Nox Occulta
英国魔術結社の歴史――そしてその影響
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匿名ユーザー
英国魔術結社の歴史――そしてその影響(*1)
I はじめに――本稿の目的と構成
さて、ではこの、さほど長いとは言えない時期の、しかも秘密結社の動向がいかなる意義を持つのか、それを述べることが本稿の第二の目的である。特に、本稿に於いては、現代日本の文化に対する影響を見る。
構成としては、まず次のIIにて《黄金の夜明け》団の歴史を概観する。このとき、その首領たちの姿を瞥見するであろう。そしてIIIに於いてその文化的影響を考察する。
今回は論じられる文化的作品に関し、幾つかの図版を用意した。適宜参照されたい。
II 英国魔術結社の興亡
まず、《黄金の夜明け》団は、主にイギリスに本部を持つ魔術結社である。これに所属した有名人としては、ノーベル文学賞のW・B・イェイツ、女優にして一時バーナード・ショーの愛人であったフロレンス・ファー、そして詩人、登山家、新宗教テレマの悪魔的預言者アレイスター・クロウリー、あるいは哲学者ベルクソンの妹で後にマサースの妻となるミナ(後にモイナ)らがいた。
古来より、魔術師と呼ばれるものは多くいた。シモン・マグスやアグリッパ、ファウスト、そして数々の錬金術師たちがいた。今回紹介する英国の魔術結社とは、それらのオカルト的な人物・結社のうち、もっとも我らに近い時代にして、かつ多大な影響を与えた潮流である。
この魔術結社に参入するものは、参入の儀式を行わねばならない。また結社には位階の制度があり、その研鑽の程度に従って位階を昇ってゆく。参入した魔術師たちはそれぞれに「魔法名」を定め、それで互いを呼び合う。魔術結社とは、そのような、一つのコミュニティなのである。
まず、ウッドフォードの友人が死去が、《黄金の夜明け》団の発端となる。彼の私文書の一部がウッドフォードの手に渡ることになり、その中に暗号で書かれたものが見出されたのである。ウッドフォードはこれの解読をウェストコットにゆだねた。ウェストコットがこの解読をこなすと、薔薇十字団的な儀式の覚え書きが得られるとともに、ニュールンベルグのアンナ・シュプレンゲルなる人物の住所が現れたのである。
ウェストコットはマサース、ウッドマンに助力を求め、シュプレンゲルとの文通を開始する。そして伝授された教義から、テンプルを設立するのである。一八八八年、《黄金の夜明け》団イシス・ウラニア・テンプルの設立である(ロンドン)。さらに短期間のうちに、その他のテンプルが設立された。ウェストン・スパー・メアのオシリス・テンプル、ブラドフォードのホルス・テンプル、エジンバラのアメン・ラー・テンプルが設立され、数年後にはマサースがパリにアハトゥール・テンプルを設立している(*3)。
一八九一年、アンナ・シュプレンゲルとの文通が途絶えた。その代わりようにして届いたドイツからの通知では、アンナ・シュプレンゲルが死去したこと、彼女の同僚は教義の伝授に(邪魔こそしないが)賛成していないこと、英国の修行者には今後は情報を与えない――団の《秘密の首領》と連環を打ち立てたいのなら、自分たちでやれ、ということであった。一八九二年、マサースは、その連関を打ち立てたとして第二団、即ち《ルビーの薔薇と金の十字架》のための儀式を示した。
一八九九年の末には、マサース政権に対する不満が高まっていた。彼の独裁と、(同性愛者として噂される)クロウリーとの親交の深まりなどによって、不満分子たちはマサース政権を仲介せずに《秘密の首領》とコンタクトしようとも考えていた。クロウリーのアデプタス・マイナー位階昇進をそっけなく拒否する。このことが亀裂を表面化させた。クロウリーは自分の容疑すら教えられずにマサースを頼る他なかった。そして実際、マサースはイシス・ウラニア・テンプルの首領たちを無視してクロウリーをアハトゥール・テンプルでアデプタス・マイナーとしたのである(一九○○年)。
そのあとは激烈なやり合いとなった。ロンドン第二団でマサースの代理をしていたフロレンス・ファーがマサースに代理を辞めたい旨の手紙を書くと、黒幕をウェストコットと睨んだマサースが手紙を寄越した。ウェストコットがシュプレンゲルと連絡を取ったというのは捏造であり、彼の元で新しい団を作らせるわけにはいかない、というのである。この書簡の内容を知らされたロンドンの首領たちは、マサースに証拠提出を要求する。が、これをマサースは断固として拒絶した。第二団首領は第三団(即ち《秘密の首領》たち)にのみ責任を有すると指摘したのである。続いて彼がフロレンス・ファーを(積極的に)解任すると、同年三月二十九日、ロンドンの陣営はこれに反抗して第二団総会を招集、マサースを首領の座から外し、団から追放した(一方クロウリーは即刻マサースに書簡を送って献身を誓っている)。
ところで、団内には秘密結社があった(秘密結社内秘密結社)。これは遙か昔一八九七年にマサースが認可したものであり、J・W・ブロディ-イネス(*7)、フロレンス・ファー、そしてウェストコットも退団するまで、グループを率いていた。そして、当時は、フロレンス・ファーのグループがこれらを吸収・合併し、最大の勢力となっていた。彼女のグループは「スフィア」として知られており、星幽界接触という手段によって第三段から先進知識を得ようとするものであった。
この運動を面白く思わないホーニマンは、アイルランドから戻ったイェイツに接近し、「スフィア」に対してともに蜂起するよう持ちかけた。詩作・演劇方面でホーニマンから援助を受けていたイェイツはこれを断り切れず、結局フロレンス・ファーに対してサークルの情報を公開してもらいたい旨を伝える。フロレンス・ファーは、これを承諾したものの、この件は(一九○一年二月の)会議に持ち出し、かつ団内グループの存在を公認させると発言した。その結果、会議派はホーニマンに敵対的となり、イェイツは彼女を守る形で態度を硬化させることとなった。ホーニマンは書記を辞任、イェイツはイシス・ウラニア・テンプルのインペレーターを辞任した。
一九○一年秋、《黄金の夜明け》団の団員たちは、全く予期もせず、また全く不名誉な形で世間の耳目を集めることとなる。死去したと思われていたアンナ・シュプレンゲルとしてマサースをだまし続けていたホロス夫人の、その夫が、暴行事件で捕まったのである。この夫婦はマサースから《黄金の夜明け》団関係の文書を借り受け――そしてそのまま逐電し、別所で《黄金の夜明け》団を騙って、少女を「参入」させた。二人は当局の手に捕まり、法廷でその状況が描写された(検事調書に残っている)。その参入の儀式の様子は、「秘密の誓い」を含め法廷で全文を読み上げられた挙げ句、数種の新聞紙上に掲載された。このことは、真正な団員たちを意気阻喪させ、多数の人々が退団していった。
この流れは、ついに団の分裂を引き起こすこととなる。《ルビーの薔薇と金の十字架》団は《三人委員会》は設置して団法を制定しようとした。この三人とは、M・W・ブラックデン、ブロディ-イネス、R・W・フェルキン博士(*8)の三人である。団を手中に収めるもくろみを立てていたA・E・ウェイト(*9)は一九○三年、ブロディ-イネスの孤立化を図ってこの団法案に反対、修正案を提出した。そして配下の達人たちに反対票を投じるように促して勝利を確認する宣言を行うと、団そのものから独立して作業しようと主張した。彼が掲げた路線は次の三点に顕著であろう。(a)現在の形態の団などには用がない。(b)《黄金の夜明け》団は儀式魔術と星幽作業を放棄して、(c)キリスト教神秘主義のみを採用すべきである、としたのである。ほどなくしてウェイトとブラックデンは同盟を組み、新たにイシス・ウラニアの名を有するテンプルを結成した。一方のブロディ-イネスはエジンバラのアメン・ラー・テンプルの運営を続け、魔術作業の続行と団本来の形態の維持を希望するロンドン団員たちは、フェルキンの指導下でアマウン・テンプルを組織し、第一団の名称を《黄金の夜明け》団から《暁の星》に変更した。
世間一般の通念に反し、A∴A∴には性的な要素を取り入れた儀式は存在しなかった。むしろクロウリーが性魔術を開始したのは一九一二年からである。この年に、彼は近代ドイツ聖堂騎士団と接触したのである。聖堂騎士団は、十四世紀に異端・男色・獣姦の故として弾圧され(*17)、ポルトガルでのみその正当性を疑われずに生き延びることが出来た。そしてそのおよそ四百年後、十八世紀中葉になると、オカルト関係者たちは奇妙にも聖堂騎士団とフリーメイソンの間には何らかの歴史的連環が存在すると決め込んだのである。そのため、当時には聖堂騎士団起源を主張する団体が多数存在することとなった。クロウリーが接触したのは東洋聖堂騎士団(*18)であった。彼はOTO第九位階に参入している(これは実質的に最上位階である)。OTOの創立者の一人であったカール・ケルナーの跡を継いでいたテオドール・ロイスの個人的勧誘によるものであった。ゆえにクロウリーはベルリンに赴き、「アイルランド、アイオナ、グノーシスの聖域にあるブリテン全島の至高聖王」就任の任命を受けた。これはミステリア・ミスティカ・マキシマ(*19)と称されるOTO英国支部の首領の正式名称である。
一九一四年後半、クロウリーがアメリカに旅立った後、ロンドンのA∴A∴は集団活動を停止している。一九一六年にロンドン警視庁がOTOロンドン本部を捜査して大量の道具を押収すると(*20)、A∴A∴は虫の息となった。一九二○年代、在英弟子筋がおそるおそるロッジ作業を復活させようとしたが、新聞メディアの脅迫的とも言えるクロウリー討伐キャンペーンを考慮して、計画は放棄された。
クロウリー自身の記述によれば、一九二二年に彼はOTOの首領に就任した。テオドール・ロイスが彼を後継者に指名して引退したためである。事実彼は団員の大多数から承認されていた。しかし、『法の書』が独訳されてからは、ドイツ人参入者の圧倒的多数がクロウリー承認を撤回した。以後彼らはクロウリーから独立してOTOを運営するようになる。従って、以降はOTOを自称する組織が二種存在することになったのである。――しかし両組織ともドイツでのテンプル作業は一九三七年に停止している。他のオカルト団体とともにナチスの弾圧を受けたからである。
おそらくはこのマサース夫人が二十年代に直面せざるを得なかった主要なトラブルは、若き霊能者にしてオカルティストであったヴァイオレット・ファース(*21)との関係であろう。「団の指導層は主に寡婦と白髭の老人」である故に新しい血が必要と感じた彼女は、《黄金の夜明け》体系の外陣として公開ないし準公開的協会を組織することをマサース夫人に持ちかけた。マサース夫人はこれを(驚くべきことに)受け入れ、一九二二年、《内光友愛会》が成立する(*22)。この運動を通じて、細々ながら《黄金の夜明け》に新人が入り始めた。マサース夫人はこうした人々を熱烈に歓迎したが――夫人はこの頃熱狂的な帝国建設者と化していた――、夫人が気がついた頃には、ダイアン・フォーチュンは既に星幽旅行に耽溺し始めており、西洋伝統の師匠連から霊媒通信を受信していた。早い話、フォーチュンはマサース帝国内に自分の小帝国を築きつつあったのであった。マサース夫人はダイアン・フォーチュンに処分を下し、彼女を退団させたが、フォーチュンは《黄金の夜明け》体系の使用に固執し、自分自身のテンプルを設立する。この組織は《暁の星》団の残存テンプルと半友好的な関係を有したが、そのために、マサース夫人はこの抵抗に対して黒魔術を以て応じ、多少の結果を残した(*23)。
夫人と決別したダイアン・フォーチュンは、《内光友愛会》の構築に専念した。通信教育を施した後は《小密議》――《黄金の夜明け》団の第一団に相当――に参入させ、最終的には《大密議》(昔日の《ルビーの薔薇と金の十字架》団に相当する)に参入させるという手順であった。
彼女は有能な霊媒であり、彼女が受信したメッセージは、知的にも哲学的にも倫理的にも凡庸さとはとは無縁のものであり、高水準を保っていたことは特筆に値するだろう。
彼女は第二次世界大戦の直後に死去している。その後数年間は、《内光友愛会》が敷いた路線に従って活動していたが、五○年代から六○年代にかけて、改変が行われ、その結果、もはや魔術結社ではなく異端派疑似キリスト教カルトと化してしまった。
この書物及び続刊の『柘榴の園』は、A∴O∴と《暁の星》団に騒動をもたらした。それは、彼の書物が一種の暴露であり、英国の大手オカルト出版社から発行され、比較的大部数が出回ったためである(*24)。マサース夫人の死後、E・J・ラングフォード・ガースティンとトランチェル・ヘイズ(*25)に率いられていたA∴O∴の団員たちは特に心を悩ませた。ラングフォード・ガースティンはリガルディーに釘を刺す手紙を書いているほどである。一方のダイアン・フォーチュンは、以前の同僚の意見に異を唱えることが嫌いではないので正反対の見解をとって、リガルディーを賞賛する記事を書いた。どちらの立場を取るべきか迷っていた《暁の星》団の首領連は、ダイアン・フォーチュン宛に全面賛成であるとしたため、また一方でラングフォード・ガースティンにはダイアン・フォーチュンは実に無責任であると述べた。そして不運にも、手紙はそれぞれ間違った封筒に入れられた。
一九三四年、リガルディーは《暁の星》団に加入し、迅速な昇進を果たす。しかし同時に、団が衰退段階にあることを発見したのである。首領連は異常な高位階を誇っていたが、その主張は魔術的無能力と自分たちが教えている内容に関する無知によって裏切られていた。そうしたリガルディーが到達した結論は、是非はともかく、このままでは団の教義が滅びる、出版物にして構成のために保存するべきだというものであった。故に彼は団を去り、参入時に立てた秘密の誓いを故意に破って、《黄金の夜明け》文書の大部分を四冊の大巻に出版したのであった。
この出版の結果、《暁の星》団とA∴O∴は壊滅的なダメージを負った。両組織とも一、二年のうちに活動を停止し、秘密が容易に入手できるようになったのでもはやニオファイトを受け入れることもしなくなってしまった。A∴O∴は儀式用の東旗と西旗、およびトランチェル・ヘイズの個人用魔術道具を箱に詰め、南海岸の断崖上の庭に埋めた。
パーソンズはロッジを見事に運営したが、一九四五年、彼はハバードという人物に出会い、緊密な交友関係を結ぶに至った(*27)。パーソンズはこのハバードに入れ込むようになり、一種の信用詐欺に遭うことになる。結局、パーソンズの資金を奪い取る形で団の勢力を奪い、パーソンズとハバードの関係は幕となる。
III 英国魔術結社の影響
私は以前に「《黄金の夜明け》団の近代性はその趣味的同好会性にあった」と書いたことがある。真剣に修行されている向きからは随分と叱られたものだったが、この考えはいまでも変わっていない。
今回はこれに加えて、「近代魔術の近代性は“設定”を発見したことにある」と付言したい。 (*28)
“真理”が存在すれば、当然“虚偽”や“異端”が存在することになる。西洋伝統の四大元素説を“真理”とするならば、タットワは“虚偽”として片付けられそうなものであるが、そうならなかったのは《黄金の夜明け》団が実践的な魔術結社だったからである。すなわちタットワを実践してみて、実行を確認したがゆえの採用だった。《黄金の夜明け》団には“異端”というレッテルは存在せず、判断基準は“役に立つ”、“役に立たない”の二つであった。(*30)
そして現在、H・P・ラヴクラフトのク・リトル・リトル神話を魔術的設定として用いる人間すら出現した。これを揶揄する向きもあろうが、私は当然の展開であったと思う。魔術教義を設定と考えた場合、その是非はまず論理的に矛盾がないかどうか、次に面白いか否かである〔傍点引用者〕。それが実行を有するか否かは、むしろ実践者の能力にかかっているのであり、設定自体の責任ではない。(*31)
ところで、「設定」を受け入れて新たな作品を作るのに際し(*34)、既存の作品の「設定」をそのまま流用することは許されていない。しかし、「既存の作品」でないものからの流用は許されている。具体的に言えば、どこかで見たことのある「設定」は「パクリ」だとして排斥されるのに比べ、昔話や伝説のような、事実語られてきた物語の「設定」を使用するに際しては、それはむしろ「流用者」の力量が問われる挑戦的な課題となる(*35)。
そこで、その「流用」する「設定」(題材)自体をこの《黄金の夜明け》団に採った作品を採り上げて紹介することで、彼ら魔術結社がどのように「活かされて」いるかを見ることにしよう。
上述の「大召喚」によって現れた異形とは、古今東西の「妖怪」や「悪魔」であり、その伝承に沿った容姿・能力を持って登場する。また単行本の巻末では作品解説ならぬ、そういった「妖怪」の紹介が為される。特に、この作品には、『レメゲトン あるいはソロモン王の小さな鍵』の72将の地獄の大公のうちの何柱かが登場するが、彼らは何らかの幾何学的とも言える紋章を背負って現れる。これは、クロウリーが『春秋分点』で明らかにした、彼らの紋章である。
また、みなぎはその他の設定を取り込むという点で興味深い作家である。登場人物たちは劇中で格闘ゲームの対戦をするが、また路上には自身たちがこれを行う施設があり、敵方の登場人物と戦うことは「格闘芸舞(カクゲー)」と呼ばれることがある。また賞金稼ぎ(ハンター)としての名前をハンター・ネームと言うが、これには様々な先行作品のタイトルが使われている。例を挙げれば、『蕃神(ラブクラフト)』、『椿姫(デュマ)』、『眠ラレヌ夜ノタメニ(ヒルティ)』、『戦争論(クラウゼビッツ)』などである。(*36)
IV 結語
IV 文献・ブックガイド
- フランシス・キング(著)、江口之隆(訳)『黄金の夜明け魔法大系5 英国魔術結社の興亡』国書刊行会
- 羽仁礼『図解 近代魔術』新紀元社
- みなぎ得一『足洗い邸の住人たち。』一巻~(続刊)、ワニブックス
- みなぎ得一『大復活祭』ワニブックス
- みなぎ得一『いろは草紙』ワニブックス
- 江口之隆『西洋魔物図鑑』翔泳社
- コリン・ウィルソン『オカルト』平河出版社
- 槻城ゆう子『召喚の蛮名 学園奇覯譚』エンターブレイン
- ぬいた(*´ω`)♪ http://l7i7.com/ -- 俺だ (2012-01-05 00:48:17)