旅打ちの途中で立ち寄った町の宿。
翌日に控えていた学校での指導対局に向かうはずが、朝になって布団から起き上がれなくなった。
額に手を当てる。
熱い。喉も痛い。
「……これは無理ね」
弱々しくつぶやくと、横で湯呑みを持っていた烏骨鶏が顔を上げた。
白いファー付きコートにラフなシャツ。
金髪をハーフアップにまとめた、どう見ても偽物サーファーみたいな男。
この町の風景には、明らかに浮いている。
「どうする? 休むか?」
「できればそうしたいけど……今日は約束があるのよ」
大衆食堂は布団の中で小さく息を吐く。
「三十人くらい相手の指導対局。子どもたちに将棋を教える会なの。急に中止はできないわ」
「ふうん」
烏骨鶏はしばらく考えてから、あっさり言った。
「じゃあ俺が行くか」
大衆食堂は固まった。
「……は?」
「だから、代理」
「ちょっと待って」
思わず身を起こす。
「あなた、将棋どれくらいできるか覚えてる?」
「駒の動かし方くらいは知ってる」
胸を張って言う。
「それだけよね?」
「それだけだな」
大衆食堂は頭を抱えた。
(だめだ。まったく理解してない)
* *
それでも、他に選択肢はなかった。
熱でふらふらの彼女の代わりに、烏骨鶏が“先生代理”として学校へ向かうことになった。
不安しかない布陣である。
* *
学校の講堂には、三十人ほどの子どもたちが集まっていた。
木の机に将棋盤がずらりと並び、みんな期待に満ちた顔で待っている。
そこへ現れたのは――
金髪で軽薄そうな、どう見ても教師らしくない男。
「今日は橘先生の代理で来ていただきました」
教師に紹介され、烏骨鶏は軽く手を上げる。
「えーと……代理の烏骨鶏だ。よろしく」
子どもたちはざわついた。
どう見ても強そうじゃない。
どう見ても将棋の先生じゃない。
その直感は――だいたい正しかった。
* *
対局はすぐに始まった。
三十面指し。
普通なら熟練者でも神経をすり減らす大仕事。
だが烏骨鶏は――
本当に、駒の動かし方しか知らなかった。
「……えーと、これが桂馬で……こう動くんだったよな」
一局目からすでに怪しい。
定石も知らない。
戦法も知らない。
囲いも知らない。
あるのはただ、
「相手の駒を取れるときは取る」
という原始的な本能だけ。
* *
結果は――
意外にも、めちゃくちゃだった。
子どもたちの多くは初心者。
だから、駒の動かし方だけで適当にやっても、なんとなく勝ったり負けたりする。
烏骨鶏は本気で悩みながら指す。
「あれ? これ詰んでるのか?」
「先生、それ反則だよ!」
「そうなのか?」
指導対局というより、ほとんど珍勝負の見本市。
* *
ある子は飛車をただで取られて泣きそうになり、
ある子は偶然の王手で大喜びし、
ある子は訳のわからない手を連発する代理教師に混乱する。
だが――
不思議なことに、誰もつまらなそうではなかった。
「先生、そこ違うよ!」
「おう、教えてくれ」
「この駒はこう動くんだよ!」
「へえ、覚えた」
まるで年の離れた兄貴と遊んでいるみたいな空気。
烏骨鶏は“教える側”ではなく、
いつのまにか“子どもたちと一緒に学ぶ側”になっていた。
* *
夕方。
予定時間が終わるころには、講堂は妙な一体感に包まれていた。
勝った子も負けた子も楽しそうで、
みんなで笑いながら盤を片付けている。
教師がほっとした顔で近づいてきた。
「……最初はどうなるかと思いましたが、子どもたち、とても楽しそうでした」
烏骨鶏は頭をかいた。
「正直、俺が一番勉強になった」
* *
宿に戻ると、大衆食堂が布団の中から顔を出した。
「……どうだった?」
「散々だった」
即答。
「でもまあ……なんとかなった」
彼はぐったりと椅子に座る。
「俺、本当に駒の動かし方しか知らねえんだなって思い知らされた」
「最初から知ってたでしょ」
「まあな」
* *
湯飲みを差し出され、烏骨鶏は一口飲む。
「でもよ」
「なに?」
「将棋って、意外と面白いんだな」
その言葉に、大衆食堂は少しだけ目を丸くした。
「……あなたがそう言うとは思わなかった」
「勝つとか負けるとか以前にさ。駒を動かすだけで、あいつらあんなに楽しそうでよ」
金髪の男は照れくさそうに笑う。
「俺、教える側なんて柄じゃねえけど……悪くなかった」
* *
その夜。
彼は宿の机で将棋盤を眺めながら、小さくつぶやいた。
「……もうちょっとくらい、勉強してみるか」
隣の部屋でそれを聞いた大衆食堂は、ひとり静かに笑う。
指導対局としては失敗。
教育としては大成功。
そんな一日だった。
* *
翌朝。
熱の下がった大衆食堂が言う。
「次からは、ちゃんと私が行くから安心して」
「助かる」
烏骨鶏は心底ほっとした顔でうなずいた。
「代理教師は、もうこりごりだ」
* *
これが、二人の旅の途中にあった、
少しだけおかしくて温かい一幕。
最終更新:2026年05月01日 20:33