深夜。
ホトトギス事務所に一本の電話が入った。
事務員席にいた千川圓は受話器を取る。
「はい、ホトトギスです」
数秒後。
いつも貼り付けたように浮かべている笑顔が消えた。
「……そう」
受話器を置く。
部屋には誰もいない。
だから誰に聞かせるでもなく呟いた。
「攫われたんだ」
所属アイドルの一人だった。
昨日から行方不明。
そして見つかった。
病院で。
内臓を抜かれた状態で。
生死の境を彷徨っているという。
千川は椅子に座ったまま動かなかった。
胸の奥が熱い。
苦しい。
息がしづらい。
理由が分からない。
いや、分かる。
分からなかっただけだ。
悪魔憑きの代償によって失われていた共感性。
怒りによってその封印が僅かに緩んでいた。
「……なんで」
頬を何かが伝う。
涙だった。
初めてだった。
他人のために泣いたのは。
「なんであの子が」
机を叩く。
木が割れた。
炎が漏れる。
燃え上がる悪魔の力が身体を包む。
「殺す」
それだけだった。
千川は事務所を飛び出した。
目指す先は一つ。
◇
夜の公園。
その先には目的の建物が見えていた。
あと数分も歩けば辿り着く。
そのはずだった。
「どこへ行く」
ベンチに座っていた男が声を掛けた。
仙川道字。
着崩したスーツ姿のまま缶コーヒーを飲んでいる。
「仕事」
千川は答える。
「嘘だな」
「そうかも」
仙川は缶を置いた。
「やめておけ」
「嫌だ」
「復讐しても何も残らん」
「残るよ」
「残らん」
「気が済む」
「済まん」
千川は睨む。
仙川は真っ直ぐ見返す。
「殺しても戻らん」
「知ってる」
「ならやめろ」
「嫌だ」
即答だった。
涙を流しながら笑う。
「だって苦しいんだよ」
その言葉に自分自身が驚いた。
苦しい。
悲しい。
悔しい。
今まで理解できなかった感情が胸の中で暴れている。
「だから殺す」
「駄目だ」
「どいて」
「駄目だ」
炎が噴き出した。
公園の空気が熱を帯びる。
「邪魔するなら倒す」
「そうか」
仙川は立ち上がった。
「なら来い」
次の瞬間。
千川が突っ込む。
炎の拳。
速度も威力も十分。
普通の人間なら反応すらできない。
だが仙川は違った。
半歩。
身体をずらす。
腕を取る。
重心を崩す。
地面へ倒す。
それだけだった。
「えっ」
気付いた時には芝生の上だった。
仙川が上から押さえ込んでいる。
「離して!」
「離さん」
「離せ!」
「駄目だ」
暴れる。
全力で暴れる。
それでも外れない。
守ることを得意とする男。
狂気の傭兵として生き残った男。
戦闘経験が違いすぎた。
その時だった。
遠くからサイレンが聞こえた。
何台も。
何台も。
パトカーがヤクザ事務所へ向かっていく。
二人は黙って見ていた。
警察が突入する。
数分後。
一人の警察官が飛び出してきた。
道路脇で吐いた。
続いて二人。
三人。
次々と。
顔面蒼白で。
何かとてつもなく酷いものを見た人間の顔だった。
千川は呆然とする。
「何があったの」
仙川は立ち上がった。
「もう終わった」
「え?」
「今から行っても無意味だ」
それだけ言った。
◇
翌日。
事務所の机に新聞が置かれていた。
『華帝国系暴力団事務所にてバラバラ死体事件発生』
『被害者数不明』
『内臓は全て体外へ摘出』
『遺体損壊が激しく身元確認困難』
千川は記事を読み終えた。
電話が鳴る。
仙川が受話器を取った。
「……ああ」
短いやり取り。
そして受話器を置く。
「病院からだ」
千川が顔を上げる。
「助かったそうだ」
胸の奥の何かが少しだけ軽くなった。
「そう」
しばらく沈黙。
そして千川は聞いた。
「ねえ」
「何だ」
「事務所で何があったの?」
仙川は新聞を畳む。
「知らん」
「嘘」
「本当に知らん」
「絶対知ってるでしょ」
「知らんものは知らん」
そう言ってコーヒーを飲む。
少しだけ沈黙。
やがて仙川は窓の外を見ながら言った。
「ただな」
「うん」
「報いというものは、案外どこにでも転がっている」
それだけだった。
意味は分からなかった。
そしてその時。
悪魔憑きの代償が戻る。
胸を満たしていた怒りも。
悲しみも。
悔しさも。
少しずつ遠ざかっていく。
涙の理由すら理解できなくなる。
なのに。
仙川の横顔を見た時だけ。
心臓が一度だけ大きく鳴った。
ドクン。
その理由だけは。
最後まで分からなかった。
最終更新:2026年06月20日 00:43