橘 立花は、この世界の“速さ”にまだ慣れていなかった。
魔法でも軍でもない。意思決定の速さだ。
天陽帝国――そこでは、決まるものは一瞬で決まり、
決まらないものは、永遠に決まらない。
そして今回の案件は、その中間にあった。
「賭場の利益配分、見直しの件だ」
軍部の会議室は、無駄に広かった。
装飾は少なく、代わりに人の気配が濃い。
対面に座る男は、軍部の代表。
肩書きよりも“現場”の匂いがする人物だった。
「現行は六対四。こちらが六だ」
「それを?」
「五対五にしろと、貴様は言っている」
立花は頷いた。
「はい。制度として安定させるなら、その方が合理的です」
沈黙が落ちる。
軍部にとって、利益は力そのものだ。
一割の差は、兵站一つ分に相当する。
「……合理、か」
男は笑わなかった。
「なら証明してみせろ。貴様の“合理”をな」
机の上に置かれたのは、盤だった。
「三番勝負だ」
「了解しました」
一戦目。
立花は、迷わなかった。
配置、進行、分岐。
すべてが既視感の中にある。
四十手目で優位を取り、九十五手目で詰み。
「……早いな」
軍部代表が呟く。
立花は何も言わない。
二戦目。
同じく、盤面は見えていた。
勝てる。確実に。
だが、そのまま勝つことは“最適解ではない”。
軍部が全敗する。
それは、この場では勝利だが、制度としては敗北になる。
“対等”が必要だ。
立花は、三十手目で最善手をはずした。
本来選ばない手。
だが、負けるには十分なズレ。
六十一手目で、盤面がひっくり返る。
「……そう来たか」
代表の手が止まる。
わずかに、眉が動いた。
そして、そのまま押し切られる。
二戦目、敗北。
空気が変わった。
勝敗ではない。
“意図”に気づかれた。
「……貴様」
低い声。
「今のは、何だ」
立花は静かに答える。
「一勝分は、そちらに差し上げました」
沈黙。
そして――
「舐めるな」
椅子が音を立てる。
次の瞬間、拳が飛んだ。
だが、その拳は届かなかった。
途中で止まる。
いや、止められていた。
「……やめとけ」
腕を掴んでいるのは、烏骨鶏だった。
いつからそこにいたのか、誰も気づいていない。
「離せ」
「離すよ」
軽い口調。だが、力は一切緩んでいない。
「ここで殴ったら、お前の負けだ」
空気が凍る。
軍部代表の目が、わずかに揺れた。
「……負け?」
「そうだろ」
烏骨鶏は、立花を見もしない。
「一勝もらって、条件も整ってる。
ここで手ぇ出したら、“交渉できねえ側”になる」
沈黙。
拳が、ゆっくりと下がる。
「……五対五」
代表が言った。
「条件はそれでいい」
立花は頷いた。
「ありがとうございます」
会議室を出た後。
廊下は静かだった。
「助かりました」
立花が言う。
「別に」
烏骨鶏は肩をすくめる。
「お前、全部勝てただろ」
「はい」
「なのに負けた」
「はい」
少しだけ、間が空く。
「……気持ち悪いな」
立花は、少しだけ笑った。
「この世界では、それが“普通”なんだと思います」
烏骨鶏は鼻で笑う。
「普通かよ」
第五世界、一年目。
彼女はまだ、この世界の“勝ち方”を学んでいる途中だった。
だが一つだけ、確信していた。
勝つとは、盤上で終わるものではない。
盤の外まで含めて、初めて成立するものだと。
最終更新:2026年05月01日 20:34