作業棟の一角、倉庫と監視室を兼ねた物資転送オペレーションルームは、朝も夜もない白色光に満たされていた。
壁一面を埋め尽くすモニターには、刑務作業の舞台となっている孤島のあちこちが映し出されている。
森の陰、崩れた廃工場の跡、岩山の断崖、そして黒鉄の要塞――ブラックペンタゴン。
「はいはーい、マシンガンにリモコン爆弾、あと医療キットの申請。クロっさん、よろ~」
そんな複数のモニターに囲まれたメインコンソールの前で、ピンク色のツインテールが小刻みに揺れていた。
ミリル=ケンザキは、椅子に座ったまま器用に足でキャスターを蹴り、左右のコンソールを滑るように行き来しながら、モニターとタブレットを同時に睨みつけていた。
細い指先が空中を掻くように動くたび、モニターの中のどこかへ物資が『ふっ』と姿を消し、別の画面のどこかに『ぽん』と出現する。
銃器、包帯、食料、首輪の信号を基準にしたポイント精算用の端末――その全てが、彼女の視界の中で瞬時に『移動』していた。
足元には、アルミ缶が山を作っている。
エナジードリンクの空き缶、空き缶、空き缶。
カラフルなデザインが床一面に転がり、かすかに甘ったるい匂いが漂っていた。
ミリルは自分の足元を一瞬見下ろし、数えるのを諦めるように肩をすくめると、特別に繋いでいる冷蔵室のモニターを見て、そこから新たなエナドリを一本引き寄せた。
そして、器用に片手だけで新しい缶のプルタブをプシュッと引く。
炭酸が喉を焼く。カフェインと糖分が一瞬だけ脳を刺して、すぐにどろりと沈んでいく。
刑務開始から、じき十八時間が経過しようとしていた。
休憩と言える時間は、まともには取っていない。
モニターの向こうで誰かが死に、誰かが叫び、誰かが走る。
その様子を画面越しに見送りながら、『要請』が送られてくるたび、作業をこなす機械のように淡々とそこに最適な物資を送り届ける。
世界最高の転移能力者。
その肩書きは大げさなものではなかった。
任意の物質を任意の場所へ。
生物も、物資も、映像越しでも、視界に入った『ひと塊』をまとめて掴んで放り投げる。
クロノ・ハイウェイの超力によって圧縮された時間の中で物資のピックアップは行われるが、それを即座に現地に送り込む最終工程は、ミリル一人の肩に掛かっている。
彼女がいなければ、この規模、この密度、この速度での刑務作業の運用はそもそも不可能だった。
この刑務作業のオペレーションがアビスに任された理由のひとつは、紛れもなく――この世界最高の転移超力者が、ここに居るからである。
「……はーい、ブラックペンタゴンにお荷物お届け完了っと。
んで、こっちは……ん? 化粧品に香水? ブランドとかクロっさんに分かるかなぁ……。あー、じゃああたしが選ぶんで、それっぽいの一通り集めて並べといてください」
ぼやきながらも、手を止めることはない。
転送が一秒でも遅れれば、刑務作業の進行に支障をきたす。
長時間、集中を切らさず画面に張り付いていなければならない激務。
それを彼女は、平然とした顔でこなしていた。
「おやおや。これはまた、非常に分かりやすい修羅場ですねぇ」
オペレーションルームのドアがノックもなく開いた。
軽い調子の丁寧な声が、白色光の空間に滑り込んでくる。
入ってきたのは白衣を羽織った痩身の男――Dr. リヴン・レイナードだった。
長身を少しだけ猫背気味に折り、糸のように細い目をニコニコと細めている。
胡散臭いとも言える笑みを浮かべながらも、その視線だけはミリルの足元のカンカンの山を鋭く捉えていた。
「あれ? ドクター。どしたんすか?」
ミリルは椅子を半回転させ、片手をひらひらと振る。
配信の時に使っていた、作り物の明るい笑顔を一応貼り付けながら。
レイナードは足元の空き缶を避けつつ、わざとらしく肩をすくめた。
「医師としての立場から申し上げますとですね、ミリル看守官。これは普通に引くレベルのカフェイン摂取量ですよ」
「ん、まだいけます。ネイティブ世代、スペック高いんで」
ミリルは缶を傾け、残りを一気に飲み干してから、舌を出して笑ってみせる。
「てかさー、あたし止まったら現場の物資転送も止まるんで。倒れたら困るでしょ? だから飲む。必然。ロジック完璧」
「倒れないために心臓を先に酷使しているあたり、ロジックとしては破綻していますけどねぇ」
レイナードは静かにため息をつくと、指先をパチンと鳴らした。
「――ランブラさん、ロッキーさん。検診ですよ」
白衣の影から、ぽこん、と可愛らしい二つの影が床に現れる。
丸っこい体に器用な前足を持つアライグマのランブラさんと、大きな体躯に優しげな目をしたアメリカグマのロッキーさんだ。
どちらもデフォルメされたキャラクターマスコットのような姿で、アビスの無機質な室内には明らかに似つかわしくない可愛げを振りまいていた。
「うわ、出た。ゆるキャラ医療班」
「彼らは立派な医療技師ですよ。ミリル看守官、ちょっと腕をお借りしても?」
ランブラさんが、ちょこちょことミリルの椅子の横まで歩いてきて、両前足でぐいっと彼女の袖を引っ張る。
ロッキーさんはその背後で血圧計やらパルスオキシメーターやらを取り出して、慣れた手つきで準備を始めていた。
「えー……今ちょっと忙し……」
「忙しいからこそです。あなたの体調は気に掛けるように、と看守長からもよく言われてますからね。
この刑務作業の要に倒れられては、私の責任になってしまいます」
彼女の存在は、この刑務作業の要である。
倒れる前にメンテナンスをするのは、合理的な判断だった。
「作業しながらで構いませんから。五分ほど、お時間いただきます」
レイナードの声音は穏やかだが、有無を言わせぬ圧がある。
ミリルは一瞬だけむっと口を尖らせ、それから観念したように椅子ごとこちらに向き直った。
「では、失礼して――」
ランブラさんが器用に聴診器を操り、ミリルの胸にちょん、と当てる。
ロッキーさんはその間に手際よく血圧を測定し、結果をタブレットへ送信していった。
「…………」
ミリルは視線だけをモニターに向け、身体を固くしたまま検査を受けている。
彼女の指先は、いつでもコンソールに飛びつける距離を測るように、ひくりと僅かに動いていた。
「ふむふむ。心拍数、ちょっと高め。血圧も……カフェインの影響がきっちり出てますねぇ。肝臓の数値も気になります。今度しっかり採血しましょうか。ね?」
「やだ」
即答だった。
「即答は傷つきますねぇ。可愛い子の血液データ、集めたいだけなのに」
「その発言がかなりアウト寄りなんすよ、ドクター」
口ではそう言いつつ、ミリルの表情はどこか少しだけ緩んでいる。
アビスの中で『可愛いもの』に対して何の躊躇もなく愛を向けてくる大人は珍しい。
その狂気じみた真っ直ぐさは、彼女にとって妙に居心地の悪くないものだった。
「しかし、本当に大したものですね、ミリル看守官」
一通り数値を確認しながら、レイナードが感心したように目を細めた。
「なにが? そんなにあたし健康値高いんすか?」
「そうではなく」
レイナードは、モニターに映る異常な島々をちらりと見やる。
「異界であろうと、映像越しに『見えて』さえいれば転移可能なあなたの超力なしでは、人も物資も送り込めない。
正直、あなた無しではこの刑務作業の運用は不可能だったでしょう」
「ああ。それ、似たような事を所長さんにも言われましたよ」
「所長に?」
基本的にアビスの業務を取り仕切っているのは看守長だ。
所長など雲の上の人、一般職員ではあまり出会う機会のない相手だ。
レイナードも、まともに顔を合わせたことはほとんどない。
「ええ。所長直々にスカウトされたんすよね、あたし。是非ともその才能を世のために役立ててみませんか、って。
……まあ、自宅特定されて押しかけられて、ほとんどヤクザなやり方でしたけど……。
その口説き文句に、やってみてもいいかななんて、ちょっと気の迷いを起こしたわけですよ」
モニターの向こうで、また一つ、命が消える。
データ上の『生命活動』判定がゼロへと落ち、リストの一行が『刑罰執行済み』に書き換えられていく。
その変化を、ミリルは横目で見た。
「その誘いを受けたことを、後悔しているのですか?」
「…………どーだろ」
異世界を映し出すモニターを、遠い目で見つめる。
ピンクのツインテールが、わずかに揺れる。
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「元々あたしは家から出ない生活してたんっすよねぇ。その生活に全然不満なんてなくて、最高だったんっすけど。
超力ぽちりとするだけで届く快感? 家にいても何でも届くの、ご飯も、グッズも、仕事も、全部その狭い世界で完結してた。
こっちに来てからも、やってる事自体はそんなに変わんないんですよね。画面の向こうの誰かに、必要なモノを届ける。違うのは――」
ミリルは空になった缶を人差し指で軽く弾いた。
すると、缶がふっと消え、室内の隅に置かれたゴミ箱がカランと乾いた音を立てた。
「今は、必要なモノが銃とかナイフとか爆薬とか、人殺すのに必要な道具になってるってだけで」
「……」
全てを遠くに送り飛ばす目は、どこか遠くを見つめる。
その声は、いつもより少し低かった。
「自分の頭大丈夫なのかなーと思うこともあるんっすけど。ここから見えるのって、あくまで画面越しのデータなんですよね。
まあ、看守長とかサッズさんとかみたいなぶっとんだアビスの人たちを見ていると倫理観とかバグっちゃいますけど。
多分あたしの場合、倫理観とかじゃなく、現実感がないだけだと思うんっすよねぇ……」
ネイティブは超力に生き方や価値観を縛られる。
彼女はその体現ともいえるだろう。
レイナードは少しだけ首を傾げ、彼女を横から眺める。
「現場に出たくは、ないですか?」
「やだ。血を見るのは無理。あと人混みも無理。あと外も無理。陽の光も無理。ぜんぶ無理」
「分かりやすいですねぇ」
レイナードはくすりと笑った。
「私は逆に、現場に出る方が性に合ってましてね。どれだけ身体が変わっていようと、どれだけ人間を外れていようと、
生きている身体を目の前で見て、触って、どうにかしたいタチでして」
彼の笑みには、少しだけ狂気が混じる。
ドラゴンのような身体、獣のような四肢、岩のような皮膚。
そういったものを前にしても怯まず、むしろ興味を輝かせてしまう医師。
「だから本音を言えば、この刑務作業にはあまり良い気分は抱いていません。殺し合いなど、医者としては断固反対したいところです」
「じゃあ、なんで協力してるんです?」
ストレートな問いにレイナードは肩をすくめる。
「それがアビスの業務だから、と言ってしまえば簡単ですが。
看守長は人格的に問題がありますが、無意味に命を弄ぶことを良しとする方ではない。
上の人たちには、我らのあずかり知らぬ大義があるのでしょう。私はそれを信じているからです」
それに――と、付け足す。
「新しい身体、新しい傷、新しい病理。どんな形であれ救える形に落とし込むためには、データが必要です。
今、あの島で起きていることは、人類史上かつてない規模の『異能戦闘データ』ですからね。私の個人的な目的とも一致している」
その目の奥に宿る光は、危険なほどに強い。
狂気と呼ばれても仕方のないほどの知りたいという欲求。
「……ドクターって、やっぱ変わってますね」
「あなたにだけは言われたくないですねぇ、世界最高の転移ひきこもり配信者さん」
軽口を叩き合いながらも、空気はどこか重い。
モニターの端では、ブラックペンタゴンの図面が赤く点滅し始めている。
数時間後には禁止エリアが発動し、逃げ場はさらに狭まる。
「ミリル看守官の方こそ、この刑務作業をどう考えていますか?」
レイナードが、不意に真面目な声で問うた。
「さっきクロっさんにも似たようなこと聞かれたんですよね」
ミリルは空き缶を指先で回しながら、少しだけ考えるそぶりを見せる。
「あたし、別に正義とか大義とか興味ないし、看守長たちの思惑とかには興味ないですよねぇ。
それに、アビスって、『こういう汚い仕事を押し付けられる場所』でしょ。
だったらさっさと片付けて、さっさと定時まで仕事して、さっさと家に帰りたい。以上」
「現実的ですねぇ」
「理想とか語っても、配信のコメント欄みたいに炎上するだけですし」
そう言って、彼女は苦笑する。
レイナードは白衣の袖をまくり上げ、腕時計をちらりと見た。
「……おっと。そろそろ、次の放送の時間ですね」
レイナードが視線を画面へ向ける。
ミリルも、椅子の向きを戻しながら小さく息を吐いた。
「じゃあ、看守長のいやみな演説でも聞きましょうか」
薄い指先が、再びコンソールの上を滑り始める。
ピンクのツインテールが揺れ、モニターの中で光と影が交錯する。
世界最高の転移超力者と、どんな身体でも診ようとする狂気の医師。
アビスの地の底で、二人はそれぞれの持ち場から、地獄の舞台を回し続けていた。
■
アビスの食堂は、普段であれば受刑者たちの喧噪で満ちているはずの場所だった。
だが今日の食堂は職員専用となっており、広い空間には静かな電子音と、調理場から響く金属音だけがこだましていた。
看守たちが交代制で休憩に入り始めるにつれ、食堂の空気には、目に見えぬ疲労と張り詰めた緊張がうっすらと滲み始めていた。
誰もが理解している。刑務作業は、いよいよ最終局面へと差し掛かっているのだ。
そんな中、ひとりの老淑女が静かに席へ着いていた。
スヴィアン・ライラプス。
義眼の奥で光る視線はいつも通り鋭利だったが、その顔色は冴えず、どこか陰りが差している。
内側に沈む感情は、明らかに普段よりも重かった。
彼女が座る席に一人の筋肉質な女がプレートを片手に近づいてくる。
それはマーガレット・ステインだった。
鋼鉄のような髪を後ろで束ねたまま、彼女は迷いなくスヴィアンの正面へと歩み寄る。
「スヴィアン特任看守官。ここ、空いているか?」
鉄のように凛とした声。
だが、その奥にはわずかな気遣いが混じっていた。
スヴィアンは首だけをわずかに傾ける。
「構いませんよ、ステイン主任看守……どうぞ」
どこか覇気のない声。
マーガレットは気にせずその眼前の席に腰を下ろした、その直後だった。
厨房の奥から、やけに張りのある声が食堂に響き渡る。
「はぁーい職員さんたち! 今日のスープは特別にサービスしとるでぇ!
疲れた身体に効く『おばちゃんの隠し味』入りやからな!」
オルカン・マーマレードが、大鍋を揺らしながら満面の笑みを向けている。
それを横目で見たマーガレットは一瞬だけ眉をひそめたが、何も言わずにスプーンを手に取った。
「……相変わらず、味は悪くないな」
「そうですね」
スープをかき混ぜながら、スヴィアンが淡々と言葉を落とす。
「ですが味ではなく……あの調理過程は苦手です」
「……言うな。食欲が落ちる」
息の合った様子で食堂への愚痴を零す。
だが、二人の表情に緩みはない。
この場に集う看守たちは皆、同じ空気を共有していた。
刑務作業は佳境。
次の放送で、盤面は大きく塗り替えられる。
長かったようで、あまりにも短い刑務作業にも、いよいよ終わりが見え始めていた。
マーガレットが、スヴィアンの顔色を改めて観察する。
「……顔色が悪いな。体調がすぐれないようなら、夜の業務は免除するよう私の方から看守長に伝えておこうか?」
スヴィアンの顔色は、やはり良くない。
食事の手がほとんど進んでいないのは、スープの調理過程だけが理由ではないだろう。
「いえ……それに、主任の方こそ」
そう言って、スヴィアンはマーガレットの目を見た。
女性でありながらこの地の底アビスにおいて第三班の班長の立場を預かる鉄の女。
その表情は鋼鉄で覆われているが、眼の奥には確かな心労が滲んでいる。
「それに……報告するまでもなく看守長はこちらの心の内など、お見通しでしょうから」
「……そうだろうな」
他者の状態を管理する、ヴァイスマンの超力。
スヴィアンの憔悴の理由など、あの男はとっくに見抜いているだろう。
その上で、声もかける事もせずに放置しているのだから性格が悪い。
だが、その理由を察しているのはヴァイスマンだけではない。
アビスの人間なら、スヴィアンの心労の原因など、容易に察しがつく。
「……バルタザールのことだが」
マーガレットが静かに切り出す。
バルタザール付きの特別刑務官。
受刑者に刑務官が専属で付くという、アビスでも極めて異例の関係。
二人の関係性は、もはや内部では公然の事実だった。
その名を突きつけられたことにスヴィアンは驚くこともなく、静かに反応を示す。
その表情はどこか達観しており――まるで、判決を待つ罪人のようでもあった。
「簡単に口にしていい話ではないのだろうが……私にも、その気持ちは分かる。
大切な人間が、いつ死ぬともしれない状況にあれば、心労もあろうと言うもの。
私もエネリットの身を思えば、焦燥に駆られる事もある」
マーガレットはそう言った。
この鉄の女が、こうして本音を語るのは極めて珍しい。
部下を気遣った結果か、それとも、あまりにも近しい境遇への共感か。
彼女はアビス設立当初から、厳格に職務を全うしてきた仕事一筋の鉄の女だ。
だが、幼少の頃から手塩にかけて育ててきたエネリットに対しては、親心に近い感情を抱いている。
そんなエネリットが受刑者同士の殺し合いに駆り出されて心中穏やかであるはずがない。
だからこそ、マーガレットは自身の超力がエネリットに使用されることを黙認している。
その事に、あのヴァイスマンが気づいていないはずがない。
マーガレットが行っているエネリットへの援助を黙認しているのだ。
マーガレットはアビス設立から刑務官を務める古株である。
ヴァイスマンともそれなりに長い付き合いだが、その底はいまだに見えない。
互いの縁者が、刑務作業という地獄の真っただ中にいる。
その共通の傷を抱えているからこそ、スヴィアンの痛みに寄り添える存在は、アビスの中でもマーガレットだけなのだろう。
そうマーガレットは考えていたのだが。
「ありがとうございます……マーガレット主任。ですが……違うのです」
「違う……?」
スヴィアンの声は低く、重い。
彼女の心労は、バルタザールがいつ死んでもおかしくない刑務作業に縁者が放り込まれたことだけではない。
もっと致命的で、決定的な理由があった。
「あのお方が……エネリット様と争う事になるとは」
「エネリット様……か」
看守が囚人に向けるには、あまりにも異様な敬称だった。
バルタザールとスヴィアンの間に、常軌を逸したほど特殊な事情があることは明白だ。
そして、その歪んだ関係の輪の中に、エネリットもまた巻き込まれている。
その全貌を把握しているのは、おそらく所長くらいのものだろう。
「……お前たちの事情を問うつもりはない。ただ、一つだけ聞いておきたい」
マーガレットは言葉を選びながら、真正面からスヴィアンを見据えた。
「スヴィアン……もしバルタザールが倒れた場合──君は、どうするつもりだ?」
スヴィアンは、すぐには答えなかった。
沈黙だけが、食堂の静寂にゆっくりと溶けていく。
やがて、彼女は低く、かすれた声で口を開いた。
「……私は、恐ろしいのです」
初めて、義眼が真正面を向いた。
そこに宿る光は、年齢も歴戦も感じさせぬほど鋭く、そして切実だった。
そして、神に赦しを請うように両手を合わせる。
「己が罪業が……己が真実が、白日の下に晒される事が……」
マーガレットは唇を固く結び、視線を逸らさない。
それが逃げではないと、彼女には分かっていた。
「……あのお方が、セルヴァイン様が死を迎えるのならば──私は、己が責務を全うしなければなりません」
その声音に、迷いはない。
それは単なる後追い自殺ではない。
忠誠とも、贖罪とも、自己処罰とも言い切れぬ、
マーガレットには計り知れないほど複雑で粘度の高い事情が絡んでいる。
「スヴィアン…………君は――――」
二人の間に張り詰めた空気を破ったのは、厨房の奥から飛んできた騒がしい声だった。
「ちょっとアンタたち! 眉間にシワ寄せてないで食べんかい! 今日のスープ、特に効くでぇ!
……ちゅうか、あんたら最近寝てへんやろ。顔色がアカンわ!」
あまりにも場違いで、あまりにも人間臭い声。
だが、その無遠慮さが、どこか救いにもなっていた。
マーガレットはふっと息を吐き、スヴィアンはほんの一瞬、微笑んだような表情を浮かべる。
「……あの調子だ。アビスが地獄でも、この食堂だけは別世界だな」
「まったく……ありがたいことです」
マーガレットはスープを一口すすり、椅子を軽く押し出して立ち上がった。
鋼の髪が、わずかに揺れる。
「スヴィアン。私は行く。そろそろ放送の時間だ」
「ええ。私もこれを食べ終わったら業務に戻ります」
スヴィアンもまた静かに立ち上がり、義眼をまっすぐ食堂の出口へ向けた。
「エネリットも、バルタザールも。どちらが生き残るにせよ──」
「……私たちは、それを見届けなければならない」
二人の足音が、食堂の静寂に吸い込まれていく。
背後では、オルカンが食器を片付けながら、相変わらずの鼻歌を続けていた。
その音痴な旋律は、地獄の底においては、妙に優しく響いていた。
■
資料抜粋:『異世界移住計画(ABC計画)』概要
機密区分:最秘/門外不出
資料番号:ABC-OV/β-02
作成者:未来人類発展研究所 所長 長谷川 真琴
共同監修:世界保存連盟(GPA) 長官 終里 元
1. 計画策定の背景
『Z計画』の発動により、全人類へ超力が拡散された。
これにより人類は、単一個体が兵器級の力を有する時代へ突入し、文明は一時的に飛躍的発展を遂げた。
しかし、超力運用開始から20年が経過した現在、以下の問題が明確となっている。
超力は人類を次の段階へ押し上げた一方で、その力を安定的に運用・統治するには、人類は精神的・社会的に『未成熟』であった。
個人単位での超力保持は、国家・法・軍事といった既存の統治概念を根底から侵食し、世界秩序は不可逆的な不安定状態へ移行した。
暴走、私的武装、無差別発動、超力犯罪は構造的に抑止不能となり、既存の制度・倫理・武力による対応は限界に達している。
この状況を受け、GPA長官・終里元の提言に基づき策定されたのが『ABC計画』である。
2. 計画の定義と目的
『ABC計画』とは。
超力時代における人類文明の破綻を前提とし、これまでの20年間で蓄積された失敗・混乱・犠牲をフィードバックして、『より良い世界で文明を再設計し、再起動する』ための人類文明再構築プログラムである。
本計画の目的は以下の三点に集約される。
- 現世界を最終的に放棄すること
- 新世界を構築し、文明中枢を段階的に移行させること
- 超力社会における恒常的秩序を確立すること
すなわち本計画は、『世界の延命』ではなく『世界の更新』を目的とする。
3. 運用体制と基本原則
本計画は、単一国家・単一組織による運用を想定しない。
GPAを中核とした超国家的枠組みにより、情報統制・技術独占・段階的実行を行う。
計画の全容を把握する者は極めて限定され、
各システムの運用者には、必要最小限の部分情報のみが付与される。
計画の成否は、『情報秘匿』および『時間管理』に強く依存する。
4. ABC三系統基幹システム概要
『ABC計画』は、三つの基幹システムを段階的かつ統合的に運用することで成立する。
4-1. 『システムA』
旧世界の崩壊速度を制御する(過去を終わらせるためのシステム)
『システムA』は、治安維持を目的として過去に開発されたシステムであり、ABC計画においては旧世界の崩壊速度を制御するために再定義・転用される。
本システムは、旧世界を『安定させる』ためのものではなく、『計画完遂まで破綻させない』ための暫定措置である。
4-2. 『システムB』
移住先世界を生成する(現在を造るためのシステム)
『システムB』は、移住先となる新世界そのものを生成するための基盤システムである。
新世界は自然発生的に成立するものではなく、管理・観測・介入を前提として設計された人工世界である。
4-3. 『システムC』
新世界を旧世界の再現にしないための最終制御系(未来のためのシステム)
『システムC』は、法律・武力・制度に代わる、超力社会専用の統治基盤である。
新世界を旧世界の再現としないため、超力という力そのものを直接統制・管理する上位機構として位置づけられる。
5. 想定される主要課題
5-1. 新世界へ移住可能な人間の選別
新世界に収容可能な人口規模は、技術的・環境的制約から段階的に限定される。
このため、政治・科学・軍事の中枢人材およびその近縁者を優先し、文明基盤の維持・再建に不可欠な人材を抽出する必要がある。
選別過程において倫理的議論は発生したが、GPAは『文明の継続こそが最大の倫理』との立場を採用している。
不足する労働力については、クローン技術の活用を検討する。
多様性維持のため各国国民の遺伝子情報を記録し、本人ではなく遺伝子情報から再現を行い、『システムC』によって管理可能なレベルに調整する。
5-2. 移住対象外人口による暴動・内乱の制御
旧世界に残される多数の人間は、計画の存在を知れば確実に反発し、暴動・内乱・超力テロリズムが連続的に発生すると予測されている。
これに対し、『システムA』を基盤とした
『広域封じ込め・治安抑止フレーム』の構築が不可欠である。
旧世界は完全に放棄されるわけではなく、人口調整後は再利用可能な収容環境として維持される。
新世界の運用が安定し次第、世界の拡張、あるいは新たな世界の製造による段階的受け入れを検討する。
具体的手順は次フェイズで策定する。
5-3. 新世界の環境構築および長期的安全性
『システムB』による新世界は、安定運用可能な規模に限界がある。
文明規模の移住には、気候制御・資源循環・地殻安定性など、多数の指標を恒常的に監視・最適化する必要がある。
長期的に持続可能な『新たな惑星環境』の構築は、依然として挑戦的課題である。
6. 計画の再定義と最終目標
仮に移住が成功し、新世界の構築が完了したとしても、旧世界と同じ過ちを繰り返す可能性は極めて高い。
人類史が示す通り、環境・資源・技術が刷新されても、秩序を維持する仕組みが存在しなければ、社会は必ず内部から腐敗・分裂する。
問題の本質は、『どこへ移住するか』ではなく、『誰が、どのように世界を統治するか』にある。
この結論を受け、『ABC計画』の最終目標は次のように再定義された。
ABCシステムを体現した世界秩序を恒常的に維持しうる管理者の創出。
すなわち、『世界の管理者(ワールド・オーダー)』の創造である。
■
「――以上が、GPAの提唱する『ABC計画』の全容です」
静かな声が所長室に落ちる。
アビス所長・乃木平 天の口調には、怒りも驚愕も含まれていない。
そこにあったのは、すでに承知している事実を、あらためて言語化するための冷静な声音だけだった。
その演説の聴衆は、テーブルの向かいに座るただ一人。
地獄の獄卒――看守長オリガ・ヴァイスマン。
アビスにおいても、管理職以上の中枢人員にしか開示されない世界の深層。
その禁忌に等しい情報を共有しているのは、今アビスにいる人間の中でもこの部屋にいる二人だけだった。
「ですが、我々〈アビス〉の考えは、GPAとは根本的に異なる」
重いヴァイスマンの声に、乃木平が静かに頷く。
GPA長官・終里 元が推し進めようとしているのは、現世界を見捨て、選ばれた者だけで新世界へ移住する計画だ。
だが、目の前の二人は、その思想を受け入れてはいなかった。
「強権には責任が伴う。治安が崩壊したからと言って世界ごと捨てるだなんて論外だ。
それは秩序の管理者として敗北を意味する」
ヴァイスマンの言葉には、怒りよりも冷たい断定があった。
アビスは、闇を押し込め管理し続けてきた世界の最奥である。
法も国家も及ばぬ領域において、崩壊を食い止める最後の楔として存在してきた。
地の底たる『アビス』という異名は、蔑称ではない。
それは、どれほど汚れようとも秩序を手放さないという、秩序の護り手としての覚悟の証だった。
それこそがアビスの誇りであり、存在理由である。
世界がどれほど壊れようと、それを放棄するという選択だけは許されない。
「それにしても……まさか蒼光くんを、直接こちらへ遣わしてくるとは思いませんでしたが」
あれは監視であり、同時に脅迫だった。
GPAもまた、アビスが計画に異を唱えていることを察していたのだろう。
超力戦を主体とした現代において最強ともいえる『特殊事例(ノーブル)』。
そんな単独でアビスを制圧可能な戦力を被験体:Oの運搬と経過観察を名目に送り込んできたのだ。
「牽制のつもりでしょうね。だとしたら露骨すぎる。ずいぶんと侮られたものだ」
だが、それは杞憂というものだ。
どれほど理念があろうともアビスはGPAの下部組織にすぎない。
不本意であろうと、理不尽であろうと、上位組織の決定には従わねばならない。
それに逆らうことは、それこそ秩序の崩壊につながる。
任務は任務として遂行する。
異議は、正規の手続きをもって突きつける。
「クーデターなど企てない。我々の計画(プラン)を通すのは正面からだ」
ヴァイスマンは断言する。
それがアビスの流儀であり、秩序の番人としての矜持だった。
「向こうの警備隊長は、私のかつての上司ですので、話を通せる筋はあります。
ですが……我々だけの提言では、GPAを動かすには弱いでしょうね」
「ええ。政治屋どもは、下部組織の反対意見など聞き流すでしょうね」
乃木平の言葉に、ヴァイスマンも重々しく頷く。
GPAは、各国の利害と国家戦略が複雑に絡み合う巨大な国際連合だ。
たとえ合理的であっても、アビス単独の提案など、黙殺されるのが関の山である。
必要なのは――政治的な裏付け。
上層部が無視できない、もう一押しだった。
その瞬間。
バンッ! と音を立てて、所長室の扉が勢いよく開いた。
「――――待たせたね!!」
灼けるようなブロンドのオールバック。
太陽のような笑顔で白い歯を輝かせる男が、腕を大きく広げて立っていた。
「まったく、地上からのエレベータは長すぎるよ。Ms.ケンザキに送ってもらえないとここの立地は不便すぎるね」
そう言いながらふぅと胸元を緩めた。
帽子と袖に走る一本の銀線は看守部長の階級章である。
「アンダーソン看守部長。いつも言っているだろう。扉は静かに開く様に」
「おっと、失礼! HAHAHA!」
豪快に笑う男――カーネル・アンダーソン。
アビス看守部長にして、米国大統領の次男という強烈な肩書きを持つ男。
男は胸を張り、満面の笑みで演説でもするような声で宣言した。
「話を通していおいたよ! 父はアビス案への支援を約束してくれた。
いやぁ、父も頑固でね。説得するのに一晩かかったよ! おかげで寝不足さ、HAHAHA!」
その報告に、ヴァイスマンが一瞬だけ息を呑む。
乃木平は微笑を浮かべつつも、その情報の意味を即座に計算していた。
ABC計画の詳細は、アビスにおいても管理職以上しか知らされない極秘事項だ。
看守部長という立場だけなら、アンダーソンが全容を知るはずがない。
だが、米国大統領の息子であるなら話は別だ。
そして――新世界では、国家という概念そのものが再設計される。
旧世界の覇権、とりわけアメリカの影響力は、確実に減衰する。
アメリカ至上主義のアンダーソンが反発するのは、ある意味で必然だった。
だからこそ、アビスの思惑と利害が一致した。
「GPAが独立組織とはいえ、アメリカの意向を完全に無視することはできないでしょう」
乃木平の言葉に、アンダーソンは得意げに笑う。
GPAは国家の枠組みを超えた連合組織だ。
だが、その前身であるJUEPPの中核を担っていたアメリカと日本の影響力は、今なお根強い。
これで、アビスは稟議に上げるに足る政治力を得た。
アメリカの後押しがあれば、こちらの提案に対して聞く耳を持たせられるだろう。
「これでようやく、我々の提案をGPAに提案する下準備は整ったわけですね」
ヴァイスマンが言う。
乃木平はゆっくりと口元を歪める。
「ええ。我々の計画、すなわち――『異世界追放計画』を」
GPAは、新世界を選ばれた者だけが逃げ込む『希望の箱舟』として定義した。
だが、アビスの結論は真逆のものだった。
「我々が楽園へ逃げるのではない。
秩序を壊す者どもを地獄へ追放する。それこそが正しき秩序の在り方でしょう」
ヴァイスマンの冷たい声は秩序を統べる者としての確信に満ちていた。
『異世界転移』ではない。
『異世界追放』だ。
「新世界そのものを第二のアビスとする。
それこそが――――正しき秩序の拡張です」
ヴァイスマンの言葉に、乃木平もアンダーソンも深く頷いた。
ABCからなる三系統システムは、本来、普通の人間に向けて用いられるべき機構ではない。
それは秩序を逸脱し、社会を破壊する存在を管理するために使われるべき機構である。
――それが、アビスの結論だった。
これらのシステムは、文明の基盤として世界全体に適用するものではない。
矯正施設として、刑罰の最終段階として運用してこそ、その真価を発揮する。
地の底で闇を管理し続けてきた組織らしい、極めて冷酷で、同時に一貫した司法観であった。
それだけではない。
この『異世界追放計画』は、『異世界移住計画』の懸念点を解消しうる案でもあった。
まず、新世界への大規模移住に伴う最大のリスク――『選別されなかった人類による内乱』が、構造的に発生しない。
追放対象となるのは、秩序を破壊した者のみである。
それは、凶悪犯が極秘裏にアビスへ送られてきた従来の刑罰と、何ら変わらない。
世界の大多数たる無辜の民にとっては、日常は何一つ変わらない。
秩序を壊さなければ、世界から排除されることもない。
この一点だけでも、無辜の民を切り捨て希望者を選別する移住計画と比較した場合の政治的安定性は圧倒的だった。
さらに言えば、治安回復とは、理想郷の建設ではない。
危険因子を社会から不可逆的に取り除くことである。
文明を一度リセットし、新世界で一から社会を再編するよりも、どれほど荒廃していようとも既存の体制を維持したまま再構築する。
その方が政治的にも、軍事的にも、そして経済的にも遥かにコストが低い。
アメリカを引き込めた最大の理由も、まさにそこにあった。
理想郷の建設ではなく、現実的な治安回復案。
覇権国家にとって重要なのは理念ではなく、即効性と管理可能性である。
問題はただ一つ――その構想が、机上の空論ではないと示せるかどうかだった。
「奴らも、ようやく本格的に脱獄へ動き出してくれた。これでようやくこちらの最終目標(プレゼンテーション)を開始できる」
GPA(うえ)からのお題目は大方片付け終わった。
残り6時間。最終段階に至ってようやく訪れた。
ここからは――――アビスの時間だ。
アビスにとってこの刑務作業は、単なる懲罰でも、娯楽でもない。
それは『異世界追放計画』の実現性を示すための実演――すなわちプレゼンテーションである。
表向きはGPAの求める実験成果を提供しつつ、その裏で『異世界追放』の正当性を証明することこそアビスの腹案。
その為に、ABC計画のテスト環境を、受刑者で構成するよう提案したのはアビスだ。
アビスにはGPAの目的にも適した世界最高の超力者たちが収容されている。
だからこそ、この提案は問題なく通った。
被験体:Oの作成と活用も、その試みの一つである。
クローン技術は、本来、労働力確保のための施策である。
しかし、被験体:Oは労働力としては余りにも不適格な人間兵器だった。
防衛戦力としても、楽園と称される新世界には相応しくない過剰戦力。
だが、それが監獄の看守としてならば、どうか?
現人類の中でも最上位に位置するアビスの囚人たち。
その中でも特に凶悪な面子を、単独で抑え込める存在。
それならば、新世界の監獄を管理する者として、これ以上なく相応しい。
ブラックペンタゴンでの戦いは、その適性を示すための証明でもあった。
被験体:Oの元となる体細胞を、ヤマオリの地から採取したのは乃木平である。
それをクローン技術の素体として使用することを提案したのも、乃木平だった。
この提案が受け入れられた理由は単純だ。
あらゆる実験に耐えうる、異常なまでに強靭な肉体を持つ素体は、研究者たちにとっても都合が良かったからである。
アビスは矯正施設であり、研究機関ではない。
超力研究や人類進化は、本来の領分ではない。
にも拘らず、受刑者の遺体を研究サンプルとして回収を行っていたのは何故か。
もちろん、研究所からの要請があったというのもある。
だが、それ以上に被験体の強化という一点において、GPAの思惑を超えて、研究所とアビスの利害が一致していたからである。
研究所が『完成した技術を詰め込む器』を欲したように、アビスが『異世界追放計画を支える看守』を欲していた。
「よし! じゃあ後は囚人たちの活躍次第だな!
上層部の目を覚ませる、最高のショーを期待してるぜ! HAHAHAHAHA!」
アンダーソンは豪快に笑った。
その言葉の通り、これより先は囚人たちの活躍にかかっている。
囚人たちにいくつも情報を与え、不穏分子を放置し、反抗を見逃し、いくつも有利な条件を与えた。
ここまで首輪を爆破しなかったのは、もちろん囚人を脱獄させるため――などではない。
アビスにとって意味があるのは、受刑者達の脱獄ではなく。
脱獄しようとする受刑者達を叩き潰すことである。
最高の人員の最大の足掻きを全て叩き潰してこそ監獄として成立するのだ。
この作り出された新世界が、それでもなお脱獄不能の監獄であることを証明する。
そのために、奴らには最大限に足掻いてもらわねばならない。
事態は未だこちらの手の平の上から零れ落ちていない。
彼らを管理し、どこまで世界の耐久性を引き出せるのか。
その成果こそが、アビス案を理事会へ押し上げる最後の切り札となる。
「囚人どもの足掻きに、こちらも全力を持って応じよう」
ヴァイスマンが楽し気にパンと手を叩く。
――世界を見捨てるGPAか。
――世界を矯正するアビスか。
どちらが正しいかではない。
どちらが世界を動かせるかというパワーゲームだ。
隔離された世界で繰り広げられる囚人たちの戦いが、その帰趨を決める。
世界の秩序を破壊してきた無法者たちが、新たな世界の秩序の行く末を担う。
そのために、彼らの命は考慮されない。
人柱として捧げられる。
それこそが、彼らに課された――『贖罪』である。
世界は地獄の上に成り立っている。
だが、その事実を、そこで暮らす一般人が知る必要はない。
無辜の人々の当たり前の生活を守る。
それこそが、秩序の守護者に課せられた役割なのだから。
■
――――定時放送の時間だ。
諸君、よくここまで辿り着いた。
放送も三度目ともなれば、諸君らも拝聴の作法くらいは覚えたころだろう。
せいぜい聞き逃さぬよう、注意して聞くことだ。
さて、先に告げておこう。
次の区切りが刑務作業の終了だ。
つまり、これが実質的に最後の経過報告となる。
長く、苛烈で、血に塗れた贖罪の時間も――いよいよ終幕が見えてきたというわけだ。
では、いつも通り進捗を報告しよう。
これより読み上げる者たちは、刑務作業の過程で懲罰が執行された者たちだ。
言い換えれば――諸君ら自身が、直接あるいは間接的に積み上げた成果だ。
アイ
氷藤 叶苗
ジェイ・ハリック
ディビット・マルティーニ
交尾 紗奈
夜上 神一郎
以上だ。
今回の脱落者はこれまでの半分以下か。随分と少ないな。
不甲斐ないとは言うまい。こちらの仕掛けを見事乗り切ったようだ。
これで作業従事者は半数を割り込み、盤面は実に見通しが良くなったな。実に結構だ。
諸君の本性が、この島の空気に馴染んできた証だ。
誰が獣で、誰が餌だったのか――その区別も、そろそろはっきりしてきたころだろう。
さて、この放送と同時に遅延していた禁止エリアの発動となる。
改めて言うまでもないことだが、つまらぬ最期を迎えたくなければエリア内には侵入せぬよう気を付けたまえ。
続けて、次の禁止エリアの指定を行う。
禁止エリアの指定もこれが最後だ。
そのため今回は少し多めの指定となる。
まずはエリア単位の広域指定を行う。
エリア-A
エリア-H
エリア-1
エリア-8
これらを全て禁止エリアとする。
続いて、個別指定だ。
B-3
B-4
B-5
C-2
C-7
D-7
E-7
G-5
以上の区画を禁止エリアに追加する。
発動までの猶予は、今回は2時間としよう。
今そこに立っている者は、慌てて走るといい。
もっとも――走った先に安全があるとは、誰も保証しないがね。
さて。
ここで一つ諸君らに報告だ。
本来であれば報告する必要のないことだが、公平を期すため諸君らに伝えておこう。
なぁに、終局を盛り上げるための、ほんの些細な配慮だ。
この放送の終了後から、我々の送り込んだジョーカーに対して生存者の現在位置を公開する事にする。
つまり、被験体:Oは常時、君らの位置を把握し追い詰める事になるという事だ。
隠密も偶然の遭遇も終わりだ。
逃げ続けてきた者は、いよいよ逃げ場を失う。
力を誇る者は、それを証明する絶好の機会だ。
君らに伝えるべき報告は以上だ。
終わりは近い。
残された時間で、存分に裏切り、奪い、殺したまえ。
諸君らに課せられた贖罪のために。
その命を、世界のために捧げたまえ。
どうか――最後まで、存分に足掻きを見せてくれたまえ。
最終更新:2026年02月05日 22:13