深い霧のような静けさの中、一人の男が寂れた工場の間を歩いていた。
無人のはずの夜道に、彼の囁くような呟きが虚しく響いている。
電話をしている訳ではない、男は確かに一人きりであるはずなのにどういう訳か話し声が聞こえる。

「ご、剛田さん、また眠っちゃったね。ぜ、全然起きそうにないや」
「王ちゃんがいなくなって大変な時に、仕方ないおっちゃんだなぁ。歳のせい?」
「王さんを失ったショックが大きかったんでしょう。武人同士通じるものがあったようですし」

聞こえるのは三つの声。
それらは全て本条清彦と言う男の声帯から発せられていた。

「そ、そうだよね……星宇はほ、本当に良い人だった。ぼ、僕らの大事なファミリーだったのに……」
「あらあら、清彦ってばまだ落ち込んでるの? 寂しいのは分かるけど、切り替えないと」

からかうような励ましは女の声は女性のそれである。
それは本条の中で共存するもう一人の人格、山中杏のモノだ。
その声からは弱気な男の尻を叩くような気丈さを感じさせる。

「わ、分かってるけど……僕は君ほど切り替えが早くないんだよ」
「清彦、昔からそうだよね。中学の頃からメソメソしてばかりで」
「そ、それは昔の話じゃないか、杏! 僕だって、変わろうとしてるよ……」

古いなじみであろう男女が言い合う様子は、言葉に反して互いに気を許した気のおけない関係のように見える。
これが一人芝居でなければの話だが。

「まあまあ、お二人ともケンカしないでください。私たちは家族なんですから、仲良くね?」

三つ目の人格、サリヤ・K・レストマンの声が二人をなだめる。
その声は穏やかでありながら仕切り屋の委員長の様な有無を言わせぬ迫力が込められていた。

「う、うん……サリヤが言うなら」
「ごめんごめん。清彦が情けないもんだからつい」

清彦は小さく息を吐き、僅かに歩調を緩めた。
挙動不審な様子を強め、親指の爪をかむ。

「…………で、でもさ、や、や、やっぱり早く新しい家族(ファミリー)を迎えないと。ふ、不安で仕方ないんだ」

群生は完全でなくてはならない。
そんな強迫観念染みた不安に駆られ本条は身を震わせる。

「……そうだね。二人分も空いてるからね。埋めないと」
「それなら早く探さないと。誰か素敵な人が見つかるといいね、清彦」

さきほどの様子とまるで違う淡々とした機械的な声でサリアが応じた。
杏の慰めの言葉もまた感情のない声色に包まれていた。
だが、その言葉に勇気をもらったのか清彦の瞳が僅かに輝きを増す。

「うん。そうだね。早く……早く新しい家族を見つけなきゃ……!」

狂気じみた決意の光が彼の目に宿り、清彦の足取りは再び速くなった。

「僕たちは完全でなきゃ。絶対に、欠けてちゃいけないんだ――――家族なんだから」

狂おしいまでの家族への執着。
焦燥と狂気が入り混じった独り言を繰り返しながら、本条清彦は深い闇の奥へと消えていった。


月明かりが錆びついた廃工場を薄く照らす中、無銘は静かに歩を進めていた。

彼の表情には退屈と興奮が入り混じった奇妙な感情が浮かんでいる。
超力が当たり前となった時代において、精神力の強靭さという超力のみで戦い続ける男。
それは超力社会への挑戦だと言えるだろう。

闘争を求める無銘にとって、この刑務作業は恩赦のためではなく、自身が求める『強者との戦い』に過ぎなかった。
弱者などには興味はない彼にとっては、戦い甲斐のある人間がいればそれでいい。

だが、心満足いく強敵とはいまだ出会えていない。
極上の餌を前にお預けを喰らっているような心持ちである。
精神状態を保つ超力がなければ今にも胸がはち切れそうだ。

彼は静かに息を吐き、周囲を慎重に観察する。
鍛え抜かれた肉体は、わずかな気配や音にも敏感に反応していた。
鋭敏な彼の感覚が廃工場の先に奇妙な気配を捉えて足を止めた。

(誰かいる……が、妙な気配だ)

無銘は慎重に足を止め、ゆっくりと視線を廃工場の闇に向ける。
向こうの気配は一人であるはずなのに、複数名いるような異様な気配だった。
自身の存在をまるで隠す様子がないのは狙いあっての事なのか、それとも本当にただの素人か、
その結論も出ぬうちに、薄暗い影の中からゆらりと人影が姿を現した。

「やあ、こ、こんばんは……。あ、あなた、強そうですね」

声をかけてきたのは、どこにでもいそうな平凡で地味な影の薄い男だった。
線の細い体は、とても格闘などできそうにない。
態度も挙動不審で闘争を期待する無銘からすれば期待外れな気迫の無さである。
しかし無銘の直感は、この男の異質さを強く感じ取っていた。

そもそも、このアビスにまともな人間はいない。
この一見して無害な男もまた何らかの罪を犯した大罪人だ。
それを裏付けるかのように首輪は無期懲役を示している。

油断することなく一挙手一投足を見逃さぬよう相手を凝視する。
目の前の相手は腰の曲がった姿勢で胸の前でわたわたと指を動かし、ちらちらと無銘と地面を交互にみていた。

「お前は……何者だ?」

無銘からの問いかけに、男は卑屈な笑みを浮かべながら応えた。

「ぼ、ぼ、ぼ、僕は、ほ、本条清彦です。私は山中杏よ、よろしくね。サリヤ・K・レストマンよ、よろしく」

その名乗りに、無銘の瞳が僅かに鋭さを増す。
目の前の男は、まるで複数の亡霊に取り憑かれた人形のように、次々と異なる人格を口にしていた。
本能的な危険信号が無銘の脳裏を激しく叩き、この男との邂逅がただ事では済まないことをはっきりと告げていた。

「そ、そ、そちらの、お、お名前、お聞かせください」
「名などない。無銘だ」

にべもなく端的に返す。
彼には失うべき名もなければ、背負うべき名誉もない。
対する相手は、一つの体にいくつもの名前を宿し、その名に囚われたかのような不気味さを漂わせている。
名を失った男と名に溢れた男が、今ここで対峙していた。

「む、む、無銘さん。あ、あなたもファミリーになりましょう」

それが本当に素晴らしい事であるかのような誘い文句で、不気味な笑顔を浮かべる。
口角が異様に吊り上がり、瞳の奥は虚ろな狂気を漂わせている。
禁断症状のように微かに震える指先が、抑えきれぬ興奮を物語っていた。

「意味が解らんな。いずれにせよ御免被る。だが、立ち合いならば受けて立とう」

元より無銘の返答など聞いていないのか、本条は興奮した様子で身を構える。
明らかに素人の構えだが、その不気味さだけは異常なまでに漂っている。
まるで野生動物のように前掛かりに、今にも襲い掛からんと言った体勢だった。

これに対して、無銘は構えすら取らなかった。
これは余裕でも油断でもない。
これが無銘にとっての臨戦態勢なのだ。

武術における構えとは、各武術や流派が研鑽を積み重ねて生み出した攻防における最適解である。
だが、そこには一つ、大きな問題があった。

それは最適であるが故に、行動が枠に収まるという事だ。
例えば、上半身の動きを重視したボクシングの構えではまともな蹴りなど打ち出せない。
例えば、重心を前にのみ向けた相撲の構えでは機敏なフットワークは望めない。
例えば、相手を掴むことを前提とした柔道の構えでは、打撃がないことを知らせる様なものだ。
構えには多くの積み重なった歴史が乗せられているが故に、そこから読み取れる情報も多いのだ。

だが、彼に構えなどない。
この自然体こそが彼にとっての構えである。
ゆらりと無銘の体が揺らめく。

「え…………?」

勝負は一瞬だった。

構えも予備動作もない。それ故に予測不能。
本条からすれば、無銘がいきなり目の前に現れたようにしか見えなかっただろう。

瞬間。無銘の右足が鞭のようにしなった。

立ち合いの開始から僅か2秒。
崩れ落ちるように顔面から地面に倒れる。
それは的確に顎先を掠め脳を揺らし、完全にその意識を刈り取った。

「――――――あーあ。清彦がノビちゃった」

だが、地に伏せた顔面から女の声がした。
ビキビキと音を立て巻き戻しのように、確かに意識を刈り取ったはずの相手が立ち上がる。
まるでゾンビだ。

だが、無銘はその程度の事では驚かない。
無銘は何が飛び出すかもわからない超力者相手に幾度も決闘を申し込んできた。
この経験と揺るがぬ精神性こそが無銘の武器だ。

想定外など起きて当然。
予想外など起きると予想して然るもの。
それが現代における超力戦だ。

「やっぱり、王ちゃんなしだと近接戦は厳しいんじゃない?」
「なら、遠くから攻めましょう。任せて」

二つの女の声が喋る。
相手の言動からして多重人格である可能性は高い。
だが、それが超力と直接関わっていると決めつけるのは危険だ。
その手の人格破綻者はアビスでは珍しくもない。

無銘の学んだ超力戦におけるセオリーは2通りある。
相手に超力を使用させる前に問答無用で倒す『速攻』か。
相手の超力を見極め対策を練ってから倒す『遅攻』か。
取るべくはこの2つに一つ、半端な対応は命を落とす。

そのセオリーに従い無銘は相手に何もさせることなく『速攻』により倒した。
だが、それは成功したにもかかわらず失敗した。
超力戦はこの理不尽を受け入れることから始まる。

『速攻』が失敗した以上『遅攻』に移るしかない。
無銘は相手の超力を冷静に見極めるべく、一旦距離を取った。

同じく距離を取ってきた本条が指先を無銘へと向けた。
その指先から、空気が弾丸となって撃ち出される。
その不可視の弾丸を無銘は、首を傾け最低限の動きであっさりと避けた。

指先から何かを放つ超力はよくある話だ。
指を構えるその姿勢から、初見であろうとも軌道を予測することは難くない。

続いて放たれる指鉄砲を無銘は避けるついでにザッと地面を蹴り上げる。
舞い上がった小石を空気の弾丸が弾いた。

弾ける様子からして、威力は恐らく小口径の拳銃程度。
旧時代ならいざ知らず、喰らったところで現代人にとっては致命傷にはならないだろう。

脅威判定を下し、歩を進める。
そんな無銘に向かって次々と指鉄砲が連射された。
だが、空気の弾丸はまるで無銘の体をすり抜けるように突き抜けてゆく。

「あ、当たらないよ!?」
「どうなってるのよ!」

僅かに声色が違う2つの女の声が一人の男の喉から戸惑いを漏らす。
それは余りにも効率化された動き。
必要な箇所だけを最低限に動かす様は傍から見れば、ただ歩いているようにしか見えないだろう。

散歩でもするような自然体で距離を詰めた無銘の動きは緩から急へ。
一転して鋭く、稲妻のような突きを繰り出した。
だが、

「…………強き、武士」

パシリと、その手首を掴まれた。

瞬間。無銘の重心が崩される。
無銘は咄嗟に自ら跳んで空中で一回転して、両足で地面に着地した。
そのまま後方に小さく二度跳んで距離を取る。

「もう、遅い! やっと起きたのね、剛田のおっちゃん!」
「助かりました、剛田さん」

これまでとは明らかに動きが変わった。
素人くさい動きとは段違い。身に纏う雰囲気は達人のそれだ。
青年の姿すら年老いた老人のそれに変わっていく。

だが、無銘はその変化すら意に介さず、先ほど捕まれた手首を見つめる。
自身の戦闘経験から、先ほどの動きの結論を告げた。

「ジュードーか」
「残念、柔術だよ……」

ぬるりと恐ろしいほど滑らかな動きで老人が動いた。
それは決して反応できない速さではない。
だが、来るとわかっていても反応できない虚をつく巧みな動きだった。

無銘ですら一瞬虚を突かれた。
それを、ギリギリのところで引いて身を躱す。
彼でなれば反応すらできなかっただろう。

無銘は、目の前の老人の掴みの恐ろしさを十分に理解していた。
一度でも間合いを誤り捕まれれば、たちまち地面に叩きつけられることは明白だった。
だからこそ、彼は本条に接近させまいと距離を取りつつ、アウトレンジから慎重に打撃を放つ。

無銘が間髪入れずに鋭い右の突きを繰り出した。
本条は半身でそれをかわすと、まるで誘うようにわずかに距離を詰める。
無銘はその誘いに乗らず、慎重にバックステップを踏み、再び間合いをとる。

しかし、柔道の達人は老練だった。
踏み込みの一瞬、無銘の足が止まった僅かな隙を見逃さず、これまでの巧みで緩やかな動きと違う、鋭い踏み込みで一気に間合いを詰めてくる。

それを撃退すべく反射的に無銘が放った渾身の左フックが本条の頬を捉え、その衝撃が老人の顔面を歪ませる。
だが本条はそれでも止まらなかった。
その顔には一切の躊躇がない。

そこで無銘は気づく、この老人は最初からこの一発を喰らうつもりだったのだ。
ならば止まるはずもない。

本条は打撃を受けながらも、崩れかけた姿勢を立て直し、猛然と無銘に踏み込んだ。
無銘が悪あがきのように再び右拳を叩き込もうとした瞬間、本条の左腕が蛇のように無銘の腕を捕らえた。
まるで吸い付くような掌、これこそがこの老人の超力なのだろう。
僅かに引き付けるただそれだけの超力だが、達人の技量と合わさることで凶悪なまでの威力を発揮している。

捕まった瞬間、無銘の脳裏に投げのイメージが鮮烈に浮かぶ。
その刹那、本条は既に腰を深く落とし、掴んだ無銘の腕を軸に身体を流れるように捻り込んでいた。

次の瞬間、無銘の身体は宙を舞う。
夜の草原に鈍い衝撃音が響き渡り、無銘の背中が草地を強かに打った。

しかし無銘もまた、数え切れない死闘を乗り越えてきた男である。
受け身を取って地面に落ちた瞬間に息を吐き切り、即座に態勢を整えようと動き出すが、本条はその隙を許さない。
本条の手が絡みつくように吸い付き、無銘の左腕を巧みに引き込み腕十字を狙う。
無銘は即座に右手を添え、両腕を組んで必死に防御を試みる。
数秒間、両者の筋肉が張り詰め、拮抗した緊張が草原に満ちる。

投げが決まればそこで一本勝ちとなる柔道と違い、柔術は投げ飛ばしてからの『寝技』こそが本番である。
つまり、ここからが本領だ。

本条は流れるように次の動作に移る。
強引に極めるのではなく、わざと無銘の抵抗を誘うように微妙に超力を緩める。
その誘いに乗るように、無銘が素早く腰をねじり、体勢を反転させ本条の背後を狙った。

本条は予測していたように腰を低く落として体を滑らせる。
そして、体を反転させるついでに無銘の頭部に膝を叩きこんできた。
只のクリーンな柔術家ではない、この老人はダーティーな実戦派だ。

頭部を打たれた一瞬の空白、本条は無銘の両足を絡め取って足関節技を仕掛ける。
痛みが彼の膝を鋭く突き抜けるが、超力によって無銘の精神は常に万全に保たれる。
無銘は歯を食いしばって痛みを耐えながら本条の囚人服を強引に掴み、力任せに引き寄せた。
本条の体勢が崩れ、その隙に無銘は足を引いて関節技から逃れる。

本条は巧みに重心をずらしながら、再びマウントを取りに行こうとする。
瞬間、無銘が唐突に右肩を沈め、全力で回転をかけて下から体勢を返した。
単純な力比べならば無銘に分がある。その勢いに本条の体がわずかに浮く。
無銘が両腕で本条を押し込みながら、袈裟固めの形で上から圧迫をかけ始める。

しかし、本条は冷静だった。
無銘の体がわずかに前のめりになった一瞬の隙をつき、本条はその腰に両手を差し込み、再び巧みな反転で一気に背後を取った。
無銘も即座に身をねじり、裸締めを試みる本条の腕を掴み、その動きを封じる。

二人の肉体が絡み合い、筋肉と技術、そして駆け引きが交錯する。
互いの息は荒くなり、肌から滲み出る汗が交じり合う。
柔術と打撃、力と技巧、その全てが織り成す熾烈な攻防に一瞬の余裕もない。

拮抗する力が互いの手首を掴み合ったまま固着状態へと導く。
若さゆえの筋力を発揮する無銘か、経験豊富な達人としての狡猾さを見せる本条か。

「いいえ――――――ここからは、わたしの出番よ」

次の瞬間、本条の顔は深い皺を刻んだ老爺から、美しい女の顔へと豹変した。

互いに両手を封じた状況で、柔らかな唇が無銘の唇を捕らえた。
その接触が引き金となり、超力が発動する。

それは、キスを発動条件とする魅了系超力。
山中杏の口づけを受けたものは、彼女に従う奴隷となる。
その甘い毒は、触れた者の心を瞬時に虜にし、完全な支配下に置くだろう。

剛田が動きを封じ、杏が心を奪う。
絶対的な必殺の布陣――しかし、

「悪いな、俺には効かない」

無銘の超力『我思う、故に我在り(コギトエルゴズム)』。
あらゆる精神干渉を遮断し、彼の精神は常に完全な状態を維持される。

必殺は破れ、隙を晒すのは群体の方。
達人が引っ込んだこのわずかな隙間に無銘は女の顔をした本条の喉元に肘を落とし、そのまま全体重をかけて息道を潰した。
ごぎゅ、という音。確実に殺した。その手ごたえがある。

しかし、確かに殺したはずの死体に蹴り飛ばされた。
対した力ではなかったが、足裏で押し出されたため距離が開いた。

「あっ、あ、ああ、ああっ! 杏ちゃああああん!!」

その衝撃で目を覚ましたのか、最初の顔に戻った本条の表情に狂乱が浮かぶ。
その目は見開かれ、もはや理性を完全に失っている。

「なるほどな。人格分の命と超力がある、と言ったところか」

半狂乱になる本条とは対照的に、無銘は冷徹に状況を分析する。
細部に違いはあるかもしれないが、その予測はおおよそで間違っていないだろう。

無銘が確認できた人格4つ。
柔術使いは掌の引力。
先ほどの女は口づけを条件とした精神支配。
本体がこの多重人格の運用自体が超力と考えるなら、もう一人の女は指からの空気銃となるだろう。

これで全ての超力(タネ)は割れた。
ならば全ての人格を殺し尽くせばいい。最も簡単な結論を出す。

ひとまず無銘は慎重に間合いを取った。
相手は理性を失ったことで次の動きが読みづらくなっている。

「なんて……ひどい…………っ!! ひどいです、あなた…………!」

本条は突如として大声で泣き叫び、爪を自らの顔に食い込ませて引っ掻き始める。
理性が吹き飛び、自傷行為すら躊躇しないその異様な姿は、まさに狂気そのものだった。

「人の大切な家族を奪うなんて…………ひどいッ!!」

言葉と同時に指鉄砲が激しく乱射される。
しかし、本条の動きは狂乱のために乱雑であり、無銘はそれを全て紙一重で避けていく。
素人の癇癪など彼に当たるはずもない。

だがその乱射の中、一発だけが他と違う異様な感触を持っていた。
空気の弾丸ではなく、何か重みを帯びた実体を感じさせる。

瞬時にそれを見極めた無銘はその弾丸すらも避ける。
しかし、避けたはずの弾丸が軌道を変えた――否、彼の体が不可思議な引力によってその弾丸に引き寄せられているのだ。

それは剛田宗十郎の魂が込められた、引力を持つ特別な弾丸。
無銘は咄嗟に右腕で防御するが、弾丸はそのまま肉に深々と食い込んだ。

「ぐ……っ!?」

だが、体内に打ち込まれた引力の超力が暴走する。
右腕に入り込んだ弾丸は、内側から強力な引力を発生させ肉体を吸い込み始めた。
まるで小さなブラックホールが体内で暴れ回るように、圧倒的な力で彼の身体を引き裂き始めた。

だが、無銘の反応は速かった。
体内に侵入した引力の超力が全身を巻き込む前に、彼は即座に左手で右腕の肘を掴む。
鍛え抜かれた肉体の筋力で右腕を強引にねじり、引き裂くような勢いで自らの右腕を根元から引きちぎった。

鮮血がほとばしり、激痛が全身を駆け抜ける。
だが、彼は超力によりその激痛の中でも冷静さを保ち続ける。

投げ捨てた右腕が地面に落ち、そこに留まった弾丸は工場跡に転がる瓦礫を引き寄せて巻き込みながら、激しく振動し暴走している。
あのまま、放っておけば間違いなく全身が飲み込まれていた。
無銘の咄嗟の判断は正しかっただろう。

だが、その代償はあまりに大きかった。
引きちぎった腕からは大量の血液がポンプのように流れ落ち、戦いながらでは止血のしようもない。
無銘の体は著しくバランスを崩し、呼吸が乱れ、全身の筋肉が痙攣している。
如何に精神を保てようとも肉体的反応ばかりはどうしようもない。
致命傷を避けたものの、これ以上まともに戦うことは困難だった。

「あなたも……僕のファミリーだ…………っ!!」

狂気に満ちた本条が、再び指鉄砲を向ける。
出血多量で足元がおぼつかず、思うように動かない体では避けようもない。
次の瞬間、無数の空気の弾丸が撃ち込まれた。

だが、無銘は避けた。

紙一重とはいかずとも、的確に無数の不可視の弾丸を見極め、欠けた片腕から血をまき散らしながら的確に身を躱す。
精神は刃のように研ぎ澄まされ、全てが止まって見えるようだ。
ただ肉体的な強さを求めた無銘の境地は極限を超える。
どのような弾丸でも避けられるという万能感が無銘の精神を支配した。

だが――その刹那、無銘は背後に死神を感じた。

「なっ―――!?」

敵は正面。背後に誰もいるはずもない。
だが、幾多の実戦を乗り越えてきた彼の直感が無視してはならないと警告を上げていた。
リスクを承知で正面の本条から視線を切って、背後を振り返る。

そこには、一発の弾丸迫っていた。

それは先ほど無銘の腕に撃ち込まれ、引きちぎられた右腕と共に打ち捨てられたはずの魂の弾丸だった。
魂の弾丸は外したところで止まらない。
自ら意思を持つかのように空中で蠢き、無銘の背後から再び襲い掛かる。

「くっ!」

無銘は素早く振り返り回避を試みるが、満身創痍の体では動きが鈍い。
加えて、正面からは本条が指鉄砲を乱射している。
回避しきれない空気砲が、足と肩を強かに打った。
僅かな隙を突き、魂の弾丸は彼の脇腹へと容赦なく食い込んだ。

「―――――が、はっ……!?」

弾丸の中に秘められた強烈な引力が、無銘の肉体を内側から飲み込み始めた。
その引力に引きずられ、筋肉が歪み、皮膚が内側へと凄惨に巻き込まれていく。
筋繊維が悲鳴を上げて断裂し、内臓が圧縮され、骨が軋む鈍い音が全身に響き渡る。
血管は破裂し、肉が捻じれ砕ける苦痛を、超力により精神を保つ無銘は狂う事すらできず味わい続けていた。

視界が揺れ、意識が薄れる中、彼の精神すらも引き込まれていく感覚があった。
肉体の苦痛と共に個我が消え、無数の人格と溶け合う快楽が意識を支配していく感覚。
魂が何か巨大な渦巻きに呑まれ、ラッピングされ、回転する弾倉の一室へと押し込まれる。
新たな弾丸――新たな人格としての運命を拒むことは叶わない。

全てが収束し、弾丸大の小さな欠片へと姿を変えた瞬間――ぽとり、と首輪とデジタルウォッチが地面に落ちた。
そして、剛田宗十郎の弾丸と入れ替わりとなるように、無銘が新たな人格として三番目の弾倉に収まった。

本条は荒い息をつきながら濁流のような涙を流して立ち尽くしていた。
ダメージを杏に押し付け、宗十郎の弾丸を打ち込んだ。
新たな弾丸は補充できたが、これでは採算が合わない。
彼の心は満たされない。渇きは増すばかりである。

「足りない……足りない……半分も欠けてしまった……」

欠落は埋めなくては。
欠損は埋めなくては。
喪失は埋めなくては。
隙間は埋めなくては。
空白は埋めなくては。

欠落を埋めることが彼の全てだ。
強迫観念に突き動かされるように、震える体を抱きしめる。
しかしその時、胸の奥から力強い新たな声が響いた。

「案ずるな。新たに家族に加わった俺がいる。お前を守護ってみせる」
「……………………そ、そうだね。あ、あ、ありがとう無銘さん」

新たな家族となった無銘の慰めの言葉に本条の心は立ち直る。
その台詞自体は無銘が言ってもおかしくはない台詞だろう。
だが、先ほどまで戦っていた無銘が本庄に向かってそんな言葉を吐くなどあり得ない話だ。

それは、先度死亡した山中杏も同じだった。
彼らは確かに同じ中学に通う同級生だったが、決して仲のいい同級生などではなかった。
むしろその逆、山中杏はクラスにおける女王蜂(クイーンビー)だった。
彼女はクラスの女王蜂として本条を徹底的に虐め抜いた存在だった。

故にこそ、彼は彼女を最初に弾丸にした。
それはイジメに対する恨みからではなく、彼女に対する歪んだ愛情。
ただ彼女を家族にしたかった、そんな理由で彼は彼女を弾丸にした。

これほど人格の喪失を嘆きながら、人格を武器として撃ち出す矛盾。
人格に扱いの差があるわけではない。等しく家族として愛している。
何より、近所で道場を構える宗十郎は貧弱な本条にとってあこがれの存在だった。
だからこそ、年老い病床のまま孤独死しようとしていた宗十郎に弾丸をぶち込み家族として迎えたのだ。

だが、そんな彼らも失われた。
家族を奪われることこそが彼にとっての地雷である。

「早く……早く穴を埋めないと……っ!」

焦燥に駆られたように頭を掻き毟りながら、本条は自分に言い聞かせる。
彼の中の回転するシリンダーには、未だ三つの空席が残されている。
それを完成させることだけが、本条清彦の目的だった。

【無銘 死亡】

【F-3/旧工業地帯・廃工場近く/1日目・黎明】
【本条 清彦】
[状態]:疲労(小)、喉にダメージ(大)、全身にダメージ(小)
[道具]:なし
[恩赦P]:30pt(無銘の首輪から取得)
[方針]
基本.群生として生きる。弾が減ったら装填する。
1.殺人によって足りない3発の人格を補充する。
2.それぞれの人格が抱える望みは可能な限り全員で協力して叶えたい。

※現在のシリンダー状況
Chamber1:本条清彦(男性、挙動不審な根暗、超力は影が薄く人の記憶に残りにくい程度)
Chamber2:欠番(前2番の山中杏は無銘との戦闘により死亡、超力は口づけで魅了する程度だった)
Chamber3:無銘(前3番の剛田宗十郎は弾丸として撃ち出され消滅、超力は掌に引力を生み出す程度だった)
Chamber4:欠番
Chamber5:サリヤ・K・レストマン(女性、詳細不明、超力は指先から空気銃を撃ち出す程度)
Chamber6:欠番(前6番の王星宇は呼延光との戦闘により死亡、超力は獣化する程度だった)

044.流星の申し子 投下順で読む 046.交わらぬ二つの希望
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TERMINATED 無銘 懲罰執行
砲煙弾雨 本条 清彦 復活

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最終更新:2025年04月03日 20:01