「二人いた」
海は、最初から静かだった。
異変に気づいたのは、音だった。
引くような、削るような、不自然な低い音。
御手洗進は空にいた。
訓練の帰り。
いつも通り、誰かを助けられるかもしれない高さ。
下を見る。
波が、引いている。
「……まずい」
次の瞬間、押し返すように水が来た。
壁だった。
街を呑み込む速度で、海が進む。
御手洗は反射的に加速した。
人が、いる。
一人じゃない。
三人、四人、もっと。
流されている。
「落ち着いて! 今助ける!」
声を張る。届いているかは分からない。
目を凝らす。
その中で、はっきり見えた。
近くに一人。
手を伸ばしている、小さな影。
少し離れて、もう一人。
瓦礫にしがみついている大人。
距離は、わずかに違う。
ほんの数秒。
(どっちからだ)
思考は、一瞬で回る。
- 近いのは子供
- 先に拾えば確実に助かる
- その後、大人も間に合う可能性がある
逆は?
喉が詰まる。
「……っ」
子供が叫んだ。
「たすけて!」
その声は、はっきり届いた。
御手洗は、降下した。
迷いはなかった。
腕を伸ばし、小さな体を掴む。
軽い。あまりにも軽い。
「大丈夫、大丈夫だから」
そのまま上昇する。
水面が遠ざかる。
子供は震えていた。
しがみつく力が強い。
「もう大丈夫だ。戻るから」
返事はなかった。
ただ、しがみつく力だけが強くなる。
岸に放り出すように預けて、すぐに反転する。
まだ、間に合う。
(さっきの場所、あそこだ)
位置は覚えている。
瓦礫の形も、水の流れも。
空を切る。
数秒。
たったそれだけ。
海は、もう違う顔をしていた。
さっきまであったはずの位置に、何もない。
瓦礫は流れ、泡だけが残っている。
「……え?」
高度を落とす。
目を凝らす。
いない。
「……いたはずだろ」
声が、うまく出ない。
水面に、影はない。
手も、顔も、何も。
もう一度、旋回する。
探す。探す。探す。
波の隙間を、全部。
「……くそ」
声が漏れた。
時間が足りない。
目が足りない。
腕が足りない。
(順番は、間違ってない)
頭のどこかで、そう言う声がする。
正しい判断。
確実に一人を救った。
ヒーローとしては、正しい。
それでも。
「……二人、いた」
言葉にした瞬間、胸が重くなる。
知っている。
最初から分かっていた。
どちらかは、間に合わない可能性があると。
それでも選んだ。
御手洗は、空に止まった。
動けないわけじゃない。
飛べる。探せる。
それでも、体が一瞬だけ止まる。
(次は)
言葉が出る。
(次は、全部助ける)
無理だと、分かっている。
それでも、そう思った。
再び、加速する。
まだ、誰かが流されているかもしれない。
見えないだけで、いるかもしれない。
海の上を、飛び続ける。
空は、どこまでも続いていた。
最終更新:2026年05月01日 21:18