「それでも行く」
雨は、止む気配がなかった。
低い雲が街を押さえつけている。
川は濁り、橋の下で唸っていた。
「氾濫の恐れあり、周辺住民は――」
拡声器の声は、風に千切れていく。
御手洗進は、空にいた。
高くはない。すぐに降りられる高さ。
あの日から、まだ時間は経っていない。
海の色も、声も、残っている。
――二人いた。
頭の奥で、同じ言葉が繰り返される。
「8号、上流の様子を確認しろ」
通信が入る。
「……了解」
短く返す。
声は、いつも通りだった。
川沿いに進む。
水位は上がっている。
護岸の一部が崩れている。
人影が見えた。
屋根の上に、三人。
手を振っている。
さらに奥。
流木にしがみついている一人。
距離がある。
順番を決める必要がある。
(近い方から)
反射的に、前と同じ答えが浮かぶ。
確実に助けられる方から。
リスクを減らす。
正しい。
ヒーローとして。
「……」
体が、少しだけ止まる。
屋根の三人は、こちらを見ている。
声も届く距離。
「こっちだ! 頼む!」
流木の男は、声が届かない。
口が動いているだけ。
(また、選ぶのか)
胸の奥が、きしむ。
あの日と同じ形。
人数。距離。時間。
全部、同じだ。
御手洗は、息を吐いた。
短く。
「8号、どうした。応答しろ」
通信が重なる。
「……見えてます」
「優先順位をつけろ。近い方から――」
「分かってます」
言葉を遮る。
分かっている。
全部。
正しいやり方も。
効率も。
損失を減らす方法も。
それでも。
御手洗は、進路を変えた。
奥へ。
流木の男へ。
水面すれすれを滑る。
濁流が跳ねる。
腕を伸ばす。
届くかどうか、ぎりぎりの距離。
「――掴め!」
声は届かない。
それでも、男の手が動いた。
指が触れる。
滑る。
もう一度。
強く、掴む。
そのまま上昇する。
重い。
水を吸った体が、腕に食い込む。
それでも、離さない。
屋根へ向かう。
三人の顔が、近づく。
驚きと、焦りと、安堵。
全部が混ざっている。
「今から行く!」
叫ぶ。
一度、男を屋根に下ろす。
すぐに反転。
(間に合え)
加速する。
さっきより、速く。
無理だと分かっている速度で。
三人のうち、一人が足を滑らせた。
縁から、落ちる。
「っ!」
さらに加速する。
空気が裂ける。
手を伸ばす。
今度は、迷わない。
掴む。
落ちかけた体を、引き上げる。
残りの二人も、順に。
全員、屋根の上に残った。
御手洗は、その場で少しだけ息を整えた。
腕が重い。
呼吸が荒い。
「……8号」
通信が戻る。
「なぜ奥から行った」
声は冷静だった。
責めているわけでもない。
ただ、確認している。
御手洗は、少しだけ空を見た。
低い雲。
何も見えない空。
「……見えたからです」
短く答える。
「近い方を優先すべきだった。結果的には成功したが――」
「はい」
遮らない。
否定もしない。
全部、分かっている。
それでも。
「それでも、行きます」
小さく言う。
誰に向けたのかは、分からない。
あの日、届かなかった手がある。
選ばなかった側がある。
それを、消すことはできない。
御手洗は、再び飛び上がった。
まだ、水は引いていない。
まだ、誰かがいるかもしれない。
空は低い。
それでも、飛ぶ。
最終更新:2026年05月01日 21:18