教祖の朝は早い。
朝日と共に起床する。
起床して最初に行うのは日課である朝の祈りだ。
これは神との交信ではなく、日々の感謝と幸福を願う純粋な祈りである。
半刻程の祈りを済ませた後は、備え付けの台所で朝食の準備を始める。
本日の朝食はサラダと豆のスープ。
質素な食事だが、毎日喰うに困らなくなっただけでも自分には贅沢すぎる。
石造りの自室は夏は暑く冬は寒い。
けれど温かい毛布はあるし、ガラス窓にはヒビ一つない。
暮らしをするには十分な環境である。
朝食を終えると、隣室の簡素な浴場に向かう。
そこで冷水で身を清めると、祭服に着替えると離れの自室から回廊を渡って神殿へと向かう。
自室と違い、神を祀る神殿は絢爛なものにした。
神殿は神の威光を示す物。
どれだけ豪勢を極めても足りない程である。
「おはようございます」
『おはようございます、教祖様』
教団に仕える巫女たちに声をかける。
気持ちの良い挨拶が返った。
「本日は神送の儀式があります、準備は整ってますか?」
「はい、滞りなく」
今日は選ばれた信徒が神の世界に導かれる選定の日である。
決まった周期はなく、月に1、2回の頻度で神託により日程が決定される。
贄の選定は神託の巫女である
イコンに一任されていた。
神の要求は日によって異なる。
若い女を要求する事もあれば、屈強な男を求める事もある、あるいは枯れた老人なんて要求もまれにあった。
心美しい穢れを知らぬ善人やあらゆる悪行を行った悪人なんて要求すらある。
神の御心は気まぐれにも見えるが、恐らく
イコンに測れぬ程深いのだろう。
そして本日の注文は幼い子供だった。
一室に集められた10余名の年端もいかぬ子供たち。
幼すぎる彼らは状況を完全に理解していないのか戸惑うようにざわついていた。
「きょうそさま」
「どうしました?」
「ぼくたちしんじゃうの?」
不安そうな声。
イコンはにこりと笑って、その不安を拭うように優しく頭を撫でる。
「いいえ、死ぬのではありません。あなた達は神の国へ導かれ、救われるのです。
恐れる事はありません。それは大変、名誉で幸福なことなのですよ」
子供たちは不思議そうに顔を見合わせる。
幼い彼らはよく分かっていないようだった。
別の少女が声を上げる。
「けど、おかーさんやおとーさんと、おわかれしないといけないんでしょ?」
「安心なさい。あなたの家族が真摯に祈りを捧げ生きる真の信徒であるならば、いずれ楽園で会えるでしょう。
あなた達は少しだけはやく楽園に向かうだけなのです」
いずれ出会う約束の地。
家族も幸福も。
そこには全てがある。
「けど…………」
だが、まだ戸惑いがあるのか。
一人の少年が躊躇いがちに声を上げた。
「まだ、ちょっとだけこわい」
「ならば祈るのです。祈れば恐怖は無くなります」
そう言って
イコンが祈ると、それを真似るように子供たちも祈った。
「神様、神様。どうか我らを導き下さい」
『かみさま、かみさま、どうかわれらをおみちびきください』
「神様、神様。どうか我らをお助け下さい」
『かみさま、かみさま、どうかわれらをおたすけください』
彼らなりの真摯な祈りを見届け、
イコンは満足そうに笑うと子供たちを送り出す。
カーテンに遮られたその先にあったのは祭壇だった。
階下では、祭壇を見上げる多くの信徒たち。
その中には子供たちの両親もいるのだろう。
聖火の灯った台座に四方を囲まれた祭壇の中心に子供たちは置かれる。
イコンは儀式を取り仕切る巫女として、階下の信徒たちへと声を上げた。
「敬虔なる信徒たちよ! 彼らが今宵、神の国に送られる幸福なモノたちである。
あなた達も日々研鑽を怠らず自らを高め、魂を磨き上げるのです。さすればいずれ神のお導きがあるでしょう」
お決まりとなった儀式の口上を述べる。
階下にいる信徒たちも倣うように一同が両手を合わせて祈りをささげる。
全員が一糸乱れず同じ動作を行うその様は、一つの生き物のようだった。
「さぁ、救済の時間です。神に祈りを捧げなさい、私たちは救われるのです」
神の供物となった子供たちが消えて行く。
神の国、
天上楽土へ導かれたのだ。
幸福であれ。
そう願いながら。
いずれ私もと、祈るのだ。
■
灯台を臨む岬に海風が吹き付ける。
岬に繰り返し打ち付けられる強い波がうるさいまでの潮騒を響かせた。
降り注ぐ日差しの温かさ、少しだけべたついた風の匂い。
その全てがとても仮想世界とは思えない実感を伴って世界を満たす。
バーチャル世界『New World』。
夜に始まったゲームは朝と昼、二つの契機を超え、いよいよ佳境へと差し掛かろうとしていた。
巻かれた運命の種は各地で芽吹く頃合いだろう。
そしてここでもまた小さな種が一つ。
昼の灯台を誘蛾灯にするようにして誘われたのは一人の男と一人の女。
同じ世界を出自とする二人は最南東に導かれ、遠方に互いの姿を認め足を止める。
辛うじて互いの声が届く距離。
ステージの様な僅かに小高い丘を挟み、赤と黒の瞳が交差した。
同じ世界の住民と言っても、生きた時代の違う二人だ、直接的な面識はない。
だが、互いが何者であるのかなど名乗るまでもなく理解できた。
潮騒や風音の中でも不思議と通る威厳を含んだ低い声が響く。
見紛うはずもない自分を殺した宿敵の顔。
だが、それとは違う。
あの神の如き女とは違い、目の前の相手は人の範疇である。
「ええ。直接お会いするのは初めてですね、
改めて名乗りましょう私は
イコン教団の教祖
イコン。初めまして神に敗れし魔王カルザカルマ」
挑発的な笑みを浮かべながら、礼儀正しく首を垂れる。
その顔を見ながら魔王は不快そうに眉根を寄せた。
「その顔。まったく嫌になる程似ているな」
自らを殺した存在と同じ顔が目の前にある。
別人であると理解しても不快感は募るばかりだ。
「そうでしょう。我が相貌は神の威光と教えを広めるため、神より賜りし恩寵その物なのですから」
狂信者は誇らしげに謳うように語る。
この顔は神によって取り替えられた賜りもの。
神の声を聞いた翌朝、
イコンの顔は変貌していた。
これを
イコンは神の奇跡だと信じて疑わなかった。
己が容姿すら奪われ偶像となる。
その狂信を、魔王は心底下らないと鼻で笑った。
「ふん。その境遇を嘆くのではなく喜んでいるのだから救いようがないな」
もはや愚かを通り越して哀れだと、静かに首を振った。
だが、魔王の哀れみなど神の現身に届くことはない。
真っ直ぐな瞳のまま祈るように手を合わせる。
「いいえ、我らは救われるのです、他ならぬ神によって」
「神は人を救わぬさ。ただ悪辣な試練を与えるのみだ。
逆説的に人を救うのならばそれは神ではない、別の悍ましい何かだろうよ」
魔王は彼女の神を否定する。
だがその言い分を教祖はハッと笑って吐き捨てる。
「下らない。過去の在り方にどれほどの価値がありましょう。
我らが神は新しい神なのです。既存の価値観を覆すのは当然のこと。
これだから価値観を更新できない老害は困ります」
未来を生きる少女からすればその価値観は古い。
彼女の神はそう言った物を超越した最新の救世主である。
「モノの道理も分からぬ小娘がよく吠える。いや、盲目であるからこそか。
盲いたまま誰を導き、どこに向かうと言うのか。お前たちはどこにも行けない」
魔界を束ねる魔王は宗教という一大組織の教祖を否定する。
「行けますとも、私は楽園に行くのです」
言論は噛み合わず、どこまで行っても平行線。
魔族の王と神の使いは分かり合えない。
そんな事は既に分かり切っていた事だ。
「話にならんな。いいだろう。神ではなくこの魔王が導いてやる、貴様が行くのは地獄だ」
「やる気になっている所申し訳ないのですが、生憎あなたとは戦うなと、神にそう忠告されてますので」
イコンは視線を魔王に置いたまま、僅かに後ずさる。
通話越しとはいえ天罰の餌食となったマヌケだ。
神が警戒する程の脅威とは思えなかったが、
イコンは神の忠告を無視するような不信心者ではない。
ここは素直に引き下がる事とした。
「逃がすと思うのか?」
「思いますとも。あなたは私に攻撃できない」
能力を知っているからこその抑止力だ。
神罰がある限り魔王は神の使いを攻撃できない。
イコンは慌てることなく悠々とこの場を立ち去ればいい。
「そうだな。ならば、攻撃でなければどうだ?」
言って、魔王は指先に挟まれた1枚のカードを突き出した。
それは自身が一度受けたスキル効果を一度だけ”そのまま再現”するアイテムカード。
「コール。スキル再現」
その宣言に
イコンは瞬時に『神罰』が再現されることを警戒した。
だが、その警戒は杞憂に終わる。
発動したのは『神罰』ではなく。
「――――――『強奪』」
カードが燃えるように輝きながら消滅した。
盗賊ギール・グロウより受けた『強奪』のスキルが再現される。
燃え尽きたカードの代わりに、魔王の手元には一つの機械が握られていた。
「成功、のようだな」
その呟きは『強奪』スキルの成功についてではない。
『強奪』スキルを行ったにも拘らず『神罰』が下らなかったことに対してのものだ。
再現したのが直接的に相手を害する『神罰』であれば『神罰』が返っていただろう。
だが、『強奪』スキルでは発動しなかった。
危害の違いではない。
それならば舌戦では発動しないはずだ。
その違いは何か。
それは行った行動(コマンド)の違い。
発動のトリガーを、より具体的に言うならば。
「カウンター発動条件は、『貴様』に対して『攻撃』を『選択』した場合、だな?」
攻撃の内容すら問わない幅の広さだが、攻撃でなければ問題はない。
条件は判明した、だが
イコンはそれどころではない。
慌てた様子で何を失ったのかを確認すると、その目が大きく見開かれた。
そして噛みつくように吠える。
「ッ。か、返せッ! それを返せ!!」
「ほぅ。ちょっとした確認のつもりだったが、どうやら当たりを引いたようだな」
魔王が手元のアイテムを確認する。
それは何やら画面に光が点滅する機械だった。
魔王にとっては未知の道具だが、この世界は便利な物で、アイテムの詳細欄を見れば簡単な概要はくらいは理解できる。
詳しい使い方はシェリンに聞けばいい。
「なるほどな、『発信機』とやらを持つ者の現在地を示す道具か。
その慌てた反応からして、ここに示されているのは、」
「黙れッッ!!」
その先を言わすまいと大声を張り上げる。
だが、言葉を途切れさせたところで事実が否定できるわけではない。
失態だ。
知れてしまった、神の所在が。
よりにもよって神の命を狙う魔王を導くなど失態どころの話ではない。
「それを返してもらうぞぉッ、カルザカルマァ!!」
後ろに下げた足を前に踏み出す。
それは神のために踏み出した一歩であり、初めて彼女が神の神託に背いた一歩だった。
取り返さねば。何としても取り返さねばならない。
「来るか狂信者。だが身の程を弁えよ。貴様如きでは我の敵にすらならぬと知れ」
魔界の王は揺るぎなく。
冷徹な絶対強者の風格で受けて立つ。
それを前にしても狂信者は怯まなかった。
彼女の両足を支えるのは信仰と確信である。
「何を戯言を。敵ではないのは貴方の方だ。天罰がある以上、貴方は私に攻撃できない」
強奪が成功しようと、条件が割れようと、その事実になんら変わりはない。
むしろ
イコンを引き留めたのは自ら首を絞めたと言える。
魔王は何食わぬ顔でふむと頷く。
「確かに我は貴様には攻撃できぬ」
言いながら、魔王は片腕を天に掲げた。
その掌に巨大な炎が渦を巻く。
この世界において魔法を放つのに詠唱し術式を組み立てるなどという過程は必要がない。
具体的なイメージさえあれば、選択するのみで発動する。
だが、どうする。
この業火を
イコンに放てば神罰が下る。
それが分からぬ魔王ではあるまい。
「貴様には、な」
言って、練り上げた上級爆炎魔法を叩きつけた。
咄嗟に両手で身を守るも、飛び散った炎が
イコンの身を焼く。
「……ッ!?」
まさかカウンターによるダメージ覚悟の自爆戦法か。
そう驚きながら攻撃してきた魔王を見つめる。
だが、魔王は健在。『神罰』が下った様子もない。
「分からぬ、と言う顔だな」
戦っているとは思えない程興味なさげな態度で、魔王は
イコンではなく魔法を放った自らの手の平を見つめる。
「貴様のカウンター能力の条件は先ほども言った通り、『貴様』に対して『攻撃』を『選択』することだ。
逆に言えば、その条件をすべて満たさなければ発動はしない。
だから我は貴様ではなく、この地面を攻撃した。これはその攻撃に貴様が勝手に巻き込まれただけの話である」
魔法が叩き付けられたのは魔王と
イコンの中間あたりの地面だった。
イコンに襲い掛かったのは周囲に飛び散った炎でしかない。
「これより我は、貴様を眼中にも置かぬ。言ったであろう貴様は我の敵ですらないと」
直接攻撃ではなく範囲攻撃で巻き込む。
イコンの能力は魔王にとってそれだけで攻略可能な障害に過ぎない。
視線すら向けず、独り言のように残酷な宣告を行う。
「適当に巻き込まれて、適当に死ね」
■
灯台を臨む岬はあらゆる魔法が飛び交う戦場となっていた。
魔法師団もかくやという魔法の嵐を生み出しているのは、たった一人の魔族である。
魔法を司る王の両手から幾つもの閃光が弾ける。
次々と飛び交う魔法は手当たり次第で節操がない。
轟く雷鳴。雨の様に雷が落ちる。
地面は針山のように隆起し地形その物を変化させていた。
地表の一部は凍り付き、棘のような氷が突き立っている。
またある一部では高温で融解した地面が泡のように沸き立っていた。
熱と冷気が入り混じって吹き荒れる暴風は金切声の様な絶叫を上げながら、全てを切り裂く風の刃となる。
色とりどりの魔法力はプリズムの様に反射し空に虹の様な美しい紋様を映し出してた。
もはやこの世の物とは思えぬ光景だった。
その渦中にいる
イコンは、まだ自分が生きているのが不思議で仕方がなかった。
これ程の地獄の中で生きているのは実力ではなく、完全な運でしかない事を理解しいていたからだ。
魔王の手から上空に向かって放たれた光の矢が空中で拡散した。
光の槍となって雨のように降り注ぎ地面に多くの沢山のクレーターを作る。
一条の光が
イコンの肩を掠めた。
「…………くっ!?」
生き延びられている理由は敵の狙いの散漫さ故である。
直撃することはないためダメージも少ない。
本当に明後日の方向に放たれることもある。
だが、あまりにも多く、あまりにも広範囲すぎる。
僅かに掠める魔法のよって生命力が。
安全地帯を模索して駆けまわることで体力が。
いつ直撃するとも知れぬ恐怖で気力が。
直撃はせずとも、時間と共に削られてゆく。
爆心地たる魔王を見る。
宣言通り魔王は
イコンに視線すら向けていない。
それどころか、完全に両目を閉じてすらいた。
意図的に、逃げ惑うネズミの気配すらを感じていないだろう。
だが、これは絶好の機会でもあった。
魔王は攻撃のために防御を完全に捨てている状態だ。
それを前提とした策なのだろうが、その態度は
イコンを完全に嘗めている。
攻撃をするのは自分だけだと言わんばかりの魔王の背は隙だらけだ。
恐らく背後に回られたことすら気づいていまい。
これ程隙だらけの相手なら、
イコンであろうと仕留められるだろう。
問題は一つ。
イコンの持つ直接攻撃できるような武器は七支刀だけだった。
近接武器で攻撃するには、当然ながら近づく必要がある。
それはつまり、ありとあらゆる破壊が渦巻く地獄の爆心地に飛び込んでいく必要があると言う事。
取り出した七支刀を握り締める。
彼女は戦士ではない。
破壊の渦を縫って駆け抜ける技量などない。
それでも、まともな生存圏など無い道を迷わず駆け抜ける、その勇気があるか。
彼女は神の神託を聞き届ける巫女である。
彼女の心には決して揺るがぬ信仰があった。
信仰は生きる糧となり、前に踏み出す勇気をくれる。
迷いはいらない。
躊躇えばそれこそ死だ。
振り切るようにして目を閉じて
イコンは駆けだした。
イコンにできるのは祈る事だけである。
どこを走ろうが同じならば、最短距離を一直線に駆ける。
目を閉じて明後日の方向に攻撃を放ち続けるその背を、目を閉じた襲撃者が狙う。
それは傍から見ればさぞ異様な光景であっただろう。
幾重もの風の刃が身を掠める。
氷塊が背後に落ちた音がした。
目の前を灼熱の炎が通りすぎた熱を感じる。
その地獄の道のりを不意打ちに気付かれぬよう、歯を食いしばり声を出さずに駆け抜ける。
痛みがある、恐怖がある、躊躇いがある、それら全てを信仰心でねじ伏せる。
それは信仰の賜物か。
イコンは五体満足のまま辿り着いた。
七支刀を振りかぶり
イコンが目を見開く。
眼前には無防備な敵の背中。
トドメとなる最後の一歩を踏み込んだ所で。
その足元が爆発した。
「ネズミが掛かったか」
その爆発音に魔王が振り向き、閉じていた目を片方だけ開く。
魔王は自らの周囲に、地雷の様に罠魔法を仕込んでいた。
敵の踏み込みをトリガーにするこれもまた『天罰』の発動条件外の攻撃である。
「我に手の内を見せたのが間違いだったな」
電話越しとはいえ、魔王に己が手の内を晒す意味。
イコンはそれを理解していなかった。
いや、理解はしていたが、見誤っていた。
魔王など、彼女からすれば神に敗れた敗北者。
軽蔑はすれど警戒をするに値しない存在だった。
だが、
イコンの生きる時代は勇者によって平定された時代だ。
たとえそれがディストピアめいたものであったとしても、秩序の保たれた世界に生きた女である。
立場上命の危機に晒されることも少なくはなかったが、それも小競り合い程度の戦闘しか経験したことがなかった。
それに対して、魔王が生きたのは戦乱の時代。
十を超える大戦を超え、魔界を平定した百戦錬磨の戦闘巧者である。
魔王の名は伊達ではない。
彼我には戦闘経験には天と地ほどの差があった。
敵の手の内が知れれば対応策など、それこそ五万と考えられる。
「確かに……あなたにコールをしたのは失敗でした」
トラップを踏んだ右足は動かない。
だが、今はそれが功を奏した。
すぐ攻撃されないのは下手に動かないからこそである。
トラップに引っかかった時点で魔王は
イコンを認識した。
動かないでいる限り、天罰を意識してすぐには攻撃ができない。
だが、それもこの一時の事だろう。
この魔王の事だ、すぐさま
ルール外の攻撃を仕掛けてくるだろう。
魔王がゆっくりと動けない
イコンへと近づく。
直接攻撃による奇襲は失敗した。
魔王相手に手の内を見せたのも悪手だった。
侮っていたのも認めよう。
「ですが…………」
まだ、全てを見せた訳ではない。
切り札を出したとしても、まだ奥の手がある。
「近づいたぞ――――魔王ッ!!」
カッと
イコンが目を見開く。
イコンが持つもう一つのスキル『アイドル(古代)』。
近づきさえすれば、範囲内の対象に熱狂状態を付与できる。
スキル効果の有効圏内。
だが、魔王に状態異常は通らない。
それは魔王の支配する時代に生きる者であれば誰だって知っている常識である。
故に、魔王に状態異常を与えようとするなど戦術として成立しない。
イコンは魔王の存在しない時代に生きた存在だからこそ、その常識を知らない。
加えて、他ならぬ天罰により魔王の状態異常耐性は下げられている。
アイドルに魅せられ魔王の目の色が変わる。
魔族特有の金と赤の瞳から正気の色が消え失せ、狂気を帯びた炎が灯る。
無知と偶然によりこの戦術は成立した。
灯る狂気と情熱の炎。
その炎が、向けられる先は。
魔族の頂点たる魔王が、最大限の敬意を払うようにその場に跪いた。
勝った。
イコンは内心で勝利を確信する。
神に感謝を、幸運に祈りを。
魔王は
イコンに従う信徒となった。
勇気でも技術でもなく、これは神を信じ駆けだした信仰の勝利である。
慌てる必要のなくなった
イコンはゆっくりと七支刀を杖代わりにして立ち上がった。
自らに傅く巨体を見下ろす。
見下ろすと言っても魔王の座高と
イコンの身長は大差がないのでほぼ水平ではあったのだが。
ひとまず自らに従う木偶となった魔王の処遇を考えねばならない。
贄として神の下に連れて行くか。
いや、まかりなりにも神の命を狙う魔王である。
万が一と言う事もある、それは危険だろう。
神の御身を危険に晒す可能性のある行為は避けるべきだ。
つまらない欲は出さず、自害を命じるなりしてここで始末しておくべきだろう。
イコンはそう決断を下す。
だが、その前に。
「周囲の罠魔法を解除し私の足を治しなさい」
この足では行動に支障をきたしてしまう。
まずは治療を行わせる。
魔法を自在に操る魔王なのだから、回復魔法も思うがままだろう。
だが、魔王は俯いたまま動かなかった。
「…………どうしました?」
促された魔王はゆっくりと面を上げる。
地面にポトリと何かが落ちた。
その目には、一筋の涙が。
「え?」
「許せよ。我が君」
魔王の腕に魔法の輝きが灯り、躊躇いなく振り落とされた。
それは癒しの力などではなく、全身を焼く炎だった。
「ぁあ…………ッ!!」
「くっ!」
上がった悲鳴は二つ。
身を焼かれた
イコンと、『天罰』によるカウンターダメージに苦しむ魔王の物だ。
あれほど封じていた直接攻撃を今になって何故。
それ以前に、信仰を持ったはずの
イコンに対して攻撃を行うなどあってはならないことだ。
イコンの誤りは信仰を絶対であると考えた事。
信仰している相手を殺せないと自らの尺度に当てはめてしまった事である。
愛の形は千差万別。
愛しているから守りたいという価値観もあれば、愛しているから殺していなんて事もある。
むろん魔王はそんな気質ではないけれど、愛していようが殺す男ではあった。
怠惰にして同胞を庇護する慈悲深く情深い魔王。
だが、敵であれば殺す。
そこに好悪など関係がない。
その価値観を当たり前の常識として持っている。
このガルザカルマが魔界を統一するために、何度同胞を殺してきたと思っている。
それは恨みで戦ったのではない。
むしろ敬い尊敬していた相手達だった。
それでも殺した。
殺す必要があったから。
そうしなければ魔界に秩序を齎せなかったからだ。
それが
魔王カルザ・カルマという男の生きざまである。
「我が愛する君よ。苦しまぬよう一思いに殺してやる」
涙を流しながら、愛しき人を手にかける。
『熱狂』状態となった者は彼女のために命を懸ける事も厭わない。
その効果が齎したのは、自らが傷ついても殺すという覚悟だった。
これらが合わさり、魔王は自傷を厭わぬ直接攻撃に踏み切った。
「くっ…………」
動かない足を引きずって
イコンは後ずさる。
神の言葉は正しかったと今になって理解できた。
魔王には
イコンでは敵わない。
いや、神はいつだって正しい。
それに背いた
イコンが間違いだったのだ。
逃げるしかない。
受信機を取り返せないのは業腹だが、勝ち目のないこの状況ではどうしようもない。
無駄死にするよりは一度引いて次のチャンスを待つべきだ。
この足で逃げ切れるかは怪しいが、それなら一か八か崖から海に飛び降りてでも逃げ延びてみせる。
そう考え、一歩引いたところで。
『逃亡禁止
ルールに違反したためペナルティが課せられます。ペナルティにより『アイドル(古代)』スキルが剥奪されます』
「な――――――?」
電子妖精の宣告。
同時に、元凶となったスキルが立ち消え、魔王の目から狂気の色が立ち消える。
熱狂から醒めた魔王は冷静に更新されたヘルプページを確認した。
「ふむ。どうやら、今しがた逃亡禁止
ルールが追加されたようだ。残念だったな」
魔王からは逃げられない。
そんな
ルールがこのタイミングで追加されていた。
魔王は片手で自らの顔を負おうと、クツクツと笑った。
笑みと共に発せられたその声には、してやられた相手への敬意と、どうしようもないほどの敵意が含まれていた。
陣野愛美に至るために払うべき露としか認識していなかった相手を、敵と認めたのだ。
「――――――――ぁっ」
重圧を持った魔王の視線が
イコンを射貫く。
イコンは動けない。
なにせ、逃げればスキルが失われる。
『神罰』スキルが失われれば、それこそ終わりだ。
直接攻撃を受けないための抑止力であり
イコンの生命線である。
かと言って、進めば罠に引っかかる。
もう信仰がどうこうの次元の話ではなくなっていた。
どこにあるのか分からない地雷原を突き進むことなどできるはずもない。
進むことも戻ることもできない。
ただ
イコンは立ち尽くし、魔王の沙汰を待つばかり。
その心中に渦巻くのはただ一つの想い。
死にたくない。
神と一つになる
天上への道が見えているのに。
その先にみんなが待っているのに。
こんなところで無為に死ぬだなんて、耐えられない。
「褒美だ。魔界の深淵――――禁呪を見せてやろう」
その祈りを打ち砕くは魔界の王。
それは先代魔王が得意とした禁呪。
全てを破壊する終りの具現たる究極魔法。
「この仮初の身でどこまで再現できるか、我自信にも分からぬが共に確かめようではないか、我が愛しの怨敵よ!」
魔王の腕が漆黒に光り輝く。
矛盾した暗い光に照らされながら魔王が嗤う。
中てられたように
イコンは呼吸することすらできない。
瞬間、世界が黒に染まる。
日の光すら吸い込むような黒い光の束が灯台目がけて放たれた。
音が消える。
黒い極光は灯台を根元から消滅させ、足場を失った灯台が倒壊した。
倒れこむ灯台、その真下には動けない
イコンが。
「――――――ぁ」
地鳴りと轟音。
もはや生存など望むべくもない死の雨が降り注ぐ。
だが、ここで魔王にも予想外の出来事が起きた。
地面に降り注ぐ巨大な灯台の破片。
これに耐え切れなくなったのは、この岬の方が先だった。
魔王の魔法を直接ぶつけられていたのは他ならぬこの地面である。
耐えきれなくなるのは当然と言うモノ。
足元の地面が切り崩されたように欠け落ちた。
魔王は咄嗟に跳躍し非難したが、
イコンは大量の瓦礫と共に海へと落ちて行った。
「さて、どないなったか。仕留めたんかわからんのが面倒やな」
魔王は崩れた岬の先端で顔を出して海を眺める。
海を流れてゆく土塊や瓦礫の中に紛れて
イコンの姿は確認できない。
メニューを開き所持GPを確認するがGPに変化はない。
と言う事はまだ死んではいないようである。
「おい、使い魔。逃亡禁止いう話やけど、あれはええんか?」
流れてゆく残骸を指さしながら、電子妖精に問いかける。
『事故のようなものですので、逃亡行為としては認められません』
「さよか」
あっさりと、魔王は即座に意識を切り替える。
逃してしまった者は仕方ない。
あの状態ではその内溺れて死ぬだろう。
生き延びたならその時はその時だ。
その悪運を祝福する他ないだろう。
手傷は追わなかったが、随分と魔力を消費してしまった。
禁呪は元より、広範囲魔法を何発も放たされたのだから当然だろう。
そう言う意味では厄介な相手だったと言える。
唯一の収穫。戦利品である受信機を見つめる。
中央近くで点滅する光点。
ここに魔王の宿敵がいる。
あの陣野愛美が誰かに殺されるとは思えない。
やはり決着をつけるのはこの魔王なのだろう。
居場所は知れた。
あとは、戦うだけだ。
決選は近い。
[H-8/崖/1日目・日中]
[魔王カルザ・カルマ]
[パラメータ]:STR:A VIT:B AGI:C DEX:C LUK:E
[ステータス]:魔力消費(大)、状態異常耐性DOWN(天罰により付与)
[アイテム]:HSFのCD、機銃搭載ドローン(コントローラー無し)、受信機、不明支給品×1
[GP]:87pt
[プロセス]:
基本行動方針:同族は守護る、人間は相手による、勇者たちは許さん
1.陣野愛美との対決に向かう。
2.主催者を調べる
※HSFを魔族だと思ってます。「アイドルCDセット」を通じて彼女達の顔を覚えました。
■
思い返すのは冬の記憶。
何もなかった、私が私でしかなかった頃の記憶。
北部地方の冬は長い。
春は短く夏はなく秋も短い。
一年の殆どは冬であり、雪と寒さと共存した暮らしを強いられます。
凍り付いた凍土では作物も育たず、獣は冬眠しているため狩りで得られる獲物も少ない。
短い冬以外の季節の間に慌ただしく冬籠りの準備を行い、蓄えた僅かな食料で日々を食いつなぐ。
そうして冬をやり過ごし短い春を待つのです。
中央に行けばもっといい暮らしが出来る。
お前は若く器量の良いのだから、きっとここを離れても上手くやっていけると。
そう言う村人もます。
けれど、私はそうは思いません。
私にとっての世界はここだけです。
私はここでしか生きていけないのです。
どれだけ厳しかろうとも、変わらない。
誰にとっても故郷とはそういう物でしょう?
私は子供たちを起こさないように孤児院から外に出ました。
外は昨日の猛吹雪が嘘のような天気でした。
細かい雪がちらついていますが、これでもこの地方では晴天とも言えるいい天気なのです。
何せ雪の切れ間に輝くような青空が見えます。
そんな日は年に数えるほどしかありません。
遠く続く青空を見上げ、凍るような空気を肺に吸い込む。
意識が透き通るようなこの感覚が私は好きでした。
悴んだ指を擦る。
空を流れる雲の様に、輝くような白い息が流れて消えた。
私は青空を見上げながら両手の指を合わせて祈りを捧げる。
日々を忘れず。
感謝を忘れず。
祈りを忘れず。
どうか世界が、いつまでも続きますように。
■
「冷……たい」
冷たい水の中で意識を覚ました。
首を動かすのも億劫で視線だけで周囲を見渡す。
見えるのは見渡す限りの海、遠くに水平線が見える。
イコンは海に浮かんでいた。
この状況で溺れ死なずに済んでいるのは装備したライフジャケットのお蔭である。
こんな装備が何の役に立つのかと思っていたが、こうして救われるとは思わなかった。
泳げない訳ではないが激流に逆らって泳げるほど得意でもない。
何より波に逆らう体力も気力はない、波に従い進んでゆけばいずれ何処かに流れ着くだろう。
地上に付いたらすぐに神の下に向かい先ほどの件を報告に向かわなければならない。
自らの失態を明かすことになるが、神の御身が第一である。
一刻も速く地上に辿りつべく現在地を確認しようとした所で、海の異変に気付いた。
海が赤い。
潮の異常かと思ったがそうではない。
異常の原因は何なのか。
それはすぐに判明した。
「……………な、に?」
肘から先の右腕がない。
海を染める赤は自分の失われた右腕から流れ出る血液によるものだった。
「ッ!?」
何が起きたのか。
こんな誰もいないような海で。
わからない。
その混乱を助長する様に、赤い海を切り裂く刃の様な何かが
イコンに向かって近づいてくる。
その刃の下には、海中を泳ぐ意味不明の生物が居た。
――――魚だ。
それに一番近しい生物を上げるなら魚だった。
その魚は周囲に風を纏い、渦を生み出し水中を泡立たせていた。
背びれには幾つもの吸盤の付いた蛸の様な触手を生やし、背には明らかに自然物ではない四角い何かを背負っていた。
イコンは内陸育ちで魚には詳しい方ではないけれど、あんな魚は自然界のどこを探しても存在しないと断言できる。
その正体不明の怪物は、鋭い牙で
イコンの右手を咥えていた。
全身が総毛立つ。
それは水による寒さではなく、純粋な怖気によるものだ。
「ハッ……ハッ……ハッ」
喘ぐような荒い息で自身のステータスを確認するが『天罰』は失われていない。
ならば何故、こうして攻撃を受けているのに発動しないのか。
仮に愛美が
イコンを取り込むとして、それは天罰が下るだろうか?
たとえそれで
イコンが消滅したとしても、愛美がそれを攻撃と認識していなければ下らないだろう。
罪が無ければ天罰も無い。
何より、喰らうと言う獣の本能に天罰など下るはずもない。
魚から伸びた触手が
イコンの体に纏わりつく。
引き剥がそうとするが吸盤が吸い付き剥がれない。
「なっ…………はッ!?」
そのまま魚は
イコンを伴い水中へと潜った。
口から酸素が漏れ呼吸が奪われる。
急激な水圧の変化に、灰と眼球が潰れた様に圧迫され、肺が裏返る様だ。
パニックになりながら、拘束から逃れるべく暴れまわる。
それは更なる酸素の消費を促したが、幸運にも振り回していた七支刀の枝葉が絡まり触手を絶った。
解放された
イコンの体がライフジャケットの浮遊力により海面へと浮かび上がる。
「ぷはっ!!」
海面に顔の出た瞬間、大きく息を吸う。
だが、意識が朦朧とする。
脳が揺れ、目眩がした。
今にも吐いてしまいそうだ。
血を流しすぎた。
ただですら白い肌は、青ざめた色に変わってゆく。
傷口からとめどなく水中に赤い血が流れていった。
だが、息を付く暇もなく
イコンを追って魚が迫る。
身に纏った風を推進力として、大砲みたいな勢いで
イコンを狙う。
抵抗しようにも水中の機動力が違いすぎる。
いや、地上でもどうこうなるレベルの速さではない。
海に浮かぶだけの
イコンに避ける術など無い。
すれ違いざま、いとも容易く今度は左足が食いちぎられる。
この魚にとって
イコンは獲物ですらない。
ただ喰らうだけの餌にすぎない。
逃げ場のない水の牢獄で、なすがままにされるだけ。
「やめろ…………私は…………ッ」
こんなところで死ぬわけには。
神と一つに。
約束の地である神の国へと。
そして天井楽土で、みんなと。
永遠に。
だが、無慈悲にも通り過ぎていった魚が水を切ってUターンする。
今度こそ逃さぬと、狙いを定めるようにして。
「いやだ、やめて……やめてやめてやめてやめて」
こんな事はあってはならない。
献身的であり続けた日々の祈りは報われなくてはならない。
その結末がこんな形で会っていいはずがない。
彼女の望みは、こんな魚に食べられることじゃない。
こんな魚の餌になることじゃない!
「たすけて、かみさま、かみさま」
もう祈りの姿を取れなくなった片腕で。
子供の様に呟きながら、神に助けを請う。
だが、祈りは届かない。
神は人を助けない。
無慈悲な野生の牙が、その祈りを断ち切った。
[H-4/海/1日目・日中]
[VRシャーク]
[パラメータ]:STR:A VIT:B AGI:A DEX:B LUK:E
[ステータス]:VRシャークトルネードオクトパスバズーカー、頭部にダメージ、腹部にダメージ
[アイテム]:なし
[GP]:250pt→280pt(勇者殺害+30pt)
[プロセス]
基本行動方針:???
1.喰らい尽くす
※本来の姿と力を取り戻しました
【ライフジャケット】
水を感知してガスで膨らむ自動膨張式のライフジャケット。
複雑な操作も必要なくお子様も安心。
■
誰かが私の名前を読んだ。
私は「はぁい」と応えて振り返る。
また食料の取り分での諍いだろうか。
それとも誰かが体調を崩したのだろうか。
やれやれと首を振って私は声の方に向かって歩いてゆきます。
これが私の世界。
世界のすべて。
何もなかったけれど満たされていた冬の記憶。
私にはそれだけで良かったのです。
[イコン GAME OVER]
最終更新:2021年12月12日 23:30