アットウィキロゴ

小噺-『煙の向こう側』

煙の向こう側

 西暦九五四年。

 皇都の空には、工場の煙がまっすぐに立ち上っていた。

 あの戦争から四年。
 旭皇国は敗れ、海外領土を放棄した。南方の大陸は南方共和国となり、西方では、かつてこの地に避難していた華帝国の皇帝が民を率いて戦を続けている。

 だが皇都は静かだった。

 街路電車は動き、商店には品が並び、夜には灯りが消えない。工場は昼夜を問わず稼働し、鉄の匂いと油の匂いが混じる。軍需の注文が絶えないという。

 帰還兵だった彼も、その工場の一つで働いている。

 戦地で持っていた銃は、いまは工具に変わった。
 弾薬を詰める代わりに、砲弾の外殻を削る。

「景気がいいらしいな」

 隣の男が笑う。
 給金は確かに上がった。家計は楽になった。妹は新しい靴を買い、母は米を惜しまなくなった。

 戦争は終わったはずだった。

 だが新聞の片隅には、西方戦線の記事が小さく載る。
 華帝国皇帝、奪還戦続行。
 南方共和国、国境線確定交渉難航。

 遠い話のはずなのに、砲弾の数は増えている。

 旭皇国は東西朝に分かれた。
 皇の訃報が広がってから、政治は二つに裂けた。旗は同じだが、掲げる理屈が違う。

 街角では演説が行われる。
 「再建」を叫ぶ者と、「正統」を叫ぶ者。

 だが工場の煙はどちらにも等しく立ち上る。

 ある晩、彼は縁側で空を見上げた。
 星は変わらない。

「これで、いいのか」

 口に出した言葉は、風に消えた。

 家は残った。
 街も残った。
 生活は少しずつ良くなっている。

 それなのに、どこか落ち着かない。

 遠い大陸で続く戦。
 分かれた朝廷。
 中心を失ったままの国。

 世界は壊れていない。
 だが、何かが足りない。

 誰もそれを言葉にできない。

 煙は今日も空へ昇る。
 まっすぐ、迷いなく。

 人々もまた、日々を生きる。

 ただ、その足元にあるはずの“軸”が、まだ見えないだけだった。

タグ:

小噺 第二世界
最終更新:2026年05月03日 00:28