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英国魔術結社の歴史――そしてその影響

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英国魔術結社の歴史――そしてその影響*1




I はじめに――本稿の目的と構成


本稿の第一の目的は、フランシス・キングの著作*2を全面的に用いて、19世紀末から20世紀中葉頃までの、英国に於ける魔術的結社の動向を紹介することにある。それは主に《黄金の夜明け》団にまつわる歴史を語ることであり、そしてそれを牽引した「魔術師」たちの人生に触れることでもある。これのために、彼の著作を引用符を用いず自由に引用した。
さて、ではこの、さほど長いとは言えない時期の、しかも秘密結社の動向がいかなる意義を持つのか、それを述べることが本稿の第二の目的である。特に、本稿に於いては、現代日本の文化に対する影響を見る。
構成としては、まず次のIIにて《黄金の夜明け》団の歴史を概観する。このとき、その首領たちの姿を瞥見するであろう。そしてIIIに於いてその文化的影響を考察する。
今回は論じられる文化的作品に関し、幾つかの図版を用意した。適宜参照されたい。



II 英国魔術結社の興亡


1. 導入――《黄金の夜明け》団の輪郭

《黄金の夜明け》団の歴史を語る前に、この問題となっている魔術団に関して、多少なりとも述べておくのがよいだろう。
まず、《黄金の夜明け》団は、主にイギリスに本部を持つ魔術結社である。これに所属した有名人としては、ノーベル文学賞のW・B・イェイツ、女優にして一時バーナード・ショーの愛人であったフロレンス・ファー、そして詩人、登山家、新宗教テレマの悪魔的預言者アレイスター・クロウリー、あるいは哲学者ベルクソンの妹で後にマサースの妻となるミナ(後にモイナ)らがいた。
古来より、魔術師と呼ばれるものは多くいた。シモン・マグスやアグリッパ、ファウスト、そして数々の錬金術師たちがいた。今回紹介する英国の魔術結社とは、それらのオカルト的な人物・結社のうち、もっとも我らに近い時代にして、かつ多大な影響を与えた潮流である。
この魔術結社に参入するものは、参入の儀式を行わねばならない。また結社には位階の制度があり、その研鑽の程度に従って位階を昇ってゆく。参入した魔術師たちはそれぞれに「魔法名」を定め、それで互いを呼び合う。魔術結社とは、そのような、一つのコミュニティなのである。


2. 《黄金の夜明け》団の夜明け

《黄金の夜明け》団の創設メンバーは、A・F・A・ウッドフォード師、W・R・ウッドマン博士、W・ウィン・ウェストコット、そしてS・L・マグレガー・マサースの四人であった。
まず、ウッドフォードの友人が死去が、《黄金の夜明け》団の発端となる。彼の私文書の一部がウッドフォードの手に渡ることになり、その中に暗号で書かれたものが見出されたのである。ウッドフォードはこれの解読をウェストコットにゆだねた。ウェストコットがこの解読をこなすと、薔薇十字団的な儀式の覚え書きが得られるとともに、ニュールンベルグのアンナ・シュプレンゲルなる人物の住所が現れたのである。
ウェストコットはマサース、ウッドマンに助力を求め、シュプレンゲルとの文通を開始する。そして伝授された教義から、テンプルを設立するのである。一八八八年、《黄金の夜明け》団イシス・ウラニア・テンプルの設立である(ロンドン)。さらに短期間のうちに、その他のテンプルが設立された。ウェストン・スパー・メアのオシリス・テンプル、ブラドフォードのホルス・テンプル、エジンバラのアメン・ラー・テンプルが設立され、数年後にはマサースがパリにアハトゥール・テンプルを設立している*3
一八九一年、アンナ・シュプレンゲルとの文通が途絶えた。その代わりようにして届いたドイツからの通知では、アンナ・シュプレンゲルが死去したこと、彼女の同僚は教義の伝授に(邪魔こそしないが)賛成していないこと、英国の修行者には今後は情報を与えない――団の《秘密の首領》と連環を打ち立てたいのなら、自分たちでやれ、ということであった。一八九二年、マサースは、その連関を打ち立てたとして第二団、即ち《ルビーの薔薇と金の十字架》のための儀式を示した。


3. マサースの独裁

ウッドフォードは団の創立直後に、またウッドマンは第二団創立直前に死去した。ウェストコット*4は一八九七年頃、《黄金の夜明け》団との関係を全て断ち切ってしまった。彼がそうした理由は正確には分からない。彼が魔術思想に傾倒していることが発覚したとき、勅撰検死官という職業が災いしたのかも知れず、また、単純にマサース*5が手に負えないと見たのかも知れない。ともかく、彼の退団が、マサースの独裁を許してしまった。
一八九九年の末には、マサース政権に対する不満が高まっていた。彼の独裁と、(同性愛者として噂される)クロウリーとの親交の深まりなどによって、不満分子たちはマサース政権を仲介せずに《秘密の首領》とコンタクトしようとも考えていた。クロウリーのアデプタス・マイナー位階昇進をそっけなく拒否する。このことが亀裂を表面化させた。クロウリーは自分の容疑すら教えられずにマサースを頼る他なかった。そして実際、マサースはイシス・ウラニア・テンプルの首領たちを無視してクロウリーをアハトゥール・テンプルでアデプタス・マイナーとしたのである(一九○○年)。
そのあとは激烈なやり合いとなった。ロンドン第二団でマサースの代理をしていたフロレンス・ファーがマサースに代理を辞めたい旨の手紙を書くと、黒幕をウェストコットと睨んだマサースが手紙を寄越した。ウェストコットがシュプレンゲルと連絡を取ったというのは捏造であり、彼の元で新しい団を作らせるわけにはいかない、というのである。この書簡の内容を知らされたロンドンの首領たちは、マサースに証拠提出を要求する。が、これをマサースは断固として拒絶した。第二団首領は第三団(即ち《秘密の首領》たち)にのみ責任を有すると指摘したのである。続いて彼がフロレンス・ファーを(積極的に)解任すると、同年三月二十九日、ロンドンの陣営はこれに反抗して第二団総会を招集、マサースを首領の座から外し、団から追放した(一方クロウリーは即刻マサースに書簡を送って献身を誓っている)。


4. 反乱軍の瓦解

こうした団体にありがちなことではあるが、マサースを追い出したあとの第二団は、またも内紛に至った。火種は、アニー・ホーニマンであった。彼女は、第二団の委員会によって書記に就任した(提案はイェイツ*6による)。彼女は、フロレンス・ファーが一八九七年にイシス・ウラニア・テンプルの首領職に就任して以来、団内の試験制度を強制していなかったことを知り、不快きわまったという。
ところで、団内には秘密結社があった(秘密結社内秘密結社)。これは遙か昔一八九七年にマサースが認可したものであり、J・W・ブロディ-イネス*7、フロレンス・ファー、そしてウェストコットも退団するまで、グループを率いていた。そして、当時は、フロレンス・ファーのグループがこれらを吸収・合併し、最大の勢力となっていた。彼女のグループは「スフィア」として知られており、星幽界接触という手段によって第三段から先進知識を得ようとするものであった。
この運動を面白く思わないホーニマンは、アイルランドから戻ったイェイツに接近し、「スフィア」に対してともに蜂起するよう持ちかけた。詩作・演劇方面でホーニマンから援助を受けていたイェイツはこれを断り切れず、結局フロレンス・ファーに対してサークルの情報を公開してもらいたい旨を伝える。フロレンス・ファーは、これを承諾したものの、この件は(一九○一年二月の)会議に持ち出し、かつ団内グループの存在を公認させると発言した。その結果、会議派はホーニマンに敵対的となり、イェイツは彼女を守る形で態度を硬化させることとなった。ホーニマンは書記を辞任、イェイツはイシス・ウラニア・テンプルのインペレーターを辞任した。
一九○一年秋、《黄金の夜明け》団の団員たちは、全く予期もせず、また全く不名誉な形で世間の耳目を集めることとなる。死去したと思われていたアンナ・シュプレンゲルとしてマサースをだまし続けていたホロス夫人の、その夫が、暴行事件で捕まったのである。この夫婦はマサースから《黄金の夜明け》団関係の文書を借り受け――そしてそのまま逐電し、別所で《黄金の夜明け》団を騙って、少女を「参入」させた。二人は当局の手に捕まり、法廷でその状況が描写された(検事調書に残っている)。その参入の儀式の様子は、「秘密の誓い」を含め法廷で全文を読み上げられた挙げ句、数種の新聞紙上に掲載された。このことは、真正な団員たちを意気阻喪させ、多数の人々が退団していった。
この流れは、ついに団の分裂を引き起こすこととなる。《ルビーの薔薇と金の十字架》団は《三人委員会》は設置して団法を制定しようとした。この三人とは、M・W・ブラックデン、ブロディ-イネス、R・W・フェルキン博士*8の三人である。団を手中に収めるもくろみを立てていたA・E・ウェイト*9は一九○三年、ブロディ-イネスの孤立化を図ってこの団法案に反対、修正案を提出した。そして配下の達人たちに反対票を投じるように促して勝利を確認する宣言を行うと、団そのものから独立して作業しようと主張した。彼が掲げた路線は次の三点に顕著であろう。(a)現在の形態の団などには用がない。(b)《黄金の夜明け》団は儀式魔術と星幽作業を放棄して、(c)キリスト教神秘主義のみを採用すべきである、としたのである。ほどなくしてウェイトとブラックデンは同盟を組み、新たにイシス・ウラニアの名を有するテンプルを結成した。一方のブロディ-イネスはエジンバラのアメン・ラー・テンプルの運営を続け、魔術作業の続行と団本来の形態の維持を希望するロンドン団員たちは、フェルキンの指導下でアマウン・テンプルを組織し、第一団の名称を《黄金の夜明け》団から《暁の星》に変更した。


5. 新たな動き――クロウリーたち

i. フェルキン博士

マサースが退団に追い込まれたために、《秘密の首領》との連環は断たれたままになってしまっていた。このことを痛感していたフェルキンを中心とするアマウン・テンプルの首領たちは、星幽的な接触でこの《秘密の首領》との連環を確保しようとした。結果、幾つかのメッセージを受信することに成功し、しかしそのために儀式を改悪することにもなった*10。だが、フェルキン博士は、このような星幽的な通信だけでは満足できなかったのである。彼は物理的接触も望んでおり、そのために一九○一年以降、欧州各地を広範囲に旅行している。一九○六年、その努力の結果、フェルキンは念願の人物に出会う。彼らは人智学協会の創立者ルドルフ・シュタイナーを指導者としていた*11。その組織の首領連とフェルキンは多量の書簡を交わし、一九一○年にはミーキンという人物*12をドイツに派遣、一九一二年の夏には夫婦*13でドイツのテンプルで儀式に参加している。夫妻はこののち、ニュージーランドに新たな《暁の星》テンプル「エメラルドの海」を設立し、一九一六年にはこの地に永住することとなる。そのとき英国を発つにあたり、博士は団体の統一を希望していた。しかしアマウン・テンプルの首領たちが霊媒行為や星幽旅行に耽溺するあまりに、自らの無意識が生み出す厳格にはまってしまい、三人中二人が精神分裂症になってしまった。そのような経緯から、フェルキンも一九一九年、テンプルの閉幕を余儀なくされた。

ii. ブロディ-イネス

ブロディ-イネスは、アメン・ラー・テンプルの管理運営を続けていたが、反乱は最初から不当なものだったとの結論に達しつつあった。彼はマサースと和解する方向で探りを入れ、最終的にはマサースを団の正当な首領にして第三団の真正代表であると受け容れるに至った。一九○八年、マサースが英国に帰還したときには、完全に和解が成立した。この頃、第一団の名称は《黄金の夜明け》から《アルファ・オメガ》*14に変更された。

iii. ウェイト

ウェイトのイシス・ウラニア・テンプルは一九一五年ないし一九一六年に、彼の手で幕を下ろしたという。原因は文書に関する内輪もめであった。彼のテンプルの主要な達成は、イヴリン・アンダーヒルとチャールズ・ウィリアムズがいたことであろう。

iv. クロウリー

一九○四年四月、クロウリーはカイロにて『法の書』を受信していた。彼はこの書の完成を以て、自分が新たな団の首領に就任することを決意する。彼が創立した団は(一九○七年)、Astrum Argentinum*15という名で、《黄金の夜明け》団儀式の若干修正版を用いた。彼は程なくして(一九○九年三月)機関誌『春秋分点』の発行を始める。この雑誌上で儀式の簡略版が紹介され、驚愕したマサースは裁判所から出版の一時的差し止め命令を勝ち取ったが、貧困のためにそれ以上の訴訟を起こせないままクロウリーの出版を許すこととなった*16。同年末、彼はカクストン・ホールでエレウシス儀礼を上演した。何誌かはこれを好意的に報じたが、『ルッキング・グラス』誌は猛烈にこれを攻撃し、このことは泥仕合的な裁判沙汰にまでもつれ込んだ。この裁判はクロウリーの団にかなりのダメージをもたらした。有能な団員を数名失ったのみならず、新人参入はほぼ皆無という状況に陥ったのである。
世間一般の通念に反し、A∴A∴には性的な要素を取り入れた儀式は存在しなかった。むしろクロウリーが性魔術を開始したのは一九一二年からである。この年に、彼は近代ドイツ聖堂騎士団と接触したのである。聖堂騎士団は、十四世紀に異端・男色・獣姦の故として弾圧され*17、ポルトガルでのみその正当性を疑われずに生き延びることが出来た。そしてそのおよそ四百年後、十八世紀中葉になると、オカルト関係者たちは奇妙にも聖堂騎士団とフリーメイソンの間には何らかの歴史的連環が存在すると決め込んだのである。そのため、当時には聖堂騎士団起源を主張する団体が多数存在することとなった。クロウリーが接触したのは東洋聖堂騎士団*18であった。彼はOTO第九位階に参入している(これは実質的に最上位階である)。OTOの創立者の一人であったカール・ケルナーの跡を継いでいたテオドール・ロイスの個人的勧誘によるものであった。ゆえにクロウリーはベルリンに赴き、「アイルランド、アイオナ、グノーシスの聖域にあるブリテン全島の至高聖王」就任の任命を受けた。これはミステリア・ミスティカ・マキシマ*19と称されるOTO英国支部の首領の正式名称である。
一九一四年後半、クロウリーがアメリカに旅立った後、ロンドンのA∴A∴は集団活動を停止している。一九一六年にロンドン警視庁がOTOロンドン本部を捜査して大量の道具を押収すると*20、A∴A∴は虫の息となった。一九二○年代、在英弟子筋がおそるおそるロッジ作業を復活させようとしたが、新聞メディアの脅迫的とも言えるクロウリー討伐キャンペーンを考慮して、計画は放棄された。
クロウリー自身の記述によれば、一九二二年に彼はOTOの首領に就任した。テオドール・ロイスが彼を後継者に指名して引退したためである。事実彼は団員の大多数から承認されていた。しかし、『法の書』が独訳されてからは、ドイツ人参入者の圧倒的多数がクロウリー承認を撤回した。以後彼らはクロウリーから独立してOTOを運営するようになる。従って、以降はOTOを自称する組織が二種存在することになったのである。――しかし両組織ともドイツでのテンプル作業は一九三七年に停止している。他のオカルト団体とともにナチスの弾圧を受けたからである。


6. マサース死後――モイナとダイアン・フォーチュン、リガルディー

i ダイアン・フォーチュン

一九一八年、マグレガー・マサースが死去している。彼の後継者は未亡人となったモイナ・マサースであった。しかし彼女の手腕たるや、全く多くの錯誤を犯し、しばしば知性を疑われるほどであった――彼女はアメリカのテンプルの首領に通信教育講座の開設を許可し、最終回で十ドルと引き替えに郵便で「参入」させることにしたのである。
おそらくはこのマサース夫人が二十年代に直面せざるを得なかった主要なトラブルは、若き霊能者にしてオカルティストであったヴァイオレット・ファース*21との関係であろう。「団の指導層は主に寡婦と白髭の老人」である故に新しい血が必要と感じた彼女は、《黄金の夜明け》体系の外陣として公開ないし準公開的協会を組織することをマサース夫人に持ちかけた。マサース夫人はこれを(驚くべきことに)受け入れ、一九二二年、《内光友愛会》が成立する*22。この運動を通じて、細々ながら《黄金の夜明け》に新人が入り始めた。マサース夫人はこうした人々を熱烈に歓迎したが――夫人はこの頃熱狂的な帝国建設者と化していた――、夫人が気がついた頃には、ダイアン・フォーチュンは既に星幽旅行に耽溺し始めており、西洋伝統の師匠連から霊媒通信を受信していた。早い話、フォーチュンはマサース帝国内に自分の小帝国を築きつつあったのであった。マサース夫人はダイアン・フォーチュンに処分を下し、彼女を退団させたが、フォーチュンは《黄金の夜明け》体系の使用に固執し、自分自身のテンプルを設立する。この組織は《暁の星》団の残存テンプルと半友好的な関係を有したが、そのために、マサース夫人はこの抵抗に対して黒魔術を以て応じ、多少の結果を残した*23
夫人と決別したダイアン・フォーチュンは、《内光友愛会》の構築に専念した。通信教育を施した後は《小密議》――《黄金の夜明け》団の第一団に相当――に参入させ、最終的には《大密議》(昔日の《ルビーの薔薇と金の十字架》団に相当する)に参入させるという手順であった。
彼女は有能な霊媒であり、彼女が受信したメッセージは、知的にも哲学的にも倫理的にも凡庸さとはとは無縁のものであり、高水準を保っていたことは特筆に値するだろう。
彼女は第二次世界大戦の直後に死去している。その後数年間は、《内光友愛会》が敷いた路線に従って活動していたが、五○年代から六○年代にかけて、改変が行われ、その結果、もはや魔術結社ではなく異端派疑似キリスト教カルトと化してしまった。

ii. リガルディー

フランシス・イスラエル・リガルディーは、全くの衝撃を与えた。彼は一九○七年の生まれであるが、一九二八年、ヨーロッパまで旅行してクロウリーの無償の秘書となってしまった。彼はクロウリーから大量の伝統魔術知識を学んだが、最終的には師と決別するに至った。クロウリーとの付き合いによって生じる緊張が限界を超えたのであろう。しかしリガルディーに於けるクロウリーの影響は多大なものであり、それは一九三二年の彼の処女作『生命の樹』によく表れている。
この書物及び続刊の『柘榴の園』は、A∴O∴と《暁の星》団に騒動をもたらした。それは、彼の書物が一種の暴露であり、英国の大手オカルト出版社から発行され、比較的大部数が出回ったためである*24。マサース夫人の死後、E・J・ラングフォード・ガースティンとトランチェル・ヘイズ*25に率いられていたA∴O∴の団員たちは特に心を悩ませた。ラングフォード・ガースティンはリガルディーに釘を刺す手紙を書いているほどである。一方のダイアン・フォーチュンは、以前の同僚の意見に異を唱えることが嫌いではないので正反対の見解をとって、リガルディーを賞賛する記事を書いた。どちらの立場を取るべきか迷っていた《暁の星》団の首領連は、ダイアン・フォーチュン宛に全面賛成であるとしたため、また一方でラングフォード・ガースティンにはダイアン・フォーチュンは実に無責任であると述べた。そして不運にも、手紙はそれぞれ間違った封筒に入れられた。
一九三四年、リガルディーは《暁の星》団に加入し、迅速な昇進を果たす。しかし同時に、団が衰退段階にあることを発見したのである。首領連は異常な高位階を誇っていたが、その主張は魔術的無能力と自分たちが教えている内容に関する無知によって裏切られていた。そうしたリガルディーが到達した結論は、是非はともかく、このままでは団の教義が滅びる、出版物にして構成のために保存するべきだというものであった。故に彼は団を去り、参入時に立てた秘密の誓いを故意に破って、《黄金の夜明け》文書の大部分を四冊の大巻に出版したのであった。
この出版の結果、《暁の星》団とA∴O∴は壊滅的なダメージを負った。両組織とも一、二年のうちに活動を停止し、秘密が容易に入手できるようになったのでもはやニオファイトを受け入れることもしなくなってしまった。A∴O∴は儀式用の東旗と西旗、およびトランチェル・ヘイズの個人用魔術道具を箱に詰め、南海岸の断崖上の庭に埋めた。


7. クロウリーの死と、彼の死後――ラッセル、パーソンズ、ハバード、ゲルマー

i. チャールズ・ラッセル

二○年代初頭、クロウリーの大麻実験に惹かれたチャールズ・ラッセルは、シチリア島のクロウリーのもとに赴いた。ここで彼は師匠と様々な諍いを引き起こしたが(彼も師匠もつきあいやすい人間ではなかったから驚くには値しないのかも知れない)、クロウリーの《テレマ僧院》に暫時滞在した後、合衆国に帰国、《グレート・ブラザーフッド・オブ・ゴッド》を設立した。これはアメリカでたちまち幾つものロッジを抱えることとなる。一説には一九三七年にこの団は閉幕したと言うが、それはラッセルの工作であるかも知れない。

ii. ジャック・パーソンズとL・ロン・ハバード

三○年代後半から四○年代にかけて、クロウリーに対する世間の関心が若干ながら復活した。そのために、彼はカリフォルニアを中心として正統的なテレマ主義の信者を獲得するに至った。パーソンズは、そうしたカリフォルニア・グループの指導者となった人物であった*26
パーソンズはロッジを見事に運営したが、一九四五年、彼はハバードという人物に出会い、緊密な交友関係を結ぶに至った*27。パーソンズはこのハバードに入れ込むようになり、一種の信用詐欺に遭うことになる。結局、パーソンズの資金を奪い取る形で団の勢力を奪い、パーソンズとハバードの関係は幕となる。

iii. カール・ゲルマー

一九四七年、クロウリーは死去した。OTOの首領職はゲルマーに譲られた。彼はクロウリーの未刊行作品の出版に尽力し、『楽々魔術』、『叡知あるいは愚行の書』が日の目を見、また『霊視と幻聴』、『虚言の書』、『777』の増補改訂版が登場したのである。ゲルマーは六○年代初頭に死去、首領職はスイス人のメッツガーに継承された。


III 英国魔術結社の影響


1. 導入――「設定」ということ

リガルディーの『英国魔術結社の興亡』を訳した江口之隆は次のように語っている。

私は以前に「《黄金の夜明け》団の近代性はその趣味的同好会性にあった」と書いたことがある。真剣に修行されている向きからは随分と叱られたものだったが、この考えはいまでも変わっていない。
今回はこれに加えて、「近代魔術の近代性は“設定”を発見したことにある」と付言したい。 *28

ここで言う「設定」とは、魔術の教義の捉え方の一つである。江口は、《黄金の夜明け》団登場以前に於いて、魔術教義は「真理」として捉えられていたと論じる。既存の宗教的観念に飽き足らなかった探求者、あるいは科学的興味から魔術を範疇に加えた者など、いずれにせよ、魔術の教義は、言わば、知られざる真理として求められていたとする。しかし、《黄金の夜明け》団の登場以降、教義は「真理」ではなく、「設定」として捉えられるようになった。「この発想の転換の契機となったものは、ブラヴァツキーが創始した神智学であり、また神智学協会スコットランド支部長であったブロディ-イネスの《黄金の夜明け》団へのタットワ導入であった」*29と言う。西洋魔術は四大元素説を中心に据えていたはずであるのにも拘わらず、大胆にもヒンズー教の五行説であるタットワを導入している点を、彼は指摘する。その理由は、「実効性」ということで言い表される。

“真理”が存在すれば、当然“虚偽”や“異端”が存在することになる。西洋伝統の四大元素説を“真理”とするならば、タットワは“虚偽”として片付けられそうなものであるが、そうならなかったのは《黄金の夜明け》団が実践的な魔術結社だったからである。すなわちタットワを実践してみて、実行を確認したがゆえの採用だった。《黄金の夜明け》団には“異端”というレッテルは存在せず、判断基準は“役に立つ”、“役に立たない”の二つであった。*30

さらに彼は、そうした「設定」への各人の対応を描いて説明し、次のように言う。

そして現在、H・P・ラヴクラフトのク・リトル・リトル神話を魔術的設定として用いる人間すら出現した。これを揶揄する向きもあろうが、私は当然の展開であったと思う。魔術教義を設定と考えた場合、その是非はまず論理的に矛盾がないかどうか、次に面白いか否かである〔傍点引用者〕。それが実行を有するか否かは、むしろ実践者の能力にかかっているのであり、設定自体の責任ではない。*31

さて、この彼の、一見破壊的とも思える教義観は、しかし、既に現代の文化的状況を見ればそれほど奇異に映るものではない。なぜなら、面白そうな設定こそが、日々練られ、出版業界の篩にかけられているのであるからである*32。趣味的同好会の人間が面白い設定を受け入れるのと、魔術結社の団員が魔術教義を受け入れるのとは、確かに一種パラレルな状況にあると見てよいだろう。前者のような状況は既に常識と化したものであるにせよ、後者の状況を前者と同じレベルに於いて見做す江口の観点は慧眼であっただろう。私はさらにこれを現代日本の文化人*33が面白い作品を受け入れる状況とも密接に関係すると考えている。
ところで、「設定」を受け入れて新たな作品を作るのに際し*34、既存の作品の「設定」をそのまま流用することは許されていない。しかし、「既存の作品」でないものからの流用は許されている。具体的に言えば、どこかで見たことのある「設定」は「パクリ」だとして排斥されるのに比べ、昔話や伝説のような、事実語られてきた物語の「設定」を使用するに際しては、それはむしろ「流用者」の力量が問われる挑戦的な課題となる*35
そこで、その「流用」する「設定」(題材)自体をこの《黄金の夜明け》団に採った作品を採り上げて紹介することで、彼ら魔術結社がどのように「活かされて」いるかを見ることにしよう。


2. みなぎ得一『足洗い邸の住人たち。』

みなぎ得一の作品『足洗い邸の住人たち。』に於いて、「クロウリー」の名前が、世界に「大召喚」という大災害を引き起こした人物として登場する。この「大召喚」によって魔界や異世界が――即ち世界そのものが――「召喚」され、世の中のバランスが崩れて三分の一の人類が死滅、そしてそれ以上の異形のものが姿を現した。そうした混沌の中から出現し、力によって全てをまとめ上げて世界を統括した秘密結社が「中央」(アー・グラ・ケイオス)である。「中央」は他者に害を為す怪異(犯罪含む)に対し「鎮伏業」という賞金稼ぎ(バウンティハンター)の制度を設け、これに充たらせた。これが、この作品の世界「設定」である。
上述の「大召喚」によって現れた異形とは、古今東西の「妖怪」や「悪魔」であり、その伝承に沿った容姿・能力を持って登場する。また単行本の巻末では作品解説ならぬ、そういった「妖怪」の紹介が為される。特に、この作品には、『レメゲトン あるいはソロモン王の小さな鍵』の72将の地獄の大公のうちの何柱かが登場するが、彼らは何らかの幾何学的とも言える紋章を背負って現れる。これは、クロウリーが『春秋分点』で明らかにした、彼らの紋章である。
また、みなぎはその他の設定を取り込むという点で興味深い作家である。登場人物たちは劇中で格闘ゲームの対戦をするが、また路上には自身たちがこれを行う施設があり、敵方の登場人物と戦うことは「格闘芸舞(カクゲー)」と呼ばれることがある。また賞金稼ぎ(ハンター)としての名前をハンター・ネームと言うが、これには様々な先行作品のタイトルが使われている。例を挙げれば、『蕃神(ラブクラフト)』、『椿姫(デュマ)』、『眠ラレヌ夜ノタメニ(ヒルティ)』、『戦争論(クラウゼビッツ)』などである。*36



IV 結語


以上、本稿は英国魔術結社の歴史を概観し、彼らが教義として「設定」した事柄が後世いかに流用されたかを垣間見た。今回採り上げた作品は実に限られた数のものでしかないが、注意深く観察すればより多くの作品中に、十九・二十世紀の魔術師たちの影響が見られることであろう。今回の彼らの歴史への瞥見が、そのような視点を読者に供給することが出来たとすれば、筆者にとって望外の喜びである。



IV 文献・ブックガイド


本稿の歴史的叙述は大きく次の著作に依った。
  •  フランシス・キング(著)、江口之隆(訳)『黄金の夜明け魔法大系5 英国魔術結社の興亡』国書刊行会

他、これを補う形で簡明な体系化としては次を参考にした。
  •  羽仁礼『図解 近代魔術』新紀元社

みなぎ得一の作品としては次のものを見よ。
  •  みなぎ得一『足洗い邸の住人たち。』一巻~(続刊)、ワニブックス
  •  みなぎ得一『大復活祭』ワニブックス
  •  みなぎ得一『いろは草紙』ワニブックス

みなぎ作品に登場する紋章がクロウリーに依拠するということは次の著作で学んだ。
  •  江口之隆『西洋魔物図鑑』翔泳社

オカルティスト、或いは魔術師たちを網羅的に扱った浩瀚な書物として、次のものを推奨する。なお下の版に加えて、近年では分冊版が手に入りやすいことを付言しておく。
  •  コリン・ウィルソン『オカルト』平河出版社

今回は扱うことが出来なかったが、みなぎ作品と並んで西洋魔術結社の影響が色濃いものとして次のものを掲げる。これはラヴクラフトのクトゥルー神話と、《黄金の夜明け》団の西洋魔術の融合例として興味深い。
  •  槻城ゆう子『召喚の蛮名 学園奇覯譚』エンターブレイン


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注釈

*1 本稿は、筆者が所属するサークルの新入生歓迎勉強会の一つとして2006年04月25日に発表された。

*2 フランシス・キング(著)、江口之隆(訳)『黄金の夜明け魔法大系5 英国魔術結社の興亡』国書刊行会

*3 これには当時の物質主義や、ブラヴァツキー夫人の東洋的な魔術形態への反発があるとされる。

*4 魔法名はノン・オムニス・モリアル、或いはサペーレ・アウデ。

*5 魔法名はS’Rhioghai Mo Dhream(SRMD、我が種族は王族なり)、或いはDeo Duce Comite Ferro(DDSF、神を指導者とし、剣を友とする)。

*6 魔法名はフェスティナ・レンテ、或いはデモン・エスト・デウス・インベルスス(DEDI、悪魔は神の裏側なり)。

*7 魔法名はアメン・ラーの兄弟スブ・スペ。

*8 魔法名はフィネム・レスピス。

*9 魔法名はサクラメントゥム・レギス。

*10 アニー・ホーニマンとフロレンス・ファーの衝突の原因の一つも、この儀式改悪傾向のためであったとされる。

*11 しかしこの当時のシュタイナーの組織がいかなるものであるかは定かではない。

*12 魔法名はエクス・オリエンテ・ルクス。

*13 夫人の魔法名はクアエストル・ルシス。

*14 通常は略してA・O(或いはA∴O∴)と書く。

*15 或いはA∴A∴と表記される。

*16 マサースとは、一九○四年の時点で険悪なものに転じている。クロウリーが東洋的な手法を取り入れるようマサースに接近したためである。

*17 しかし本音は彼らの莫大な富がキリスト教圏封建君主たちの貪欲を刺激したというところであろう。

*18 通常、OTOと略記する。

*19 通常、MMMと略記する。

*20 これはクロウリーのアメリカに於ける親独活動の報復とされている。

*21 彼女はダイアン・フォーチュンという筆名の方で有名である。

*22 これは公開集会、講座、雑誌発行を行う魔術指向の神智学協会に類するものである。

*23 仲いいなあ。

*24 実際、クロウリーはおよそ二十年前に『春秋分点』と『777』においてより徹底した暴露を行っていたが、こちらは両者とも私家版であり部数も少なかった。

*25 魔法名はエクス・フィデ・フォルティス。

*26 彼はカリフォルニア工科大学の設立に大いに寄与した人物であり、かつ一九三九年以来のクロウリーの弟子でもあった。

*27 ハバードは後の奇怪な科学的新興宗教サイエントロジーの創立者である。

*28 上掲書p.283。

*29 上掲書pp.283-4。

*30 上掲書p.284。

*31 上掲書p.286。

*32 多数の「妹」という設定を持った登場人物(十二人)を配した作品のあとを承けて、中等学校の教室一杯分のヒロインを用意して見せた人物を私は知っている(残念ながらその人数は失念した)。

*33 ここでは「文化的人間」というほどの意味で用いている。

*34 ここに至っては「設定」は「コンセプト」と呼んでもよいかも知れない。

*35 cf. 藤崎竜『封神演技』集英社、平野耕太『HELLSING』少年画報社、etc.

*36 みなぎは「幽波紋」を刀剣、銃器、魔法、巨大ロボットと同列の戦力として扱ってもいる。ただし「幽波紋」自体の描写は未だ作品中にはない。