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小噺-『休日の白線』

小学校のグラウンドは、やけに広い。

 誰もいない休日。
 白いラインだけが、きれいに地面を区切っている。

 木村ジェニファーはまだ子どもだった。
 少し大きめのグローブをはめ、外野の芝生に立つ。

「ほら、いくぞジェニー」

 父――“凄い男”が軽く腕を振る。
 その球はやさしいのに、芯が通っていた。

 ぱしん。

 ボールの音が、空にひとつ。

 今日は特別な日じゃない。ただの休日。
 けれどジェニファーの心には、最近の出来事がずっと残っている。

 父が鏡という人と戦って負けたこと。
 そのあと、自分がその鏡と会ったこと。

「この前、鏡に会ったんだってな」

 父が何気なく言う。

「うん」

「どうだった」

「……すごかった」

 言葉にするのは難しい。

「やさしいのに、ぜんぜん隙がなくて。
 静かなのに、なんか……大きかった」

 父はうなずいた。

「その通りだ。あいつは本物だ」

 負けた相手を語る声は、不思議なくらいまっすぐだった。

「俺は真正面からぶつかって、打ち負けた。
 あんな強さ、そうそうお目にかかれねえ」

 ボールが行き来する。

 ジェニファーは小さく息を吸った。

「ねえ父さん」

「なんだ」

「わたしね」

 言おうかどうか、ずっと迷っていたこと。

「鏡さんに会ったとき、思ったの」

 グローブの中でボールを握りしめる。

「女のままじゃ、ああいう人には勝てないって」

 父の手が、一瞬だけ止まった。

「……ほう」

「体とかじゃなくて、気持ちの話。
 打席に立つときの覚悟とか、立ち方とか」

 うまく言えない。
 それでも言葉はこぼれていく。

「だから――」

 ジェニファーは顔を上げた。

「わたし、勝負するときは“男”になる」

 静かな告白。

「ジェニーのままじゃなくて、ジェーンになる。
 強い人たちと戦うための自分になる」

 風が吹いて、白線の上を砂が走る。

 父はしばらく黙っていた。

 そして、ゆっくりと笑った。

「いいじゃねえか」

「……怒らないの?」

「怒る理由がねえ」

 ボールがまた飛んでくる。

「勝つために姿を変えるのは、戦う奴のやり方だ」

 グローブの中で、音が鳴る。

「鏡と会って、そこまで考えたんなら上等だ。
 あいつはそういう場所にいる人間だからな」

 ジェニファーは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。

「父さんは、わたしが男になるの、変だと思わない?」

「思わん」

 即答だった。

「グラウンドに立つときの顔なんざ、自分で選べ。
 勝負の世界は、甘くねえんだから」

 その言葉に、ジェニファーは笑った。

「うん。そうする」

 距離を縮めて、軽いキャッチボールになる。

 少女の時間と、戦う決意が静かに混ざる。

「いつかさ」

 ジェニファーは言う。

「ジェーンとして、鏡さんの前に立ちたい」

 父は満足そうにうなずいた。

「それでいい。
 お前が選んだお前で行け」

 青空の下、白いボールがまた弧を描く。

 この日の小さな決意が――

 のちに“執金剛神”と呼ばれる存在の、最初の雷鳴になった。

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最終更新:2026年05月01日 19:47