鑑日月は、かつて自分の身一つで裏社会を渡り歩いてきた。
 暴力と欲望が支配する世界に於いて、危険人物と遭遇することは当然、珍しいことではない。
 その大半は力を振りかざすことしか知らないチンピラの類だったが、中には“本物”もいた。

 彼らは力以上に、心を操る術に長けていた。他人を支配する方法を知っていた。
 何より、日月自身もそのやり方を学んだからこそ男達に取り入ることができた。
 だからこそ、彼らの危険性を骨身に染みて理解しており、そんな人間とは絶対に関わってはいけないと自らに言い聞かせていた

 それゆえ、氷月蓮との同行が始まってから、彼に強い警戒心を抱いていた。
 静かに信頼を勝ち取り、言葉巧みに外堀を埋め、他人の行動を意のままに操る。
 それはまさに、最も警戒すべき人間のやり口そのものであった。
 だが、氷月は決定的な隙を見せることなく、日月自身が己の鬱屈した心に苛まれていたこともあり、
 自分達3人が少しずつ氷月の糸に絡み取られていくのを感じ取りながらも、有効な策を講じられずにいた。

 だが、状況は変わりつつあった。
 自分に寄り添うと言ってくれた氷藤叶苗、そしてアイ。そんな彼らを受け入れ始めた自分。
 この刑務作業で初めて、日月は他者に目を向けることを始めていた。


 日月は傍らの叶苗とアイの顔をもう一度見ると、自分の頭を叩いた。錆び付いた頭のエンジンを掛け直すかのように。
 余計なことは一旦頭から追い出す。ようやくまともに回り出した頭で自分達の現状を改めて確認すると―― 頭をがしがしと搔いた。


 時間が無さすぎる。


 氷月がこの場を離れている今この時間が、彼の眼から逃れて行動できる最後のチャンスかもしれないというのに。
 この機を生かそうとも考えず、今の今までまるで動こうとしなかった自分に腹が立った。

 デジタルウォッチは、定時放送まであと30分を切ったことを示していた。
 氷月も間違いなくそれまでには戻ってくるだろう。
 残り時間は5分か、10分か。
 それまでに、今までの遅れを可能な限り取り戻さねばならない。
 日月は顔を上げ、傍らの叶苗に視線を向けた。

「叶苗、貴女って耳とか鼻も利くの?」
「へ?」

 突然の脈絡のない質問に、目を丸くする叶苗。それに構わず日月は話し続ける。

「あなたの超力、豹だったかしら? それなら遠くの音とか匂いとかも感じ取れるんじゃない?」
「えっと、うん。それはできるけど?」
「分かった。ありがとう」

 即座に立ち上がり、隠れ家の窓を次々と開け放していく。

「え、えっと、日月ちゃん?」
「こうすれば、氷月さんが帰ってきたらすぐ分かるわよね」

 叶苗に真剣な表情で向き直る日月。
 その意図をまだ掴みきれずにいた叶苗だったが、日月のその表情に引き込まれ、その瞳を見つめ返す。

「私に寄り添う、そう言ってくれたわよね」
「う、うん」
「その言葉、信じることにするわ。だから私も、自分が考えてたことを全部正直に話す」

 胸の鬱屈はひとまず脇に置く。
 自分と共に歩んでくれると言ってくれた叶苗とアイが生き延びるための策を、今、立てなければならない。

「急いで確認するわよ。私達の手札は何か、そして、生き延びる為に私達がこれからどうすべきか」


 11時55分。放送5分前。
 日月達が潜む隠れ家にノックの音が響いた。ドアが開き、氷月蓮が姿を見せる。

「時間が掛かって済まない」

 氷月の様子に一見変わったところは見られなかった。
 出ていく前と同じ穏やかな笑みを浮かべたまま、隠れ家に入る。

「お帰り、なさい。氷月さん」

 そう言って微笑む叶苗に対し、軽く手を上げて応える氷月。
 だが、叶苗が僅かに声を詰まらせたこと、また彼女が日月に寄り添うように立っている様子を見て、彼の眼に微かな変化が走った。

「……空気が少し、変わったかな? 仲良きことはなんとやら、だね」

 氷月はそう言って、ソファーのそばの椅子に腰を下ろした。

「さて、まず報告だ」

 氷月は姿勢を正し、淡々と話し始めた。

「周囲から他の人間が近付いてくる気配はなかった。近くに誰かが潜んでいる様子も無い。しばらくはまだ安全だと思う。
 それと、食料は残念だけど見つからなかった。一応、ロープや金属缶なんかを幾つか見つけたから、外に置いてきた。
 大したことは出来なくて済まない」
「いやそんな…… 充分です」

 頭を下げる叶苗に微笑んで会釈する氷月。
 だが次の言葉と共に、表情が真剣なものに変わった。

「……気を付けよう。そろそろ時間だ」

 瞬間、部屋の空気が一瞬にして張り詰めた。
 デジタルウォッチは11:59を示している。
 アイを除く3人は息を呑み、聞き耳を立てた。

 間もなくして、定時放送が始まった。



 死亡者の読み上げが終わった瞬間、日月と叶苗は思わず顔を見合わせていた。

 日月と叶苗、アイが同行する切っ掛けとなった2人の人物。
 ジャンヌ・ストラスブールとルーサー・キング。
 そのどちらの名前も呼ばれなかったことへの困惑の為に。

 ジャンヌが他人に誓った約束を違えるはずもなく、ルーサー・キングもまた、闇社会の帝王として契約を重んずる。
 両者の激突は避けられないものと認識していた。
 その2人が信念を曲げねばならないほどの重大な事態が発生したのか、それとも単にまだ接触していない、或いは戦いの決着が付いていないのか。

 特に日月の胸中は複雑だった。
 そもそもこの刑務作業が開始された直後、キングに敗北したジャンヌを助けたのは自分だ。
 だからこそ、ここでジャンヌの名が読み上げられる可能性はかなり高いと考えていた。
 彼女の現状が読めない不安を抱くと共に、いつかは出さねばならない自らの結論を先送りにする口実が出来たことに、どこか安堵する。


 だが、その2人のことばかり考えてはいられない。
 盤面を大きく変えるかもしれない駒がヴァイスマンの手によって送り込まれたからだ。


「……それにしても、これはまた、思い切ったことをやってきたものだね」
「それには同意するわ。笑っちゃうわよこんなの」

 氷月も日月も、半ば溜息交じりに意見を揃えた。
 ブラックペンダゴン全体の禁止エリア化と、"被験体:O"なる追加ジョーカーの出現。
 これはあからさまにブラックペンダゴンを狙い撃ちにした罠だ。

「日月ちゃん。被験体:O……って、なんだと思う?」
「知るわけないでしょ」

 叶苗の不安げな問いに日月はぶっきらぼうに返すも、すぐに真剣な表情でこう続けた。

「……でも、今ブラックペンダゴンにいる人間は皆殺しにできる、それくらいの自信は有るんでしょうね、あの看守は」
「そうだね。付け加えるなら、残り半日で今生き残っている全員を充分狩り尽くせる相手だと考えておいた方がいい」

 二人の見解に、ごくりと唾を飲み込む叶苗。
 それを横目に氷月は顎に指を当てながら推測を続ける。

「だが、この影響は大きいな。
 ブラックペンタゴンに留まっていられない以上、そこにいた人間は移動せざるを得ない。
 旧工業地帯と南東の小屋は禁止エリアで移動経路を制限されるから、そこに向かうとは考えにくい。
 なら後は、港湾方面とこの廃墟エリアしかない」

「つまり…… これから誰か来るってことですか?」

 叶苗の震えが混じった声に、氷月は静かに頷く。

「そうだね。それも、敢えて中央のブラックペンタゴンに向かえるくらい、自分の力に自信を持った人間がね。
 当然、被験体:O本人が襲ってくる可能性もある。
 その上で、僕たちはどうするかだけど……」
「私からいいかしら」

 皆の視線が日月に集まった。
 この4人になってから、彼女が自発的に意見を出したのは初めてだった。
 氷月は軽く目を細め、発言を促す。

「いいだろう。言ってくれ」
「人間離れしたバケモノが襲ってきたら、私達4人では全員まとめて殺されるだけよ。
 しかも複数で行動していれば、隠れていても発見される可能性が高い。
 だから、私達のうち1人でも生き延びれば、それが勝利。そう考え方を変える必要がある」

 日月の云わんとしていることを悟り、氷月は眉をしかめる。隣の叶苗も同様に目を見開いた。

「……つまり、分散しようという提案かい、日月?」
「日月ちゃん、それは――」

"―――見捨てたりしないから、安心して"

(えっ……)

 獣の聴覚でようやく捉えられるほどのか細い声が、叶苗の耳に届いていた。
 日月は無表情のまま、何事も無かったかのように言葉を続ける。

「そうよ。誰かはこの廃墟エリアに残る。他は港湾でもどこでも、とにかくここから出来るだけ離れたところに行く。
 そうすれば、この中の誰かが殺されても、次にそいつが他の誰かがいる場所まで移動するだけの時間は稼げる」

 ある程度各個撃破されることも前提にした、ある意味で捨て身の策である。
 だが、このまま4人という人数で、しかも幼児のアイも連れたまま隠れ続けるのは難しいこともまた事実であり、単純に否定はできない。

「……なるほど。僕達はそれでいいかもしれない。でも日月、君はどうするんだ」

 氷月の言葉も当然だ。氷月達3人はいつか釈放される身であり、例え恩赦Pを稼げなくともこの場を乗り切りさえすれば、その先がある。
 だが日月は死刑囚だ。恩赦を得ない限り、死が待ち受けていることに変わりはない。

「……元の鞘に収まるだけよ。それに、こんなあからさまな罠仕掛けられちゃ、ねえ?」

 呆れ返ったように大げさに肩をすくめる日月。だが、彼女がそう考えるのも無理はないだろう。
 ここまで盛大な後出しをされれば、この刑務作業自体への信頼度も下がるというものだ。
 それに、生存者の数も一気に半数を割り込んだ。恩赦による出獄は極めて難しくなったと言っていい。
 それこそ被験体:Oを単独で倒すといった夢物語でも成し遂げない限りは。


「一応、僕の考えも言わせてもらうよ。被験体:Oが僕達の想像しているような圧倒的脅威なら、
 それに対抗する為の集団が形成されるはずだ。僕は、その集団との合流を目指した方がいいと思う。
 あちらとしても、戦力は必要としている筈だ」

「そうね。でも問題は、誰が集団をまとめているのか、よ。
 この状況で犯罪者の集団を統率できるのは、ルーサー・キングくらいじゃない?
 他の人間だったとしても、"冷酷"で"現実的"な考え方をするに決まってる。
 戦力になり得る叶苗や、頭の切れる貴方ならいいかもしれないけど、
 戦う力のない私なんか真っ先に切り捨てられる。私を殺せば100ポイント手に入って武器なんかに替えられるわけだしね」

「あい……?」

 いつの間にか目を覚ましていたアイが不安げに言葉を漏らした。
 そう、言葉が通じず、状況を理解しているかも分からないアイなども生かしておく必要はない、と見なされうる。
 叶苗はアイをそっと抱き寄せて背中を撫でた。アイの小さな手が、叶苗の腕を優しく掴む。
 その様子を見て、氷月は溜息を吐いた。

「……是非も無し、か」
「じゃあ氷月さん。私達は行くわ」

 話は付いたとばかりに日月は立ち上がった。

「もう行くのかい? 少し準備をした方がいいんじゃないか」
「今の放送で、多少は信頼できる知り合いがまだ生きているのが分かったの。
 でも、どれだけ生きてられるか分からない。その人に私達の策を伝える為に、すぐ動かないといけない」

 取り付く島もなしに日月は"外"に向かう。先ほど氷月が入ってきたドアではなく、後方の開け放たれた窓に。
 罠を警戒し、氷月の歩いてきた経路を徹底的に避けようという意図なのは明白だった。
 日月はそのまま窓を乗り越え、隠れ家の外に出た。

「ごめんなさい、氷月さん。本当にお世話になったのに、こんな別れ方で」
「最も優先すべきは生き延びることだ。君達がその選択をベストだと判断したなら、僕がどうこう言う権利はないよ」

 氷月に頭を下げた後、叶苗もアイを抱きかかえながら、日月の後を追っていく。
 彼女達の背中に向けて、氷月はこう、優しく声を掛けた。

「また生きて君たちと会えることを祈るよ」


 3人は、叶苗の嗅覚で氷月の匂いが残っていない安全なルートを嗅ぎ取ると、北に向かって歩いていった。
 叶苗だけは申し訳なさそうに、時折振り返りながら何度も頭を下げた。

 氷月は最後まで、穏やかな顔を崩さなかった。



「氷月さんが、危険人物?」
「ええ。相当な、ね。彼からは一刻も早く離れるべきよ」
「えっと、急にそう言われても…… 根拠とかは、あるの?」
「そんなのはないわ、ただの勘よ。裏社会や芸能界で色んな人間を見てきた私の、ね。
 人を騙すプロは、他人に自分を信用させて、警戒心を麻痺させる。こんな良い人を自分から裏切っちゃいけないと、騙される側が自発的に考えるように仕向けてくる。
 そんな人間の近くで流されたままでいるなんて愚の骨頂よ。
 取るべきは逃げ一択。じゃないと逃げ道を潰されていくだけ。ルーサー・キングのやり方を思い出しなさい」
「で、でも、私達を捕まえたり殺したりするチャンスは、幾らでもあったよね」
「そうね。そうしなかった理由は私にも分からないわ。はっきり言って隙だらけだった訳だし。
 万が一にも貴女に本気で抵抗されたら危険だと思ったのかも」
「……それでも、やっぱり私は、氷月さんを疑いきれないよ。
 ブラッドストークが死んで、どうすればいいか分からなくなった時、励ましてくれたし……」
「そういうところがいけないのよ…… それが叶苗のいいとこなのかもしれないけどね。
 じゃあ、こうしましょう。彼に害意があるなら、今、外に出ている間に何かを仕掛けたり、武器を調達して来たはず。
 彼が戻ってきたら、貴女の鼻や耳を使って、何か変化がないか探ってみて。
 全く変わりがなかったら1回、変化があっても判断が付かなければ2回、危険だと感じたら3回、私を指でつついて」
「……分かった。でも、もし、全部日月ちゃんの勘違いで、本当に良い人だったらどうするの?」
「刑務作業が終わった後、ひたすら謝ればいいだけの話でしょ」



(……失敗したか)

 隠れ家に独り残された氷月は、ソファーに身を預けながらポケットに手を突っ込むと、C4爆弾の起爆用リモコンを取り出し、手で弄んだ。

(原因はこれか。我ながら早まったな)

 リモコンの真新しい金属やプラスチックは、埃と錆にまみれた廃屋の中で一際目立つ匂いを発していた。
 叶苗が持つ肉食獣の嗅覚なら充分にかぎ取ることが出来たろう。
 だが実際のところ、それはきっかけに過ぎず、氷月が抱き始めていた憎悪と殺意を叶苗の超力が感じ取ったことが最大の原因だった。


 日月達3人のうち、氷月が最も警戒していたのが氷藤叶苗だった。
 彼女は豹の獣人だ。聴覚や嗅覚などは優れているだろう。迂闊な動きはできない。
 加えて、いわゆる獣の本能でこちらの本性を嗅ぎ付けてくるかもしれないし、正面からの戦闘になればこちらに勝ち目はない。
 だから、彼女からの信頼を得られるよう心を砕いた。自分への信頼が、彼女の勘を鈍らせるように。
 3人を殺すのに刃物や銃ではなくトラップという手段を選んだのも、鉄や火薬の臭いを嗅ぎ取れば、さしもの彼女も警戒すると考えたからだ。

 だから、隠れ家に戻った後、叶苗の眼の中にわずかながら疑念の光が差したのを見つけたとき、自分が極めて不利な立場に陥ったことを悟った。


 そして、鑑日月。
 あの女が、あそこまで強硬に自分を引き剥がしに出たのは予想外だった。

 一目見て、頭のいい少女なのだろうということは察していた。
 明らかに闇の側を歩いてきた人間だということも。

 罪状は死刑。アイドルという、娑婆に対する強い執着もある。ドス黒い炎を心の中で燃やしているのは間違いない。
 それなのに、叶苗やアイの殺害に踏み切ろうとしない。このままでは、待っているのは死だけだというのに。
 罪を悔やんでいるとか、人間の倫理だとか、そんなものが理由な筈がない。

 彼女は一体、何に焦がれているのか。彼女の望むアイドルの姿とは何なのか。
 その鬱屈が知りたいと、人間観察の対象として興味を引かれていた。

 だからこそ、傷の舐めあいに身を落とすとは思わなかった。
 それではただの平凡な小娘ではないかと、心底失望した。


 しかし、今となっては全てが負け惜しみにすぎなかった。
 叶苗やアイの存在が、揺れ動き続いていた彼女の精神を安定させたのだろう。
 そして、彼女は本来のしたたかさを取り戻し、自分の手から逃れて見せた。
 自分が忌避する生温さに、してやられた。

「……他人に屈辱を覚えたのは、親以来か」

 リモコンをポケットに戻しながら、そう独り言ちる。

「……確かに、君はよくやったよ日月。僕という敵への対応としては上出来だ」

 感情の無い声で独り言を続けながら、ソファーから身を起こす。

「だが……"彼女"については眼が向いていたのか?」

 そう呟くと、氷月はドアを開け、廃屋の外に出た。


 日月達3人はそのまま廃墟エリアを抜け、北側の橋を渡った、
 彼女達が廃墟エリアの外に出たのは、おおよそ6時間ぶりである。

(追っては来てないし、罠も無かった。とりあえず逃げられた、か)

 日月は、氷月の手を離れられたことに安堵の溜息を吐いた。

 さしもの氷月といえど、廃墟に別の受刑者達や被験体:Oが現れれば、表立っては動きづらくなるだろう。
 だから、もし氷月が自分達3人の殺害を目論んでいるなら、仕掛けてくるタイミングは今しかない。
 そう考えた日月は"強引に逃げ出す"という、単純ながら最も効果的な策で機先を制することに成功した。

(でも、私だけじゃ無理だったでしょうね)

 そう、日月は氷月に"勝てた"とは全く思っていなかった。
 今回の脱出劇の成功は、まず叶苗が自分から氷月の危険性を感じ取ってくれたこと、
 彼女の五感で氷月が通っていない安全なルートに目星がついたこと、
 そして、被験体:Oというイレギュラーがあったからこそだ。

 悔しいが、知恵比べでは氷月の方が上だ。
 もし、彼が今度こそ手段を選ばず自分達を殺しに来たなら、逃げ切れる自信は正直、無い。


 「ところで、叶苗。氷月さんが帰ってきた時、"3回"つついたわよね。
  彼は何を持ってたの?」
 「……なんか、怖くなって」

 答えになっていない回答に、怪訝な顔をする日月。

 「……それ、どういうこと?」
 「ええと、うん、氷月さんが持ってたのは、大したものじゃなかったと思う。
  だけど、氷月さんが帰って来た時、あの夜のことが、お父さん達が殺された日のことが、急に頭に浮かんできて……このままだと、同じことが起こる。そんな気がして……」

 要領を得ない回答だが、ただならぬ叶苗の様子に、日月は黙って耳を傾ける。

 「それで、つい、3回叩いちゃったの。
  氷月さんは、もしかしたら何も悪いことは考えてなかったかもしれないのに……」
 「……ま、いいわ。さっきも言ったとおりよ。罪悪感でも感じてるなら、終わった後で好きなだけ謝りなさい」

 どうやら、氷月の何かが叶苗のトラウマを刺激したらしい。
 だが、日月からすれば氷月から離れられればそれで良かった。
 だから、叶苗を元気づけるように背中をぽんと叩くと、そこで話を切り上げた。


「……日月ちゃん。これから港湾に行って、ジャンヌさんに遭うってことでいいんだよね?」
「ええ。先に理解してくれていて助かるわ」

 被験体:Oという脅威を前に、恩赦ポイントは"戦力の入手手段"としての価値が大きく上がった。
 大量のポイントを有する日月や幼いアイなどは、戦力を得るという名目でも標的と成り得る。
 この状況に於いてなお彼らを守ろうとする人物がいるとすれば、それはジャンヌ・ストラスブールしかいない。
 日月としては、またも彼女に頼ることに思うところはあるが、背に腹は代えられない。

「叶苗。ジャンヌとルーサー・キングの匂いも分かる? それができたらだいぶ助かるんだけど」
「う、う~ん、長く一緒にいたわけじゃないし、時間も経ってるし、どうだろ……? 近くに行けば分かると思うけど」
「頼りないわね…… でも、何も分からないよりよっぽどマシか」

 そう話しながら川辺を歩いていた時。
 先ほどからやけに大人しくしていたアイの身体が、突然ピクリと動いた。
 叶苗の腕にしがみ付いていた手を離し、すとんと地面に降りた。そのまま、とことこと川へ向かっていく。

「………アイちゃん?」

 アイはそのまま川辺にしゃがみこみ、両手を地面につけて体を支えながら、顔を水面へと近づけた。



 それは、現状認識の差が生んだ悲劇だった。

 日月と叶苗は、この刑務作業のルールを知っている。
 24時間耐えさえすれば、この殺し合いが終わることを理解している。
 だから、飲まず食わずであっても終わりまで耐えようとする覚悟があった。
 だが、言葉を解さないアイは、そういったルールを理解していない。
 この飢えや渇きに、一体いつまで耐えればいいのか分からない。苦痛の終わる先が見えない。
 もちろん、自分達が危険な状況にあることは直感的に感じ取っているし、
 駄々をこねれば叶苗や日月に迷惑を掛けてしまうとも認識しており、今までは何とか我慢していた。

 だが、それも限界に達しようとしていた。
 そんな状態で川を眼にすれば、生存本能により水を飲もうとする衝動に駆られるのは当然だった。


「ちょっと待って、アイちゃん!」

 咄嗟に叶苗が肉食獣ならではの俊敏さで飛びつき、アイの小さな体を抱きかかえた。
 だが、アイからすれば、喉が渇いて仕方がないのに目の前の水を取り上げられたことになる。
 アイは、叶苗の腕の中で暴れ出し始めた。

「あい、あい、あいっ!!!」
「ち、ちょっとやめて、アイちゃん! 痛いっ!!」

 悲鳴を上げる叶苗。その横で日月が川辺に駆け寄って水を掬い、口に含んだ。だがすぐに吐き出す。

「……海水が混じってる。飲ませられない」


 アイは森の中で生まれ育った。故に海を、汽水というものを知らなかった。
 この水を飲むとかえって危険であることが分からない。
 自分はただ水を飲みたいだけなのに、叶苗と日月が何故それをさせてくれないのか、理解できない。

「アイちゃん、落ち着いてっ……!」
「うあ、ああ、ああああああ!!!」

 泣きながら手足をバタつかせるアイを叶苗は必死になって抑えていたが、
 超力で強化されたアイの手足は身体に当たるたびにハンマーで殴ったような衝撃を走らせ、
 骨を砕かれるかのような痛みが何度も彼女を襲っていた。
 日月も加わって抑えようとするが、腕力に差があり過ぎて逆に振り回される。

 必死でなだめようとする叶苗達だったが、アイの中で膨れ上がるフラストレーションを前にその声は届くことなく、幼い暴力の嵐はますます荒れ狂っていく。

 かなえも、ひづきも、なんでじゃまするの……? おみず、おみたい。のませて、のませてっ!!!


 そして遂に、アイの感情が爆発した。
 自分を押さえつける叶苗の腕を強引に引き剥がそうと爪を立て、その指先に、超力で強化された全ての力が込められ―ー

「あああっ!?」
「叶苗!?」

 悲鳴と共に、鮮血が飛び散った。
 鋼鉄をも砕くアイの指。それが、叶苗の腕の毛皮と皮膚を突き破り、肉を抉り取っていた。

 頬に血飛沫を付けたまま、アイの動きが止まる。
 苦しむ叶苗の姿を見て、アイの表情は凍りついた。自分がやってしまったことを悟ったのだ。
 アイの目が泳ぎ出し、彼女の体から力が抜けた。


「大丈夫、大丈夫だから、よし、よし……」
「あ、うぅ……」

 痛みに耐えながら、アイをあやす叶苗。
 傍らに立つ日月は彼女の腕を見て、絶句していた。
 毛皮と肉が10センチほどに渡って痛々しくめくれ上がり、傷口からは骨まで覗いていた。そこから血がとめどなく流れ出ている。
 背中に寒気が走る。
 この力で再度暴れられたら、今度こそ命取りになりかねない。
 とにかくまずは手当を、と囚人服を破って包帯替わりに傷に巻いた。今はこれくらいしかできない。

「大丈夫、叶苗」
「大丈夫…… いやごめん、あまり大丈夫じゃない、かも。
 それより、アイちゃんに水を飲ませてあげないと……」

 日月は水を手に入れる手段について考えるも、うまい手は考えつかなかった。
 目の前には川があるが、汽水では濾過もできない。
 まさか今更氷月に助けを求めるわけにもいかない。
 水があるところまで移動するしかない。

「ジャンヌのところに急ぐわよ。あいつなら火を起こせるから、強引にでも飲み水は作れる。あいつと会えなかったら、何とか南の湖に行くしかないわ。叶苗、頑張って」

 叶苗は歯を食いしばりながら頷いた。声も出せないくらい痛いのだろう。
 日月は叶苗に代わりアイを抱きかかえると、川辺を走り始める。
 叶苗は必死に苦痛をこらえながら、その後を追った。


 D-7。廃墟エリア南の橋付近。
 川辺にビニール袋が一つ、無造作に置かれていた。中には大量の野草が詰まっており、傍目には只のゴミにしか見えない。
 そこに、草を踏む音と共に、氷月蓮が姿を現した。彼はその袋をひょいと持ち上げると無造作に振った。中の野草がガサガサと音を立てる。

 袋の内側には野草から蒸発した水分が水滴となって大量に付着していた。水滴が集まって袋の底に溜まり、二口ほどの飲用可能な水となる。
 氷月はそれを、口の中で味わいながらゆっくりと飲み干した。
 未明に湖の水中調査を行った後、万が一にも水分補給の目途が立たなかった場合を想定し、仕込んでおいたものだった。


 身体の小さい子供は、飢えや渇きに弱い。自分も喉の渇きを強く感じ始めていたことから、アイはそれ以上に苦しんでいるだろうと推測できた。
 最も、氷月はアイの超力を知らない。予測したのは、自分から離れた3人は深刻な事態に陥るだろう、というところまでだ。
 だから、その問題が生命に関わる事態にまで発展していようとまでは、予想していない。

 何にせよ、鑑日月と氷藤叶苗にはつまらない死に方をしてはほしくなかった。
 少しは自分の楽しみになってくれなければ、採算が取れないというものだ。


 さて、これからどうするか。
 残るもう一つのミッション達成と、それ以上に己の殺人欲求を満たす為に、誰かと接触しなければならない。
 幸い、次の接触に見込みが無い訳でもなかった。

 金属缶で川の水を掬って頭から被り、文字通り頭を冷やして一息つく。
 髪から水滴を垂らしながら、まず考えたのはヴァイスマンの思惑についてだ。
 ジョーカーである自分に課せられた指令と、被験体:Oという追加ジョーカーの存在を合わせて考えれば、おおよそ彼の計画が見えてくる。

 先ほど推測した通り、今後拠点になり得るのは港湾か、ここ廃墟エリアの2つ。
 ご丁寧にも廃墟に続く2つの橋は、両方とも禁止エリアから外れている。

 己惚れる訳ではないが、氷月蓮ならば潜伏ミッションを達成するために確実な安全地帯を確保する、とヴァイスマンは見込んだだろうし、実際にそうして見せた。
 最初から、自分の潜伏場所を追い込み場にする予定だったのだろう。

 被験体:Oを討伐する為、残る生存者達が体勢を整える為に安全地帯に移動するが、
 そこには、6時間の潜伏で殺意を増幅させたジョーカー・氷月蓮が待ち受けている――。
 そういう手筈だったに違いない。
 先ほど特権ポイントの使用を申請したとき、奴は一体どんな顔をしていたのか。


 更に言えば、被験体:O討伐を目指す人間が、自ら接触してくる可能性もある。
 何故なら、氷月蓮という人間自身が、被験体:Oに対する有力な対抗策になり得るからだ。
 被験体:Oがいかに強力な存在であろうと、人間の範疇であるならば、"マーダー・ライセンス"で殺し方が分かる。
 そして、手札が多ければ多いほど、その実現可能性は高くなる。
 そう考えるだろう人間は、少なくとも1人いる。

(エネリット・サンス・エルトナ。私の超力を知っている彼なら、その事に気付く筈だ。
 被験体:Oが手段を選んで勝てる相手でないと判断すれば、私との再接触を試みるだろう。
 彼は私の危険性も承知してはいるが、被験体:Oがそれほどの怪物であったなら、そうせざるを得ない)

 幸い、未明に彼と接触した際"廃墟には誰も居ない"と伝えていた。
 加えて接触場所がD-7であったこと、そして禁止エリアによる移動制限を考えると、自分が廃墟エリアに潜伏していると推理はできるだろう。

 その上で、自分はどう動くか。
 自身の生存を優先するなら、氷月蓮も被験体:Oの討伐に協力するべきだ。例え”マーダー・ライセンス”を有していたとしても、氷月一人で勝てるような相手ではあるまい。
 理性と論理に従えば、そういう結論になる。

 だが、オリガ・ヴァイスマン。あの男は分かっているのだろう。
 氷月蓮という男はこの期に及んでなお、殺人を諦めないだろうということを。

「私もまた、掌の上ということか」

 彼は自嘲の笑いを浮かべた。心底愉快そうに。
 氷月蓮という男の本質に、ヘドロのようにこびり付いた殺人欲求を拭い去ることは、被験体:Oを以てしても不可能なのだ。


 そしてそれは、”彼女”も同じであろう。

(――君は嘘を吐いたろう、鑑日月)

 ぬるま湯に漬かることを選んだ少女の顔が頭に浮かぶ。

(君もまだ、諦めていない。そうだろう?)

 アイドルとは、彼女にとっての希望であり、呪いでもある。
 自分が殺人を捨てぬように、彼女もアイドルを捨てることはできないのだと、氷月はほとんど確信を抱いていた。

(だから、もう一度言おう。また生きて君たちと会えることを祈る、と)

 彼を縛り付けていた潜伏の指令は、既に無い。
 ここに、殺人鬼の枷は解き放たれた。

 最後の指令を遂行する為に、
 否、このアビスで25年間溜め続けていた殺人欲求を解放する為に。
 もう一人のジョーカーは動き出し始めていた。


【D-7/橋付近(廃墟エリア側)/一日目・日中】
【氷月 蓮】
[状態]:健康、憎悪の感情、強い殺意
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、遠隔起爆用リモコン、デジタルウォッチ、空の金属缶(容積は500mlほど)、ロープ(使い古し)
[恩赦P]:0pt(残り特権150pt)
[方針]
基本.恩赦Pを獲得して、外に出る
1.ジョーカーとして、ミッションを達成する。
2.集団の中で殺人を行う。
3.被験体:Oに対抗する為の集団を探し、潜り込む。
4.鑑日月、氷藤叶苗、アイの3人は、次に会ったら確実に殺害する。

※ジョーカーの役割を引き受けました。
 恩赦ポイントとは別枠のポイント(通称特権ポイント)を200pt分使用可能です。
 また、以下の指令を受けています。
① 刑務作業に消極的なグループに紛れ込み、6時間以上過ごす。(達成済)
② 刑期に関係なく最低でも3人以上の参加者の殺害。


 日月は自分自身に苛立っていた。
 氷月ばかりに気を取られ、アイの渇きを見逃していた。
 もう少し視界が広ければ、気付くこともできたはずなのに。そんな自分が、歯がゆかった。
 そして、その原因の一つは、未だに割り切れない自分にあった。

(……なんで、あのタイミングであんなこと言ってくるのよ、あの看守はっ!!)、

 負傷した叶苗、水と食料の入手、そしてジャンヌとの再合流。
 まずはそれに集中しなければならないと、頭では分かっている。それなのに――

 "―――この『被験体:O』の首輪からは、400ptの恩赦ポイントを得ることが出来る―――"

 先の放送のその一節が頭の中で反響し続けるのを、どうしても止めることができない自分が、どうしようもなく不愉快だった。

【A-7/川岸/一日目・日中】
【鑑 日月】
[状態]:肉体の各所に火傷、深い屈折、葛藤
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.アビスからの出獄を目指す。手段は問わない
0.答えを探す。
1.ジャンヌと合流する、もしくは水を探す。
2.ルーサー・キング、氷月蓮との接触は可能な限り避ける。
3.ジャンヌに対する葛藤と嫉妬を抱えつつ、彼女の望み通りに叶苗とアイを保護する。
4.ジャンヌ・ストラスブールには負けたくない。彼女を超えて、自分が真の偶像(アイドル)であることを証明したい。

【アイ】
[状態]:全身にダメージ(小)、飢え(小)、渇き(中)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.故郷のジャングルに帰りたい。
0. (おみず、のみたい。おなかもすいてきた)
1.(かなえ、ごめんなさい……)
2.(ひづきはさびしそう)
3.(あいつ(ルーサー・キング)は、すごくこわい)
4.(ここはどこだろう?)
5.(あれ? れんは?)

【氷藤 叶苗】
[状態]:胴体にダメージ(中)、身体の各所に痣、両腕に裂傷(中)、罪悪感
[道具]:シャツ、鋼鉄製の手甲(ルーサーから与えられた武器)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.寂しさを持つ人に寄り添いたい。
1.アイちゃんを助けたい。
2.日月ちゃんの悩みを受け入れたい。
3.ごめんなさい、氷月さん。
4.アイちゃんに水をあげないと……

※ルーサー・キングから依頼を受けました。
①ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、恵波流都、エンダ・Y・カクレヤマ。
 以上5名とその他の“目ぼしい受刑者”を対象に、最低3名の殺害。
②1人につき15万ユーロの報酬。4名以上の殺害でも成果に応じて追加報酬を与える。協力者を作って折半や譲渡を約束しても構わない。
③遂行の確認は恩赦ポイントの回収履歴、および首輪現物の確認で行う。
④第2回放送直後、B-2の港湾で合流して途中経過や意思の確認を行う。
⑤依頼達成の際には恩赦後のアイの安全と帰還を保障する。

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Deep eclipse 鑑 日月 パーフェクトブルー
アイ
氷藤 叶苗
氷月 蓮

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最終更新:2025年09月20日 01:58