ナイターの照明は、いつも不自然な昼をつくる。
人工の太陽の下で、木村ジェニファーはバットを肩に載せて立っていた。
観客席のざわめきは波のようだ。だが打席に入ると、その音は遠くなる。世界は急に薄くなり、ピッチャーと自分だけが濃く残る。
スコアは同点。九回裏、二死満塁。
いつもの舞台だ。
マウンドの若い投手は震えている。いいボールを投げる男だったが、今日に限って運が悪い。相手がジェニファーだった。
彼女は小さく息を吐く。
ベンチでは監督が腕を組んでいる。観客は総立ち。テレビカメラが一斉に向けられる。
スターの時間だ。
――ジェーン。
心の奥で、もう一人の自分の名前を呼ぶ。
女として生きてきたジェニーではない。勝負をするために選び取った自分。鏡と出会ったあの日に決めた顔。
木製バットの感触を確かめる。
それは彼女にとって金剛杵と同じ重さだった。
初球。
外角低めの直球。
見逃し。ストライク。
観客がどよめく。
ジェニファーは微笑んだ。いい球だ。逃げていない。
二球目。
スライダーが外に逃げる。
見送り。ボール。
彼女の視界の端で、空気がかすかに震えた。
偶像の力が静かに満ちていく。雷はまだ落ちない。ただ雲が集まり始めただけだ。
三球目。
インハイの速球。
バットが唸る。ファウル。
手応えは悪くない。
次だ、と彼女は確信した。
打席の土を靴でならしながら、ふと思い出す。
父のことを。凄い漢と呼ばれた男の背中。幼い頃のキャッチボール。鏡という投手と初めて会った日のこと。
「女だと思って打席に立つな」
あの人はそう言った。
だから彼女は“男”を選んだ。勝つために。
四球目。
ピッチャーが首を振る。サインを替える。
来る。
ジェニファーは足を踏み込み、静かに構えた。
世界が細くなる。ボールが指から離れる瞬間、空が鳴った気がした。
真ん中高め。
甘い。
振り抜いた瞬間、観客席の空気が裂けた。
白い閃光が走る。
打球は音よりも速く夜空へ昇っていく。
外野手は一歩も動かない。
落雷のようなホームランだった。
ダイヤモンドを回りながら、ジェニファーは帽子を軽く触れた。
歓声が雷鳴のように降り注ぐ。
ホームベースを踏んだとき、彼女はふっと表情を緩めた。
ジェーンの仮面が溶け、ジェニーが戻ってくる。
ベンチでチームメイトに抱きつかれ、彼女は少し照れくさそうに笑った。
スターでいるのは簡単じゃない。
けれど、この瞬間だけは悪くないと思う。
グラウンドの上で、稲妻は静かに消えていった。
最終更新:2026年04月27日 00:11