「8号」
夏の帰り道は、やけに空が高かった。
ランドセルが汗で背中に張り付く。
御手洗進は、いつもより少しだけ遠回りをして帰っていた。
理由はない。ただ、今日は雲がきれいだったからだ。
「空、飛べたらなあ」
独り言は、誰にも拾われずに溶けた。
そのとき、後ろから声がした。
「飛べるようになるとしたら、どうする?」
振り返ると、白衣の男が立っていた。
知らない顔。けれど、不思議と怖くはなかった。
「……なれるの?」
「なれる。人間をやめるけどね」
軽い調子だった。冗談みたいに。
けれど、御手洗は笑わなかった。
人間をやめる、という言葉の重さを、うまく測れなかったからだ。
「ヒーローにはなれる?」
男は少しだけ目を細めた。
「なれる可能性は高い。少なくとも、ただの人間よりは」
可能性。
その言葉の意味も、まだよく分かっていない。
それでも御手洗は、空を見上げた。
さっきよりも、ずっと高く見えた。
「じゃあ、やる」
即答だった。
男は頷いた。
それが契約の合図だった。
最初の一人が、消えた。
手術の後だった。
昨日まで笑っていた子が、今日はいなかった。
「体が持たなかったんだよ」
そう説明された。
御手洗は頷いた。
理解したふりをした。
二人目が消えた。
三人目も。
そのたびに、部屋は静かになっていった。
ベッドの数は変わらないのに、声だけが減っていく。
夜、眠れなくなった。
目を閉じると、いなくなった子の顔が浮かぶ。
名前も覚えている。声も覚えている。
けれど、呼ぶことはできない。
「……ヒーローになるんだろ」
誰に言うでもなく、呟いた。
返事はない。
最後に残ったのは、御手洗一人だった。
「適合率が最も高い」
「安定している」
「成功例だ」
大人たちはそう言った。
御手洗は、ベッドの上で天井を見ていた。
成功例。
その言葉は、やけに軽かった。
「……あいつらは?」
聞いた。初めて。
白衣の男は、少しだけ間を置いてから答えた。
「次に進めなかっただけだ」
それ以上の言葉はなかった。
御手洗は、しばらく何も言わなかった。
言葉にすると、何かが決まってしまいそうだった。
初めて飛んだ日、世界は小さかった。
重力がほどける。
体が軽い。
地面が遠ざかる。
怖さよりも、先に笑いが出た。
「すげえ……」
空は、手を伸ばせば触れそうだった。
そのとき、ふと考えた。
――あいつらも、見たかったかな。
その瞬間、体が少しだけ重くなった。
落ちるほどじゃない。
でも、軽くもない。
中途半端な重さ。
御手洗は、空中で止まった。
「ヒーローになるんだろ」
もう一度、同じ言葉を口にした。
今度は、自分に向けて。
助けられなかった。
これからも助けられないかもしれない。
それでも。
「……それでも、やる」
小さく息を吐く。
そして、体を前に倒した。
空は、どこまでも続いていた。
その日から、彼は番号で呼ばれるようになった。
「8号」
呼ばれるたびに、少しだけ何かが削れる。
それでも、御手洗は振り向く。
返事をする。
「はい」
その声だけは、まだ自分のものだった。
最終更新:2026年05月01日 21:17