Nox Occulta
『神秘学概論』要約――本文 (1)
最終更新:
nox-occulta
-
view
神秘学概論
初版のまえがき(一九○九年)……9
《否定派への反論と、肯定派へのたしなめ》
本書のような内容を持つ書物を世に出す際には、世人から頭ごなしに否定される可能性がある、ということは承知している。しかし本書は、私がかつて従事していた物理学の研究から得た現実の(例えば熱に関する)事柄を、霊学の立場から述べ直しているに過ぎない。そしてその内容は、哲学の領域に於ける吟味にも耐えうるものである。私はこれまでに哲学的な著作を発表してきたが、それらと、本書は矛盾するものではない。
その一方で、本書を鵜呑みにしたがる読者も注意すべきである。というのも、本書の内容は盲信すべきものではなく、寧ろ(感覚世界には)囚われぬ理性と健全な真理感情で以て、理解すべきものだからである。
《否定派への反論と、肯定派へのたしなめ》
本書のような内容を持つ書物を世に出す際には、世人から頭ごなしに否定される可能性がある、ということは承知している。しかし本書は、私がかつて従事していた物理学の研究から得た現実の(例えば熱に関する)事柄を、霊学の立場から述べ直しているに過ぎない。そしてその内容は、哲学の領域に於ける吟味にも耐えうるものである。私はこれまでに哲学的な著作を発表してきたが、それらと、本書は矛盾するものではない。
その一方で、本書を鵜呑みにしたがる読者も注意すべきである。というのも、本書の内容は盲信すべきものではなく、寧ろ(感覚世界には)囚われぬ理性と健全な真理感情で以て、理解すべきものだからである。
四版のまえがき(一九一三年)……18
《超感覚的世界への参入可能性と、超感覚的認識の客観性》
超感覚的世界に関する事柄を知ることは人間の知性には出来ないと思うのは間違っている。まず少なくとも人生の意義という問題はこの超感覚的世界と関わりを持たない限り解くことの出来ぬものである。そして、たしかに通常の科学研究に使用するような認識は感覚的な世界に限界付けられており、それを越えることは出来ないにせよ、人間の認識能力を強化することが出来る(生物の細胞を研究する際の状況が類比的である。たしかに肉眼では細胞を検分することが出来ないが、我々の認識は肉眼でのものに留まらない)。その際の方法が、本書で述べる瞑想・集中なのである。
本書の「高次の諸世界の認識」に於いて述べられる内容は、個々人の区別を超えて、誰にとっても同じ仕方で現れるものである。そしてその故に、この「超感覚的認識」は単なる主観的で神秘的な体験とは異なる。本書が語る内容は、客観的なものとして体験されるのである。――現代の思考習慣からすれば理解しがたいかも知れないが。
《超感覚的世界への参入可能性と、超感覚的認識の客観性》
超感覚的世界に関する事柄を知ることは人間の知性には出来ないと思うのは間違っている。まず少なくとも人生の意義という問題はこの超感覚的世界と関わりを持たない限り解くことの出来ぬものである。そして、たしかに通常の科学研究に使用するような認識は感覚的な世界に限界付けられており、それを越えることは出来ないにせよ、人間の認識能力を強化することが出来る(生物の細胞を研究する際の状況が類比的である。たしかに肉眼では細胞を検分することが出来ないが、我々の認識は肉眼でのものに留まらない)。その際の方法が、本書で述べる瞑想・集中なのである。
本書の「高次の諸世界の認識」に於いて述べられる内容は、個々人の区別を超えて、誰にとっても同じ仕方で現れるものである。そしてその故に、この「超感覚的認識」は単なる主観的で神秘的な体験とは異なる。本書が語る内容は、客観的なものとして体験されるのである。――現代の思考習慣からすれば理解しがたいかも知れないが。
七版から十五版での序言(一九二○年)……26
《旧版からの変更》
第一章「神秘学の性格」を殆ど書き換えた。
《旧版からの変更》
第一章「神秘学の性格」を殆ど書き換えた。
十六版から二十版までの序言(一九二五年)……28
《本書の文体と、「神秘」の謂い、そして用語について》
私はこの『神秘学概論』を、未だ超感覚的認識に親しんではいない人にもその内容を理解できるように書こうとしていた。霊界に由来する内容を、通常思考する形式で思考し、述べるならば、それはそうした人々にも理解可能なものとなる(但し、その内容を保持したままでなければならないが)。私が、敢えて集中して思考し、内容を熟考しなければならないような文体で本書を書いたのは、そうした思考の作業こそが、魂の力を強める方法だからである。
「神秘学」は、外なる自然の中には知覚されず、魂の内面を霊の方向に向けるときにのみ知覚されるような、「神秘」と呼ばれているものについての知識を扱う。それ故、「学」として公開すべきものを「神秘」のままに隠しておく、ということの謂いではない。
ここで扱われる内容は、全く以て私自身の直観の結果であり、他から借りてこられたものではない。これは、始めは単に私の「直観内容」と呼ぶべきものであった。しかし、他人に言葉で伝えるときには適当な名前が必要であろうから、私は霊界についての既存の文献から用語を拝借したのである。
《本書の文体と、「神秘」の謂い、そして用語について》
私はこの『神秘学概論』を、未だ超感覚的認識に親しんではいない人にもその内容を理解できるように書こうとしていた。霊界に由来する内容を、通常思考する形式で思考し、述べるならば、それはそうした人々にも理解可能なものとなる(但し、その内容を保持したままでなければならないが)。私が、敢えて集中して思考し、内容を熟考しなければならないような文体で本書を書いたのは、そうした思考の作業こそが、魂の力を強める方法だからである。
「神秘学」は、外なる自然の中には知覚されず、魂の内面を霊の方向に向けるときにのみ知覚されるような、「神秘」と呼ばれているものについての知識を扱う。それ故、「学」として公開すべきものを「神秘」のままに隠しておく、ということの謂いではない。
ここで扱われる内容は、全く以て私自身の直観の結果であり、他から借りてこられたものではない。これは、始めは単に私の「直観内容」と呼ぶべきものであった。しかし、他人に言葉で伝えるときには適当な名前が必要であろうから、私は霊界についての既存の文献から用語を拝借したのである。
神秘学の性格……37
《神秘学の対象、探求の方法、自然科学との差異、二つのテーゼ、人々への寄与、教授の順序》
神秘学が対象とするのは、感覚及び感覚に結びついた思考でもって宇宙を認識するときには必ず抜け落ちてしまうようなものである。感覚には開示されずに残るものを、「神秘のもの」と呼んでいるのである。神秘学は、これを開示し、適切な認識の仕方を教え、「秘密」でなくする学である。ここでは、学問(科学)はその対象によってではなく、その方法によってそれ以外と区別されるべきであると想定している。
我々は、自然物の認識に於いては、その対象によってよく導かれている〔即ち、その対象を当て込みや偏見によって歪曲して受け取ることが少ない〕。神秘学的な探求を行うときにもこのような態度が必要である。これが成功するとき、誰しもが納得するような(超感覚的世界に関する)事実を得ることが出来る。
霊学(神秘学)と自然科学との差異は、その入門段階に於いて顕著に表れる。それは、神秘学の対象が、魂の活動に存しているからである。霊学が事実として述べ挙げるのは、魂の活動を通してしか知覚することの出来ないものである。それ故、霊学者はそれを発見する手段についても語る。魂が如何に活動すればそれを発見することが出来るか、ということが、即ちその事実の証明として機能するからである。感覚的な諸事象についての著作はその対象について述べるが、神秘学書は読者にその対象の事実を体験させる(*1)。
神秘学は、次の二つのテーゼを基礎とする。即ち、(i) 可視的な世界の背後には不可視的な世界があり、はじめは感覚とその感覚に結びついた思考にとって隠された世界であるということと、(ii) 人間の中にまどろんでいる能力を開発すれば、この隠された世界に参入することが万人にとって可能であるということ、である。感覚世界の諸事象を認識する方法のみが人間にとって可能な認識方法であると考え、否定的な意見に固執する人は、他の認識の方法があるということを知るべきであり、少なくとも自分の知らないこと〔超感覚的世界の内容〕について、それが存在するかしないかを云々してはいけない。また、超感覚的世界の内容へは個々人がそれぞれ自分で到達しなければならないとは言え、その方法が成功すれば、各人の理解は一致するはずである。人々の見解に相違があるとしたら、それは学問的に確かな方法に沿っていないからである。
霊学による認識は、人々の人生に幸せを与える。そればかりではなく、全世界の幸福とも関わっている。神秘学的な考察を経れば、己の力を正しい仕方で発揮できていない人物は世界中のあらゆる存在に害を与えていると理解できるようになる。超感覚的なものの認識は人々に強さと確かさを与え、人々はそこから慰めと力づけとを得る。
本書はまず、超感覚的な世界の内容を語る(第一部)。そしてそののちにその内容を得る方法を語る(第二部)。まず読者は、超感覚的な世界についての共同認識者となり、次いで超感覚的な世界に於ける自立した認識者となるのである。
《神秘学の対象、探求の方法、自然科学との差異、二つのテーゼ、人々への寄与、教授の順序》
神秘学が対象とするのは、感覚及び感覚に結びついた思考でもって宇宙を認識するときには必ず抜け落ちてしまうようなものである。感覚には開示されずに残るものを、「神秘のもの」と呼んでいるのである。神秘学は、これを開示し、適切な認識の仕方を教え、「秘密」でなくする学である。ここでは、学問(科学)はその対象によってではなく、その方法によってそれ以外と区別されるべきであると想定している。
我々は、自然物の認識に於いては、その対象によってよく導かれている〔即ち、その対象を当て込みや偏見によって歪曲して受け取ることが少ない〕。神秘学的な探求を行うときにもこのような態度が必要である。これが成功するとき、誰しもが納得するような(超感覚的世界に関する)事実を得ることが出来る。
霊学(神秘学)と自然科学との差異は、その入門段階に於いて顕著に表れる。それは、神秘学の対象が、魂の活動に存しているからである。霊学が事実として述べ挙げるのは、魂の活動を通してしか知覚することの出来ないものである。それ故、霊学者はそれを発見する手段についても語る。魂が如何に活動すればそれを発見することが出来るか、ということが、即ちその事実の証明として機能するからである。感覚的な諸事象についての著作はその対象について述べるが、神秘学書は読者にその対象の事実を体験させる(*1)。
神秘学は、次の二つのテーゼを基礎とする。即ち、(i) 可視的な世界の背後には不可視的な世界があり、はじめは感覚とその感覚に結びついた思考にとって隠された世界であるということと、(ii) 人間の中にまどろんでいる能力を開発すれば、この隠された世界に参入することが万人にとって可能であるということ、である。感覚世界の諸事象を認識する方法のみが人間にとって可能な認識方法であると考え、否定的な意見に固執する人は、他の認識の方法があるということを知るべきであり、少なくとも自分の知らないこと〔超感覚的世界の内容〕について、それが存在するかしないかを云々してはいけない。また、超感覚的世界の内容へは個々人がそれぞれ自分で到達しなければならないとは言え、その方法が成功すれば、各人の理解は一致するはずである。人々の見解に相違があるとしたら、それは学問的に確かな方法に沿っていないからである。
霊学による認識は、人々の人生に幸せを与える。そればかりではなく、全世界の幸福とも関わっている。神秘学的な考察を経れば、己の力を正しい仕方で発揮できていない人物は世界中のあらゆる存在に害を与えていると理解できるようになる。超感覚的なものの認識は人々に強さと確かさを与え、人々はそこから慰めと力づけとを得る。
本書はまず、超感覚的な世界の内容を語る(第一部)。そしてそののちにその内容を得る方法を語る(第二部)。まず読者は、超感覚的な世界についての共同認識者となり、次いで超感覚的な世界に於ける自立した認識者となるのである。
人間性の本質……57
《人間に於ける体の三分肢と、魂の三分肢。四つの人間本性》
人間の「肉体」は、死すれば鉱物と同じあり方を示すようになる。即ち、人間を鉱物と区別するところのものは、肉体以外の人間本性である。生きている人間に於いては、感覚的な認識からは隠されている部分が肉体の鉱物的な素材の力に抵抗している。この、肉体を崩壊させぬように働き掛けているものを「エーテル体」、或いは「生命体」と呼ぶ。このエーテル体は、感覚的な認識によってはその作用(即ち肉体内に存在する鉱物素材に一定の生きた形態を与える働き)しか認めることが出来ない。そして肉体の各部はエーテル体の各部の働きによって維持されている。人間は肉体を鉱物と共有しているように、エーテル体を植物と共有している。そして全ての生き物は、エーテル体を保持していると言ってよい。
肉体のみを備えた人間が死の状態にあるように、肉体とエーテル体のみを備えた人間は、眠りの状態にある。この没意識状態から意識を目覚めさせるものが、超感覚的な認識の意味での第三の人間本性、即ち「アストラル体」である。人間が睡眠するとき、アストラル体はエーテル体と離れて存在している。人間はこのアストラル体を、動物と共有している。それ故、植物は常に睡眠状態にあると言える。神秘学は、体はこれら肉体・エーテル体・アストラル体の三分肢から成立すると語る。
第四の人間本性が「自我」である。これこそが、動物と人間を決定的に分かつものである。自我は、想起を可能にする。これの故にこそ、人間は体験している対象が変化することを理解できるようになる。自我を持たない諸動物は、如何に記憶力を有しているように見えようとも、それを有してはいない。この自我が人間から離れるとき、そのことは忘却という現象として知られることになる。
さて、ここに至って体的なものと魂的なものとを区別することが出来る。自己にとって外的な対象を意識に現れさせる働きを持つアストラル体は体的であり、その意識を持続させるものは、魂なのである。例えば、記憶〔自我〕は外的な対象が去っても、その印象を呼び起こすことが出来る。とは言え、感覚的な対象についてはアストラル体とそのための魂が深く結びついているため、アストラル体を「魂体」と呼び、アストラル体に結びついている魂を「感覚魂」と呼ぶことも出来る。一方自我は、感覚的なものについての記憶を利用しながらその記憶について思考することが出来る。そのため、これには「感覚魂」ではなく、「悟性魂」、もしくは「心情魂」の名を与えておこう。そして「意識魂」と神秘学が呼ぶ魂の部分がある。これは、その当人のみが名指すことの出来る魂の部分(「私」)であり、これは魂の外と何らの関わりを持たない。その意味で、この部分は神になぞらえることが出来る。神秘学は魂を、これら感覚魂・悟性魂・意識魂の三分肢から成立していると述べる。
《人間に於ける体の三分肢と、魂の三分肢。四つの人間本性》
人間の「肉体」は、死すれば鉱物と同じあり方を示すようになる。即ち、人間を鉱物と区別するところのものは、肉体以外の人間本性である。生きている人間に於いては、感覚的な認識からは隠されている部分が肉体の鉱物的な素材の力に抵抗している。この、肉体を崩壊させぬように働き掛けているものを「エーテル体」、或いは「生命体」と呼ぶ。このエーテル体は、感覚的な認識によってはその作用(即ち肉体内に存在する鉱物素材に一定の生きた形態を与える働き)しか認めることが出来ない。そして肉体の各部はエーテル体の各部の働きによって維持されている。人間は肉体を鉱物と共有しているように、エーテル体を植物と共有している。そして全ての生き物は、エーテル体を保持していると言ってよい。
肉体のみを備えた人間が死の状態にあるように、肉体とエーテル体のみを備えた人間は、眠りの状態にある。この没意識状態から意識を目覚めさせるものが、超感覚的な認識の意味での第三の人間本性、即ち「アストラル体」である。人間が睡眠するとき、アストラル体はエーテル体と離れて存在している。人間はこのアストラル体を、動物と共有している。それ故、植物は常に睡眠状態にあると言える。神秘学は、体はこれら肉体・エーテル体・アストラル体の三分肢から成立すると語る。
第四の人間本性が「自我」である。これこそが、動物と人間を決定的に分かつものである。自我は、想起を可能にする。これの故にこそ、人間は体験している対象が変化することを理解できるようになる。自我を持たない諸動物は、如何に記憶力を有しているように見えようとも、それを有してはいない。この自我が人間から離れるとき、そのことは忘却という現象として知られることになる。
さて、ここに至って体的なものと魂的なものとを区別することが出来る。自己にとって外的な対象を意識に現れさせる働きを持つアストラル体は体的であり、その意識を持続させるものは、魂なのである。例えば、記憶〔自我〕は外的な対象が去っても、その印象を呼び起こすことが出来る。とは言え、感覚的な対象についてはアストラル体とそのための魂が深く結びついているため、アストラル体を「魂体」と呼び、アストラル体に結びついている魂を「感覚魂」と呼ぶことも出来る。一方自我は、感覚的なものについての記憶を利用しながらその記憶について思考することが出来る。そのため、これには「感覚魂」ではなく、「悟性魂」、もしくは「心情魂」の名を与えておこう。そして「意識魂」と神秘学が呼ぶ魂の部分がある。これは、その当人のみが名指すことの出来る魂の部分(「私」)であり、これは魂の外と何らの関わりを持たない。その意味で、この部分は神になぞらえることが出来る。神秘学は魂を、これら感覚魂・悟性魂・意識魂の三分肢から成立していると述べる。
《霊について。三つの霊的な人間本性、そして人間の七区分》
「私」なる意識魂を理解・知覚しようとするならば、「私」の本性を自分の内部の奥底から取り出してくるのでなければならない。この、「私」を開示する力は、肉体に於いて最も低次の現れ方をし、一段上るごとに隠されたものを明らかにしてゆき、ついに「私」を開示するに至る。そのとき、魂の内奥にある霊性を露わにする。霊性は海の如くに全てを満たしており、意識魂は全ての現象に隠されて存在している霊と結びついている。
人間は、「私」〔意識魂・自我 (*2)〕が体と魂の諸分肢に新たな要素を付け加えることで霊的に高次の存在になる。まず、「私」は魂の低次の分肢に働きかけ、「私」が許さぬ限りはそれら諸分肢の中に如何なる欲望も入り込まないようにする。こうすることで、魂の全てが「私」の表現〔現れ〕になる。そもそも、人類の文化的・精神的生活はこの「私」の支配を完成させるために営まれていると言える。
順次、自我は諸分肢に働きかけることでそれらを変化させる。これは、次第により高い集中度を必要とするようになる。自我によって変化させられたアストラル体は、「霊我」と呼ばれる〔霊の第一の本性〕。これは東洋の叡智が「マナス」と呼ぶものと同一である。エーテル体は「生命霊」へと変化させられる(霊の第二の本性)。これはまた、「ブッディ」と同一のものである。そして肉体が変化させられたとき、それは「霊人」となる(第三の霊的本性)。東洋の叡智はこれを「アートマ」と呼ぶ。
感覚魂とアストラル体が密接に関係していたように、意識魂も霊我と一つの全体を成している。それは、意識魂の中の霊が、人間の他の諸本性を変化させるからである。そこで、悟性魂を自我そのものとして数えることにすれば、人間を七つに区分することが出来る。一つには肉体、二つ目にはエーテル体もしくは生命体。そして三つ目はアストラル体であり、四つ目が自我、五つ目に霊我を数え、六つ目に生命霊、七つめに霊人と続く。このように人間を七という数で分類することは、超感覚的世界の認識に慣れていない現代人にも十分受け入れられるものであろう。
「私」なる意識魂を理解・知覚しようとするならば、「私」の本性を自分の内部の奥底から取り出してくるのでなければならない。この、「私」を開示する力は、肉体に於いて最も低次の現れ方をし、一段上るごとに隠されたものを明らかにしてゆき、ついに「私」を開示するに至る。そのとき、魂の内奥にある霊性を露わにする。霊性は海の如くに全てを満たしており、意識魂は全ての現象に隠されて存在している霊と結びついている。
人間は、「私」〔意識魂・自我 (*2)〕が体と魂の諸分肢に新たな要素を付け加えることで霊的に高次の存在になる。まず、「私」は魂の低次の分肢に働きかけ、「私」が許さぬ限りはそれら諸分肢の中に如何なる欲望も入り込まないようにする。こうすることで、魂の全てが「私」の表現〔現れ〕になる。そもそも、人類の文化的・精神的生活はこの「私」の支配を完成させるために営まれていると言える。
順次、自我は諸分肢に働きかけることでそれらを変化させる。これは、次第により高い集中度を必要とするようになる。自我によって変化させられたアストラル体は、「霊我」と呼ばれる〔霊の第一の本性〕。これは東洋の叡智が「マナス」と呼ぶものと同一である。エーテル体は「生命霊」へと変化させられる(霊の第二の本性)。これはまた、「ブッディ」と同一のものである。そして肉体が変化させられたとき、それは「霊人」となる(第三の霊的本性)。東洋の叡智はこれを「アートマ」と呼ぶ。
感覚魂とアストラル体が密接に関係していたように、意識魂も霊我と一つの全体を成している。それは、意識魂の中の霊が、人間の他の諸本性を変化させるからである。そこで、悟性魂を自我そのものとして数えることにすれば、人間を七つに区分することが出来る。一つには肉体、二つ目にはエーテル体もしくは生命体。そして三つ目はアストラル体であり、四つ目が自我、五つ目に霊我を数え、六つ目に生命霊、七つめに霊人と続く。このように人間を七という数で分類することは、超感覚的世界の認識に慣れていない現代人にも十分受け入れられるものであろう。
眠りと死……85
その1……85
《睡眠に関する神秘学的説明、及び、睡眠時のアストラル体について》
人間は、睡眠に陥ると肉体とエーテル体だけを有し、アストラル体と自我とを含まぬようになる。睡眠中に意識や、思考内容、快苦が無いことは、このように説明される。こうしたとき、アストラル体と自我は、破壊されてしまっているのではなく、体を離れて魂的・霊的な環境の中で活動している。アストラル体と自我は、肉体とエーテル体の中での活動と魂的・霊的な環境での活動を交互に繰り返している。
人間の肉体が物質世界に属するように、アストラル体もアストラル界に属している。睡眠のたびにアストラル体はアストラル界に戻り、目覚めと共に肉体・エーテル体によって吸収される。アストラル体は、睡眠中には宇宙の中にあり、肉体・エーテル体の外で生きていると言ってもよい。ここで言う宇宙とは、人間全体がそこから生まれてきたような場所であり、人間形姿の源泉を有する場所である。人間はこの宇宙に調和的に組み込まれている。アストラル体はここで力を自らに蓄え、そこを離れても活動できるようにする。この力の発露が、健康な眠りの齎す爽快感である。
その1……85
《睡眠に関する神秘学的説明、及び、睡眠時のアストラル体について》
人間は、睡眠に陥ると肉体とエーテル体だけを有し、アストラル体と自我とを含まぬようになる。睡眠中に意識や、思考内容、快苦が無いことは、このように説明される。こうしたとき、アストラル体と自我は、破壊されてしまっているのではなく、体を離れて魂的・霊的な環境の中で活動している。アストラル体と自我は、肉体とエーテル体の中での活動と魂的・霊的な環境での活動を交互に繰り返している。
人間の肉体が物質世界に属するように、アストラル体もアストラル界に属している。睡眠のたびにアストラル体はアストラル界に戻り、目覚めと共に肉体・エーテル体によって吸収される。アストラル体は、睡眠中には宇宙の中にあり、肉体・エーテル体の外で生きていると言ってもよい。ここで言う宇宙とは、人間全体がそこから生まれてきたような場所であり、人間形姿の源泉を有する場所である。人間はこの宇宙に調和的に組み込まれている。アストラル体はここで力を自らに蓄え、そこを離れても活動できるようにする。この力の発露が、健康な眠りの齎す爽快感である。
その2……93
《夢について》
睡眠時、アストラル体が完全には肉体及びエーテル体から離れずにいることがある。夢が生じるのはこのときである。アストラル体が、依然感覚器官と何の関連を持たない程度には肉体と離れているけれど、エーテル体とは一定の関連を持っているとき、アストラル体の諸経過が形象となって知覚される。そしてアストラル体がエーテル体とも離れてしまうと、夢のない眠りとなる。
《夢について》
睡眠時、アストラル体が完全には肉体及びエーテル体から離れずにいることがある。夢が生じるのはこのときである。アストラル体が、依然感覚器官と何の関連を持たない程度には肉体と離れているけれど、エーテル体とは一定の関連を持っているとき、アストラル体の諸経過が形象となって知覚される。そしてアストラル体がエーテル体とも離れてしまうと、夢のない眠りとなる。
その3……97
《死の直後、死後の体験、エーテル体とアストラル体の分離》
エーテル体が肉体から切り離されることが、死である。こののちは、肉体は物質的な作用によって崩壊していく。しかし死に際してもエーテル体は崩壊するのではなく、しばらく(個人差はあるが数日間程度)はアストラル体と結びついて存在する。このときに両者を結びつけている力は、生きているあいだにも働いていた力であるが、アストラル体がエーテル体に人間の形姿を与えていたような、そのような力である。
アストラル体がエーテル体と結びついているとき、肉体とは切り離されているから最早感覚を得ることはないが、エーテル体が有する形象を過去の人生の思い出として体験する。生きているあいだに体験できるそれまでの思い出は肉体による束縛のために不完全であったが、魂にとっての人生に於ける印象は何一つ失われてはおらず、完全な思い出を体験することが出来る。
やがてエーテル体は肉体と結びついていた頃の形態を失い、アストラル体と分離する。このことは生きているあいだにも一時的ながら起こることがあり、そのとき人は、「しびれが切れる」と言う。そして死後このことが起こると、思い出も消え去る。
《死の直後、死後の体験、エーテル体とアストラル体の分離》
エーテル体が肉体から切り離されることが、死である。こののちは、肉体は物質的な作用によって崩壊していく。しかし死に際してもエーテル体は崩壊するのではなく、しばらく(個人差はあるが数日間程度)はアストラル体と結びついて存在する。このときに両者を結びつけている力は、生きているあいだにも働いていた力であるが、アストラル体がエーテル体に人間の形姿を与えていたような、そのような力である。
アストラル体がエーテル体と結びついているとき、肉体とは切り離されているから最早感覚を得ることはないが、エーテル体が有する形象を過去の人生の思い出として体験する。生きているあいだに体験できるそれまでの思い出は肉体による束縛のために不完全であったが、魂にとっての人生に於ける印象は何一つ失われてはおらず、完全な思い出を体験することが出来る。
やがてエーテル体は肉体と結びついていた頃の形態を失い、アストラル体と分離する。このことは生きているあいだにも一時的ながら起こることがあり、そのとき人は、「しびれが切れる」と言う。そして死後このことが起こると、思い出も消え去る。
その4……102
《自我が自身の願望を消去する》
死後、自我は自身の願望を消去するようになる。生きているあいだには、自我には三つの願望があった。一つは体に由来する願望である。これは体が崩壊すれば消えてしまうものである。二つ目は自我の霊的本性から発する願望である。これは体が諸器官で以て対象を開示し、霊的な体験をすることによって満たされる。そして第三のものは、感覚世界に於ける霊的でないものによって満たされるような願望である。これは言わば感覚的な願望であり、例えば美味なる食事の楽しみなどがこれに当たる。この第三の願望は、死後、満たされることがない。自我は、この願望を消去しようと努めるのである。
《自我が自身の願望を消去する》
死後、自我は自身の願望を消去するようになる。生きているあいだには、自我には三つの願望があった。一つは体に由来する願望である。これは体が崩壊すれば消えてしまうものである。二つ目は自我の霊的本性から発する願望である。これは体が諸器官で以て対象を開示し、霊的な体験をすることによって満たされる。そして第三のものは、感覚世界に於ける霊的でないものによって満たされるような願望である。これは言わば感覚的な願望であり、例えば美味なる食事の楽しみなどがこれに当たる。この第三の願望は、死後、満たされることがない。自我は、この願望を消去しようと努めるのである。
その5……108
《人生の遡行と霊界への参入》
次に死後体験するのは、死の直前から幼児期に至るまでの人生を、時間を遡行して辿り直す、というものである。このとき、物質界を対象としていた自我の欲望の結果は、全て満足感ではなく苦痛を齎す。これは、自我の欲望を消去することにも役立つ。欲望が浄化の火によって焼き尽くされると言ってもよい。
こうして人間は新しい存在段階に入り、アストラル体と分離する。自我は、感覚生活から得た霊的なもの(これは全ての体験と経験の精髄である)をその人生の成果として霊的な世界(霊界)に入る。この、霊的外界とでも言うべき環境には、自我と同質の、他の自我存在が満ちている。そして自我は、彼らと身体器官を通さず直接的に語り合うようになる。
《人生の遡行と霊界への参入》
次に死後体験するのは、死の直前から幼児期に至るまでの人生を、時間を遡行して辿り直す、というものである。このとき、物質界を対象としていた自我の欲望の結果は、全て満足感ではなく苦痛を齎す。これは、自我の欲望を消去することにも役立つ。欲望が浄化の火によって焼き尽くされると言ってもよい。
こうして人間は新しい存在段階に入り、アストラル体と分離する。自我は、感覚生活から得た霊的なもの(これは全ての体験と経験の精髄である)をその人生の成果として霊的な世界(霊界)に入る。この、霊的外界とでも言うべき環境には、自我と同質の、他の自我存在が満ちている。そして自我は、彼らと身体器官を通さず直接的に語り合うようになる。
その6……114
《霊界に於ける存在様式、諸領域、そして人間》
霊界の諸事象は、感覚界の事象と比較して理解することが出来る。例えば、感覚界で対象が色を伴って現れるように、霊界の存在も色となって自我の前に現れる。感覚界での印象に最もよく似ているのは、聴覚的な現れである。霊界に於ける生命のあり方は感覚界の音響や協和音とよく似ている。霊的存在たちは他の自我に流入することによって自己表明を行う。このとき二つの存在は、感覚界に於ける二つの存在のように互いに区別できるようには、存在していない。
まず、霊界に三つの領域を認めることが出来る。感覚界での事象になぞらえて言えば、第一の領域は、「陸地」であり、第二の領域は「海と河川の領域」、第三の領域は「大気圏」である。感覚界に於いて物質形態を取って存在するものたちの霊的本性は、第一領域の陸地に於いて知覚される。ここでは、それらは感覚界に於けるのと丁度反対のあり方をしている。例えば感覚界に於ける赤い石の霊的本性が緑のものとして体験される、といったように。第二領域の海は、感覚界に於ける全ての生命からなっている。植物・動物・人間の生命を霊的な目(霊眼)で見るとき、それらは霊界を貫いて、海や河川のように流動・循環して存在している。そして、感覚世界に於ける感情・情熱(悩みと苦しみ・喜びと楽しみ)が霊界の大気圏(第三領域)をなしている。例えば戦場を霊眼で見れば、そこは熱狂や苦悩、勝利の喜びといったものが嵐のように渦巻いているのを見て取ることが出来るだろう。
他にも、感覚世界に於ける「熱」に対比できるものを第四領域とし、また「光」に比較しうるものを第五領域として認めることが出来る。熱のように全ての事物や存在を貫いているのは、霊界に於いては思考内容そのものである。物質界に於ける人間が、自身の住まう環境に創造的・生産的な仕方で働きかけるために魂の中に生じさせる全ては、この霊界の第四領域に由来する。そして第五領域に存在するものは、叡智である。叡智は、陽光が地上の事物を照らし出すように、霊界に於ける存在を照らし出してその真の意味と霊界にとっての役割を明らかにする。
死後の人間は、霊界の第一領域に於いては、その肉体を成り立たせていた諸力の中で生き、第二領域に於いてはそのエーテル体を、そして第三領域に於いてはそのアストラル体を構成していた諸力の中で生きる。そして自我の周りには、再びアストラル体が形成される。死後に於いては、睡眠中とは異なり、霊界から自我に流れ込む力はそれを賦活するのみならず、新たに形成をも行う。形成されたアストラル体はエーテル体と肉体を必要とするようになり、人間は再生する。このとき、その自我が浄化される過程で看取された苦痛の像が、その苦痛を償おうとする力を自我に与える。このようにしてそれまでの人生が新しい人生を規定するようになるのである(この、以前の生き方とのちの生き方のあいだの法則的な関連を、「カルマ」と呼んでおこう)。
《霊界に於ける存在様式、諸領域、そして人間》
霊界の諸事象は、感覚界の事象と比較して理解することが出来る。例えば、感覚界で対象が色を伴って現れるように、霊界の存在も色となって自我の前に現れる。感覚界での印象に最もよく似ているのは、聴覚的な現れである。霊界に於ける生命のあり方は感覚界の音響や協和音とよく似ている。霊的存在たちは他の自我に流入することによって自己表明を行う。このとき二つの存在は、感覚界に於ける二つの存在のように互いに区別できるようには、存在していない。
まず、霊界に三つの領域を認めることが出来る。感覚界での事象になぞらえて言えば、第一の領域は、「陸地」であり、第二の領域は「海と河川の領域」、第三の領域は「大気圏」である。感覚界に於いて物質形態を取って存在するものたちの霊的本性は、第一領域の陸地に於いて知覚される。ここでは、それらは感覚界に於けるのと丁度反対のあり方をしている。例えば感覚界に於ける赤い石の霊的本性が緑のものとして体験される、といったように。第二領域の海は、感覚界に於ける全ての生命からなっている。植物・動物・人間の生命を霊的な目(霊眼)で見るとき、それらは霊界を貫いて、海や河川のように流動・循環して存在している。そして、感覚世界に於ける感情・情熱(悩みと苦しみ・喜びと楽しみ)が霊界の大気圏(第三領域)をなしている。例えば戦場を霊眼で見れば、そこは熱狂や苦悩、勝利の喜びといったものが嵐のように渦巻いているのを見て取ることが出来るだろう。
他にも、感覚世界に於ける「熱」に対比できるものを第四領域とし、また「光」に比較しうるものを第五領域として認めることが出来る。熱のように全ての事物や存在を貫いているのは、霊界に於いては思考内容そのものである。物質界に於ける人間が、自身の住まう環境に創造的・生産的な仕方で働きかけるために魂の中に生じさせる全ては、この霊界の第四領域に由来する。そして第五領域に存在するものは、叡智である。叡智は、陽光が地上の事物を照らし出すように、霊界に於ける存在を照らし出してその真の意味と霊界にとっての役割を明らかにする。
死後の人間は、霊界の第一領域に於いては、その肉体を成り立たせていた諸力の中で生き、第二領域に於いてはそのエーテル体を、そして第三領域に於いてはそのアストラル体を構成していた諸力の中で生きる。そして自我の周りには、再びアストラル体が形成される。死後に於いては、睡眠中とは異なり、霊界から自我に流れ込む力はそれを賦活するのみならず、新たに形成をも行う。形成されたアストラル体はエーテル体と肉体を必要とするようになり、人間は再生する。このとき、その自我が浄化される過程で看取された苦痛の像が、その苦痛を償おうとする力を自我に与える。このようにしてそれまでの人生が新しい人生を規定するようになるのである(この、以前の生き方とのちの生き方のあいだの法則的な関連を、「カルマ」と呼んでおこう)。
その7……122
《遺伝について》
このような超感覚的な視点からの考察は、感覚界に於ける人々の出自を偶然のものと見なさない。また、その人の持って生まれた才能を遺伝として説明することもない。或る血族の終わりに偉大な人物が現れたとして、寧ろ神秘学は、その人物が自分の人格のために必要な体をその血族の中に求めたことを示していると説明する。霊界に於ける経歴を背景として、その人物の出自は決められているのである。
《遺伝について》
このような超感覚的な視点からの考察は、感覚界に於ける人々の出自を偶然のものと見なさない。また、その人の持って生まれた才能を遺伝として説明することもない。或る血族の終わりに偉大な人物が現れたとして、寧ろ神秘学は、その人物が自分の人格のために必要な体をその血族の中に求めたことを示していると説明する。霊界に於ける経歴を背景として、その人物の出自は決められているのである。
その8……130
《霊学の内容は出来事の意味を変える》
霊学が語る超感覚的な諸事実は人生を論理的に理解させてくれる。たしかに説明の付かない事柄を説明できるからと言ってその理論が正しいとは限らない。しかし、霊学が語る内容は本書が後半で述べる方法によって体験することが出来る。この体験そのものが証明として機能することになる。
そして超感覚的な諸事実は、それのみならず、人生に於ける出来事の意味合いを変えることが出来る。例えば、つらい出来事をそれまでのように単なる心を苦しめる事柄ではなく、前世に於ける自分が自分に課したものだと理解することで、それは必然的で、自分が乗り越えるべき出来事だと受け取ることが出来るようになる。
《霊学の内容は出来事の意味を変える》
霊学が語る超感覚的な諸事実は人生を論理的に理解させてくれる。たしかに説明の付かない事柄を説明できるからと言ってその理論が正しいとは限らない。しかし、霊学が語る内容は本書が後半で述べる方法によって体験することが出来る。この体験そのものが証明として機能することになる。
そして超感覚的な諸事実は、それのみならず、人生に於ける出来事の意味合いを変えることが出来る。例えば、つらい出来事をそれまでのように単なる心を苦しめる事柄ではなく、前世に於ける自分が自分に課したものだと理解することで、それは必然的で、自分が乗り越えるべき出来事だと受け取ることが出来るようになる。
その9……135
《霊学と教育》
動物は生まれたときから生きる術を心得ているが、人間はそうした遺伝とは無関係に、前世に由来する内的な力を教育によって引き出すことが出来る。遺伝された素質と、その素質を通して発揮される力は異なる。教育とはこの後者に働きかけることだと言ってもよい。
《霊学と教育》
動物は生まれたときから生きる術を心得ているが、人間はそうした遺伝とは無関係に、前世に由来する内的な力を教育によって引き出すことが出来る。遺伝された素質と、その素質を通して発揮される力は異なる。教育とはこの後者に働きかけることだと言ってもよい。