「ナニカを壊せ……。」
「何かって何?」
 漆黒の闇が更に濃くなった。これ以上ないほどの黒、それが更に黒くなるとは、想像もできなかった。
「ナニカを壊せ……。」
 漆黒の闇に、ひどく懐かしい響きがこだました。

 ユエナが目を覚ますと、無意識に伸ばしたのであろう手を、今日は誰かが握っていた。
 握っていたのはセツカだ。
 冷たい汗が頬を伝うのを感じた。
「起きた……?」
 セツカの心底心配そうな顔をみて、ユエナは自分が相当うなされていたらしいことを察した。
「ありがと。」
 そういってユエナは身体を起こした。まだ、手は繋いだままだ。
 汗で張り付いた髪が気持ち悪い。
 それも、あの漆黒の闇の中にあった気配に比べれば、心地よいと言ってもいいくらいのものだ。
 あれはこの世界に存在してはいけない存在だ。
 セツカが、ユエナを見た。しんと静かに、まっすぐユエナを見つめていた。その瞳には、ユエナを安心させる力が宿っているようだった。
 ユエナは、今見た夢の話をセツカに話し始めた。話し終わるまで、セツカは握っていない方の片手を隠したままだった。
 その日、ルーフェの街で、いくつかの建物が崩壊したことをユエナが知ったのは、すこし後だった。
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 ルーフェの街には、術師によって建てられた施設がある。
 大きな街であるかに関わらず、術師によって建てられた施設というものは存在するが、ルーフェの街ほどの規模になれば、幾人もの術師が施設を建てているため、おのずと誰の施設なのかといった、見分け方なども知られていくことになる。
 術師の施設は、必ず、入り口に石の支柱があった。
 この支柱には術師個人を示す模様が刻まれており、これが、だれの施設であるのかを示していた。
 模様は、石大工が刻むのではなく、術師固有の模様が浮かび上がる。だから、術師自身も、模様が刻まれるまでは、自分の模様を知らないのが普通だった。
 普通、と言っても、ほとんどの術師はすぐに施設を建てるので、知っているのが普通なのかもしれなかった。
 セツカの初めて建てた施設の支柱に、雪の結晶のような模様が刻まれたのは、もうずいぶん前になる。
 この模様を、術師の刻印と呼んだ。
 術師の施設は、術師に力を与えるとされており、特に、街の守り人の施設はモンスターの使役能力を上げると言われていた。
 そして、術師が死亡するか、守り人でなくなったとき、施設は崩壊を始める。
 あらかじめ継承の術式によって受け継ぐものを決めてあれば、継承が為されて支柱の模様が変わるが、多くの場合、死を予見していないか、命を受け継がせるほどの相手が居ないなどの理由で、受け継がれずに崩壊する。
 夏も終わり、秋が訪れようとしている頃だった。
 その日の朝、ルーフェの街では、いくつもの施設が崩壊していた。

 術師の刻印に亀裂が走る。
 石大工が、どんなに槌を振るっても、傷つけることのできなかった刻印が、それを抱える支柱ごと、割れる。
 建物のあちらこちらに仕込まれていたルーン鉱石が砕けて、空中に舞ってきらきらと光った。
 きらきらと光につつまれながら崩壊してゆく建物は、幻想的な美しさを持っていた。
 建物の崩壊に気がついた人は少なくなかったが、この美しい光景を楽しむものは居なかった。
 支柱に刻まれているのは、蓮の花びらを連ねたような模様。ハクレンの模様だ。
 その施設の崩壊は、ルーフェを守る、最高の術師が、ハクレンが居なくなったことを意味していた。
 生きているのかどうかわからない。だが、確実に、ルーフェの守り人は居なくなった。
 だれもが呆然と立ち尽くしていた。
 今起きたことの意味が、呑み込めない。
 唐突に、危険な荒野に追い出されたような、そんな気分をルーフェの住民全員が味わっていた。
 セツカも、きらきらと光る欠片を片手で掬い受けて、しばらく呆然としていた。
 そしてふと、彼女の師匠が、最後に遺した言葉を思い出した。
 気がつくと、彼女は駆け出していた。
 ルーフェの中心地、その一角へ。

 次々と施設が崩壊してゆく。
 そんな中で、一つだけ、崩壊せずにいるハクレンの施設があった。
 ルーフェの中心地に建設された施設。町の中心と呼ばれる施設だった。
 ハクレンがカーランドに行く前に最後に立ち寄った施設だと、幾人かが気がついた。
 息を切らせて、セツカがやってくる。
 石造りの建物は、入り口の支柱の紋様が消えうせ、新しい紋様が浮かび上がっていた。
 ハクレンを受け継ぐものが居た。その証拠である。
 セツカは、ハクレンのものだった町の中心の前で、支柱の模様を確認した。
「――セツカ君、君は優秀な術師だ。特に、ユエナ君が絡むと無類の強さを持つ。二人で助け合い、ルーフェを守ってくれ。」
 もう、二度と聞くことはないだろう声が脳裏に響く。手の中で握った欠片が、痛かった。
 浮き出た模様は、うねるような曲線が折り重なったようで、ちょうど、葉のないつたの様だった。
 あの祠と同じ模様が、そこにはあった。
 継承は、ユエナにしてもらうと、ハクレンは言っていた。
 これは、ユエナの模様だったのだ。
+ 3
3
 ユエナは、セツカの話を聞いて、ルーフェの街の中心部、今はユエナのものとなった施設の前まできていた。
 木と石を組み合わせて建てられた、それは屋敷のようだった。
 玄関に当たる部分、出入り口の左右に石の支柱が見える。あの祠の支柱も、ちょうどこの位置にあったことに今更気がついた。
 模様は術師個人を示す。
 それは、術師でなくても知っていることだったが、使役できないユエナは施設もなく、どこか関係のないことのように思っていた。
 だから、祠を見たとき、その支柱を見たときに、その模様の意味など考えもしなかった。
 今、ユエナは祠と同じ模様を見ている。
 そっと模様をなでる。どこかなつかしく、手に心地よい。
 つたの模様は、あの祠にあった、うねるような曲線の折り重なったこの模様は、ユエナ個人を示す、術師の刻印だった。
 ルーフェの中心地。その一角に建てられた施設は、ハクレンが建て、ユエナが引き継いだ施設だった。
 ハクレンは、たぶんもう生きてはいないだろう。その悲しみを感じては居ても、ユエナには実感がわかなかった。
 悲しむには、まだなにも整理できていなかった。
 セツカが、実は、と切り出した。
「あのとき、ハクレンさんが言っていたことは継承のことだけじゃなくて……。」
 ユエナは、セツカを見る。
 何かを思いつめたような表情が、ユエナと視線を合わせた瞬間に引き締まる。
 セツカの瞳に決意が宿り、ユエナに強い力を感じさせた。

 セツカの話を聞き終わって、ユエナは何かが繋がった思いがしていた。
 『ナニカ』と『魔軍』。
 余りにも荒唐無稽な話だった。夢を見ていたせいだろう、ユエナには、ハクレンの予測は正しいと感じることが出来た。あの夢をみていなかったら、ユエナも信じはしなかっただろう。
 この情報を知っているのは、いったい何人だろう。そして、信じているのは。
 ユエナは、セツカを見る。
 左手に巻いた包帯が、痛々しかった。そして、その瞳には、しんと静かに灯る決意が見える。
 とても一人では背負いきれない重荷。それをもう、セツカは背負う覚悟を決めているようだった。
 あとは、ユエナが決めるだけだ。
 そっと手を伸ばすと、セツカもそれに気が付いて応えた。
 凍えるような冷たさが、暖かい手に触れてすこしだけ和らいだような気がして、息を吐いた。自分がはりつめていたことに、そこで気が付いた。
 ナニカを壊す。
 それが、ユエナとセツカがしなければならない使命だった。
+ 4
4
 ルーフェの街が紅に染まってゆく。
 日が傾き、燃えるような夕日が街を照らしていた。
 その街中を風のように走り抜けている二人の影があった。
 ユエナとセツカの二人だ。
 二人の向かう先には、東門がある。
 ルーフェの東門は、カーランドへ続く街道の、出発点である。
 普段であれば、夜の近いこの時間は、行商隊が門をくぐってルーフェの街に駆け込む様子が見られるはずだった。
 今、東門は異形の存在によって制圧されつつあった。
 門をくぐるはずだった行商隊は無残に破壊され、放置されている。
 ユエナの視界に、それらの光景が写った。
 術師の外套がはためいて、内側に仕込まれたルーン鉱石がきらめく。
 ついで、セツカが街道に入った。
 モンスターの襲撃だった。
 緑色の背の低い柱状のものが、うねうねとうごめいている。柱にはところどころ赤い斑点があり、触ったらぶよぶよしそうだとユエナは思った。
 本体らしい柱状のものから、触手のようなものが何本も伸びて、辺りにあるものに絡み付いていた。
「ローパー……!」
 セツカが、襲撃しているモンスターを確認する。おびただしい数のローパーが、門からなだれ込んできていた。
「えっと、いち、にい、さん……」
 セツカが指を折ってローパーの数を数え始めるのを見て、ユエナはあきれ半分に
「両手で数え切れるか。」
 と言った。
 セツカは術師としては優秀なはずだか、こういうところが抜けている。
「そ、そうだね。」
 一瞬顔を合わせると、ユエナとセツカはほぼ同時に、モンスターの召喚に入った。

 空を切り、紋章が浮かぶ。
 円の中心に旗を持った拳が描かれている。円の周りには雪の結晶のような紋様、術師の刻印が枠のように現れている。
 紋章から、モンスターが出現した。
 赤い肌に小さな身体。くりくりした目と犬などの動物を思わせる突き出した鼻が、愛らしくもあった。
 最下級モンスターの一匹、ゴブリンである。
 セツカの前に3匹のゴブリンが現れる。ゴブリンたちは召喚者であるセツカを見上げて命令を待っている。
 ユエナの前には紋章すら浮かばなかった。
 やはり、使役できない。
 何故。という思いと、無力感。それでも、ユエナにとってはいつものことだった。
「セツカ、モンスターをお願い。」
 セツカはうなづく。
 どう考えても、3匹のゴブリンでどうにかなるとは思えなかったが、セツカの表情には不安の影がない。
 もちろん、勝算などあるはずもない。
 この表情は、ユエナがなんとかしてくれると思っているときの顔だった。料理中に良く見る顔である。
「そんな顔されても、私は使役できないんだけどね……。」
 うつむき気味に答えると、セツカはゴブリンを襲撃しているモンスターに向かわせた。
「大丈夫だよ! ユエナなら出来るって!」
 セツカは本気で、ユエナなら出来ると思っているようだった。
 何故そう思えるのか、ユエナには分からなかったが、そういわれるたび、今度はできるんじゃないかと思うから不思議である。
「ありがと……。」
 何度失敗しても、セツカはあきらめなかった。つられて、ユエナも毎回使役しようと試みるのだが、いまだに、この非常時にあっても成功しない。
 ゴブリンも使役できないのでは、術師として戦うこともできない。
 戦えないなら、出来ることをするまでだった。
「逃げ遅れた人を逃がしてくる。」
「わかった!」
 ユエナは、逃げ遅れた人を避難させるため、走り出した。
 セツカはもう、モンスターとの戦闘に入っていた。

四章

+ 1
1
 日は落ち、ルーフェの東門は闇の中へ落ちようとしていた。
 うごめく影が、モンスターだと見分けられなくなるのも時間の問題だった。
 門の正面では、セツカのゴブリンが複数のローパーをあいてに奮闘している。
 モンスターにも相性というものはある。ゴブリンは、最下級のモンスターだったが、相性の上ではローパーに有利だった。
 セツカは細かくゴブリンを指揮して、一体に全員で攻撃して、ローパーを少しずつ倒していった。
 それでも、ローパーの数が多すぎる。
 セツカが食い止めている数に比べて、門から侵入してくる数が圧倒的に多かった。
 それにしても、街の防備が薄すぎる。街の衛兵の姿は見えるが、場当たり的に戦っているだけで、誰も指揮をとっている様子がない。
 それもそのはずで、今、ルーフェには領主がいなかった。そして、その代行である執政官が、襲撃の初期に行方不明になっているのだ。
 誰の指示でもなく東門に集まって戦っている衛兵は勇敢だったが、指揮もなくばらばらと戦っているだけでは烏合の集も同じだった。
 じりじりと後退しながら、セツカは危機感を募らせていった。
 このままでは、ルーフェの街は、このうねうねとする緑色の柱に占領されてしまうだろう。
 日は沈みきって、辺りにはほとんど明かりもない。月明かりすら届いていないようだった。
 すでに、ゴブリンは同数の相手と戦っている。
 相性がいくら有利でも、ローパーはゴブリンより格上だった。まともにやりあえば、ゴブリンに勝ち目はない。
 一体、ゴブリンが倒されて消える。
 召喚されたモンスターが倒されると、召喚したとき同様、空間に消えるのだ。
 気が付くと、セツカは東の街道に取り残されていた。
 衛兵はもう逃げたのか、それとも、地に伏したのか。セツカにはわからない。ただ、 東門からあふれてくるローパーの群れが、セツカを呑み込もうとしていることだけはわかった。
 最後のゴブリンが、セツカの前で消える。
「ユエナ……」
 ごめん。
 そう言い掛けたとき、辺りを光が照らした。
+ 2
2
 ユエナは、東門の周辺から、逃げ遅れた人を逃がすため、街の中心部へ先導していた。
 もう、日が落ちる。ルーフェの街に夜闇が訪れようとしていた。
 今日は雲が多いらしく、月も見えない。空に明かりのない、暗い夜になりそうだった。
 街の中心地では、衛兵がうろうろしているが、どことなく、混乱している様子が見て取れた。
 指揮する人が居ないのだ。衛兵たちは、何をすればいいのかわからず、とりあえずの行動しかできていない。
 不意に、ユエナは胸騒ぎを感じた。
 セツカは無事だろうか。
 東門に押し寄せたモンスターの数は、多かった。セツカ一人で何とかなる数ではない。
 そして衛兵には、指揮官がいない。
 気が付くと、ユエナは走り出していた。
 走り出してすぐに、日は完全に沈んだ。
 ルーフェの街が闇に落ち、辺りには奇妙な静けさが漂っている。
 月明かりすらない、暗い街道を、わずかな光を頼りに走る。自分の呼吸だけが、妙に大きく聞こえた。
 東の街道に入った。
 ローパーの影が、うねうねと門からあふれている。
 その正面に、術師がいた。
 ゴブリンを使役している。セツカだ。
 その姿をユエナが認めたとき、ゴブリンの姿が消える。
 ローパーに倒されたのだ。
 よく見ると、すでにゴブリンは居ない。たった今消えたのが、最後のゴブリンだったのだ。
 まずい、とユエナは思った。喉がからからに渇いてる。
 セツカのすぐ前にまで、ローパーが迫っていた。
 うねる触手が、セツカを捉えようとしている。もう、どんなにがんばっても、セツカに届かない。目で見える距離が、絶望的なほど遠かった。
 ユエナは世界がゆっくり動くのを感じた。
「ユエナ……。」
 なつかしい声が聞こえる。
 セツカの声のようだったが、どこか違う。別の声が、どこからか混じっている。
 低く、伸びやかな声だ。
 あの祠の情景が脳裏によぎった。
 つるつるとした石の壁、奥に刻まれたフェニックスの紋章。
 そして、支柱に刻まれたつたの模様。うねるような曲線が、折り重なった、それはつたのように絡み合う、運命の螺旋。
 ハクレンの遺した町の中心が、真実ユエナのものならば、あの祠もユエナのものだ。
 ハクレンが居ない。それを認めなければ、あの町の中心に浮き出た模様が自分のものだと認めることもできない。
 もう、迷っている暇もない。目の前で、セツカが死に掛けている!
 あの祠が、ユエナのものならば。
「フェニックス。力を貸して!!」
 ユエナの叫びに呼応して、空間に紋章が浮かぶ。
 三重の同心円と揺らぐ炎が縁取られている。その周りをうねるような曲線が飾った。
 紋章から、炎が噴出した。
 空へ、高く高くあがった炎は、大きな塊をほどくようにして炎を伸ばす。
 月明かりすらない暗い夜空に、炎が現れ、ルーフェに光を降り注ぐ。
 炎の鳥が、ルーフェの上空に出現した。
 もう、ハクレンは居ない。
+ 3
3
 光が、セツカに降り注いだ。
 いや、光が降り注いだのは、セツカにのみではなかった。街道に、門に、街に、光が降り注いだ。
 不意に降り注いだ光に、目の前が真っ白になる。
 目の前まで迫っていたモンスターが、炎を受けて倒れるのが、かすかに見えた気がした。
 東の街道に降り注ぐ光は、空に現れたなにかが放っているようだった。
 セツカは空を見上げた。
 炎があった。
 夜の、一点の光もない暗い空に、全ての闇を払って煌々と輝く炎がそこにあった。
 鳥の形をしている。
 翼をはためかせると、東門にあふれていたモンスターが次々と焼かれた。
「フェニックス……。」
 夜の空にあって、昼間のように世界を照らす炎は、太陽のようだった。
 これから迫るであろう困難を払い、闇を払って人々を守る。そんな希望の光そのものにも見える。
 セツカは、フェニックスを出現させたのが誰なのか、既に知っていた。
 後ろを振り返る。
「ユエナ……!!」
 叫ばずにはいられなかった。
 涙が出るのもとめられなかった。
 あわてて駆け寄ると、ユエナも泣いていた。
 あの祠が、真実、ユエナのものだと自覚したのだ、とセツカは察した。
 辺りから光が消える。
 フェニックスが消えたのだ。
 召喚したモンスターは、召喚したものの意思で還すこともできる。しかし、今回は違うようだった。
 ふらり、とユエナの身体が倒れる。術師の意識が途切れて、モンスターも消えたのだ。
 セツカはユエナを抱きとめた。
 初めて魔力を使った術師の疲労は尋常ではない。
 ましてや、最高級のモンスターを使役したとなれば、意識を失っても無理はなかった。
 セツカは、ルーフェを救った英雄の、ぬれた頬をぬぐった。
 門に押し寄せていたモンスターの群れは、跡形もない。
 ルーフェの街は救われたのだ。
+ 4
4
 カーランド王城消滅の知らせがルーフェに届いたのは、夏が終わり、秋の風が吹くようになった頃だった。
 ルーフェの街は大変な混乱に陥った。
 王城で何があったのか、詳しいことはわからない。
 それでも、ユエナとセツカには、分かっていることがあった。
 ナニカはカーランドにある。そのために、王城は消滅したのだ。
 カーランドに行き、ナニカを壊さなければならない。それが、使命だった。
 しかし、ルーフェを放置することもできなかった。
 ルーフェには、統治機構がない。
 ルーフェの執政官はモンスターの襲撃で死んでいた。
 東門の中から、遺体が発見されたのだ。
 領主もいない。
 新しい執政官が要る。
 誰かが、街を治めなければならなかった。でも誰が。
 そのとき、人々の脳裏に浮かんだのは、あの夜、ルーフェを救った炎の鳥だった。
 誰が言い始めたのか、ユエナは新しい執政官にと推されていた。
 ユエナには、ルーフェの人々を見捨てることはできなかった。ハクレンの守ろうとした、人々を。
 そうして、ユエナはルーフェの執政官となった。
 [落ちこぼれ]と呼ばれたユエナは、いつしか、[不死鳥]ユエナと呼ばれるようになっていた。

 執政室の窓から入った風が、二人の間を抜けて、ユエナの長いくせ毛を揺らした。
 手に持った手紙が飛ばないよう、ユエナはそっと机にしまった。
 隣には、セツカがいる。
 いつもと変わらない笑顔を、ユエナに向けていた。
 窓から差し込む光が、セツカの、短めに揃えた黒髪をすかして、美しい。
 二人で、ルーフェを守らなければならない。
 二人で、ナニカを壊さなければならない。
 執政官の権力を得ても、ユエナにできることは相変わらず少ない。ただ、守るものが増えただけだった。
 ユエナは、権力とは案外、不便なものだなと思った。


                    完

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最終更新:2014年08月30日 10:12
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