湖畔の風が一瞬だけ凪ぎ、薄靄を含んだ湿気が揺れた。
深淵の地に似つかわしくないほど穏やかな光景だったが、歩く二人の気配はあまりにも異質だった。
鑑日月の足取りは驚くほど軽やかだった。
だがその軽さは生気のそれではない。
まるで舞台上で役を演じる者特有の、意図的に整えられた滑らかさ。
観客がいないはずの場所に観客を幻視しているような、そんな歩き方だった。
氷月蓮は一歩後ろからその背を見つめる。
つい先ほどまで『殺す対象』でしかなかった少女が、今は『協力者』として隣にいる。
だが共闘という言葉に温度はなく、そこにあるのは互いを利用し、互いを棄て、いずれ互いを殺すという前提を含んだ均衡だけ。
その均衡が奇妙な静寂を作り上げていた。
その沈黙を破ったのは氷月だった。
「日月、少しいいかな?」
「……なにかしら?」
氷月は歩みを緩め、背後から呼び止めるように声をかけた。
日月は足を止めないまま、視線だけを彼へ向ける。
その顔には、まるで貼りつけられた仮面のような凪いだ表情があった。
そこには感情の揺れの欠片もなく、ただ舞台照明のような虚無だけが宿っていた。
手を組んだとはいえ、馴れ合うような関係ではない。
互いの目的は別々で、未来に殺意すら据えた同盟関係だ。
そんな氷月が雑談を振る訳がなく、投げられたのは先を見据えた相談だった。
「君の戦い方について、少しアドバイスをしようと思ってね」
「アドバイス……? 格闘の手解きでもしてくださるのかしら?」
「そっちじゃない、アイドルとしての戦い方だ」
「……あなた、アイドルに詳しいの?」
声音は嘲りめいていたが、その奥には氷月という男に対する警戒があった。
日月にとって舞台とは信仰に近い。そこへ他者が不躾に触れることを、彼女は本来もっとも嫌う。
「アビスに移送される前、刑務所に慰問に来たアイドルの公演を一度だけ見たことがあるね。確か……黒野真央、そんな名前のアイドルだったかな」
「聞いたこともないわね……地下アイドルかしら? それで……? ライブを見たご感想は?」
「別段これと言うものはなかったね。あまり触れることのないジャンルの歌や踊りだったから多少の関心は覚えたが、それくらいだ」
関心はあっても感動はない。
氷月にとってアイドルは心を動かす対象ではなかった。
この男とはとことん価値観が合わない事を日月は再認識した。
「で? 一度ライブを見た事があるだけの素人が、私にアイドルの何を説くつもりなのかしら?」
日月の瞳が鋭く突き刺すように細まる。
トップアイドルにまで上り詰めた日月へ、にわか知識でアイドルを論じるなど侮辱以外の何物でもない。
しかし、氷月は軽く首を振った。
「誤解しないでほしい。君にアイドル論を語るだなんて釈迦に説法をするつもりはないよ。
僕が話すのはあくまで――君の超力についてだ」
「それもどうかと思うけれど。あなた、超力の専門家だったかしら?」
「専門家じゃないが、書物に目を通してそれなりに知識はあるつもりだよ」
アビスの図書館に並ぶ蔵書を読み尽くした男らしい言葉だった。
大量の蔵書の中には様々な分野の専門書なども含まれていた。
日月の視線は厳しいままだが、氷月は気にすることなく続けた。
「もっと言えば、今回使うのは超力の知識ではなく――心理学についてだ」
「心理学……?」
日月は訝しげに眉根を寄せる。
「君の能力は、『ここが舞台だ』と強く認識した時、最も力を発揮する。
つまり、自己認識を軸にした超力。そういう理解で合っているね?」
「……ええ。そうね」
氷月の洞察に対して、日月は内心で舌打ちを噛み殺す。
この男にしたり顔で能力を分析されるのは不快極まりない。
しかし既に核心を見抜かれている以上、取り繕う意味はない。
「なら、君の認識をより強固にする助言くらいはできると思ってね」
「いいのかしら? 私を強化して。いずれ、あなたは私が殺す候補に挙がるのよ?」
日月は薄い笑みを浮かべつつ、完全に挑発の意図を隠さない。
将来的に殺し合う相手を強化するなど、愚行以外の何物でもない。
だが、氷月は苦もなく言い切った。
「どうせ今の僕では君に勝ち目がない。なら百が千になっても大差はないさ。
それよりも、今は手を組んでいる君が強くなった方が僕にとっても都合がいい」
その声音には虚勢や恐怖は欠片もなかった。徹底した現実主義。
日月が氷月を道具として拾った理由が、その一言に凝縮されていた。
「言っておくけど。獲得したポイントをくれてやるつもりはないわよ。あなたは私が恩赦を得るための道具でしかないんだから」
「ああ。構わないよ。僕は殺せるのならそれでいい。ポイントは全て君に捧げよう」
殺害自体が目的。
日月はそれを氷月の殺人嗜好だと捉えた。
だが、その意味合いは少し違う。
ジョーカーである氷月は、他の受刑者と違い、殺害そのものが恩赦の条件になっている。
そのため、ポイントの獲得は彼にとってはどうでもいい事だった。
殺害した叶苗やアイをその場に放置して、あっさり離脱できたのもそのせいだ。
後は、ヴァイスマンが日月がとどめを刺した分もカウントに入れてくれるかどうか次第である。
氷月は注目を引く様に、わざと一拍置いてから言葉を続けた。
「極端に言えば、実際のステージで歌い踊る時が最も力が増すんだろう?
なら、その要素を分解して――君自身の内面に、舞台を再構築すべきだ」
その視線が、日月の纏う衣装へ落ちた。
「その衣装も、自己暗示の一部なんだろう?
それを纏うことで、ここがステージだと心が認識しやすくなる」
日月のまつ毛がわずかに揺れた。
アイドルとしての衣装は心を立て直すために選び取った戦闘服だ。
その意味を、氷月は正確に読み取っていた。
「だから、それをもっと深めていこうという話さ。
君が立つだけで舞台が成立するところまで――ね」
氷月は静かに指を一本立てた。
「まずは、アイドルライブを構成する基礎要素を洗い出す。
支柱を立てれば、君はどこにいても舞台を構築できる。深淵の底であっても、ね」
顎へ手を添え、過程を辿るように一呼吸置く。
「アイドルのライブに必要な要素。
舞台(ステージ)、楽曲(ミュージック)、観客(ファン)。
――大まかに分類すれば、この三つになるだろう」
その言葉を聞いた瞬間、日月は肩をすくめ、間髪入れずに訂正を入れた。
「重要なものが抜けているわ。舞台の中心に立つ『偶像(アイドル)』よ」
「……なるほど。それは失礼したね。あまりに当然の前提すぎて、抜け落ちたらしい」
日月にとっては決して譲ってはならない一線。
その拘りに氷月は苦笑しつつも即座に認める。
ここから先は、『殺し合い』を『ライブ』へ変換するために必要な分解作業となる。
氷月は確かな構築力をもって語り始めた。
「まず舞台だが――君は既に形にしているね。
人生そのものを大きな演目として捉え、どこでもステージとして再定義できる域へ近づいている」
今の日月は、人生そのものを舞台へと塗り替え、疑似的な常時発動型の域に踏み込んでいた。
しかし、それでもアビスに巣くう怪物たちと渡り合うには、まだ足りない。
この地で生き残っているのは、過酷な殺し合いを生き延び幾度もの死線を越えた猛者ばかり。
舞台を背負った今の日月と言えども簡単に通用する相手ばかりではない。
「だが、精度はまだ上げられる。
本来アイドルライブとは、徹底して整備された人工物の集合体だ。
照明、音響、限られた空間――総てが舞台を支えている。
この孤島という自然そのものが剥き出しの環境は、アイドルという競技との相性が悪いだろうね」
氷月は周囲に視線を巡らせ、木々の影、湿った土、湖面の光の揺らぎを順に観察した。
そして、遠目にも圧倒的な存在感を放つ巨大建造物へと視線を移す。
「そういう意味では、ブラックペンタゴンは君にとって最適のステージだったろう。
あれをドームと見立てて中央で戦えれば、最高のパフォーマンスが期待できたはずだ」
「でも、出入り口は封鎖済み。
それに、あと二時間で禁止エリアになる場所へ向かうほど愚かじゃないわ」
氷月は肩を竦め、認めるように頷く。
「なら。廃墟の方に戻るという手もある。
人工建造物の多いエリアなら、条件に合う場所の一つや二つは見つけられるだろう」
「それはダメよ」
日月の切り返しは鋭く、その声音には迷いが一切ない。
「地形を限定したら、罠に引っかかる相手を待つだけになる。
でも、もう刑務作業の終了まで時間がない。待っている余裕はどこにもないのよ。
恩赦に届くまで積極的に狩りに行く。悠長に構えていられないわ」
日月は恩赦を掴む。
そのためには手段を選ばず、停滞も許さない――それ以外の道は、もう選ばない。
それが彼女の絶対方針。
氷月は短く笑い、指先で空気を軽く弾くように動かす。
「そうだね。なら、切り口を変えよう。
人工物へ寄るのではなく、環境そのものを――君の側に寄せてしまえばいい」
そして、先ほどの殺し合いを想起しながら言葉を紡ぐ。
「君は僕との戦いで、太陽をスポットライトと見なし、飛び散る血を演出効果として扱った。
あれはよかった。実に――偶像的だったよ。あの時のように自然そのものを演出と捉えるんだ」
褒め言葉にも侮辱にも聞こえる言葉だが、その声音に感情の色はない。
日月はその言葉を否定せず、その分析を静かに受け取るように目を細め、空を見上げた。
夕焼けが赤から紫へ溶けていく。
湖面にも色が落ち、景色全体が薄い照明のように変質していく。
日月の瞳には、その移ろいすら客席越しのステージ演出のように映っていた。
「人は、吹く風ひとつに運命を見出し、偶然降る雨を涙に重ねる生き物だ。
人工物がなくても、認識次第でいくらでも意味を与えられる。
つまり――舞台を成立させるのは、君の主観だ。
自然は裏切らない。風、光、音、影……その全てを舞台装置として摂取できる。これを常に意識しておくといい」
先ほどの戦闘で日月が無意識にやっていたことを、氷月は言語化し落とし込む。
言葉として与えられ、意識に落とし込まれた認識は、確固たる強度を持つ。
氷月は空を指差す。
夕暮れの赤が消え始め、夜の気配が忍び寄っていた。
「もうじき日が落ちて、月明かりが差す夜が来る。
その時こそ――僕らの時間だ」
吹き抜ける冷たい風が、月を冠する二人の髪を揺らす。
そのわずかな揺れすらも絵になった。
まるで全てが演出であるかのように、日月と言う偶像に飲み込まれていく。
氷月はそれを見届け、静かに息を吐き告げる。
「この夜を、君のステージに変える。
そのための演出を考えよう――偶像(アイドル)」
そして、淡々と次の段階へ移る。
「そうなると、次は楽曲(ミュージック)について、だね」
脳内でリズムを刻むだけでも、身体はある程度は動く。
けれど――やはり、本物の音楽があった方がいい。
「ピアノやバイオリンのひとつでもあれば、簡単な伴奏くらいは添えられるんだけどね」
「……やめてちょうだい」
本当に嫌そうな顔で言う。
薄い嫌悪の色を帯びた視線が横から突き刺さり、氷月は軽く肩を竦めて受け流した。
「伴奏がある方がいいというのはその通りだけど、この環境で望めるものではないのはわかっているわ」
息遣いすら演出へと変わるライブの世界を知っている日月にとって、伴奏の有無は感覚の鋭さと没入度に直結する。
生バンドが最善なのは言うまでもないが、この孤島でそれを望むのは贅沢が過ぎる願いだった。
ここはライブ会場ではなく、自然に囲まれた孤島だ。
照明もスピーカーも楽器も、音源ひとつ存在しない。
「ブラックペンタゴンなら、放送室のひとつやふたつはあるだろうが今さら向かう選択肢はない。
どこかで音楽が流せればいいんだが……他にそれらしい施設も見当たらないね」
この地で音楽を得る手がかりは、ほぼ皆無。
その現実を踏まえたうえで、氷月はあっさりと結論を述べた。
「なら、答えは単純だ。恩赦ptで購入すればいい」
恩赦を獲得した者だけが使える特別な購買権。
それを使えば、この島に存在しないモノすら手に入る。
「その衣装と同じさ。君の場合、強力な武器よりも、小さな購入物で最大限のパフォーマンスを引き出せる。
それは大きな強みだよ、鑑日月。それを生かさない手はない」
日月も、それが有効な手段であることは理解している。
実際、ステージ衣装を得たことで、超力は格段に扱いやすくなった。
衣装ひとつでここは舞台だと心が決めつけやすくなるからだ。
だが、ここでさらに恩赦ptを削るのは、恩赦を得てアビスを出るという最終目標に反する。
ましてや、今のポイントは叶苗とアイから得たものだ。
すでに衣装にポイントを支払っている現状を思えば、これ以上の浪費は躊躇われた。
「君がポイントを渋る気持ちもわかる。
だが、今持っているポイントは『投資』と割り切った方がいい」
「投資…………?」
その逡巡を見透かしたように、氷月が言葉を差し込む。
「人数もだいぶ絞られてきた。もはや小役を拾って稼ぐような段階じゃない。
君が恩赦を得るには、こう考えるべきだ――『死刑囚クラスを四人狩る必要がある』と」
日月が恩赦を得るために必要なポイントは400pt。
最も効率が良いのは、100ptクラスの囚人を四人倒すこと。
それ以下の端数は、ほとんど意味を持たない。
ならば、現状の35ptは400ptを得るための投資に使うべきだ。
「分かってるわ。そうね……使えるモノは何でも使うべきなのでしょうね」
生れ落ちての冷徹な殺人鬼。
氷月の言い分は、どうしようもなく正しい。
日月も手段を選ばないと決めたはずだった。
だが、手段を選ばぬ冷徹さに置いてはこの男に一日の長がある。
氷月は自分のデジタルウォッチを操作し、真面目な顔で購買メニューをスクロールしていく。
殺人鬼らしからぬ、妙に事務的で実務能力の高い仕草だった。
「調べは済んだよ。楽曲データはこのデジタルウォッチにダウンロードできるようだ。
曲の指定もある程度はできるらしい。あとはワイヤレスイヤホンをひとつ購入すればいい。
それを聴きながら歌って踊れば、そこが君のワンマンライブのステージだ」
氷月が示す画面に、日月は視線を落とす。
ワイヤレスイヤホン……5pt
楽曲データ……1曲につき5pt
合計10pt。
費用対効果としては、破格の数字だ。
「他に必要な物はあるかな? アイドルとしての意見を聞かせてくれ」
促され、日月は一瞬だけ湖面を見やる。
そこに映るのは血で引かれた紅と小さな傷と火傷の残る顔。
それを見つめながら、日月は答えた。
「……化粧品(メイク)と香水(パフューム)を」
求めたのは、女の子を輝かせるための道具。
アイドルの土台――自己演出の核となる装備。
「なるほど。いい注文(オーダー)だ。化粧は火傷の痕を隠すのに使えるだろう。
それに、匂いと言うものは記憶に強く結びつくものだからね。自己暗示として強い効果を発揮するだろう」
注文に応じ、氷月が画面を提示する。
化粧品……5pt
香水……5pt
自分自身を偶像へ引き戻すための、最後の仕上げ。
少女たちの血と命で出来たポイントで、女の子の憧れを詰め込んだ煌びやかなアイドルを整える。
それが酷く皮肉で、残酷な行為であることは、日月も理解している。
だが、その矛盾を抱え込むことこそが、彼女の超力をさらに高める燃料となる。
注文すべき商品が決まり、日月は購入手続きを進める。
イヤホンはマイク付きのタイプへ変更したためポイントは5ptから10ptに値上がりした。
スピーカーがない以上、外部に声が通るわけではない。
だが、マイクを前に歌うという行為自体が重要だった。
それは機能ではなく、儀式として必要な事である。
通るかどうかはわからないが、化粧品と香水には愛用していたブランド名を指定しておく。
再現度が高ければ高いほど、自分はアイドル『鑑日月』へと近づける。
最後に、ダウンロードする楽曲を選ぶ。
迷いはなかった。
迷う余地など最初からない。
選ぶ曲など、最初から決まっていたのだから。
この深淵で鳴らすべきは、他人の歌ではない。
歌うべきは、自分の歌。
鑑日月という偶像が、その身を削ってまで追い続けた――『あの日の輝き』そのものだ。
注文完了からほどなくして、三つの荷物が日月の足元へと落ちる。
化粧品。香水。ワイヤレスイヤホンマイク。
それだけで、周囲の空気は一気にライブ前の緊張感へと変貌した。
日月は湖へと歩み寄り、水面を鏡代わりに覗き込んだ。
深淵の湖面が、アイドルの楽屋鏡へと塗り替えられていく。
化粧品の蓋を開ける。届いたのは注文通りのブランド品。
指先が滑り、火傷の痕が薄く消えていく。
病んだ肌が、白く、均一に、舞台用のキャンバスとして整えられていく。
異様な静けさの中で進むメイクアップ。
罪の証のように赤黒く残っていた唇の紅を濯ぐように洗い流し、ラメ入りのグロスをひと塗り。
血の名残を、光の粒で押し潰す。
唇は艶めき、罪悪と死が甘く混ざり合う。
香水を首筋へひと吹き。
花の香りが、微かに残っていた死臭すら上書きするように広がった。
その匂いは狂気と高揚を同時に点火し、日月の意識を『ステージ』へと押し上げる。
最後に、デジタルウォッチとペアリングしたワイヤレスイヤホンを、片耳にだけ装着する。
もう片方は、周囲の気配を逃さないためにあえて空けておく。
イヤホンから繋がるマイクを口元へ持っていき、丁寧に位置を調整する。
その動きは、まるで刃物を研ぐ職人の手つきのように静かで正確だった。
衣装、メイク、香り、音楽。
すべてが揃い、血と光がひとつに混ざり合う。
その鑑日月の姿を目にした瞬間、氷月は短く息を呑む。
確実に、存在そのものの質が跳ね上がっている。
「……美しい」
思わず零れた言葉だった。
氷月でさえ、そう認めざるを得ないほどの完成度。
甘く、冷たく、ぞっとするほど美しい。
生物としての制約すら逸脱している。
彼の中で、鑑日月という被殺対象は、別種の怪物へと昇華されていた。
今の日月であれば神をも殺せる。
そう錯覚させるだけの圧倒的な神格が備わっていた。
そこに立つのは、もう受刑者ではない。
煌びやかで悍ましい。
――――完全なる偶像(アイドルマスター)。
そう呼ぶにふさわしい存在が、湖畔に立っていた。
これで演者(ホスト)としての日月の準備は整った。
ならば残る要素は最後の――観客(ゲスト)についてだ。
「戦い(パフォーマンス)を誰に向けて披露するか。それは意識しておくべきだろうね」
ステージとは、見せる相手がいて初めて成立する。
観客の定義は、日月にとって超力の根幹すら左右しかねない重要な要素だった。
アイドルはファンがいてこそ成立する。
自己の輝きのみを追い求めてきた日月でさえ、この理論だけは否定しない。
「僕も……観客の一人、ということになるのかな?」
「ならないわね。あなたに歌を届けたいと思ったことなんて一度もないもの。
せいぜい、裏方。スタッフ止まりよ」
「だろうね」
氷月は苦笑して受け流す。
期待していたわけではない。むしろ、日月とはこの距離感こそが健全だ。
「では、刑務官たちはどうだい? 彼らはこちらの状況を常に監視している。
衆目という意味では、観客として定義できそうだが」
「監視の目……確かに、その視点はなかったわね」
日月は僅かに考え込むように視線を落とした。
囚人として、刑務官たちに対する本能的な嫌悪はある。
だが、『見られている』という事実そのものは、否定できない。
「僕らにとって看守からの監視が好ましい視線でないのは当然だ。
だが、先ほど話に出た慰問ライブと同じだよ。
観客の顔が好みに合うかどうかなんて、パフォーマンスの本質とは関係ないだろう?」
「……まぁ、否定はしないけど」
「それに今の時代、無観客ライブなんて珍しくもないんじゃないかい?
観客席の代わりにレンズやモニターがあるだけだ。
重要なのはその先――『見られている』という自覚だけだよ」
見られているという自覚。
それこそが、アイドルにとって最も重要であると、殺人鬼は静かに指摘する。
日月は軽く息を吐き、皮肉を滲ませた笑みを浮かべた。
「配信が悪いとは言わないわ。
けど……やっぱり、私は観客が目の前にいた方が乗れるわ」
現場主義と呼べるほどのこだわりではない。
ただ、距離が近ければ近いほど熱は強く伝わり、互いのテンションは加速する。
それが日月の価値観だった。
「直接か……なら――相対する敵こそ、観客にすべきだね」
その一言に、日月の瞳がゆっくりと細まる。
興味とも、警戒ともつかない光がその奥で揺れた。
「それほど意外な結論だったかい?
だが、この殺し合いの場で当てはめるならそこしかないだろう」
氷月からすれば至極当然の論理的帰結。
だが、日月にとって敵は殺し合いの相手であり、魅せるべき観客とは別枠の存在だ。
だが氷月は、その概念をあえて重ねていく。
「敵は、君のパフォーマンスを否応なく浴びる立場だ。
殺意という強烈な意識を向け、君の一挙手一投足を注視し、その動きから目を逸らさない。
君という存在を、全身全霊で受け止めてくれる。
それは――――ライブの観客と、何が違う?」
その瞬間、日月の肩がわずかに震えた。
怒りでも、嫌悪でもない。
気づきによる震動だった。
氷月は、その微細な揺らぎを逃さない。
日月の表情に浮かぶわずかな変化を探るように、視線を滑らせる。
「観客は、アイドルの全てを受け止める。
敵は、戦いという形式で君を受け止める。
どちらも同じだ。むしろ敵の方が、命を懸けてより強烈に君へ注目するだろう」
一拍の静寂。
言葉が日月の内側で熟していくのを、氷月は待つ。
「殺し合いの中で、君は相手の視線を独占できる。
恐れ、憎しみ、敬意、焦燥……全ての感情を君一人に捧げる。
これほど贅沢な観客が、他にいるかい?」
日月の呼吸がわずかに深くなる。
胸の奥で、ひとたび手放したはずの熱が、微かに疼き始める。
「……違うわ」
日月は小さく否定した。
氷月の理屈は理解できる。
けれど、その理論には大切な点が抜けて落ちている。
「相手が向けてくるのは敵意と殺意よ。
自分に敵意を向けてくる相手のために歌いたいとは思わない」
それはアイドルの気持ちだ。
前回の戦いは、犠牲になった少女たちへ捧げたステージだった。
少なくとも日月は、目の前の殺人鬼のために歌いたいとは欠片も思っていない。
主観が重要であると言うのなら、何よりも重視すべきことである。
氷月は、その否定の中に含まれた別の視線を拾い上げる。
日月の視線が、どこを向いているのかを読んで、確信したように続けた。
「なら、答えは明白だ。
君が最も輝きを見せつけたいと思う相手を――観客として選べばいい」
その言葉は、日月の胸の奥に沈殿し、静かに波紋を広げた。
氷月は、さらにその中心へと手を伸ばす。
「君が一番、歌を届けたいのは誰だい?」
その問いは、皮を剥ぐように核心へ触れる。
反射的に否定できないほど、日月の心を正確に射抜いていた。
浮かぶ顔は、一人しかいない。
ただ一人、負けたくないと願った相手。
「ジャンヌ…………ジャンヌ・ストラスブール」
その名を口にした途端、胸の内側に小さな痛みが走る。
後悔か、悔しさか、憧憬か――判別できないほど入り混じった痛み。
氷月は、その痛みすら利用するように、静かに微笑した。
「よろしい。なら、君が選ぶべき敵(かんきゃく)はジャンヌだ」
その宣告は、日月の価値観をそっと裏返すような響きを持っていた。
「最も輝きを見せつけたい相手と対峙してこそ、君の超力はもっとも眩く燃え上がる」
日月は小さく息を呑む。
胸の底に沈んでいたはずの炎が、また少しだけ強くなった気がした。
氷月は、その炎に油を注ぐように言葉を重ねていく。
「君は望んでいたんだろう? ジャンヌに見られることを、ジャンヌに認められることを」
「…………」
「羨望でも、落胆でも、憐れみでも、嫉妬でも構わない。
ジャンヌの視線が君に向くなら――それで君の勝ちだよ、『偶像』」
氷月はその変化を見逃さない。
日月の矛盾も執着も読み切ったうえで、心の急所へ音もなく針を落とす。
ジャンヌを超えたい。
ジャンヌに負けたくない。
ジャンヌの前で輝きたい。
ジャンヌに、自分という存在を刻みつけたい。
原始的で、幼くて、どうしようもなく人間的な願い。
胸の奥に眠っていた炎が、はっきりとした形を取り始める。
画面の向こうからこちらを眺める、多くの衆目がある。
そして、彼女が相対する最前列の観客席には――ジャンヌ・ストラスブールという、たった一人の主賓。
――ここに、舞台は整った。
「さぁ――――彼女に見せつけようじゃないか。
君が今の君である理由を。そして、なぜここまで輝けるのかを」
舞台の中心に、完全なる偶像が立つ。
夜の帳が落ち始めた空の下、向かうべき先にいる観客を見つめる。
かつて、この湖畔で与えられた小さな種が、言葉と言う水を与えられ、ようやく、明確な『目標』として花開いた。
【B-5/湖畔の近く/一日目・夕方】
【鑑 日月】
[状態]:肉体の各所に火傷(傷隠しメイク)、《偶像》
[道具]:アイドル衣装、ワイヤレスイヤホンマイク、化粧品、香水、デジタルウォッチ(楽曲(タイトル不明)DL済み)
[恩赦P]:0ptt(楽曲DL - 5pt、ワイヤレスイヤホンマイク - 10pt、化粧品 - 10pt、香水 - 10pt)
[方針]
基本.輝く。其の為に生きて、其の為に死ぬ。
1.――――ジャンヌ。
2.氷月蓮と協力して恩赦ptを稼ぐ。使い物にならなくなったら、すぐに棄ててやる。
3.アビスからの出獄を目指す。――――本当の意味で手段は問わない。
4.ルーサー・キングとの接触は可能な限り避ける。
※人生を舞台と見立て、常時超力を高出力で発動させています。
【氷月 蓮】
[状態]:健康
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、遠隔起爆用リモコン、デジタルウォッチ、空の金属缶(容積は500mlほど)、ロープ(使い古し)
[恩赦P]:0pt(残り特権70pt)
[方針]
基本.殺す。其の為に生きて、其の為に死ぬ。
1.ジョーカーとして、ミッションを達成する。
2.鑑日月と協力して、殺人を行う。輝かなくなったら、すぐに殺してやる。
3.被験体:Oに対抗する為の集団を探し、潜り込む。
4.鑑日月、君を殺したいと心から思ったんだ。
※ジョーカーの役割を引き受けました。
恩赦ポイントとは別枠のポイント(通称特権ポイント)を200pt分使用可能です。
また、以下の指令を受けています。
① 刑務作業に消極的なグループに紛れ込み、6時間以上過ごす。(達成済)
② 刑期に関係なく最低でも3人以上の参加者の殺害。(残り1人)
最終更新:2026年01月14日 21:59