キリンタ・モジパは、『月とライカと吸血姫』に登場するZIRNITRA共和国連合（ツィルニトラ）の医学者・生物学者である。彼は国家の威信をかけた宇宙開発計画「ミェチタ計画」において、特に「ノスフェラトゥ計画」（吸血鬼を宇宙飛行士の実験体として使用する計画）の医学的管理部門における中心的な役割を担った人物として描かれる。
物語の主人公であるレフ・レプスやイリナ・ルミネスクとは、訓練施設「ライカ44」において密接に関わり、国家の非人道的な側面と科学者としての良心の間で葛藤する姿が印象的なキャラクターである。
生い立ち
出自と境遇 キリンタ・モジパの出自は、ツィルニトラ共和国内でも特異なものである。彼は、共和国東部の山岳地帯に居住する少数民族「モジパ族」の出身である。モジパ族は、共和国の主流派であるスラブ系民族とは異なる独自の言語と文化、そしてアニミズムに基づく伝統医療を持つことで知られていた。
共和国成立後、これらの少数民族は「前時代的」な因習を持つ存在として、中央政府による同化政策の対象となっていた。モジパ族も例外ではなく、彼らの伝統医療は「非科学的な迷信」として弾圧され、多くの人々がそのアイデンティティを隠して生きることを余儀なくされた。
このような背景の中、キリンタは幼少期から伝統医療と近代科学の間で引き裂かれるような経験を持つ。彼は一族の長老から薬草学や独特の診断法を学びつつも、同時に共和国の義務教育によって「科学的合理主義」を徹底的に叩き込まれた。彼は一族の中で類稀な知性を発揮し、伝統を捨ててでも科学の道に進むことが、自らと一族が体制内で生き残る唯一の道であると考えるようになった。
科学アカデミーへの道 キリンタは故郷の村を離れ、首都の科学アカデミーに入学する。彼は自らの出自を隠すため、誰よりも熱心に体制のイデオロギーと科学的唯物論を学び、優秀な成績を収めた。彼の専門は生物学、特に極限環境下における生体反応の研究であった。
彼の出自が完全に秘匿されていたわけではなく、一部の上層部には知られていたとされる。しかし、彼の卓越した能力と、体制への（表向きの）絶対的な忠誠心は、彼をミェチタ計画という国家最高機密のプロジェクトに参加させるに足るものと判断された。
彼は、まだ動物実験が主流であったミェチタ計画の初期段階から参加し、宇宙空間が生物に与える影響について膨大なデータを蓄積していった。彼の冷静かつ客観的な分析能力は高く評価され、やがて彼は「N44」と呼ばれる特別な実験体を管理するチームの責任者の一人に抜擢されることとなる。
作中での活躍
N44（イリナ）との接触 物語において、キリンタ・モジパは「実験体N44」、すなわちイリナ・ルミネスクの専属医学管理官として登場する。彼の当初の任務は、吸血鬼という未知の生体サンプルが宇宙環境（およびそのための過酷な訓練）にどう反応するかを詳細に記録し、分析することであった。
彼はイリナに対し、感情を一切排した純粋な「研究対象」として接する。定期的な採血やバイタルチェック、高G訓練後のデータ分析など、彼の態度は常に冷静沈着であり、イリナを人間として扱う様子は見られない。彼は、イリナが示す吸血衝動や光への過敏な反応などを、純粋に生物学的な特異性としてのみ記録していく。
レフ・レプスへの不信と共感 キリンタの態度は、イリナの訓練教官として着任したレフ・レプスの登場によって少しずつ変化を見せ始める。レフはイリナを実験動物としてではなく、一人の「飛行士候補生」として、対等な人間として扱おうと試みる。
当初、キリンタはレフの行動を「非合理的」であり「実験の障害」であると見なしていた。彼は、レフがイリナに人間の食事を与えたり、音楽を聴かせたりといった行動が、純粋な医学的データにノイズをもたらすとして、レフに対して警告を発する場面も見られる。
しかし、レフの介入によってイリナが示す精神的な安定や、訓練成績の向上といった「データ」を目の当たりにするにつれ、キリンタは自身の科学的アプローチに疑問を抱き始める。特に、イリナがレフとの交流を通じて「人間らしさ」を取り戻していく様子は、かつて自らのアイデンティティ（モジパ族の伝統）を「非科学的」なものとして切り捨ててきたキリンタ自身の過去と重なり、彼の内面に大きな葛藤を生じさせる。
体制との静かなる抵抗 物語が中盤に進むと、国家上層部はイリナの「利用価値」を最大化するため、より過酷で非人道的な実験を要求し始める。例えば、極度のストレス下における吸血衝動の限界テストや、生命維持に最低限必要な酸素量での耐久テストなどである。
これらの要求に対し、キリンタは正面から反論することはない。彼はあくまで体制に忠実な科学者を装い、「より正確なデータを収集するためには、被験体のコンディションを安定させる必要がある」という医学的な論理を盾に、実験の延期や負荷の軽減を巧妙に進言する。
また、彼はレフが密かにイリナのために行う「非公式な」訓練や行動（例えば、模擬宇宙船での長時間滞在訓練など）を黙認するようになる。表向きは「監視のため」としながらも、実際には彼らの行動がイリナの精神状態に好影響を与えていることをデータとして認識しており、それを上層部には（意図的に）報告しない、という形での静かな抵抗を見せる。
終盤、イリナの宇宙飛行が目前に迫った際、彼女のバイタルデータの一部に「懸念すべき兆候」（極度の精神的ストレスによるもの）が現れる。キリンタは一瞬逡巡するが、最終的にそのデータを「許容範囲内の誤差」として処理し、上層部に報告する。この行動は、彼が科学的客観性を超え、自らの良心とイリナへの（医学者としての）信頼に基づいた決断を下した瞬間であった。
対戦や因縁関係
イリナ・ルミネスク 当初は純粋な研究対象であった。しかし、彼女が示す人間的な感情やレフとの絆、そして彼女自身が持つ宇宙への強い意志に触れるうち、キリンタは彼女に自らの出自（体制から異端視される存在）を重ね合わせるようになる。彼はイリナを「守る」というよりは、「科学者として、彼女が持つ可能性を正しく評価する」というスタンスを貫こうとし、それが結果として彼女を助けることにつながった。
レフ・レプス 科学的合理性を欠いた理想主義者として、当初は警戒し、不快感すら抱いていた。しかし、レフの直向きな行動が、科学的データ（イリナの状態）を好転させるという事実を前に、キリンタは自らの価値観を揺さぶられる。レフは、キリンタが心の奥底に封じ込めていた「合理性だけでは測れない人間の可能性」を体現する存在であった。
国家上層部（サガレヴィッチ等） キリンタにとって、上層部は自らの能力を認め、地位を与えてくれた存在であると同時に、自らの出自を理由に常に忠誠心を試してくる圧迫者でもあった。彼は上層部に対し、完璧な「体制側の科学者」を演じ続けることで自衛してきた。サガレヴィッチのような人物は、キリンタの出自を知った上で、あえて「異端」（吸血鬼）の管理を任せることで、彼の忠誠心を試していた節がある。キリンタの静かな抵抗は、この体制そのものへの異議申し立てでもあった。
他の技術者・研究者 彼はライカ44の他のスタッフとは意識的に距離を置いていた。特にアーニャ・シモニャンのような、純粋に宇宙への夢を語る研究者とは対照的に、キリンタは計画の暗部（イリナの扱い）を直視し続ける現実主義者として描かれる。彼は他のスタッフが抱くイリナへの差別的な視線に対し、表立って非難はしないものの、内心では強い軽蔑を抱いていた。
性格と思想
科学者としての合理性 キリンタ・モジパの基本的なスタンスは、徹底した科学的合理主義である。彼は感情やイデオロギーが科学的真実を歪めることを極端に嫌う。彼が常に冷静沈着であるのは、それが科学者として最も客観的な視点を保つための自己防衛でもある。彼は「データこそが真実を語る」という信念を持っている。
内に秘めたヒューマニズム 一方で、彼の合理主義は、自らの出自であるモジパ族の伝統（非合理的な医療）を否定することから始まっている。彼は自らのアイデンティティを抑圧することで科学者としての地位を確立したため、その根底には常に「切り捨てたもの」への負い目や葛藤が存在する。
イリナとレフの交流が示す「非合理的な力」（信頼、夢、希望）が、実際にイリナの生体データに好影響を与えるという「科学的事実」を突きつけられた時、彼の合理主義は大きく揺らぐ。彼は、自らが否定してきた「心」や「精神」といった要素もまた、科学的な分析対象として組み込むべきではないか、という新たな思想に至る。
体制への複雑な感情 彼はツィルニトラという国家体制に対し、愛憎半ばする複雑な感情を抱いている。体制は彼の一族を弾圧したが、同時に彼個人には科学者としての道を開いた。彼は体制の非人道的な側面を理解しつつも、宇宙開発という純粋な科学的偉業に貢献できることには誇りも感じている。彼にとって、イリナを宇宙へ送ることは、体制への反逆であると同時に、体制（ミェチタ計画）を「科学的に正しい形で」成功させるという、彼なりの忠誠心の表れでもあった。
物語への影響
「声なき人々」の代弁者 キリンタ・モジパは、物語の主要なテーマである「異端者の受難」において、イリナ（吸血鬼）とは異なる形の「異端者」（少数民族）を体現するキャラクターである。彼は、体制の中で声を上げることができない人々の苦悩と、その中での生き残り方を象徴している。
計画の裏の功労者 物語の表舞台でレフとイリナが夢に向かって進む一方、キリンタは体制の内部という「裏舞台」で、彼らの飛行を医学的・科学的に支える重要な役割を果たした。もし彼が純粋な体制の駒であれば、イリナは早い段階で「医学的に不適格」と判断されていた可能性が高い。彼が自らの良心に基づき、データを「解釈」し、上層部の圧力を「遅延」させたことが、イリナの宇宙飛行成功における隠れた要因の一つとなったことは間違いない。
彼は、イデオロギーや差別に満ちた冷戦時代の国家プロジェクトにおいて、最後まで科学者としての良心を失わなかった人物として、物語に深い奥行きを与えている。
