皇都の夜は、今日も賑やかだった。
暖簾を揺らす風はほんのりと酒の香りを運び、通りには仕事帰りの人々が笑いながら歩いている。提灯の灯りが石畳を照らし、焼き鳥や煮込みの香ばしい匂いが食欲を誘っていた。
「今日はいっぱい飲むぞー。」
朝陽が両手を上げる。
白いブラウスに紺色のロングスカート。肩まで伸びた茶色の髪を揺らしながら歩く姿は、誰が見ても小柄で可愛らしい女性だった。
「毎回言ってる。」
隣を歩く馨が淡々と返す。
「今日は僕もお腹空いたな。」
最後尾を歩くジェニファーが穏やかに笑う。
二メートルを超える身体は人混みでもよく目立つが、本人はそんなことを気にもしていなかった。
三人が入ったのは、裏路地にある全席個室の居酒屋だった。
「いらっしゃいませ。」
店員に案内され、奥の個室へ入る。
障子が閉まると、外の賑わいは遠くなり、木の香りが漂う落ち着いた空間だけが残った。
「やっぱり個室は落ち着くねぇ。」
朝陽は座布団へ腰を下ろし、大きく伸びをする。
「静か。」
馨も小さく頷いた。
「僕も好きだよ。」
ジェニファーは苦笑しながら足を折り畳く。
「少し狭いけど。」
「ジェニーが大きいだけじゃん。」
「そうとも言うね。」
三人は笑った。
店員がおしぼりとメニューを置く。
「ご注文はお決まりでしょうか。」
「生ビール。」
「わたしは日本酒。」
二人が答えると、視線は自然と馨へ向く。
馨は真剣な顔でメニューを眺めていた。
「……これ。」
指差したのは、桃色のピーチカクテル。
朝陽が嫌そうな顔をする。
「かおるさん。」
「うん。」
「またそれ?」
「甘そう。」
「いや、そこじゃなくて。」
「今回は平気。」
「前回もそう言ってた。」
「今回は違う。」
ジェニファーが思わず笑う。
「毎回同じこと言ってる気がする。」
「今回は本当に違う。」
「根拠は?」
「勘。」
「一番信用できないやつだ。」
結局そのまま注文は通った。
最初に運ばれてきた枝豆をつまみながら、三人は乾杯する。
「乾杯。」
「かんぱーい。」
日本酒を嬉しそうに飲む朝陽。
喉を鳴らしてビールを流し込むジェニファー。
馨はカクテルを一口飲み、小さく呟いた。
「……甘い。」
「だから危ないんだって。」
「ジュースみたい。」
「その感想が危ないの。」
焼き鳥や刺身、だし巻き卵、唐揚げが並ぶ。
湯気と一緒に香ばしい匂いが個室へ広がった。
「いただきます。」
朝陽が箸を伸ばす。
その隣で、ジェニファーは唐揚げを三つ一気に口へ放り込んでいた。
「早っ!」
「練習帰りだからね。」
「それにしたって早いよ。」
「スポーツ選手は燃費が悪い。」
「知ってるけどさ。」
三人は笑う。
馨は熱々のだし巻きを一口。
「……。」
「どう?」
「おいしい。」
「珍しく感情出た。」
「だし巻き好き。」
「そこだけ?」
「そこだけ。」
また笑いが起こる。
十五分ほど経った頃。
馨の頬がほんのり赤く染まり始めた。
朝陽はそれを見るなり、日本酒を置く。
「あ。」
ジェニファーも察したように笑った。
「始まるね。」
馨は静かに目を閉じる。
「らぁ~~~♪」
透き通るような歌声が個室へ響く。
その歌に呼応するように、小さな光が集まり、手のひらほどの天使が一体だけ姿を現した。
「今日は一人だけだ。」
「少ない方だね。」
朝陽が苦笑する。
天使は嬉しそうに部屋を飛び回り、焼き鳥を眺めたり、枝豆を転がしたりして遊び始めた。
その時、障子の向こうから足音が聞こえてきた。
「失礼します。」
その声に反応するように、馨は歌を止める。
天使は淡い光へとほどけ、そのまま空気へ溶けるように消えていった。
障子が開く。
店員は追加の料理を置きながら、ほんの一瞬だけ首を傾げた。
「……?」
何か光が揺れたような。
そんな気がしただけだった。
「ご注文の串焼きです。」
「ありがとうございます。」
店員は一礼すると、そのまま部屋を出ていく。
障子が閉まる音を聞いてから、朝陽はようやく息を吐いた。
「危ない危ない。」
「間に合ったね。」
ジェニファーも笑う。
馨は少し申し訳なさそうに俯いた。
「……ごめん。」
「はい、お酒没収。」
朝陽がカクテルを取り上げ、代わりに烏龍茶を置く。
馨は素直に受け取り、一口飲んだ。
「……おいしい。」
「だから最初からそれ飲もうよ。」
「次から。」
「その台詞、この前も聞いた。」
三人はまた笑った。
笑いが落ち着くと、朝陽が焼き鳥を頬張りながら口を開く。
「そういえばさ、ジェニー。」
「うん?」
「この前、球場で子どもに聞かれてたよね。」
「あぁ。」
「『ジェニファーさんってトイレどうするんですか?』って。」
ジェニファーは苦笑した。
「僕は男子トイレだよ。」
「個室だけ?」
「うん。」
「球場は?」
「専用のトイレを使わせてもらってる。」
「やっぱりそうなんだ。」
「その方が僕も周りも気を遣わなくて済むからね。」
「なるほどね。」
朝陽は頷く。
「わたしは普通に男子トイレかな。」
「見た目じゃ絶対わからないよ。」
「普通に小便器使うよ。」
「驚かれない?」
「たまに驚かれる。でも男子トイレなんだから、男が入っても間違ってないでしょ。」
ジェニファーが吹き出す。
「正論だ。」
馨も静かに言った。
「私は女性用。」
「個室だけ?」
「うん。」
「困ったことは?」
「ない。」
「即答。」
「個室だから。」
朝陽はしみじみ頷く。
「結論。」
「何?」
「個室は世界を救う。」
「またそれ。」
ジェニファーが笑う。
話題はそのまま温泉へ移った。
「温泉は?」
「わたしは男湯。」
「普通に?」
「普通に。」
「僕は施設が用意してくれるシャワーを使うことが多いかな。」
「かおるさんは?」
「個室風呂。」
「やっぱり。」
「それが一番。」
「みんな結局、自分が一番楽な方法を選んでるんだね。」
三人は揃って頷いた。
今度は服の話になる。
「ジェニーは男物だよね。」
「うん。」
「困る?」
「サイズ。」
即答だった。
「早い。」
「気に入っても入らないことがある。」
「特注?」
「そういう時もあるよ。」
朝陽は笑う。
「わたしは全然困らないなぁ。」
「朝陽は小さいからね。」
「普通に売ってる服で十分。」
「私も困らない。」
馨が短く答える。
「女性物だから。」
「買い物だけなら、わたしとかかおるさんは普通のお客さんなんだよね。」
「僕だけサイズ探し。」
「それはもう体格の問題だ。」
三人はまた笑った。
気が付けば料理も空になり、烏龍茶だけが静かに湯気を立てていた。
店を出ると、夜風が心地よく頬を撫でる。
朝陽は大きく伸びをした。
「いやぁ、今日も笑った。」
「楽しかった。」
ジェニファーも穏やかに笑う。
馨は二人を見て、小さく口元を緩めた。
「……次は最初から烏龍茶。」
朝陽とジェニファーは顔を見合わせる。
「「毎回聞いてる。」」
皇都の夜に、三人の笑い声だけがいつまでも響いていた。
最終更新:2026年07月06日 22:08